第1話

文字数 4,378文字

 春である……。
 小鳥が囀り、花々が咲き乱れ、柔らかい薄絹のような風が吹く、春である。
 そして、春だというのに……、男は泣いていた。
 歳はまだ、二十歳かそこらだろう。猫背気味の姿勢以外、これといった特徴はない。しかしながら、その光景は……スーツにネクタイをきっちりつけた男が、まだ蕾ばかりの桜の木の下で、タオルにくるまって震えているその光景は、明らかに異様であった。異様でしかなかった。
 昼下がりの公園であるから当然、親子連れや犬の散歩で、公園は賑わっている。しかし男のいる桜の木の一角には、誰も寄り付かない。
 男は、惨めであった。
 遠のきかける意識のなか、男は考える―、どうして、こんなことになったのだったっけ……。
 
 僕は俗にいう「秀才」または「エリート」という奴だった。もっと率直に言うのならば、頭が良かった。そしてなんだって簡単にこなせた。
 テストや考査で学年一位は、当たり前。特にスポーツクラブには属していなかったが、体育の授業ではよく喝采を浴びた。合唱祭では毎年ソロパートを割り当てられていたし、夏休みの課題で愛鳥ポスターを描いたら大臣賞をもらった。
 良い家庭に生まれ、良い点数を取り、良い高校に入って、良い大学に行く―。
順風満帆。自分の人生にはそんな言葉が相応しいのだと思っていた―大学に入るまでは。
国内最高峰クラスの大学。その一教室で、教授は僕の目を見ながら、にこやかに言った。
「きみの夢はなんだい」
固まってしまった僕に気づかず、教授は続けた。
「きみは何をしたいんだい」
頭が真っ白になった。
 夢なんてなかった。したいことなど、なかった。
 
 数年後、僕は首都圏の適当な会社に就職した。業務内容は、採用決定通知が来た後に知った。誰かのためになるのか、何のための業務なのか、なんて知らない。金が入れば飯が食える。適当に生きていれば適当な伴侶が現れる。適当に養って適当に世継ぎが生まれる。適当に老いていけばそのうち適当に死ねるだろう。
と、思っていたのに。

月曜日
「君、君。ちょっといいかい」
中山課長である。下の名前は知らないが、どうせ大したものじゃないだろう。
「はい、なんでしょうか課長?」
とびっきりの笑顔の仮面をつける僕。
「あのだな、あー、おりいって頼みごとがあるんだ……この際簡潔に言ってしまおう、うん。―今週日曜に会長主催の羽守公園花見宴会があるのは、知ってるね?君に場所取りをお願いしたい」
「は、あ」
拍子抜けした。
「いいですよ、それくらいは」
むしろ、招待客や飲食の手配をしなくてよいぶん、皆より気が楽だ。
「ありがとう。じゃ、いってらっしゃい。ブルーシートを忘れないように」
「……ええっと?」
「それから、一週間分の賃金はちゃんと出るから安心してね」
「今から、ですか?」
「勿論。あそこは毎年場所取り合戦になるんだよ……、ほれ、早くいかないと、もう取られてしまうかもしれない」
「いやいや……まだ全然咲いてませんし―」
「嫌ならいいさ。君が会長に嫌われて、社長にも目をつけられるだけだから」
「い、行きます」
「では頼んだよ」
……。
なんてこった。
なぜこの僕が―スクールカーストの頂点に君臨していた僕が、花見の場所取りなどしなければいけないのだ? ……答えは簡単、わかっているのだ自分でも―僕は社内で、いわゆる「使えない奴」なのだ。熱意もやる気も誠意も、何一つ持っていない。
だからって、花見の場所取りって……。
初春の羽守公園は、まだまだ寒い。公園の中心にある桜の大樹の下に、馬鹿みたいに大きなビニールシートを敷く。靴を脱ぎ、そのうえであぐらをかいて座った。
人は結構いるが、皆不思議と僕のことを避けていく。周りの視線が痛い。そりゃそうだろう、まだ一輪も咲いていないのに、男一人で花見ごっこだ。場所取りの輩なんて僕以外に一人も来ない。早くも泣きたくなってきた。 

火曜日
生まれてはじめて、野宿というものを体験した。最悪だった。虫に刺されたところがあちこち痒いし、全身が痛い。頭上の枝を見ても、まったく花の付く気配がない。
 とりあえず、持ってきたツナ缶と、カロリーメイトを食べる。二つの食べ合わせは最高だ。最高に不味い。しかし仕方がない……、任務の都合上、この場所を離れてはいけないのだ。小洒落たカフェで優雅にランチタイムを過ごす僕の日々は、何処へ行ってしまったのだろう? 

水曜日
 さっきから犬にずっと吠えられている。犬は噛むので嫌いだ。猫も言うことを聞かないので嫌いだが、そこはそれとして、どうしたものだろう。
 とりあえず、睨み付けてみる。向こうも睨み返してきやがった。ぎろ、ぎろ、ぎろ……。
―先に目をそらしたのは僕だ。しかしこれは敗北ではない、戦略的撤退である。このままではこのチワワ犬に喰われる、そう判断したのだ。犬は、何やらウンウン唸りつつ、去っていった。上を見ると、つぼみがみるみると膨らんできていた。

