第1話

文字数 27,994文字

携帯、メール、ラインetc…、そんなものが無かった僕たちの青春一九八〇年代後半。 
自分の気持ちを相手に伝えるには、手紙を書くか、直接自分の声で心のうちを告げるしかなかった。
でも、文字ではもどかしく、言葉では伝えきれない、そんな時、音楽の力を、歌の力を借りた。 

                 一、 
      
「先輩!今日も格好よかったですよ!感動しました!」
「だとよ、隆。お前は相変わらずいろいろ暴走気味だったけど。」
「いつも悪いね、信也。ノッてくるとどうしてもリズムが走るんだよなあ。」
隆は信也の言葉に頭を掻きながら、奈美にウインクをした。奈美の後ろには、おとなしそうな女の子が恥ずかしげに立っている。
信也はソファーに座り、ギターをいじりながら隆に眼を向けた。
「そろそろバラードもちゃんとこなしてくれよな。お前はいい声してるけど、なにもバラードでシャウトすること無いだろ。」
「サビになるとついね、高音域だし。」
「シャウトもいいですよ、隆先輩!」
「だから奈美、あんまり隆を乗せないでくれ、ハモる側の苦労も分かってくれよ。」
「はーい。」
奈美は明るく頭を下げ、ペロッと舌を出した。
「ところで奈美、後ろの子は?奈美の友達か?」
隆がアイスコーヒーを紙コップに入れながら奈美に聞いた。
「うん、私の親友で明日美っていうの。先輩たちのライブに何回か連れて来たら大ファンになっちゃって。信也先輩の。」
奈美の言葉に隆がコーヒーを噴出しそうになりつつも言った。
「俺たちじゃなくて、信也だけかよ。」
「ち、ちょっと奈美ったら…。」
明日美が奈美の後ろで真っ赤になりながら慌てて袖を引いた。
「だって明日美が言ってたじゃん。」
「そんな言い方してないったら…。」
信也は奈美と明日美のやり取りに、呆れた顔をしてコーヒーを飲んでいたが、緊張で固まっている明日美を見て、にっこりと笑いかけた。
「明日美ちゃん、これからも見に来てね。別に奈美と一緒じゃなくても、控え室にいつでも遊びに来て構わないよ。」
隆も信也に同調し、言葉を重ねた。
「ああ、そうだな。俺たちの音楽を好きになってくれる人が増えて嬉しいよ。」
「あ、ありがとうございます。」
明日美はおどおどしながらも、深くお辞儀をした。
「ほら、明日美、せっかくなんだからさ、何か聞きたいこととかないの?」
奈美がニヤニヤしながら明日美を前に出し、肘でつついて囁いた。
明日美は顔を紅潮させ、もじもじとしながら隆と信也の方を向いた。
「あ、あの、お二人の演奏はいつもパワフルだし、それでいてメロディアスだし感動します!でも、最近はバンド組んで音楽をする人がほとんどですけど、お二人はバンドは組まないんですか?」
明日美の問いかけに、二人ではなく奈美が答えた。
「そうか、明日美は知らなかったんだよね。二人は元々バンド組んでたんだよ、五人で。でもたった半年で解散、せっかくコンテストで賞まで取ったのに。」
「そうなんですか?何で解散を…。」
コーヒーをグビッと飲んだ隆が答えた。
「まあ、よくある話だけど…、音楽性の違い…かな?」
「何格好いいこと言ってんだ。お前があんまり走りすぎるし、アドリブ入れまくるからベース、ドラム、キーボード、三人にやっていけないって逃げられたくせに。」
信也は相変わらずギターを抱え、淡々と返した。
「いいじゃんか、そういうことにしとけば。なんとなくそれっぽいだろ。」
明日美は笑いを堪えながら質問を続ける。
「そうなんですね…。でも信也先輩は隆先輩と今はデュオ組んでますよね。バンド解散した後でも、隆先輩と二人で音楽がやりたかったんですか?」
「まあ幼馴染だしね。それに俺は、こいつの声が好きなんだ。だから少々ならこっちが合わせてやろうと思っているんだけど…、さすがに今日は走りすぎだ。」
「本当にすまん。でもお前のギターはやっぱり天下一品だよ、コーラスもどんな状態でも合わせてくれるし。」
「ギターや他の楽器ももうちょっと練習してくれよ、ステージ一回につき最低五回は間違えるからな。」
「へいへい。了解です。でも信也、お前もちょっともたついたところ無かったか?お前にしちゃ珍しいなって思ったけど…、まあ気のせいレベルだけどな。」
隆は残りのコーヒーを飲み、紙コップをゴミ箱に放り投げた。
紙コップの描く放物線を視線の中に置きながら、明日美が隆に話しかける。
「でも、隆先輩はすごいですね。ギターのほかにベースやパーカッション、キーボードまでできるんですから。」
隆と信也は顔を見合わせ、苦笑いしながら隆が答えた。
「違う違う、ギターでは絶対信也に敵わないし。まして曲を作っている信也からあれやれこれやれって言われるから仕方なしだよ。」
そこに信也がフォローするように返す。
「まあ、隆は器用だからな。器用貧乏とも言うが。おかげで音楽性の幅は他のデュオより広くなったけどね。」
そんな二人の様子を見ながら、奈美が隆の腰掛けているベンチシートの隣にちょこんと座った。そして明日美は信也から少し離れ、ソファーの角に遠慮がちに腰掛けた。
