第12話 不治の病
文字数 4,407文字
晴れた朝。源之丞が目覚めると、文子がいなかった。
……まさか?出て言ったのか?風呂敷、風呂敷!
彼女の部屋にはそれがあった。彼はまず胸を撫で下ろした。出ていけと言った日から、彼はよく眠れていなかった。
この気持ち。一体何なのか。どうしてもわからなかった。
おそらく文子は森奥の花畑に行ったはず。彼は母を待つ子供のように、寂しく囲炉裏の前で待っていた。
……俺は一体、どうしてしまったのだ。今まで寂しいということはなかったのに。
そんな思いの中、文子が帰ってきた。手には薬草をたくさん抱えていた。
「なぜそんなに」
「村の奥さんで。赤ちゃんがいるのに。お乳が出ないそうなんです」
「そ、そうか」
「源様。あの清水にいる山椒魚を村の人に分けてもいいですか?」
「山椒魚。構わぬが」
「後で、お米にして返してくれるそうです」
そう事務的に話す文子。清水が流れる水場に行ってしまった。仕方なく源之丞。朝飯を仕上げていった。
「おい。朝飯ができたぞ」
「お先にどうぞ。文子は後でいただきます」
……そんなことを申すが。あれは全然食べないかもしれぬ。
イライラする源之丞。それでも腹が減った。仕方なく食べた。そしてたくさん、文子に残し、森の仕事に向かった。
源之丞の仕事は森の幸を採ること。幼い頃からこれだけをやってきた彼。非常にこれに長けていた。
キノコや木の実の場所は暗記済み。獣道には仕掛けをし、これを見回るだけである。時折掛かっている猪。捕獲して嬉しいが、早くやれねばならぬ解体に難儀する。
早くというのは腐敗防止と匂いの発生である。源之丞は今までは獲物を担ぎ、神社の裏で解体していた。しかし、今は文子がいる。彼女の前で血生臭いことを彼なりに避けていた。
今の源之丞。この狩場にて獲物を解体していた。最初は戸惑っていたが、慣れるとこの方が楽であった。
要らぬ皮や骨などは土に埋め、肝心の肉だけを持って帰っていた。なので文子には残酷な光景を見せずに過ごせていた。
他の仕事。川に仕掛けた罠にて。魚を得ていた。中でも清水にいる山椒魚は滋養に良いとされ、高値で取引されていた。
他には貴重な猿の腰掛け、というキノコや、山にしかない希少なもの。全て源之丞は収穫の知恵を持っていた。
これ以外にも仕事があったが、源之丞は森の中の仕事は嫌いではなかった。
そして。熊よけに吹く横笛は祖父のもの。その調べを奏でると、孤独を忘れる気がしていた。
しかし、何をしても文子で苦しい源之丞。そんな彼。あまりの苦しみに気がつけば清吉の家にやってきた。
「爺は?」
「あら。行き違いですね。トメしかおりませんよ」
「そうか」
悲しそうな狐面。幼い頃から彼を知るトメ。彼に饅頭を渡した。そして湯を沸かしている二人きりの納屋。源之丞はポツポツと話し出した。
「あのな。うちにおる娘御 なんだが」
「文子さんですね。気立の良い優しいお嬢さんで」
「ああ。あれは優しくて、その。俺はどうして良いのかわからんのだ」
孫の年の差。トメは何気に話を聞いていた。源之丞は心こぼしていた。
「一緒にいると楽しいのに。いないとこう、胸が苦しいのだ」
「……それは病ですね」
「これが病か?初めてなったぞ」
はいとトメはお茶をくれた。源之丞。真顔でしわくちゃのトメを見た。トメは笑顔で話を続けた。
「一緒にいたい、いないと寂しい。その人が心配でたまらない……」
「そうじゃ!その通りじゃ」
「その人を思うとドキドキする。笑った顔を見たい、泣いた顔を抱きしめてやりたい。ですかね」
「お前はすごい!して、その病はなんじゃ」
トメは目を細めてお茶を飲んだ。
「恋ですね」
「恋?それは、いったい」
