メイとイリーナ 後
文字数 1,860文字
無事に子供が生まれて、仕事を考えたとき、手に職をつけたいと思いました。
そして、お菓子を作る道へと進んだのです。
結局、私は母が冷たくて憎いと思っていても、まだ赤子のメリルを母に預けて仕事に出るしか出来なくて。母をうらみながらも頼っていました。
母は私が何か言っても、すぐに機嫌をわるくして無視したり、夕飯を一緒に食べるのに働いている私の分の食事がなかったり、ということは日常茶飯事で、ほとほと嫌になりました。
父は気の強い母に何かをいうことが出来ずで。何かを言えば十倍になってかえって来て、うるさくなるのが面倒くさかったのでしょう。
いま考えると、日常の憂さ晴らしとして、何事にも弱い私は母にあたられていたのだろうか、とも思います。
そんなこんなで相変らず、母の私への態度は、優しいものではありませんでしたが、メリルには優しかったようです。それは、本当にほっと胸をなでおろしました。
子供を産んでから体質が変わったのか、以前のように高い熱をだしたり、物が食べられなくなったりすることがなくなり、私は順調に仕事を続けていました。
しかし、ある日。
いつものように夕食を囲んでいると、母はぼうっと正面をみすえて微動だにしないのです。
その様子がおかしいと思って父を見ると、父も困った顔で私をみます。
「おかあさんは、どうしたの?」
取り敢えず私は父に聞いてみました。
すると、父は眉を寄せます。
「最近なあ。こんな様子のときがあるんだよ。でも聞いても覚えてないっていうし、問いつめると怒って手が付けられなくなるんだ」
それは聞いたことがある症状でした。
主にお年寄りに多いという物忘れの病気。
その症状に母の状態はあまりにもぴったりだったのです。
私は普段母と一緒にいるメリルに母の症状を聞いてみました。
「メリル、おばあちゃんはいつもどんな感じなの?」
「うーん、いつもあたしのなまえをまちがえるよ」
私は愕然としました。孫娘の名前を間違える、なんてありえないと思ったからです。
母の状態はかなり進んだ物忘れだと思いました。
「どんな風に間違えるの?」
私はメリルに聞きました。
「イリーナって呼ぶの。あたしが何度も違うって言ってもそういうの。怒っても泣いてもね。イリーナっておかあさんの名前でしょ? おかあさんとまちがえちゃってるのかな」
そのときにはもう七歳になっていたメリルは、わりとしっかりした口調で、言いました。
しかし、その表情は今にも泣きそうで、心もとなく、悲しさで溢れています。
私は娘に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ぎゅっと抱きしめながら頼みました。
「おばあちゃんはきっと、もう分からなくなってるのね。だから、もしまた名前を間違えちゃっても、怒らないであげてくれる?」
「うん、いいよ」
「良い子ね、メリル」
私はまた強く彼女をぎゅっと抱きしめると、頭にくちづけを贈りました。体を離して、もう一度額にくちづけて。
メリルの顔を見ると、赤くなって笑顔がもどっていました。
「でもね、おかあさん」
メリルは、私の目をみて、楽しげに言いました。
「おばあちゃんはね、あたしにとってもやさしいよ。この前アイスクリームを買ってくれたし、食べてたら、口についたクリームをとってくれたし。だから半分こして一緒にアイスクリームを食べたんだ」
顔を赤くして嬉しそうに語るメリルに、私は少しきょとんとしてしまいました。
たしかに母にしては優しい行動で、私とは一度たりともそんな時間はありませんでした。口についたクリームをとってくれた、なんてちょっと信じられません。
「でも、何度もイリーナってあたしを呼んでてさ。あたしはメリルなのに」
ぷうっと頬を膨らませるメリルの頭を私は優しくなでます。
メリルの言うことを聞いて、またあることに気が付きました。
母はメリルのことを幼いころの私だと思っている、ということです。
そしてとても優しかったと。
そこまでメリルから聞くと、私は母をみました。
まだ、ぼうっと前方を見て、微動だにしない母に、少しだけ涙がこみ上げてきました。
もの忘れで、何もわからなくなってから、私のして欲しい行動をしてくれるようになったのです。
ズルいですよね、もう母は忘れてしまって思い出せないのに。
むかし冷たい態度を私にとったこともさっぱりわすれてしまって、そんなことをするなんて。
ズルいです。
そこまで語ると、テルナージェ先生は手のひらで目元を覆った。