「やっぱり、先輩たちの音楽は最高ですよ!高校生なら全国でもトップクラスじゃないですか?このままデビューも夢じゃない!単独ライブでもいつも満員だし。」
奈美の言葉に、明日美は相槌を打つ。
しかし信也は首を横に振った。
「いやいや、そんなに世の中は甘くないよ。俺たちより上手い奴、すごい奴はゴマンといる。満員って言ったって、このライブハウスは五十人入ればいっぱいだし、入場料は500円だ。俺たちのレベルじゃ、もしインディーズデビューしたとしても売れないだろうし先は無いよ。」
信也はギターのピックをはじきながら続けた。
「そんなことより、もう高三の十月だ、さすがに少しは進路をまともに考えないとな。ぎりぎりだよ。」
明日美が遠慮がちに信也に聞いた。
「先輩たちはこんなに上手なのに…そんなプロになるって難しいことなんですか?何かのコンテストとかで、優勝とか目立ったりすれば結構音楽業界から声掛かかることありそうだけど…」
「ああ、かなり難しいね。俺の先輩で神業的なスティック捌きの天才ドラマーがいて、音楽事務所から声掛かったけど、結局、今はスタジオミュージシャンで、バイトもしながら生活してるよ。他にもギタリスト、ベーシスト、いろいろ上手な人たちを見てきたけど、ほとんどの人が鳴かず飛ばずだ。」
信也は、プロになりきれなかった先輩たちの顔を頭に浮かべながら続けた。
「それでも音楽関係の仕事をしていける人はまだもうけものかな。逆に結構売れているプロでも、俺よりギターが下手だなあ、と思うバンドとかも正直いる。やっぱりプロになるには、上手さなんかより、時の運や、コネや、その人間の持っている何かとか、いろいろあるんだよ。それは少なくとも俺には無いものだと思う。」
信也の言葉に、隆が首を振る。
「そんなこと無いよ。信也はギターだけでなく、作詞作曲できるし、絶対音楽の才能あるって。」
信也は隆の言葉に軽く苦笑いを浮かべながら返した。
「俺には『華』が無いよ。でも隆にはあるかもな。どうせお前のことだから進学も就職もまだまともに考えてないだろうし、いっそプロ目指してみろよ。」
隆は信也の言葉にびっくりしたようにおどけて、ベンチに転げた。
「ないない、ましてお前に誘われて、何となく遊びで始めた音楽だし。元々プロなんか目指してないしな。ストイックに音楽に打ち込めるほど本気じゃないし、まず根本的に腕が無い。信也のギターとボーカルが無けりゃ今のデュオだって成立してないし。」
「お前がほんの少しでも、音楽に対してストイックになれればプロミュージシャンになれると思うがな。」
信也はため息をつき、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「だから無理だって。曲も作れないし、こらえ性ないし。音楽の成績だって悪いしな。所詮俺は高校生の遊びだよ。信也が目指すって言ったらもしかしたら考えるけど、プロになる気なんか無いって言ってたじゃん。俺はどこか適当に就職するよ。」
隆は伸びをしてチラッと明日美を見た後、奈美に声をかけた。
「さて、疲れたし、そろそろ俺は失礼するぞ。おい奈美、帰ろうぜ。」
「はーい。それじゃ信也先輩、明日美バイバイ!」
隆がギターをしまい、奈美と連れ添って帰ろうとしているところに、信也は立ち上がり慌てて声をかけた。
「お、おい、隆、奈美、待てよ。明日美ちゃんどうすんだよ。」
「信也先輩よろしくー。ちゃんと送ってくださいね!」
奈美は隆と腕を組みながら後ろ向きで手を振り、控え室を出て行った。
控え室には、呆れ顔の信也と、申し訳無さそうに俯く明日美が残された。
「なんだよあいつら…。」
ソファーにドスンと座り込み、ぶつぶつと言いながらギターを抱えた信也に、明日美は立ち上がり頭を下げた。
「すいません、先輩…。」
渋い顔をしていた信也は、恐縮している明日美を見ると笑顔を向けた。
「いや、いいよいいよ。あの二人は昔っから大体あんな奴らだから。好き勝手に動き回って尻拭いは俺だからな。君は巻き込まれたようなもんだよ。せっかく控え室に来てくれたのに悪かったね。」
「私、一人で帰れますから…。失礼します…。」
お辞儀をして帰ろうとする明日美に、信也は慌ててギターをやめて声をかけた。
「待って待って、ちゃんと送るから。送らなかったらあの二人に怒られるし。新曲の最後のフレーズ作りたいから、ちょっとだけ待って。直ぐ終わるからさ。」
「あの、お邪魔じゃないですか?それならここの片付けでも…」
「しなくて大丈夫だよ、その辺の飲み物、適当に飲んで待ってて。片付けはライブハウス側がしてくれるから。」
「じゃあ…お言葉に甘えて…、ありがとうございます。」
明日美はお礼を言いながら、ソファーに腰をかけた。
チラッと信也を見ると、ギターを弾きながら譜面に朱を入れ曲を仕上げている。時折、信也の口から漏れる甘い声に明日美は聴きほれていた。
(信也先輩の声、なんか安心する…)