「……好きになることです。男はそういう相手を嫁にもらうんですよ」
「よ、嫁に?」
びっくりして納屋の隅に移動した源之丞、犬のように怯えていた。トメは話を続けた。
「そうです。嫁にしないと、それは治りませんな」
「いや?そうは申しても。あれはその、出ていくと申しておった」
恥ずかしがっている源之丞。トメは立ち上がりゆるゆると彼を追い詰めた。
「それは、源様がそう言ったからですぞ……お前さんは、本当に文子さんがいなくなっても良いのですかね」
「ト、トメ?」
怖い顔のトメ。サッと狐面を取ってしまった。
「何をするのだ?」
「源様。文子さんは、お前さんが好きなんじゃ。だから、お前さんなんかと一緒にいてくれるし。あんな屋敷でも、一緒にいてくれるんじゃよ」
「あんな屋敷……」
彼女は狐面をスッと彼の横に置いた。そして自分の定位置に座った。
「そうじゃ。好きでもなければ、あんなお化け屋敷。いられませんよ。なのに文子さんはああしてお前さんの飯を作り、洗濯をしてくれて。ありがたいとは思わないのかね」
「そ、それは。あれは行き場がないから」
「家を出た時はそうでしたでしょうね。でももうあの器量良しなら、どこへだっていけます。それはお前さんだって、わかっているんだろう」
源之丞。俯いてしまった。
「……では、俺はどうすれば良いのだ。もう、出て行けと言ってしまったぞ」
落ち込む源之丞。トメははあとため息をついた。
「素直に言えば良いのですじゃ。今の話をそのままに」
「今の話?」
「そう!しかも早くです。さもなくば、明日にでも出て行ってしまうかもしれませんぞ」
すると彼はスッと立ち上がった。
「わかった。すぐに言うぞ」
「はい、これ饅頭です。二人で食べなされ」
「おう。トメ」
狐面をつけた彼、スッとトメに頭を下げた。そして風のように駆けて行った。
若者の青い夏。彼女は懐かしそうに彼の背中を見送った。
「はあ、はあ。ただいま」
「おかえりなさいませ」
戻ってきた夕暮れの大森神社。カラスがなく境内の奥の母屋。囲炉裏にて。夕食を作っていた文子。やはり元気がなかった。
出来上がった鍋。これを彼に手渡した文子。話をしようとする源之丞、きっかけを掴めずにいた。
しかし、文子が先に口を開いた。
「源様。食べながら聞いてください。文子はお世話になりましたが。あと二週間で出ていこうと思います」
「に、二週間!」
吹き出した源之丞。文子は悲しくなった。
……あんなに驚いている?やっぱりもっと早く出て行った方がいいのかな。
涙を飲んだ文子。必死にお願いをした。
「二週間は長いですよね。でしたら、あの、山の奥の炭焼き小屋の跡にでも」
今は廃墟の古屋を発見した文子。第二希望を言ってみた。
「……ならぬ」
……あそこもダメ?使ってないのに。そんなに出ていって欲しいのね。
「わかりました。では、明日にでも」
こんなに嫌われてしまった文子。情けなくなっていた。この時、彼は立ち上がった。
「来い」
「え」
文子の手を引いた。そして夜の縁側にやってきた。
「座れ」
「はい」
二人で石投げをした池。浮かぶ月。夏の虫の音がしていた。狐面の源之丞。月を見上げていた。
「あのな……俺は死ぬかもしれぬ」
「死ぬって?え」
真剣な彼。面の顔を向けた。
「俺は病になった。治す薬がないらしい」
「そんな」
ここのところ食欲がない源之丞。それを知っていた文子。彼の横顔を見た。
「トメが申すには、恋というものらしい。俺は、お前に恋をしているそうだ」
「恋……」
淡々と話す狐面。しかし文子の胸がドキドキしていた。
……源様は本気で言っているわ。ちゃんと聞かないと。
