第十二話 マリー

文字数 6,975文字

その音が聞こえたのは、あの豪華見事な装飾の二つの柱を、もうすぐ左右にやる直前だった。それは重い何かを引きずるような音で、鈍く、そしてレクイエムを轢いているのか、じりっとした感触を含ませている。
うなじが、ぴりっと恐怖で震える。やはり警戒していたのもあってか、まず最初に気付いたのはグリンデだった。その感覚が何か思い出させたのか、彼女は勢いよく振り返った。
その様子を見てオリビアも彼女を真似た。と同時にグリンデの怒号が響く。
「マリー!な、なぜお前がここにいる!」
はじめ、オリビアは目の前にいる者が何なのかがわからず混乱した。あまりにもその存在が日常とかけ離れていたのである。
輝きの花の灯りを、鋭く反射させる黒い何か。それが鱗であることに気づくのに、一呼吸必要だった。 その鱗の隣には、縦に一筋の線が入った赤い球体があり、一定の間隔を空けて開閉した。
「いやぁぁあ!」
完全に理解する前に、本能的に叫んでいた。
オリビアの叫び声がするとほぼ同時に、グリンデは両手の平をかざし、大きな火球を生み出し、放っていた。火球は、その黄色い球体めがけて飛んで行く。見事にぶつかり、シャーっという叫び声とともに、その異様な存在は弾き飛ばされた。
「小娘、走るぞ!」
グリンデはオリビアの手を掴み駆け出した。
そして、再びあの豪華な彫りが施された柱を潜り抜けると、壁にある突起を強く押した。 大きな地響きと共に、扉が閉まる。 それを眺めているわけにもいかない。 二人は再び背中を向け、急いで出口に向けて駆けた。
数歩駆けたあたりで、どしんとした大きな音が背中にぶつかった。 オリビアはその音を聞き、思わずちらりと振り返った。
あと少しで閉まる、というところだったのか、先程の化け者が顔の左右を扉に挟まれ、身動きが取れずに踠いている。
これが蛇と言うにはあまりにも大きすぎる。それにあれはなんだ。大きなうねりを見せる、羊のようなツノが蛇の頭に生えているのだが、その間に人の顔があるのだ。その顔は端正な女性の顔立ちをしており、眠ったように瞳を閉じている。邪神。まさにその言葉に相応しい出で立ちであった。
強く腕を引かれ、すぐにその姿も見えなくなった。息もからがらに二人は駆ける。
二人は祭壇のある部屋から三つ目の岩の扉をくぐり抜けた。グリンデは同じく壁の突起を強く押し、辺りに再び地響きが鳴り、扉が閉まった。あの蛇の這う音は聞こえない。どうやら後ろからあの化け物は追いついてきていないらしい。
二人は立ち止まると、肩を大きく揺らし、何度も、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返した。声を出すのがやっとだ。オリビアは一言、絞るようにグリンデに問いた。
「あ、あの化け物は、なんなのですか!?」
グリンデは二回大きく呼吸を置いたのち答えた。
「あれはマリー。我と160年前に対峙した、ダビドの手先だ」
(ダビド……?)
次の問を聞こうとしたとき、上書きするようにグリンデの声が重なった。その声はとても速く、荒い。
「いいか、小娘。道中我が置いた、あの赤い球を追って出口に向かえ。何があっても決して戻るな」
「グリンデさんはどうするのですか!?」
「我は奴を仕留める」
「そ、そんな」
「大丈夫だ。我にも考えがある。これを持って出口へ急げ!」
グリンデは先程摘み採ったばかりの、紙に包まれたレクイエムの瘤をオリビアに手渡すと、眼下に見える段差を飛び降りた。
グリンデの表情は鬼気迫るものだった。自分は彼女のように闘えない。追ったとしても、邪魔にしかならないだろう。とても冷静になれる状態ではなかったが、その答えは明白で、すぐに導き出された。
それに彼女は考えがあると言っていた。今まで見せつけられた知恵を持ってすれば、きっとあの大蛇も倒すことができるはずだろう。そう信じるしかない。オリビアは出口へ繋ぐ、あの赤い球体を追い始めた。


(……奴は必ずここに来る)
グリンデは段差を下った先の脇にある小道を抜け、開けた空間にいた。
この部屋は、レクイエムが咲いていた、祭壇のあるあの部屋に繋がっており、行き場を失ったマリーは残された一つの道を進み、必ずここに辿り着くはずであった。
(……この部屋なら十分に闘えろう)