                  二、  
      
「あの二人、上手くいくかなあ…」
「やっぱりそのつもりで明日美ちゃん連れてきたんだな。まあ、そうだろうと思って二人を残してきたけど。」
「さすが隆先輩、気が利く!」
隆と奈美は、街灯に照らされる舗道をゆっくりと歩く。
「しかし、信也のところに女の子連れて来たの何人目だよ。確かにあいつは女性には奥手だけど、おせっかいが過ぎるぞ。」
 隆は奈美の顔を見ながら説教をする。
「だって…明日美が信也先輩いいなあって言うから…。今回は絶対上手くいくって。」
 奈美の言葉に隆は肩をすくめ、呆れた顔をした。
「お前さあ、古い付き合いなのに信也の事分かってないなあ。あいつは優しいけど、対女性に関しては超鈍感だし、グイグイ来られたらすぐ逃げちゃうぞ。今までだって連れてきた子全部信也がドン引きしてだめになっただろうが。」
 「だから、今回は大丈夫。明日美は奥手だし、グイグイ行かないから。」
 「じゃあ余計だめじゃん。信也から行くこと無いんだから進展無しだぜ?」
 隆の言葉に奈美は、足元の石を蹴りながら隆の方を見た。
「そうかなあ…、マイナスとマイナス掛ければプラスになるって言うし。」
 「何だよそれ。だからあんまり変なおせっかいしない方がいいって。いくら信也が鈍感でも変な気の回し方続けたら、幼馴染とはいえ控え室や部室出入り禁止にされて、当分口きいてもらえなくなるぞ。そうなったら俺がなに言っても聞かないし、あいつ怒ったら怖いからな。」
 「だって…、三人幼馴染で、その中で私たちが付き合ってて、信也先輩が一人って何か悪いなって…気になるし…」
 奈美がため息をつきながら言うと、隆は奈美の頭を撫でながら笑った。
 「あいつはそんなこと気にしないよ。あいつの頭の中の八割が音楽で残りはその他だからな。」
 隆は夜空を見上げながら続けた。
「しかし、本当にあいつは凄いよ、絶対プロになれると思う…、多彩な曲作り、ギターテク、声だっていい声だし。そんな奴に『お前の声が好きだ』なんて言われたらホモじゃなくてもゾクってくるぞ。」
隆は奈美を見て嬉しそうに話す。
「だから、俺はあいつがどうやって歌ったら喜んでくれるかを考えながらやってる。いつも文句ばかり言われるけど、たまに信也から褒められるとやったあ!って思うんだ。だから二人でやってるんだ。俺は信也以外なら音楽辞めてるしな。」
信也を褒め上げる隆を見ながら、奈美はプクっと頬を膨らました。
 「なんか嫉妬しちゃいそう…。やっぱり本当にホモにならないように信也先輩に彼女作らなきゃ!」
 「だからホモじゃないってのに…。まあ明日美ちゃんなら、信也とお似合だとは思うけど…。何となく似てるしな…」
 「え?」
 ボソッともらした隆の言葉を奈美は聞き返した。
 「いや、別に。で、二人をくっつけるためにどんな悪巧みするんだ?」
「だから、隆先輩、さっきの話じゃないけど明日部室で、…ってことでどう?衝撃的でしょ?これも恋のスパイスになって、二人の距離が縮まるかも。」
 「お前、性格悪いなあ、ただ遊んでるだけだろそれ。ほっときゃいいのに。」

                   三、  
       
 「どうだい、明日美ちゃん。この曲、バラードで仕上げたんだ。」
 信也は新曲を書き上げ、明日美の前で披露し感想を求めた。
 「すごい…。泣きそうになっちゃいました。なんか切なくて、でも暖かくて…。すごくいい曲だと思います!」
 「ありがとう、お世辞でもそう言ってもらえてホッとしたよ。明日、隆に聴かせて、細かい部分の調整だな…」
 「調整…ですか?」
 明日美は首を傾げ、ギターを片付けている信也に聞いた。
 「ああ、デュオのパート構成、コードとキーの確認、歌詞の内容、いろいろしないと。あいつの意見も取り入れたいし…、俺たち二人の曲だからね。今回は、隆にメインを取らせて高音域でのコーラスを俺が入れるつもりだよ。」
 「信也先輩がメインじゃないんですか?」
 「あいつの声を浮かべながら曲作ったからね。隆は、自分の声のすごさに気づいていないんだ。いろんな楽器も簡単にコツを掴んで出来るようになるし、華もある。本気でボイストレーニングやったら絶対プロになれる。あいつのボーカルは天才的だ。」
 「信也先輩の声も素敵ですよ。甘いし、聴いてて安心すると言うか…」
 帰り支度を済まし、お茶でのどを潤わせていた信也は、明日美の言葉に苦笑いを浮かべた。
 「ありがとう、明日美ちゃん。でも、俺と違って、本質的な部分で隆の声はすごいんだ。人の心に届くと言うか、沁みると言うか…。あいつ、たまにだけど、本気で歌うときあるんだ。自分で気づいていないだろうけど。そのときの声は…なんとも表現できないけど、凄い。」
 「なんか隆先輩に嫉妬しそう…」
 信也の嬉しそうな顔に、ボソッと明日美がつぶやいた。
 「ん?なんか言った?」
 「い、いえ、お二人は本当に仲がいいなあって…」
 「まあね。俺とあいつと奈美、三人幼馴染だし、あいつの暴走止められるの俺だけだし。と言うより、隆の声が無かったら音楽辞めてるよ…。俺だけじゃ限界がある。」
 「本当に隆先輩のこと好きなんですね…」
 明日美の言葉に、信也は少し照れながら答えた。
 「まあ、幼馴染だし、それにあいつの声が好きなんだ。」
信也は立ち上がって背伸びをしたあと、明日美に笑いかけた。
「さて、だいぶ遅くなっちゃったね。急いで帰ろうか。」