「ああ。それにだ。トメは、お前も俺に恋をしているのではないか、というのだが。それは真か」
「私も?あの源様……」
……どうしよう。でも、嘘はつけないわ。
心、まっすぐの源之丞。文子は大好きだった。この思いの文子の逃げ場はない。せめて、想いだけは伝えたい。文子は勇気を出した。
「はい……文子は、源様が好きです」
「それは、その、どういうものじゃ?俺といると、お前も胸がドキドキするのか」
……なんてことを聞いてくるの?でも、でも。
月の明かりの勢いで、文子は打ち明けた。
「ええ。いつもドキドキします。でも、おそばにいるとホッとします」
「ホッとする……俺も安心するぞ。お前がいると心が和むし、優しい気持ちになる」
腕を組む源之丞。不思議そうに文子を見た。
「だがな。いないと寂しくて、こう、心が苦しい。だから、お前に出て行ってもらおうと思ったのだ。だが。今はもっと苦しいのだ」
「では……文子を嫌いになったのではないのですね」
源之丞。首を傾げた。
「ああ。嫌いではない。いつもお前のことばかり考えておる……トメに申すと、この恋は、嫁にしないと治らないと申しておった」
……トメさん。なんてことを。
嬉しいやら、恥ずかしいやら。しかし、強引な話でもある。トメの気持ちはありがたいが、言われるまま嫁に来るのは、源之丞の気持ちが入ってない気がした。
「あの。源様はいかがですか?私に、嫁に来て欲しいのですか」
「うーん……嫁というのが、よくわからん。そもそも、お前はもう一緒に住んでおるし。嫁とは、何が違うのじゃ?」
「え」
あまりにも疎い源之丞。文子も困ってしまった。しかし。判明したこと、文子が嫌いなわけではない。好意を持ってくれていることははっきりした。
……今は。まだそれだけで十分よ。こうして、一緒にいられれば。
「どうした?」
……それに。私も気持ちを伝えないと。源様にはわからないんだわ。
「源様。私は、源様が好きです。ここでこうして、一緒にいられるのは幸せです」
「ボロ屋だぞ。ここは」
文子は首を横に振った。
「好きな人のおそばにいれば。それは幸せなのです。文子は、その、源様の胸の中が、一番安らぎます」
「……俺の、ここ?」
彼は胸を指した。文子はうなづいた。
「左様か……ここか………では、く、来るか?」
ちょっと恥ずかしそうな源之丞。しかし、文子はちょっと笑った。
「今は、いいです」
「なぜに」
「それは、その。そういうのは。その、私がお願いして、行くところではありません」
「ん?また難しくなった」
首を捻る源之丞。文子は微笑んだ。
「源様。では、文子はここにいて、宜しいのですか?」
「ああ。いてくれ」
優しい言葉。文子。やっとの思いで声を出した。
「その……二週間過ぎても、夏が終わっても」
「ああ」
「……こ、こに、私はいても……」
「お前?」
これ以上は声が詰まって出てこなかった。出ていこうとしていた文子。涙が出た。
この様子。彼女を苦しめていたこと。源之丞、ようやく気がついた。気がつくと、彼女を抱きしめていた。
「泣くな!お前に泣かれると辛い」
「……源様」
「ええい。面が邪魔じゃ」
彼はそう言って狐面を外し、胸に抱きしめ彼女の顔を押し当てた。
「すまぬ。泣くな。お前が居たいのはここなんだろう?」
優しい胸の中。文子、すがって泣いた。
「はい……」
「良いか?どこにも行くな……」
彼は髪を撫でてくれた。文子は思わず目を閉じた。
「本当に……良いのですか」
「ああ、俺の胸の中にいろ。一緒に、一緒にいよう」
「源様……」
彼の胸の鼓動が聞こえた文子。その中で揺られていた。月はそんな二人を静かに見つめていた。
「不治の病」完
……まさか?出て言ったのか?風呂敷、風呂敷!