グリンデは、平たく整えられた、足元に敷かれる岩盤達を見つめた。一見、宮殿にありそうな石造りの床を連想させるが、実は恐ろしい絡繰りが潜んでおり、彼女はこの度、これを大いに活用させて頂く予定だった。何の為なのかは詳しくはわからないが、この床にはゴブリンたちの知恵が詰まっており、十分な武器となりえる存在であった。
グリンデがこの床の仕組みを聞いたのは、勿論大昔の事だったが、もはや仕組みを忘れたとは言ってられない。やるしかないのだ。何年ぶりになるのか、もはや覚えてはいない。伝説の魔女の腕が、久しく震えていた。
珍しく、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした時、気が付いた。思えば、この部屋に入った時から、微かにカビ臭い匂いを感じていたのだ。
邪魔が入っては命に関わる。それに自身の作戦を大きく左右する。震える手をローブに突っ込み、スノウミントの香水を取り出し、多めに全身に振りかけた。
再び深呼吸し、辺りから匂いが消えた事を確認した時だった。遠くから、じりじりと何かが引きずられるような、這いずる音が耳に入り込んできた。
(……やはり悠長に待ってはくれぬよな)
引きずる音はより大きさを増し、だんだんと強い気配を身近に感じた。目に見えぬ殺気が、目の前で渦を巻いている。しかし、おそらく奴がこの部屋に侵入したと思われた時、あえてグリンデは不意をついて先手を打たなかった。少し確認したいことがあった為である。
(我の推測が正しければ、奴は……)
グリンデは、葬儀場でマリーと出くわした時から違和感を覚えていた。オリビアの手を掴み、駆け抜けながら、頭の中でその原因を探っていたのだが、どうもおかしい。もし思った通りであれば、その違和感はこの勝敗に大きく関わる、重要なものになるだろうと推測できた。
暗闇の中でじっと息を殺し、ただひたすらに奴が近づくのを待った。這いずる音は段々と大きくなる。何も見えないが、それが目と鼻の先で鳴っているのは確かであった。
(……やはりか)
ここまで来れば間違いない。奴が完全に目覚めていないことは事実のようだった。
マリーは黒羽族の実験により産まれた融合生物(キメラ)で、蛇のものと、女性のもの、二つの知性を合わせ持っている。女の知性は人間のものと同じ、もしくはそれを上回るほどで、蛇の巨体を狡猾に操ることで繰り出される攻撃は驚異的だった。
もし女の意識が目覚めていれば、祭壇のあの場でこちらに出会い頭、真っ先に取るであろう行動が予測できるのだか、それをしてこないところを見ると、おそらく奴は今、蛇の方の意識しか働いていない。スノウミントの効果が多少効いているのもあってか、薄っすらとしかこちらの気配に気づいていないようだった。
彼女の武器は物理的な攻撃だけではない。女の方の意識を取り戻させたくない理由は沢山ある。
(早いうちに終わらせたいところだな)
グリンデはこちらを探る、ちりっとした殺気の中、意を決し右手をかざした。手の平から発せられた大きな火柱が、暗闇を一気にかき消した。
その熱と光に反応して、マリーはこちらに翻し、向かってきた。これでもか、というほど顎は大きく開かれている。
(……あまり近うなくて良かったわい)
暗闇の中、炎で照らされたマリーの姿は、予測していた距離より遠くにあった。
火柱は形を変え、火球と成り、その顔目掛けて飛んで行く。見事にマリーの蛇の鼻っ面に、その火球はあたり、大蛇は甲高い叫び声と共に大きな身体をくねらせた。
しかし、その怯みは一時的だとグリンデは知っていた。奴の鱗は硬く、あまり熱を通さない。火球はあくまで時間を稼ぐ為のもの。グリンデは火球を放つと同時に右手へ駆け出していた。
(たしか、この辺りなはずだが……あれだな)
グリンデは左手で炎の灯りを作り、辺りを見渡した。目当てのものを探し出すと、急いでそれに向けて駆けだした。
マリーは既に火球の衝撃から立ち直り、うねりをあげてこちらに迫っている。大きく開かれた口から見える牙は、ぎらりと灯りを反射し、丁寧に磨かれたナイフの切っ先を思わせた。
(もう少し寄れ、化け物)
敢えてグリンデは動きを見せず、マリーを待った。そして十分に引き寄せ、あと数秒でその牙に割かれるだろうところで、見つけ出した岩の突起を右手で強く押した。すると地響きと共に、頭上から大きな岩達が降り注ぎ、マリーの背や頭を襲った。再び辺りに甲高い叫び声が響く。
(……やったか?)