                  四、  
       
 朝のざわついた教室で、明日美が机に肘をつき頬杖をしていると、奈美が元気な声で近づいてきた。
 「おはよー明日美、どうだった?ちゃんと告白した?」
 「もう!出来るわけ無いじゃない!急に帰っちゃうし、二人で残されて顔面蒼白だったんだから!」
 奈美は明日美の前に座り、顔を近づけて眼を見開いた。
 「えー、もしかして信也先輩送ってくれなかったの?」
 「ちゃんと送ってくれた…、新曲も聞かせてくれたし…」
 「優しい!てか、何で私より早く新曲聴いてんのよ!」
 「昨日、信也先輩、新曲の最後の詰めしてて、ちょうど出来たから感想聞かせてくれって…すごくいいバラードだった…」
 昨夜の事を思い出しながら明日美は顔を赤らめた。
 「いいなあ…、私が残ればよかった。」
 「もう!勝手ことばかり言って!信也先輩が優しい人だから良かったけど…。」
 「信也先輩が優しいのは私だってよく知ってるしぃ。でも、わざわざ新曲聴かせるなんて…、明日香、脈ありかも!」
 奈美のからかいに明日美は顔を真っ赤にしながら返した。
 「もう!信也先輩は隆先輩と音楽することしか頭に無いんだよ。昨日、控え室でも帰り道でも隆先輩の話ばっかりだし。あいつは天才だって。」
 明日美の言葉に、奈美はため息交じりに応えた。
 「こっちも同じだよ、信也はすごい、プロになれる、あいつがいなきゃ音楽なんてやってないって、もう、本当にホモかと思っちゃう!」
 明日美は奈美をなだめながら、信也たちの仲の良さと、信頼関係を実感していた。
「まあまあ奈美。でも二人はホントに信頼しあってるんだね。お互いにあいつは凄いだなんて言えるなんて。普通、身近で同じような事してたら、相手の才能に打ちのめされるか、嫉妬して憎んじゃうとかあるのに。才能に嫉妬どころか、相手の才能をどうもっと引き出そうかとか、どう喜んでもらおうかって思うんだから…」
 「やっぱり二人はホモだ!」
 「もう奈美は!というか、奈美がいろいろ妄想好き過ぎなの!オタク女子なんだから。」
 明日美はあきれながら奈美に返した。
 「まあ、隆先輩は私と付き合ってるから、もしそうでも両刀遣いだから許しちゃう。でも信也先輩は本当に…昔から女っ気無かったからなあ、結構モテるのに。」
 「信也先輩はホモじゃないもん!」
 「だから、今日放課後に軽音の部室行かない?確かめなきゃ、もしかしたら二人が抱き合ってるかも…。」
 「もう!そんなことないよ!」