彼女の部屋にはそれがあった。彼はまず胸を撫で下ろした。出ていけと言った日から、彼はよく眠れていなかった。
この気持ち。一体何なのか。どうしてもわからなかった。
おそらく文子は森奥の花畑に行ったはず。彼は母を待つ子供のように、寂しく囲炉裏の前で待っていた。
……俺は一体、どうしてしまったのだ。今まで寂しいということはなかったのに。
そんな思いの中、文子が帰ってきた。手には薬草をたくさん抱えていた。
「なぜそんなに」
「村の奥さんで。赤ちゃんがいるのに。お乳が出ないそうなんです」
「そ、そうか」
「源様。あの清水にいる山椒魚を村の人に分けてもいいですか?」
「山椒魚。構わぬが」
「後で、お米にして返してくれるそうです」
そう事務的に話す文子。清水が流れる水場に行ってしまった。仕方なく源之丞。朝飯を仕上げていった。
「おい。朝飯ができたぞ」
「お先にどうぞ。文子は後でいただきます」
……そんなことを申すが。あれは全然食べないかもしれぬ。
イライラする源之丞。それでも腹が減った。仕方なく食べた。そしてたくさん、文子に残し、森の仕事に向かった。
源之丞の仕事は森の幸を採ること。幼い頃からこれだけをやってきた彼。非常にこれに長けていた。
キノコや木の実の場所は暗記済み。獣道には仕掛けをし、これを見回るだけである。時折掛かっている猪。捕獲して嬉しいが、早くやれねばならぬ解体に難儀する。
早くというのは腐敗防止と匂いの発生である。源之丞は今までは獲物を担ぎ、神社の裏で解体していた。しかし、今は文子がいる。彼女の前で血生臭いことを彼なりに避けていた。
今の源之丞。この狩場にて獲物を解体していた。最初は戸惑っていたが、慣れるとこの方が楽であった。
要らぬ皮や骨などは土に埋め、肝心の肉だけを持って帰っていた。なので文子には残酷な光景を見せずに過ごせていた。
他の仕事。川に仕掛けた罠にて。魚を得ていた。中でも清水にいる山椒魚は滋養に良いとされ、高値で取引されていた。
他には貴重な猿の腰掛け、というキノコや、山にしかない希少なもの。全て源之丞は収穫の知恵を持っていた。
これ以外にも仕事があったが、源之丞は森の中の仕事は嫌いではなかった。
そして。熊よけに吹く横笛は祖父のもの。その調べを奏でると、孤独を忘れる気がしていた。
しかし、何をしても文子で苦しい源之丞。そんな彼。あまりの苦しみに気がつけば清吉の家にやってきた。
「爺は?」
「あら。行き違いですね。トメしかおりませんよ」
「そうか」
悲しそうな狐面。幼い頃から彼を知るトメ。彼に饅頭を渡した。そして湯を沸かしている二人きりの納屋。源之丞はポツポツと話し出した。
「あのな。うちにおる
「文子さんですね。気立の良い優しいお嬢さんで」
「ああ。あれは優しくて、その。俺はどうして良いのかわからんのだ」
孫の年の差。トメは何気に話を聞いていた。源之丞は心こぼしていた。
「一緒にいると楽しいのに。いないとこう、胸が苦しいのだ」
「……それは病ですね」
「これが病か?初めてなったぞ」
はいとトメはお茶をくれた。源之丞。真顔でしわくちゃのトメを見た。トメは笑顔で話を続けた。
「一緒にいたい、いないと寂しい。その人が心配でたまらない……」
「そうじゃ!その通りじゃ」
「その人を思うとドキドキする。笑った顔を見たい、泣いた顔を抱きしめてやりたい。ですかね」
「お前はすごい!して、その病はなんじゃ」
トメは目を細めてお茶を飲んだ。
「恋ですね」
「恋?それは、いったい」
「……好きになることです。男はそういう相手を嫁にもらうんですよ」
「よ、嫁に?」
