文字数 1,373文字

 揺れる電車に乗せられて、ただドア際に立ちながら高橋理恵はガラスに隔てられた窓の外を見つめている。見送る景色も残らずに、過ぎ行く速さは無常であるばかりか、ふとした考えの断片さえも朧げに、速度を上げる列車へ思考が決して追いつくことはない。たくさんの乗り合わせているはずの乗客もまた、どこかへ飛ばされてしまったかのように存在を感じることはなかった。家路へと向かう電車に理恵は運ばれてゆく。

 地平の彼方の雲間へ隠れ陰る陽を見届けると、曖昧な残光が混じる時を電車は進んだ。ぼんやりと理恵の眼に映っていた家々は輪郭をはっきりと現したが、窓越しに存在する街並みは、むしろ正確さを失いつつあった。
 いつしか灯り出した街灯の灯りは、風景の何よりも前面へと押し出され輝いているように見えた。理恵は数えるでもなく、次々と現れては消えゆく並走する街灯に合わせ拍子を取っていた。不規則な羅列は次第に刺激を与え、理恵はそれまでガラスの内側に貼りついていたような意識が向こう側へと移った気がした。
 窮屈な隔たりを越えた理恵の耳へこれまで気にも留めなかったレールの継ぎ目を通過する鉄の固い車輪の硬質で重厚な音が幾度となく聴こえてくると、急に音は飛躍したように間の抜けた甲高い質感へと変化し、電車は川に架かる鉄橋へと入った。暮れかけた薄暗い空の景色は、トラス橋の斜めに据えられた鉄骨によって瞬間的に明滅を繰り返し、フィルム映画のような残像を理恵の眼の奥に残してゆく。電車が橋を渡り終えようとしたその時、開けた視界に飛び込んだのは川原の土手の上に一人ぽつんと立つ小さな女の子の姿だった。
 一瞬の出来事の方が鮮明な印象を残すことがある。すでに遠くへと過ぎ去った一コマを理恵は無意識に掴み取り、もうすでに見えなくなった後方へ顔を向けていた。窓の外ではすでに暗くなった街が境目もなく引き伸ばされたように沈み、車内の電灯に照らされ反射するガラスの中に自分の顔が映し出されていることに理恵は気付いたのだった。

 ほどなくして着いた停車駅で開いたドアに誘われるまま理恵は電車を降りた。そこは家の最寄り駅でもなく、一度も訪れたこともない街だった。駅のコインロッカーに鞄を押し込み身軽になった理恵は、線路伝いの道を電車で来た方向へと戻るように歩き出した。
 フェンスや建物に行く手を阻まれた道は曲がり、線路から遠ざかろうとする道から時折違う道へと入りながら理恵は線路に付かず離れず歩んだ。
 建物もすれ違う人や車も道すがら見たものは何一つ不確かで、距離感も分からない道で理恵の唯一の頼みは道を照らす街灯だけだった。電車に揺られ頭の中で打っていた拍子を本来あった場所へと返すかのように理恵の歩みは時を巻き戻してゆく。
 辿り着いた真っ暗な土手には誰もいなかった。川も眼には映らず、対岸との間には黒くてのっぺりとした音も無い空間が広がり、躍動するのは眼に見えない土手を吹き抜けている風だけだった。

 やがて理恵が待ち望んだヘッドライトを輝かせた電車が向こうからやって来て、甲高い音を鳴らしながら鉄橋を渡り始めた。鉄骨に遮られた窓々が明滅しながら光を放ち、たくさんの人影が窓の中で移り変わるその中に一人の女性らしき姿が見えた。速度と逆光でその顔までは分からなかったが、見上げた車窓に小さな理恵は幾年月を想った。
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