                 五、 
           
 放課後、夕日が差し込む軽音楽部の部室で信也がギターを弾いていると、隆が眠そうな顔で入ってきた。
 「ふわぁ…、信也、お疲れ~」
 「隆、お前またずっと授業中居眠りしてたろ。そんなので卒業できるのか?」
呆れ顔をしながらも、気を取り直して信也が続けた。
「まあいいや、新曲できたぞ!最終調整するからとりあえず聞いてくれ。」
 「了解、って、その前に…、明日美ちゃん、どうだった?」
 隆は信也の目の前に座り、食いつくように聞いた。
 「どうって、ちゃんと送ったよ、お前らがおいていくから。薄情な奴らだ。」
「そのどうじゃなくってさあ、明日美ちゃんに告白されたとか、キスしたとか、それ以上になっちゃったとか…」
「なんだそりゃ、冗談言ってないで早く曲仕上げるぞ。」
信也は隆の言葉を軽く受け流し、新曲のイントロを弾き始め隆を促した。
「ちょ、ちょっとまて、冗談じゃなくてさあ、明日美ちゃんお前に気があるって奈美が言っててさあ、お前、明日美ちゃんのこと、どう思う?」
隆は慌てて信也を止め、ギターを取り上げた。ギターを抱えた格好のままの信也は、目を丸くして隆を見た後、ほっとため息をついた。
「あのさ、隆、俺はあの子のことほとんど何も知らないんだぞ。それで好きも嫌いもあるかよ。」
「だからあ、そんな重い話じゃなくて、なんとなくいいなあとか、ちょっと可愛いなあとかあるじゃん。」
信也は少し顔を赤くして返した。
「そりゃまあ…、可愛い感じだし、なんか気が休まるタイプだし…、まあ、いいとは思うけど。」
隆は信也の言葉に身を乗り出し、隆の手を取ってのめり気味になった。
「よし、じゃあ付き合おう!」
信也は呆れ顔で隆の手を振り払い、また、ため息をついた。
「だから、何でそこまで飛躍するんだよ。こういうことは、もっとお互いを知ってだなあ…」
「お前は爺さんか!古いなあ、もっと気楽に、軽くいこうぜ。」
「俺はお前みたいにお気楽な性格じゃないんだよ。」
信也のつっけんどんな言葉を受け、隆は真顔になり信也をじっと見た。
「なあ、信也、お気楽だなんて言ってる場合じゃないんだぞ。衝撃の事実を言おう…、実は、俺とお前の間に、ホモ疑惑が浮上している!」
隆は言い終わると、人差し指をびしっと信也に突きつけた。
「はあ?何言ってんだお前。」
信也が呆れていると、隆は今度は困った顔で信也を見た。
「奈美がさあ、俺たち二人は怪しいって面白がってんだよ、オタク女子だからな。まして『歩くスピーカー』だ、下手するとあっという間に噂が…」
「おいおい、勘弁してくれよ、そりゃ友人としてお前は好きだけど、それとこれはまったく違うだろうが。」
「んな事は俺だって分かってるよ。だから、この際、明日美ちゃんと付き合って、噂を払拭するということでどうだ?」
「そんなの彼女を利用してるようなもんだろ?悪いよ。」
「そんな明日美ちゃん嫌いか?」
「そんなことは無いけど…」
「これは俺にも関わってくる重要な問題だからな。付き合わないまでも、友達以上恋人未満的な、まあお見合いみたいな感じでさあ。頭の固いこと言うなって。」
信也は肩をすくめ、隆から自分のギターを取り返した。
「まあ、気が向いたらな。とにかく練習しないと間に合わないぞ。」
「やれやれ、わかりましたよ。お、あれ?信也、なんかまぶたにちょっと傷あるみたいだぞ?ちょっと目つぶってみな。」
「ん…そうか?別に痛くないけどなあ。」
信也が眼を閉じたあと、隆が顔をそっと近づけた。
そしてその瞬間、ガラッと部室の扉が開いて奈美と明日美が入ってきた。
「せんぱーい、こんにちは…、あっ!ホモ疑惑の決定的瞬間!明日美!『写るんです』用意!写真撮って!」
「信也先輩…まさか…ほんとに…。」
奈美がニヤニヤとし明日美が固まっている中で、信也は目を開け、慌てふためきながら隆から離れた。
「ちょ、ちょっとまて!今のは隆が俺のまぶたに傷があるから見せろって言ってそれで…なあ隆…。」
信也が困り顔で隆を見るとそ知らぬ顔をしている。
「おい隆!…あ、お前図ったな!」
信也が睨むと、隆はニヤニヤしながら信也に言った。
「さあ困ったなあ、変な噂がでちゃうなあ…、まあ俺は奈美と付き合ってるからあ、大丈夫だしぃ、それに別にお前とならホモでもいいけどなあ。」
「棒のようなセリフ回しで言いやがって…あ、また奈美の差し金か?」
「さあね。」
「おい奈美!お前…。」
「さあさあ奈美、今日は買物行く約束だったな。信也すまん、新曲の件は明日な。」
「あ、そうだったね、信也先輩バイバーイ。明日美、ガンバ!」
隆と奈美は二人に声を掛けるとそそくさと部室を出て行った。
「はあ、あいつら、またか…。」
信也はその後姿をあきれた様に見送り、まだぼーっと立っている明日美を見つめた。
明日美は信也の視線を感じ、やっと口を開いた。
「あの…信也先輩…本当に…隆先輩が…男の方が好きなんですか…?」
「まてまて、そんなことあるかよ。健全な男子だよ。あいつらのいたずらだ。」
「よかった…でも、なんか私のせいみたいで…すいません。」
明日美は頬を赤くしながら謝った。
「君のせいじゃないよ、気にしないで。」
信也は苦笑いしながら明日美に椅子を勧めた。
「親切なのかおせっかいなのか遊んでるのか…、毎度あいつらは…。」
「あの…、お邪魔じゃないですか?」
「新曲合わせもできなくなったし。何か聴きたい曲ある?聴かせてあげるよ、君にも迷惑かけてるみたいだし。」
