第7話 エピローグ「明日がいい日でありますように」

文字数 2,014文字

 眩しい…
 まぶたの皮膚を通しての明るい光に、若い夫はぴくんとした。
 目の虹彩の色素が薄いので、光には敏感なのだ。

 もう朝? もしかして仕事があるのに寝坊した?

 霞がかかったようなぼんやりした頭で、状況が呑み込めない。
 なんで自分は寝ているのだろう。

「あ、目を覚ました!」

 傍らで耳慣れた女性の声がした。
 妻だ。
 という事は、ここは家なのか?
 腕が突っ張る感じがして、夫は声の方を見た。
 自分の左手首から伸びる点滴の管。
 たわみながら掛け台の点滴パックから下りて、手首に穿刺されている。
 いつの間にか前開きの入院用パジャマを着せられ、包まれた分厚い布団の脇には、大きな目を泣きはらした妻の姿。

「やっと目を覚ました。かなずち旦那」
「どうしたの? 君、基礎課程で水泳マスターしてたでしょう?」

 いつの間にか同じくプールに来ていた、官舎で仲の良い同僚夫妻も来ている。
 泣きじゃくる若妻を支えるように、かわるがわる夫の様子を覗き込み、叱りつけた。
 彼等の話によると、もう深夜らしい。
 どうやら自分は救急病院で、点滴と保温をされている。
 なぜ自分が?

「あなた大丈夫? まだ気分悪い?」
「いや…夢を見ていたみたいなんだ…」

 再び目を閉じた夫のまぶたの裏に、自分の吐いた泡がのぼっていく光景が浮かんだ。
 ああそうか、自分はお客の一杯いるプールの中で、溺れたのだ。
 何故か、急に体が動かなくなって、肺の空気をごぼごぼ吐いて、自分の口から白い泡が水の表面に上って行った
 泡…
 突然夫は体がすくんだ。

「あなた……」
「奥さん、まだこいつボーっとしているから」
「結構長い時間プールの底に沈んでいたんだから、まだ通常に戻れないのよ。ちょっとそっとしておこう」
「大丈夫です。俺大丈夫なんですけど…」

 夫のまぶたの裏に、その泡がシャボン玉になって、逢いたい人を探してただよう姿が浮かんでいた。
 泡は人間のように、右往左往しながら、一斉に家族の、知り合いの、恋人の名前を呼び、助けて、無事でいてと叫びながら、水の上を漂っていた。
 やがて力尽きたようにパチンパチンと弾け、早春の暗い空に言葉が虚しく舞い散った。
 言葉は空中を、逢いたい人を求めて飛んで行った…

 夫は目を開けて、妻の手と顔を求めた。
 点滴針の刺さっていない右手が、ゆっくりとかけ布団の上を探し廻り、気付いて慌てて伸ばした妻の小さな手に触れた。
 夫はぐっと力を入れて、大きな手で妻の手を包み込み、しっかりと握った。

 今、手を握ることのできる人が近くにいるという幸せ
 今、手のぬくもりを感じたい人がすぐ近くにいて、求める自分の手もぬくめてくれるという幸運。
 夫はまたゆっくりと目を閉じた。

「奥さん、旦那はまだ調子が悪そうね…」
「もう夜も遅いし、奥さんも疲れただろう。旦那には一晩泊まってってもらって、明日の朝迎えに来たら?」
「お医者さんは目が覚めて意識がはっきりしているようだったら、いいって…」
「意識はまだ不安定みたいだし、泊まっていったほうが無難そうだよ、こいつ」
「そうですね…あなた、明日また迎えに来ようか。泊まっていったほうが…」

 不安で頼りなげな面持ちで、三人の会話を聞いていた夫は突然大声を上げた。

「いやだ!」

 突然の声に驚く三人を尻目に、夫は飛び起きて妻の手をぐっとつかみ引き寄せた。
 よろける妻は、何事が起ったのかと夫を見つめた。

「絶対に今日帰る!今日退院する!」

 日頃温厚な夫が、見たこともない逼迫した表情で声を荒げる。

 また明日なんて言わないで! 俺には今しかないんだから。

 夫は人が変わったように、人目も憚らず妻を抱きしめた。
 点滴のパイプが伸びきって、今にも針が外れそうだった。
 夫はじくんと痛みを感じたが、全く気にならなかった。

 同僚の妻が、動揺する若い夫婦を落ちつかせ、同僚がナースステーションに医師を呼びに行った。
 急ぎ足でやってきた医師は、てきぱきと夫のバイタルチェックをし、二・三問診をした。
 そのころは夫はすっかり落ち着いていた。
 冷静に、今夜中に退院したいと願い出る夫に、医師は穏やかに

「いいですよ。生食の点滴をもう一本落としたら、看護師にいってください。
 もう一度僕が診て、それから退院しましょう。奥さん、こちらで書類のご記入をお願いします」

 余りに夜遅い時間なので、同僚夫婦には丁寧にお礼を言って、帰ってもらった。
 すっかり落ち着いた夫が点滴を終了し、チェックを受け、退院を許された頃は空が白みかけていた。
 二人は守衛所わきの救急用出入り口から退院した。

 妻の小さな手を固く握りしめ、若い夫婦は寄り添って歩いた。
 大病院のタクシープールには、その時間でも数台のタクシーが客待ちをしていた。
 空が明るい。
 もう夏の朝焼けだ。
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