わたくしは、そんな彼女を優しく抱きしめることしか出来なかった。
そして、お菓子を作る道へと進んだのです。
結局、私は母が冷たくて憎いと思っていても、まだ赤子のメリルを母に預けて仕事に出るしか出来なくて。母をうらみながらも頼っていました。
母は私が何か言っても、すぐに機嫌をわるくして無視したり、夕飯を一緒に食べるのに働いている私の分の食事がなかったり、ということは日常茶飯事で、ほとほと嫌になりました。
父は気の強い母に何かをいうことが出来ずで。何かを言えば十倍になってかえって来て、うるさくなるのが面倒くさかったのでしょう。
いま考えると、日常の憂さ晴らしとして、何事にも弱い私は母にあたられていたのだろうか、とも思います。
そんなこんなで相変らず、母の私への態度は、優しいものではありませんでしたが、メリルには優しかったようです。それは、本当にほっと胸をなでおろしました。
子供を産んでから体質が変わったのか、以前のように高い熱をだしたり、物が食べられなくなったりすることがなくなり、私は順調に仕事を続けていました。
しかし、ある日。
いつものように夕食を囲んでいると、母はぼうっと正面をみすえて微動だにしないのです。
その様子がおかしいと思って父を見ると、父も困った顔で私をみます。
「おかあさんは、どうしたの?」
取り敢えず私は父に聞いてみました。
すると、父は眉を寄せます。
「最近なあ。こんな様子のときがあるんだよ。でも聞いても覚えてないっていうし、問いつめると怒って手が付けられなくなるんだ」
それは聞いたことがある症状でした。
主にお年寄りに多いという物忘れの病気。
その症状に母の状態はあまりにもぴったりだったのです。
私は普段母と一緒にいるメリルに母の症状を聞いてみました。
「メリル、おばあちゃんはいつもどんな感じなの?」
「うーん、いつもあたしのなまえをまちがえるよ」
私は愕然としました。孫娘の名前を間違える、なんてありえないと思ったからです。
母の状態はかなり進んだ物忘れだと思いました。
「どんな風に間違えるの?」
私はメリルに聞きました。
「イリーナって呼ぶの。あたしが何度も違うって言ってもそういうの。怒っても泣いてもね。イリーナっておかあさんの名前でしょ? おかあさんとまちがえちゃってるのかな」
そのときにはもう七歳になっていたメリルは、わりとしっかりした口調で、言いました。
しかし、その表情は今にも泣きそうで、心もとなく、悲しさで溢れています。
私は娘に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ぎゅっと抱きしめながら頼みました。
「おばあちゃんはきっと、もう分からなくなってるのね。だから、もしまた名前を間違えちゃっても、怒らないであげてくれる?」
「うん、いいよ」
「良い子ね、メリル」
私はまた強く彼女をぎゅっと抱きしめると、頭にくちづけを贈りました。体を離して、もう一度額にくちづけて。
メリルの顔を見ると、赤くなって笑顔がもどっていました。
「でもね、おかあさん」
メリルは、私の目をみて、楽しげに言いました。
「おばあちゃんはね、あたしにとってもやさしいよ。この前アイスクリームを買ってくれたし、食べてたら、口についたクリームをとってくれたし。だから半分こして一緒にアイスクリームを食べたんだ」
顔を赤くして嬉しそうに語るメリルに、私は少しきょとんとしてしまいました。
たしかに母にしては優しい行動で、私とは一度たりともそんな時間はありませんでした。口についたクリームをとってくれた、なんてちょっと信じられません。
「でも、何度もイリーナってあたしを呼んでてさ。あたしはメリルなのに」
ぷうっと頬を膨らませるメリルの頭を私は優しくなでます。
メリルの言うことを聞いて、またあることに気が付きました。
母はメリルのことを幼いころの私だと思っている、ということです。
そしてとても優しかったと。
そこまでメリルから聞くと、私は母をみました。
まだ、ぼうっと前方を見て、微動だにしない母に、少しだけ涙がこみ上げてきました。
もの忘れで、何もわからなくなってから、私のして欲しい行動をしてくれるようになったのです。
ズルいですよね、もう母は忘れてしまって思い出せないのに。
むかし冷たい態度を私にとったこともさっぱりわすれてしまって、そんなことをするなんて。
ズルいです。
そこまで語ると、テルナージェ先生は手のひらで目元を覆った。
わたくしは、そんな彼女を優しく抱きしめることしか出来なかった。