「め、迷惑だなんてとんでもない!でも、聴かせてくれるなら…『土砂降りの雨』って曲が聴きたいです!」
期待の眼を向ける明日美に、信也は一瞬顔に暗い影を宿したが、すぐ笑顔に戻った。
「そう…なんだ…、ライブでもほとんどやってない曲なんだけど。よく知ってるね。」
「一回しか聴いたことは無いんですけど…、奈美がライブのの時のテープ聞かせてくれて、その中でアンコールの時に『じゃあ今日はめったにしない曲やろうか』ってなってこの曲が…、すごく切ない曲で、でも大好きなんです!」
「そっか…、メイン歌えるかい?」
「たぶん…歌詞が分かれば…メロディーラインは覚えていますから。」
明日美の言葉に信也はニコッと笑った。
「一回で覚えたんだ。君、ピアノとか楽器やってるんじゃない?」
「え?は、はい、ピアノを少々…。」
「少々じゃないよ、『土砂降りの雨』は俺的にはわりと複雑なメロディーライン使ってるんだ。転調も入ってるしちょっと歌い難いはずだよ。だから隆が『曲が難しい』って嫌がってほとんどやらないんだけどね。それを君は一回聴いただけで覚えてるんだろ?もしかしたら絶対音感あるんじゃない?」
「え、いえ、そんな完璧には…。」
「この間も新曲聞かせたとき、指がメロディーに合わせてピアノの運指してたし、無意識だろうけど。すごいねえ、俺は相対音感しかないからな…。」
「そんな…信也先輩はすごいですよ!」
「お褒めの言葉、いたみいります。」
信也はおどけながらギターをジャランと鳴らした後、明日美を見た。
「さて、君の高音域は俺の三音ほど上だろ、『土砂降りの雨』のキーを君に合わせて上げるから歌ってみて。」
信也は赤ペンで譜面のコードを書き換えてキーを上げ、ギターでイントロを爪弾きだす。それを聴きながら、明日美が遠慮がちに曲にのせて歌いだした。
「明日美ちゃん、もっと本気で…しっかり声を出して歌ってみて。」
明日美がぎゅっとおなかを締め、声を出す、細いがしっかりした声質で、バラードを歌い上げる。
そしてサビに入った時、信也が明日美に合わせてコーラスを入れる。少し苦しげな表情をしたが 、メインより低音域で、明日美の声をつぶさないよう、それでいてしっかりと音程を合わせてしっとりと歌い上げた。
最後のフレーズが終わり、信也のギターの余韻の中、明日美は頬を紅潮させていた。
「先輩…すごいです!こんなに直ぐ合わせてくれるなんて、すごく気持ちよく歌えました!」
「あ、いや…、三度の低音ハモりに、少々のおかずをつけた程度、君にはわかるだろ?適当なごまかしだよ。大したことない。」
少し疲れた表情で信也が答えた。
「でも、一回で合わせるなんて、なかなかできないですよ!」
「逆に、このハモりのパートを俺一人でやれっていってもできないよ。」
信也は苦笑しながらギターを置いた。
「え?何でですか?」
「おれは相手の声質や音程に合わせて、その音を聴きながらハモる事は得意なんだけどね、その相方がいないとコーラスパートできないんだよ。そりゃ、やれと言われたら出来ないことないけど、味も素っ気も無いし、大概ずれてくるしね。下手くそだし無機質なものになっちゃう。」
「でも、メインでソロパートをしてる時の先輩の声は甘いし優しいです…。隆先輩には悪いけど、もっと信也先輩がメインで歌っても…。」
「うーん、メインが嫌いなわけじゃじゃないし、基本的にはツインボーカルのつもりだから、どっちがメインでどっちがサブって訳でもないんだけどね。ぶっちゃけ言えば、隆より俺のほうが音域広いし高い、さらに隆はハモりが苦手、ってなると今のような形が多くなってくるかな。」
信也はまたギター抱え、爪弾きながら続ける。
「俺の目指しているデュオの完成型としては、どちらもメインでどちらもサブ、入れ替わりながら曲に深みを持たせていく、みたいな感じかな。そのためには、隆がもっとメロディーラインを大切にしながら歌ってくれればいいんだけど…、気にしすぎるとあいつの良いところまで無くなっちゃうからね。ここは俺が上手く操縦しないと。」
「そうなんですね…、お二人の完成型…聴いてみたいです。」
明日美は顔を上気させながら信也を見つめた。
明日美の眼の中に熱いものを感じた信也はふっと眼を逸らし、はぐらかすように明日美に明るい声で答えた。
「そうだね…、そうなれば…。あ、そうだ、明日美ちゃん、一度、セッションで俺たちとやってみないか?」
「え!わ、私なんかとても…邪魔になるだけです…。」
「そんなことないよ、クラッシック的な要素を取り入れた曲作ってみたいし。君なら、直ぐ合わせてくれるだろうし。隆なんかと違ってさ。」
「そんなことは無いと思いますが…、お手伝いできるならやらせてください!」
「ありがとう、頼むよ。また、曲作ってみるから。」
「わかりました!」
「そんな無理はしなくていいからね、出来る範囲でさ。」
信也は明日美に笑顔を向けたあと、譜面を開きギターを弾きだした。
明日美は信也の姿を眩しそうに見ながら、小声で聞いた。
「あの、先輩…、ここにいたら、練習のお邪魔ですか?」
「ん?構わないよ、でも君が面白くないんじゃない?俺はギター弾きだすと没頭しちゃうから。」
「見てる…、い、いえ、聴いてるだけでいいんです。」
「うん、じゃあ、聴いててもらおうかな。時々感想もちょうだい、クラッシックやってる人の意見は貴重だからさ。」
「そんなこと…。」
恥ずかしげに赤くなる明日美を見て、信也は優しく笑った。
「とりあえずよろしくね。明日美ちゃん。」
「はい!」