木曜日
全くすることがないため、五感を使って暇をつぶすようになってきた。遠くの空をぼんやりと眺め、自由に動ける雲をうらやむ。僕は水蒸気の塊以下なのだろうか―きっとそうなのだろう。
 悲しくなってきたので、今度は目を閉じ、全神経を嗅覚に集中させる。……臭う。僕の体が異臭を発している。そりゃそうだろう、何日も風呂に入っていないのだから―ん、今日は何曜日だ? そこまで考え、恐ろしいことに気付く。
デート(もくよ)の(う)日(び)だ……。
慌ててポケットから携帯を出す。―画面は暗いままだ。充電切れというやつである。
やれやれ、佳代子のご寵愛を保つため、甘い言葉を大量放出して、散々貢いできたが、これで終わりか……僕は花見の場所取りで何もかもを失うのだろうか。

金曜日
「おじちゃんどうしたの? ずうううーっと、そこにいるよね」
 少なくなってきた貴重な食料の乾パンを、できるだけ大事に食べていると、上から声が降ってきた。二分咲きになった桜の枝の上に、女子高生らしき生物が乗っていた―「らしき」といったのは、確かにセーラー服を着た少女ではあるのだが、女子高生は一般的に、枝の上に乗ったりしないからだ。
「ねえねえ、おじちゃん、おうち無いの? 浮浪者?人生の迷子?」
女子高生らしき生物は、右手で髪の毛の先をくるくる弄り、左手では器用に携帯を操作している。―スカートのまま枝の上に乗ったら、下着が丸見えになってしまうということが、わからないのだろうか……?
「……ええっと、な?」
僕は、あまり上を見ないよう気を付けつつ、慎重に言葉を選んで言う。
「まず僕は、おじさんではなくおにいさんだ。そして浮浪者でもない―人生は迷子かもしれないが! それでも、僕は日々ちゃんと生きてるつもりだ」
「……へええー、ちゃあんと、ね」
謎の生物は、携帯から目を上げ、
「じゃあどうして、公園なんかに」
「それは……話すと長くなる。とにかくこれは僕の使命なんだ。義務なんだ」
「そうなんだ、へえ」
自分から聞いておいて、少女は全く興味を示さず、また携帯を弄る。
「でも楽しそうだね、ここで暮らすの。私も住もうかな。どう? おじさん、嬉しい?」
「そりゃあ……」
一人よりは話し相手がいたほうがずっとましだ。しかし……なんだろう、桜の木の下で成人男性と女子高生が暮らすというのは……犯罪の香りがぷんぷんする。
 いやでも、意外とアリか? 僕はまだ若いし、少女のほうから来たのだから、僕には何も責められるところはないはずだ。どうせあと二日なのだし……、
 ぴろろん。
 何やら懐かしい音がする―LINEの着信音だ。少女の携帯からなっている。
「あ、ヒロだ」
少女の顔は、すごく嬉しそうだ―一応言っておくが、この時僕は少女の肩より下は見ていない。
 画面を見ていた少女が、いきなり木から降り立つ。
「ごめんね、おじちゃん。あたし行かなきゃ。元気でね」
スカートを翻し、たたたたと駆けていく―きっと、彼氏にデートにでも誘われたのだろう。
少女が一瞬立ち止まり、振り返って言う。
「それとね、おじちゃん。今の子はスカートの下に、見せパン履いてるんだからね! このすけべ!」

土曜日
 昨日がとても暖かかったので、桜は八分咲きだ。
 ……暇だ。そして平和だ―この生活にも、もうずいぶんと慣れてきた。
 大きく伸びをし、しばしひと眠りする。
 そして目が覚めると……、大変なことになっていた。
 僕のブルーシートが、無くなっている。土でついた汚れを払いつつ、あたりをうかがう―た、大変だ。
 五人のおばさま方が、僕の死守してきた桜の木の下で、談笑しながら弁当を食べている。談笑しながら弁当を食べる分には一向に構わないが、そこは僕の場所なのである。なんてこった。
 できるだけにこやかに、僕は言う。
「あのう……失礼ですが、マダム。そこは僕の場所であって―」
「きゃああ! 不審者だわ、怖いわどうしましょ!」
「電話よ、電話!」
「警察呼ばなきゃ!」
「119? 110? どっちかわかんないわよ!」
「とりあえず、どっちにも掛ければいいじゃない!」
「いえ、違うんです、マダム。僕は……」
―最悪だ。
  交番が近いので、警察官はすぐにやってきた―消防車は一度来たが、すぐに戻っていった。
「ちょっと、署まで来てくれるかな。悪いようにはしないから」
にこやかに警察官は言うが、僕は慌てた。
「いえ、駄目なんです……僕はここを離れたら……駄目なんです……」
「駄目って……困るなあ。じゃあ、強制連行という形になっちゃうけど」
「嫌だ! 僕はここを離れない! それが僕の仕事だ! 価値だ! 存在意義だ! 離れないからな……ぜた、ぜたいに……はにゃ……―」

そして、日曜日
 よく晴れた昼下がり。ついに、羽守公園花見宴会、本番である。
 何十人もの社員が、弁当を食べたり、一発芸をしたり、桜と写真を撮ったり、それぞれ楽しんでいる。
「会長。今日は晴れてよかったですねえ」
「うむ、そうだな、中山君。いやはや、やはりここの桜は最高だ」
「彼のおかげですよ……一週間もここで、場所取りしてくれたんです」
「ほう、これが、昨日警察に連行されかけたとかいう男かね」
「そうです。でもよかったですねえ、署長さんが会長さんの弟で」
「ああ。それにしても彼はよく頑張った―褒め称え、表彰してやりたいところだが……」
「眠っちゃってますねえ」
満開の、桜の木の下。男は幸せな夢でも見ているのか、それとも会話が聞こえているのか、満面の笑顔で目を閉じていた。

              -終ー
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