第28話 上品すぎる奥さん

文字数 4,685文字

 六十五になったら仕事やめて、田舎でのんびり暮らそうと思ってたんだ。

 そうはいっても六十五歳になってすぐにハイやめます、あんたに会社譲りますっていうわけにもいかない。

 会計上のことやら登記やら、得意先へのあいさつまわりだってある……んで、五年くらい前から計画立ててな。

 俺じしんは少しずつ現場から離れるようにして、たいていの仕事は部下に任せていって。

 そしたら、思っているより早く……そうさな、予定よりも一年半くらい早かったかな、もういつ引退してもいいだろうって状況になった。

 もちろんやり残したこともあってさ。ああ、俺は田舎暮らししたかったんだって、思い出した。

 女房はずいぶん前に亡くなってるし、子供はみんな独立してるから身軽っちゃ身軽なんだが、かといってあんまり田舎でも困る。

 借家でいいが、景色がよくて木々に囲まれてるところがいい。

 将来を考えると病院が近くにあった方がいいし、電車がとおっててなにかあったら都心に出られるところがいい。

 ……ぜいたくいうなって叱られそうだが、終のすみかだ。ちょっとくらい贅沢いったって罰はあたるめえ。

 とにかくそんなんで、つてをたどって物件を見繕ってもらっては、暇を見つけて現地に飛ぶってことをくりかえした。

 運のいいことに、青梅の近くでぴったりの場所が見つかったんだよ。

 里山を切り開いたような印象で、家は坂道のてっぺんにある。

 途中は畑ばっかり。

 ぽつりぽつりと、最近建った風の家がある。

 目当ての物件は平屋建ての4LDK……ああ、こんなん広すぎるくらいだ。

 だいたい二階なんて年寄りにゃ、いらんからな。あんたも憶えとくといいよ。

 バルコニーからは眼下の農村地帯が見渡せて、家の背後には雑木林。庭は雑草でぼうぼうだが、境界を確認したら趣味の園芸にはじゅうぶんな広さ、いやいや、むしろ草木だの野菜だの果物だのってやるなら、へとへとになるんじゃないかってくらいだった。

 うん、探してたのとぴったり合ってるって、喜んださ。

 借家なんだが、敷金礼金不要、家賃もただ同然でいいっていう。

 こういっちゃなんだが、都内から見ればドのつく田舎だけれども、安すぎる。なんか裏があるんじゃないかと疑うわな。

 もちろん理由を聞いた。やばい事情があるんじゃないだろうなって。

 そしたら、仲介者が名前を出した大家というのが俺も間接的に知ってる……まあ同業者で、っつっても向こうの会社の方がどでかいんだけれども、いまはちょっと潮目が悪くてな、週刊誌やスポーツ新聞で叩かれたってことがあって、おとなしくしてる。

 で、向こうは俺がそろそろ引退するってことも知ってて、まるっきり知らない人間に貸すんじゃないんだからといってるって。

 ああ、大家はいちども住んでないんだ。数度泊まっただけらしい。

 別荘として建てるには建てたけど、行く暇がとれずに持てあましているし、当然ながら住むもんがいないと、家はすぐに傷む。

 じぶんと同じ年代の男のひとり暮らしなら、住んだところでそうあちこち傷つけはせんだろう。

 すぐに俺は契約することにした。

 年甲斐もなくウキウキしちまってな、ちょっと暇ができるたびに出かけてった。

 本格的に住む前の、予行演習みたいなもんだ。

 どうもこの家にゃ合わないとなったら、謝って別な物件を探すまでだ。懐もそんなに痛まないしな。

 ああ、仕事の方は立つ鳥なんとやらで、濁ったのをできるだけ澄んだ状態に持ってくようにするだけだからな。

 時間はかんたんに作れた。

 これまで一生懸命、頑張ってきたんだ……接待だなんだって連日連夜飲み回ることもよくあったし、忙しい時期は徹夜もしばしば、ずいぶん身体に悪いことをしてきた。

 ここらでもう休んでもいいだろうってな。

 こうして何度か出かけるうちに、お隣さんと……といっても、いちばん近くて三、四十メートルはあるんだが、仲良くなってな。

 坂道の両側にある家の人とは、あいさつして世間話するくらいになった。

 中でも、坂道のちょうど真ん中に、わが家と同じような平屋の一軒家があってな、そこの奥さんと親しくなったんだ。

 見た目は俺よりずっと若くて、何度か話すうち、旦那も子供もいないことが分かった。

 ……なんだよ、なにニヤニヤしてんだ。

 ああ、そうそう、そうだろうよ。

 こんなんならよう、俺だってまんざらじゃないんじゃねえかって思ったわな。

 もともとここに住んでたのか。

 引っ越してきたんなら、なんでこんなとこにしたのか。

 結婚したことはあるのか。

 うん、いやいや……そうじゃない。バツイチでもバツニでもいいんだが、ある程度の年齢になったらな、結婚したことがないってのは、やっぱりなんかがあるもんなんだよ。

 男と話して金稼いでる女相手ならスラスラ質問が出てくるんだけれども、なかなか俺は突っ込んだことが聞けなかった。

 いちばん気になったのは、その奥さん、上品すぎるんだよ……ああ、過ぎたるは及ばざるとかなんとか。

 ちょっといまどきないくらいにな。なんかしているときの動作は柔らかいし、ラフなかっこうをしてても、全然くだけていない感じ。笑顔に邪気はないし、つくったようでもない。


 そういうのはまあ訓練しだいである程度まで、ごまかせる。だがな、ことばってのはなかなか、ごまかせんわな。

 庭で植え込みやなんかに水やってるときに会ったとしたら、こうだ。

「ああ、本日はたいへんお日柄もよろしゅうございますね。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいまし」