                  六、

「やっぱりやりすぎたかなあ…、本当は新曲の調整もしたかったし。奈美、お前の無茶のせいだぞ。」
「隆先輩だってノリノリだったくせに!」
「まあなあ、信也真面目だからからかうと面白いからなあ。」
喫茶店でコーヒーを飲みながら二人は額をつき合わせてコソコソと話し出した。
「でも、二人ならお似合いだと思うんだけどなあ。」
「まあな、信也もまんざらでも無さそうだったし。」
「でしょ?何かしっとりしたカップルでいい感じ。」
奈美はうらやましそうな顔で隆を見た。
「奈美と俺とじゃバカップルだからなあ…」
信也はしみじみと奈美を見る。
「どうせ私がバカだからでしょ。騒がしくて悪うございました!」
奈美がプイと横を向き拗ねると、隆は頭を掻きながら苦笑いした。
「まあ俺が落ち着き無いからな。でもそろそろ落ち着かなきゃ。ミュージック・コンテストが十一月、一カ月後に控えている。」
奈美は隆の言葉に首を傾げた。
「え?でもそのコンテストってそんなレベル高くないよね。たいして大きな大会でもないでしょ?」
「確かに今まではね。でも、今回このコンテストにスポンサーがついてさ、優勝できれば、三ヵ月後の二月、楽器メーカー主催の全国規模の大会に推薦枠で出場できるんだ。コンテストは今信也が作っている曲でいくつもりだ。」
隆の顔が紅潮し、気合の入った声で続けた。
「久しぶりに本気で取り組まないとな。このコンテストの予選はデモテープで、上位十組から二十組ぐらいが決勝に進出できる。油断は出来ないが、俺たちなら多分予選突破は出来るはずだ。これでも俺たちは一応県下では有名どころのデュオだからな。」
半分本気、半分冗談の口調で隆が言った。
「でも…、予選で何組ぐらい集まるのかなあ。結構集まるんじゃ…。ライバルはなるべく少ない方がいいしね」
奈美が心配そうに隆を見上げた。
「予選がいくら多くても俺がこの辺で知っている名の売れたバンドは十やそこらだよ。問題は決勝だ。多分、メーカー主催コンテストの推薦枠を狙って、近県も含めトップレベルのアマチュアバンドがきっと出場してくる。ここが勝負どころだよ。音だけじゃなく、ステージでのパフォーマンスや将来性が必要だ。どれだけ審査員や観客を引き付けられるかだよね。」
「決勝…、自信あるの?」
「正直やってみないとわからないよ。でもやらなきゃ。このコンテストで勝てば、楽器メーカーの全国コンテストでは必ず上位入賞、いや、優勝も狙えるはずだ。」
隆は真面目な顔で奈美を見つめた。
「全国で優勝…?」
「そう、優勝すれば…楽器メーカーの支援でメジャーデビューできる。」
奈美は上気した顔で隆に言った。
「メジャーデビュー…すごいじゃないですか!…でも、隆先輩も信也先輩もプロになる気は無いって…。」
「俺はね…正直無いよ。でも信也は絶対プロになれる!例え全国優勝出来なくても、大会の会場にはあらゆる音楽関係者が来ているはずだ。」
隆はニコッと笑って奈美に言った。
「そして信也がそこで目をつけられて引っ張ってもらえれば…。だから、せめてミュージック・コンテストで優勝して、全国大会に行きたいんだ。」
「信也先輩のため…?」
「そうだよ、あいつ、口ではああ言ってるけど、心の奥底ではプロになりたいはずなんだ。音楽大好きなはずだし…。それに、お前だってあいつの家の状況知ってるだろ?小学五年で両親を事故で亡くして祖父母の家で過ごし、そして祖父母も亡くなってあの家で一人暮らしだ。保険やら補償やらで今すぐ暮らしに困る訳じゃないが、プロになれれば安定する。まあ、それより、あいつの才能が世に出て欲しいんだ。」
「隆先輩は…本当にプロになりたくないんですか?」
奈美の探るような口調に、隆は少し口ごもりながら答えた。
「そりゃ…なれたらいいなと…思ったことはあったよ。でも正直俺には自信が無い…、ボーカルも楽器も中途半端だし、信也のお荷物になりそうだし…信也なら他の奴とでも、いや一人でもやれるよ。」
「隆先輩…。」
少し淋しげな隆に、奈美は言葉を捜したが見つからず、窓の外を見つめた。
いつのまにか、喫茶店の窓を激しく冷たい雨が叩いていた。