びっくりして納屋の隅に移動した源之丞、犬のように怯えていた。トメは話を続けた。
「そうです。嫁にしないと、それは治りませんな」
「いや?そうは申しても。あれはその、出ていくと申しておった」
恥ずかしがっている源之丞。トメは立ち上がりゆるゆると彼を追い詰めた。
「それは、源様がそう言ったからですぞ……お前さんは、本当に文子さんがいなくなっても良いのですかね」
「ト、トメ?」
怖い顔のトメ。サッと狐面を取ってしまった。
「何をするのだ?」
「源様。文子さんは、お前さんが好きなんじゃ。だから、お前さんなんかと一緒にいてくれるし。あんな屋敷でも、一緒にいてくれるんじゃよ」
「あんな屋敷……」
彼女は狐面をスッと彼の横に置いた。そして自分の定位置に座った。
「そうじゃ。好きでもなければ、あんなお化け屋敷。いられませんよ。なのに文子さんはああしてお前さんの飯を作り、洗濯をしてくれて。ありがたいとは思わないのかね」
「そ、それは。あれは行き場がないから」
「家を出た時はそうでしたでしょうね。でももうあの器量良しなら、どこへだっていけます。それはお前さんだって、わかっているんだろう」
源之丞。俯いてしまった。
「……では、俺はどうすれば良いのだ。もう、出て行けと言ってしまったぞ」
落ち込む源之丞。トメははあとため息をついた。
「素直に言えば良いのですじゃ。今の話をそのままに」
「今の話?」
「そう!しかも早くです。さもなくば、明日にでも出て行ってしまうかもしれませんぞ」
すると彼はスッと立ち上がった。
「わかった。すぐに言うぞ」
「はい、これ饅頭です。二人で食べなされ」
「おう。トメ」
狐面をつけた彼、スッとトメに頭を下げた。そして風のように駆けて行った。
若者の青い夏。彼女は懐かしそうに彼の背中を見送った。
「はあ、はあ。ただいま」
「おかえりなさいませ」
戻ってきた夕暮れの大森神社。カラスがなく境内の奥の母屋。囲炉裏にて。夕食を作っていた文子。やはり元気がなかった。
出来上がった鍋。これを彼に手渡した文子。話をしようとする源之丞、きっかけを掴めずにいた。
しかし、文子が先に口を開いた。
「源様。食べながら聞いてください。文子はお世話になりましたが。あと二週間で出ていこうと思います」
「に、二週間!」
吹き出した源之丞。文子は悲しくなった。
……あんなに驚いている?やっぱりもっと早く出て行った方がいいのかな。
涙を飲んだ文子。必死にお願いをした。
「二週間は長いですよね。でしたら、あの、山の奥の炭焼き小屋の跡にでも」
今は廃墟の古屋を発見した文子。第二希望を言ってみた。
「……ならぬ」
……あそこもダメ?使ってないのに。そんなに出ていって欲しいのね。
「わかりました。では、明日にでも」
こんなに嫌われてしまった文子。情けなくなっていた。この時、彼は立ち上がった。
「来い」
「え」
文子の手を引いた。そして夜の縁側にやってきた。
「座れ」
「はい」
二人で石投げをした池。浮かぶ月。夏の虫の音がしていた。狐面の源之丞。月を見上げていた。
「あのな……俺は死ぬかもしれぬ」
「死ぬって?え」
真剣な彼。面の顔を向けた。
「俺は病になった。治す薬がないらしい」
「そんな」
ここのところ食欲がない源之丞。それを知っていた文子。彼の横顔を見た。
「トメが申すには、恋というものらしい。俺は、お前に恋をしているそうだ」
「恋……」
淡々と話す狐面。しかし文子の胸がドキドキしていた。
……源様は本気で言っているわ。ちゃんと聞かないと。
「ああ。それにだ。トメは、お前も俺に恋をしているのではないか、というのだが。それは真か」