 酒のアテを持ってきたときは、こうだ。

「お口に合いますかどうか、はなはだ心もとないのでございますけれども、お召し上がりくださいますれば幸いでございます」

 ……ああ、舌噛みそうになるな。

 そのまんまじゃないかもしれんが、まあこんな具合だ。育ちがいいったって、いくらなんでも度がすぎてるだろう。

 ああ……笑え。笑ってろよ。

 俺の鼻ん下は伸びてたろうさ。

 老いらくの恋、か。

 そこまでいかんでも、何ともいえない淡い心の動きはあった。

 ときどき、お酒のおつまみにどうぞって持ってきてもらったんだが、これが実に美味い。

 全然所帯じみてなんかないのに、料理の腕も相当らしい。

 いやいや、気があるとかないとかじゃないんだ。

 他意ってのが、全く感じられん。

 持ってくるようになった少し前に、あんまり料理はしないって俺がいったからだよ。そんな雰囲気だった。

 もらってばかりじゃ悪いからって、俺もさあ、会社で女の子に聞いて。

 いま人気だとか流行ってるとか、本当に美味いもんとか。

 それでケーキやら和菓子やら持ってったりな。

 それを口実にちょっとだけ立ち話したりして。

 こうしているうち秋になって、めっきり涼しくなったある日のことだ。

 奥さんがつまみになるようなものを持ってきた。たぶん俺の家に灯りがついたのを見つけて、つくってきたんだろう。

 それで俺、とうとういっちまったんだ。

「もしよければ、話し相手になってもらえませんか」ってな。

 奥さん、にっこりしていったもんだ。

「わたくしなどでよろしければ、拝聴いたします」

 ハイチョウ、だぞ。ハイチョウ。

 うちの社員に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだったね。

 ああ……まあ、それはいい。とにかくこうして奥さんを招じ入れたと思いねえ。

 いやあ、そのときの酒の美味かったこと。秋の夜長にひとりだけじゃ、やっぱり寂しかったんだなあ。

 いろいろ話したってより、俺が一方的にまくしたててたんだが、奥さん、嫌な顔もせずに、うんうんってニコニコしながら聞いててな。

 この人と男女の関係になったりなんだり、なんてことまで望まん。

 たまにこうして酒の相手をしてもらえたら……それだけでいいと。

 気づいたら、俺は布団の中で寝てた。

 いやいや、そりゃない。

 うっすらとながら、奥さんが帰ったのを見届けた記憶がある。

 俺しかいないのに少しバツの悪い思いをしながらリビングに入ると、なんか食いもんのにおいがした。

 キッチンに行ったらな、そこに朝めしがあってさ。

〈大変差出がましゅうございますが、朝食の準備を致しました〉って書き置きがあって。

 またその字が、かわいらしいんだ。

 ああ、実はあるんだ。これこれ、これだよ……まだ持ってるんだ、そのときの……。

 ひさしぶりに二日酔いだったんだけど、気分は最高だった。

 その日は、いったん東京に出て用事すまして、また手土産用意して奥さんのところに持ってったんだよ。

 でもな、呼鈴押しても出てこない。

 留守かなと思って、坂道のぼって俺ん家にいちど行ってさ。

 日が暮れてきて、電気つかんかなって奥さんの家を見てたんだけど、暗いまんまだった。

 なにもいってなかったけど、泊まりがけで旅行にでも出かけたのか……奥さんが好きだっていってた店のケーキだったから、早く持ってってやりたかったんだけど、しょうがない。

 冷蔵庫に入れておいて、ひとり酒。

 見るともなく見ないともなくテレビを眺めつつ、ときどき奥さんの家をうかがっていた。

 しかし、やっぱり電気がつかない。

 なんかあったのか。健康そうではあったけれども、万一、家の中で倒れでもしてたら。

 一杯やってるからな。そう思い出したらもう止まらない。

 どんどん悪い方に考えちまう。

 もう寝巻に着替えてたけど、上にジャンパーはおって奥さんのうちまで行ってみた。

 そしたらさあ、さっき訪ねたときとまるで雰囲気が違う。

 奥さんが丹精して育ててたバラなんてどこにもないし、ミニトマトもキュウリもない。

 庭いちめん、草ぼうぼう。建物は荒れ果てている……窓ガラスが割れてる。

 リビングに月光が差し込んでいて、床のあちこちに穴が開いているのが見える。

 壁の塗装が剥げていて、記憶にある色、落ち着いた感じの焦茶色がぼんやり淡くなっている。

 腐った木のにおいが、濃厚にただよっている。

 ああ、駄目だ……嫌だな、もう。

 ああ……うん、話すさ。最後まで。

 はっきりしていたのは、奥さんはそこにいないということだった。

 うん、そのとおり……それから会えてない。今日に至るまで、いちども。

 近所の人に聞いたら、どいつもこいつも……その家はじぶんがくる前から空き家で、荒れ果ててたっていう。

 そういえばな、だれも見てなかったのに気づいたんだ。

 俺と奥さんが話しているところに、だれかがいた試しがないってな。

 ああ、そうそう。否定せんよ……俺はバカなことに、どこかでそれを都合がいいように思っていたんだ。

 近くの図書館に行って、古い住宅地図を見てみた。

 でも、名前が載ってなくてな。

 こんど土地の登記を見てこようと思うんだが、はたしてそれでいいのか、分かってしまったらかえってよくないんじゃないかってのもあってな。迷ってる。

 いつかまた会えるって、思ってるさ。

 ああ、奥さんが例えもう死んでる人間だったっていいさ。

 会いたい。もういちどだけでも。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み