文字数 3,023文字


 彼女の娘さんは、あれっきり塾にはやってこなくなった。あのときのことばどおり、彼女が辞めさせたのだ。
 それからの彼女は、頻繁にわたしのアパートを訪ねてくるようになった。時には泊まって帰ることもあった。
 もちろん、そうなるまでには、時間がかかったが、世間一般の常識からいえば、大した時間ではなかった。それでも季節は、油照りの夏から晩夏に移りつつあった。
 わたしたちは、会う間隙を急速に短くし、その度にかつえた鶏のようなセックスをし、他愛もないことを延々と話し合った。お互いの過去のこと、趣味のこと、そしてこれからのこと……。
 そこには、彼女の旦那さんは存在しなかった。娘さんも存在しなかった。いや、存在しなかったといえば、嘘になる。その存在を知りながらも、認めないようにしていた。
 わたしは、どういう風に彼女が旦那さんを説得したのか、不思議に思ったが、あえて訊ねはしなかった。
 自分本位にしか考えられないわたしに、この蜜月のような関係を終息させてしまうのは耐えがたかった。いわば、未必の故意による共犯関係だった。
 いつかは確実に、何かが起こる――。
 それがわかっていての、甘美な結びつきであった。
 彼女のほうも、おそらく巧妙な口実を設けて、出てきているに違いなかった。燃え尽きてしまわなければ終わらない、狂おしいまでの思慕と情熱――。
 逢いたい。顔が見たい。けれど、何をしたいわけでもない。なにを得たいわけでもない。ただ逢って話がしたい。その思慕と情熱の滾りを前にして、人妻としての彼女の理性は完全に吹き飛んでいるようであった。
 わたしのような男の、どこに魅力を感じたのかはわからない――。
 だが、なぜか彼女は、わたしのところにやってくるのだった。一度などは、例のレストランで待っているとの電話が塾に入り、急いで飛んでいくと、彼女がぽろぽろと涙を流し、わたしを待っていたりした。一時間もすれば、逢えるというのに、だ。
 いっぽう、しがない塾講師にすぎないわたしには、彼女の存在は恋人以上のものであった。彼女が、わたしより二つ年上であることも関係していたのかも知れないが、レストランでの食事代も、着たきり雀だったわたしの新しいジャケットも、酷いときには車の燃料代やホテルの宿泊代までも彼女が持った。
 駐車禁止区域に車を停めてレッカー車に括っていかれたときも、彼女が運転していたことにしてくれたのであった。
 その申し出に対して、感謝しながらも断りを入れるわたしに
「いいのよ。どうせわたしはペーパードライバーなんだから……」
 そう言って、反則金まで支払ってくれたのである。
 観ようによっては、パトロン気取りの嫌なタイプの女にみえるかも知れない。だが、彼女はそんなところは微塵も感じさせず、ひたすらわたしを慕い、わたしの身の上を案じ、なにくれとなく面倒みてくれるのだった。
 これまでの人生で、そうした善意や好意に一度も出会ったことのないわたしは、彼女を不思議なひとだと思った。
 なぜ、そこまでひとに優しくできるのか――。
 それが理解できなかった。単に金があるだけなのか。それとも、本当に自分を愛してくれているからなのか。母一人、妹一人の母子家庭に育ったわたしは、この世の中に、そんな奇特きわまりない女性がいること自体が信じられない気持ちだった。
 だが、そのころすでに、わたしの根性は、世間でいう愛人以下のものに成り下がってしまっていたのである。
 一度、彼女とそういう関係になってしまったことを親しくしている塾の友人に洩らしたことがあった。やめといたほうがいい、自分ならそうする。しまいに明智光秀みたいになるよ。日本の歴史が好きだという友人の、それが最初にして最後の忠告となった。
 しかし、わたしはその関係を続けた……。
 果たして、その数週間後、怯えながら避けていた必然の事態が起こった。ついに彼女の夫が電話をかけてきたのである。
「吉田栄一さんかね」
「はい……」
「真崎だが、きみがいま、何をしているかわかっているね」
「はい……」
 それしか答えようがなかった。
「きみは知らんだろうが、あれは金が要かる女だよ」
 静かな声だった。太くはあるものの、あの大きな体躯から出る声とは思えないほど柔らかく威厳に満ちていた。
 本来なら、怒鳴りつけられ、罵倒されても文句の言えない事態だった。
 にも拘わらず、彼女の夫は穏やかな調子で続けた。
「なにを考えているのかは知らないが、きみの給料では、あれを養えまい。あれはおそらくきみが、現在もらっている給料の倍近い金を月々の小遣いとして使うはずだ」
 黙って耳を傾けるほかなかった。反論はおろか、息を吸うのさえはばかられた。
「いいかね、きみ。あれのことだから、すべては打ち明けていまいと思うが、こういうことは、これが初めてではない。これまでにもこういうことは度々あった。そしてその都度、短時日で終息した。長いときで、せいぜい半年間だった……」
 胸が苦しかった。呼吸困難に陥りそうだった。
「今回も、おそらくそうだと思う。多分、きみのほうも思いがけないことだったと思うが、この関係は長続きしない。だから、暫く静観しておくように――」
「それでも……」
 ようやくのことで、声が出た。喉の奥が引き攣れ、自分でも掠れた声になっているのがわかった。彼女のあの奇妙な情熱が、そんな簡単に潰え去るとは思えなかった。
「それでも、彼女のほうからやってきたら、どうするんですか」
「追い返せばいい……」
「追い返すんですか」
「そうだ。何度かそれを繰り返すうち、彼女はこなくなる」
「そうでしょうか――」
「言っておくが、きみは反論する立場にない」
 初めて怒りらしき叱声が走った。確かにそのとおりだった。わたしが乾いた声で肯いの返事をすると、先ほどまでの調子に戻った声が続けた。「ま、そういうことだ。悪いことは言わん。静観しときなさい」
 いかにも先生然とした言い方だった。
 勤めている大学でも、こんな風に学生たちを諭しているのだろうか。学生たちの萎縮する気持ちが伝わるような気がした。怒りに任せ、荒いことばで怒鳴り散らさないところが学者先生らしかった。
「わかりました……」
 送受話器を戻したあと、肺から深く長い溜息がほとばしり出た。
 口ではそう言ったものの、心や身体までもが納得したわけではなかった。しかし、旦那さんとしては、これが精一杯の譲歩だったのだろう。もし初めてのできごとだったとしたら、こんな風にはなっていなかったはずだ。わたしは勝手に解釈した。
 自分の女房を寝取られて逆上しない男はいない。そうしなかったとしたら、よほどの能天気か、聖人君子のどちらかだ。
 わたしは、ほっとすると同時に、却って彼女への想いを募らせた。
 今夜、彼女はやってこないだろう。
 そしておそらくは、これからも……。
 最近では、毎夜のごとく逢瀬を重ねていたわたしにとって、彼女の不在は、蝉の抜け殻を見ているに等しかった。
 乾燥して、かさかさと音のしそうなそれは、握りつぶせばすぐにも粉々になる。弱々しく、セルロイドのような抜け殻……。心はその外見的な形を保ってはいても、中身は空っぽだった。
 わたしは、畳に俯して声を上げて泣いた。そして声をかぎりに美貴の名を呼んだ。
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