「私も?あの源様……」
……どうしよう。でも、嘘はつけないわ。
心、まっすぐの源之丞。文子は大好きだった。この思いの文子の逃げ場はない。せめて、想いだけは伝えたい。文子は勇気を出した。
「はい……文子は、源様が好きです」
「それは、その、どういうものじゃ?俺といると、お前も胸がドキドキするのか」
……なんてことを聞いてくるの?でも、でも。
月の明かりの勢いで、文子は打ち明けた。
「ええ。いつもドキドキします。でも、おそばにいるとホッとします」
「ホッとする……俺も安心するぞ。お前がいると心が和むし、優しい気持ちになる」
腕を組む源之丞。不思議そうに文子を見た。
「だがな。いないと寂しくて、こう、心が苦しい。だから、お前に出て行ってもらおうと思ったのだ。だが。今はもっと苦しいのだ」
「では……文子を嫌いになったのではないのですね」
源之丞。首を傾げた。
「ああ。嫌いではない。いつもお前のことばかり考えておる……トメに申すと、この恋は、嫁にしないと治らないと申しておった」
……トメさん。なんてことを。
嬉しいやら、恥ずかしいやら。しかし、強引な話でもある。トメの気持ちはありがたいが、言われるまま嫁に来るのは、源之丞の気持ちが入ってない気がした。
「あの。源様はいかがですか?私に、嫁に来て欲しいのですか」
「うーん……嫁というのが、よくわからん。そもそも、お前はもう一緒に住んでおるし。嫁とは、何が違うのじゃ?」
「え」
あまりにも疎い源之丞。文子も困ってしまった。しかし。判明したこと、文子が嫌いなわけではない。好意を持ってくれていることははっきりした。
……今は。まだそれだけで十分よ。こうして、一緒にいられれば。
「どうした?」
……それに。私も気持ちを伝えないと。源様にはわからないんだわ。
「源様。私は、源様が好きです。ここでこうして、一緒にいられるのは幸せです」
「ボロ屋だぞ。ここは」
文子は首を横に振った。
「好きな人のおそばにいれば。それは幸せなのです。文子は、その、源様の胸の中が、一番安らぎます」
「……俺の、ここ?」
彼は胸を指した。文子はうなづいた。
「左様か……ここか………では、く、来るか?」
ちょっと恥ずかしそうな源之丞。しかし、文子はちょっと笑った。
「今は、いいです」
「なぜに」
「それは、その。そういうのは。その、私がお願いして、行くところではありません」
「ん?また難しくなった」
首を捻る源之丞。文子は微笑んだ。
「源様。では、文子はここにいて、宜しいのですか?」
「ああ。いてくれ」
優しい言葉。文子。やっとの思いで声を出した。
「その……二週間過ぎても、夏が終わっても」
「ああ」
「……こ、こに、私はいても……」
「お前?」
これ以上は声が詰まって出てこなかった。出ていこうとしていた文子。涙が出た。
この様子。彼女を苦しめていたこと。源之丞、ようやく気がついた。気がつくと、彼女を抱きしめていた。
「泣くな!お前に泣かれると辛い」
「……源様」
「ええい。面が邪魔じゃ」
彼はそう言って狐面を外し、胸に抱きしめ彼女の顔を押し当てた。
「すまぬ。泣くな。お前が居たいのはここなんだろう?」
優しい胸の中。文子、すがって泣いた。
「はい……」
「良いか?どこにも行くな……」
彼は髪を撫でてくれた。文子は思わず目を閉じた。
「本当に……良いのですか」
「ああ、俺の胸の中にいろ。一緒に、一緒にいよう」
「源様……」
彼の胸の鼓動が聞こえた文子。その中で揺られていた。月はそんな二人を静かに見つめていた。
「不治の病」完