しかしその願いは届かなかった。マリーの背に積み重なった岩は大きく揺れている。少しもしたら、その捕縛を解くだろう。
(やはり簡単にはいかんか。あいつを使うしかない……)
グリンデは再び駆け出した。
自分の脳内に古く眠る記憶を呼び覚ますうち、この部屋にある、決して押してはならないと教えられていた岩を思い出したのだった。
(……たしかこの部屋の一番西だったよな)
それは今いる場所から、真逆の壁付近にあった。奴が岩から抜け出す前に、辿り着かねばならない。
こんなに全力で駆けたのは何年ぶりだろう。考えもままならない。ただがむしゃらだった。
「……グ……ンデ」
それはマリーに重なる岩の横を駆け、通り過ぎた時だった。微かに自分の名を呼ぶ、女の声が聞こえた気がした。
(まさかな。それだけは勘弁しておくれよ)
空耳であってほしい。しかしまたしても彼女の願いは叶わなかった。ごろごろと大きな音を立て、背後で岩が転がっていく。
「……グリンデ……久しいわね。本当に懐かしいわぁ。もっと近くで貴方の顔を見せて」
「ふざけるな、化け物。近う寄ったら、我はおんしの不気味な面を間近で見なければならんだろう」
いつから奴は気がついていたのか。先程、大きな岩の衝撃を受けたからだろうか、マリーは完全に目が覚めてしまったようだった。
罵声を飛ばしたグリンデだったが、内心とても安堵できる状況ではなかった。少しでも時間を稼がなければ。右手から大きな火柱が上がり、火球が作られると、再びマリーの顔へと飛んでいった。
しかし、マリーは鋭く翻し、尻尾でそれをかき消す。
「ひどい扱いね。もっと歓迎してくれても良いのに」
一言放ち、体制を整え、前を向いた瞬間だった。マリーの目の前に新たな火球が現れた。グリンデが間髪入れずに、もう片方の左手で火球を飛ばしていたのであった。
しかしマリーはそれをも読んでいたのか、するりと首を曲げ、難なく交わしてしまった。火球は大きく反れて天井にぶつかり、大きな爆発音が鳴り響く。
「一発目はおとりで、本命は二発目。馬鹿ね。そんなものお見通しよ。さぁもっと遊んで頂戴」
マリーは勝ち誇ったような、冷徹な笑みを浮かべ、じりじりと近づいてくる。
少しの時間も惜しい。グリンデは、その余裕ぶった表情と挑発を相手にせず、全力で壁に向けて駆けていた。だが、その必死の様子ながらも、口角は斜め上を向いている。
グリンデは駆けながら、罵声をマリーにぶつけた。
「馬鹿はお前だ、化け物!」
次の瞬間、マリーの背に激痛が走った。思わずその痛みに、身体が大きくのけぞる。
「キシャァァァァア」
「きゃあぁぁぁぁ」
蛇と女の叫び声が重なり響く。
マリーは痛みをこらえ、背の痛む個所に首をやった。見ると、天井にあった大きな鍾乳石が、見事に鱗を貫き、赤々と血を流しているではないか。マリーの鱗は分厚く硬い。しかし、遥か高い天上から落ちた、鋭い鍾乳石は流石に防ぎきれなかったようだ。マリーは蛇の方の顎で、その鍾乳石を咥え、勢いよくそれを引き抜いた。大きな痛みは怒号となって辺りに響き渡る。
「あぁぁぁ!グリンデ!憎い!憎い!こんなところに私を誘き寄せておいて!ただじゃ済まさないわ」
恐ろしい形相を浮かべ、マリーはグリンデを罵る。眉間がぱかりと割れ、中から赤々とした瞳が現れた。その瞳から、キーンという甲高い音と共に不気味な光が放たれ、辺りは真っ赤に照らされる。
(まずい!急がねば)
マリーが放つその光こそ、グリンデが最も恐れていたものだった。この光を目で捉えてしまうと、たちまち身体が動かなくなってしまうのだ。彼女の意識が戻らぬうちに……と思っていた理由もここに大きくあった。
幸いにも、手を伸ばせばもうすぐ目的の物に届く距離にいた。グリンデは、片腕の前腕で瞼を抑えながら、前に進む。もう片方の手先は必死だ。行く手を塞ぐ枝を掻き分けるように、大きく振り回している。
「あらあら可哀想ね。さっきの威勢は何処に行ったのかしら」
背中の方から蔑む声が聞こえ、それは引きずる音と共に、ゆっくりとこちらに近づいて来る。実に憎たらしい。頭の中にはっきりと、マリーの冷酷な笑みが浮かんだ。
(くそ!確かにここいらにあるはずなんだが)
普段、ここまで視力に頼っていたのか。自分の想像力の愚かさを思い知らされる。予想と反して、指先は何も掴まない。
「あはははは!無様ね!」
罵声はもうすぐ傍まで来ていた。背中はびりびりと振動を感じている。
(……よもやここまでなのか)
伝説の魔女の心にも、敗北の二文字が浮かびつつあった。どうしたものか。必死で思考を繰り広げても、何も浮かばない。やはり、手を振り回す以外、何も出来ることがないのだ。
「本当、良い様だわ。ずっとこのまま見ていたいくらいだけど、流石にそれは失礼よね」
マリーの蛇の顎が大きく開かれた。その気配は目を閉じていても、はっきりと伝わった。
もはやこの際、勢いよく壁に激突しても構わない。グリンデは意を決し、手を伸ばしつつ前方へ飛び出した。
──ざりっ。
勝利の女神が笑みを浮かべた瞬間であった。確かにざらりとした岩の感触が爪先に触れた。
指先は、勢いよく岩にぶつかったせいか、麻痺していた。しかし緊迫したこの状況では、その感覚は意味を持たない。すぐさま、摩るようにその岩をなでていた。
(どこだ!)
必死に辺りを撫で回し、頭に浮かんでいる突起を探す。
(こ、これか?)
もう迷っている時間はなかった。マリーは実に恍惚の表情を浮かべ、大蛇はよだれを垂らしている。
麻痺した指では、しっかりと押せているかもわからなかった。グリンデは思い切り腕に力を込め、見つけた突起を押し出した。
──ゴゴゴ……。
今までのものとは大きく違う。比にならないほど地面は揺れた。流石のマリーも動揺を隠せず、動きを止める。
「な、なによ!」
大きく開いた口を戻し、一瞬ひるんだ瞬間だった。尻尾が宙に浮かんだのを、マリーは感じた。その感覚を得た時にはもう遅い。地面から引っ張られるようにして、大きな力が全身を襲っていた。
「い、いやぁぁぁぁ」
「キシャァァァァア」
マリーの足元は崩れ去り、彼女は奈落へと落ちていった。そう。この突起はこの部屋の床、ほぼ全てを抜き去るものだったのだ。巨体であるが故に、マリーが床に触れる面積は大きい。壁側の床の少しが残るとはいえ、彼女からすれば、立っていられる場所が無くなるも同然だった。
マリーの声はだんだんと足下へと連れ去られる。そして、だんと叩きつけるような大きな音を最後に、完全に聞こえなくなった。
(た、助かったのか?)
生きた心地がしなかった。グリンデは、手をかけていた岩壁に両手をつき、ずるずると崩れ、膝をついていた。呼吸の荒さは収まらず、手は小刻みに震えている。
(……やはり見てしまっておったか)
目の前にあった滑らかな岩肌を反射し、あの赤い光を一瞬捉えてしまったように感じていたが、この症状を見る限り、それは事実のようだった。直接光を見たわけではなかったのもあって、すぐに効果が現れず、この床を起動できたのが、まだ不幸中の幸いと言えた。
(や、奴はどうなった)
いくら高所から叩きつけたとはいえ、完全に仕留めた確証はなかった。もしかしたらまだ息があるかもしれない。それにマリーは意識を取り戻している。『こんなところに私を誘き寄せておいて』という台詞から、黒羽族によってこの洞窟に忍ばされていた可能性は低いが、流石にここから出す訳にはいかない。
グリンデはゆっくりと瞳を開けた。痺れる身体を起こし、岩壁に背をやる。そして手をかざし、火をつけると、目の前に広がる風景に驚愕した。今まで見ていた、ただっ広いあの空間がすっかり大きな穴に呑まれ、姿を消していたのである。
膝をついた状態でよかった。もしあのまま倒れ込んでいたら、自分も奈落へ落ちていたかもしれない。それくらい近い距離まで、床がなくなっていた。
ゆっくりと辺りを見渡すと、今自分がいるこの場所から、岩壁をつたえば、この空間に入ってきた入口へと戻れそうだった。
心なしかだんだんと手先が痺れてきている気がした。急がねばならない。
グリンデは、背中で沿うようなかたちで、岩壁をつたい始めた。
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