                    七、  
    
「雨…ひどくなりましたね。土砂降りの雨か…『土砂降りの雨の中を探しても探しても見つからない、追いつけない…』、あの歌詞って信也先輩の体験談…ですか?」
明日美の言葉にギターを止めた信也は、淋しげに笑いかけた。
「明日美ちゃんは、もしかしてあれは恋愛の歌だと思ってる?」
「うーん…、最初はそうかとも思ったけど…、何となく私には、何か恋愛と違う切なさとか、哀しさとか…伝わってきます。」
明日美が少し上に視線を置きながら考え、言葉を選びながら信也に言った。
その言葉を聞いた信也は、じっと明日美を見た後、下を向いて話し始めた。
「そうか…本当は、俺の両親に届けばと思って作った歌なんだ…、小五の時、こんな激しい雨の日…、両親と俺は、車での買物帰りに、雨でスリップした対向車に巻き込まれて事故にあって…、俺は気がついたら病院のベッドの上、後部座席のおかげか奇跡的に軽症だったけど、両親は…亡くなった…。」
「え…?」
信也の突然の告白に、明日美は言葉を失った。
「俺は意識障害があったせいか、トラウマなのか…覚えているのは…祖父母の慌てた姿、そして、病院の霊安室に並べられた二つの白い布…、涙が出たのは初七日だったよ、急に日常が壊れて、そしてそれはもう戻らないって…。」
「先輩…。」
明日美の眼から涙が溢れ始めた。
「その後、俺は祖父母に育てられた、優しかったよ、俺のわがままを全部聞いてくれた。でも、心にぽっかり開いた穴はなかなか埋まらなかったから、ことあるごとに反抗してたな。それでも中一からギターを弾き始めて、ちょっとまともになった。祖父母は歳だったから、孝行できなかったよ。俺が中二、中三の時に相次いで亡くなって、今の家は俺一人で住んでいる。叔母や叔父が一緒に住もうと言ってくれたけど、ここまで来ると独りの方が気が楽でね。隆や奈美が励ましてくれてるし、淋しさはあまり無いよ。」
「ごめんなさい…そんな哀しい事があったなんて…知らなかったです…。」
俯いて泣きじゃくり出した明日美の頭を、信也は優しく撫でた。
「俺のために泣いてくれてありがとう…、こんな話まずしないんだけどね。変な話して悪かったね。」
明日美は泣き顔を上げると、ふいに信也の胸に飛びついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…信也先輩、こんなに辛いのに…、私、何にもできないです…何もできないのが悔しいです…。」
胸で泣きじゃくる明日美を抱きしめながら、信也は優しく言った。
「そう思ってくれるだけで嬉しいよ…、だから、もう泣かないで。」
信也は明日美の頭を撫でながら、囁くように続けた。
「明日美ちゃんの気持ちは嬉しいよ。でも、俺はまだ心から笑える男じゃないし、一緒にいても詰まらないよ。性格も結構屈折しちゃってるしね。明日美ちゃんはいい娘なんだから、もっと、明るくて性格のいいまともな男と付き合わなくちゃ。俺にはあんまり関わらないほうがいい…。俺だって…、君がそばにいてくれると、心が休まるけど…。やっぱり俺は君のためにはならない男だよ…」
淋しく笑う信也に、明日美は更にきつく抱きつき、涙声で言った。
「やだ…私…信也先輩と一緒にいたい!少しでも役に立ちたい!付き合って欲しいとかそんなんじゃなくて、一緒にいるだけでいいんです…、そんな淋しい信也先輩の顔嫌だ、嫌です!」
「明日美ちゃん…。」
降り続く雨の音が響く部室で、信也はただ明日美を抱きしめていた。

                   八、

翌日、部室で新曲の仕上げをしている信也の前に、隆が走りこんできた。
「おい、信也、今日こそ新曲やるぞ!」
「なんだよ…、お前が遊んでたから出来なかったのに…。」
ぶちぶちと文句を言う信也に隆は手を合わせ拝んだ。
「だからさ、悪かったって。今度の曲は本当にきちんと合わせる、ちゃんと覚えるし、本気でやるからさ。」
「毎度最初だけは威勢いいなあ。わかってるだろうな、今回はコンテスト…」
「わかってる!必ず優勝!そして全国だ!」
隆は真剣な眼差しで信也を見た。
「なんか本当にやる気みたいだな。よし、合わせていこう!」
二人が打ち合わせを始めた部室の窓から、奈美と明日美がそーっと中を覗いた。
「明日美、今日は邪魔しないでおこう。本気モード入ったみたい。ああなったら廻り目に入らないし、そのくせちょっとの物音で反応するぐらいピリピリになるから。」
「そうなんだ…確かに、すごい真面目な顔してる、特に隆先輩。」
「本当こんな時ぐらいしか真面目にならないからなあ、あのヘラヘラ男は。」
「そこまで言わなくても…。」
「さあ、いこいこ。今日はこの二人でレズデートだ!」
「だから、そういうのは…もう!」

               九、

「で、明日美、信也先輩との進展はあったかな?」
いつもの喫茶店で奈美はニヤニヤしながら明日美に問いかけた。明日美は真っ赤な顔で、俯きながら奈美に答えた。
「うん…抱きついちゃった…」
「すご!明日美に似合わず大胆!もしかして…そのままベッドインとか!」
「何言ってるのよ、違うよ…信也先輩は…あの『土砂降りの雨』歌ってくれた後、ご両親の話聞かせてくれて…すごく切なくなって…気がついたら抱きついて泣きじゃくってた…、また泣き虫だって笑うんでしょ、奈美は。」
明日香が上目遣いで奈美の眼を睨むように見ると、いつになく真剣な眼差しがあった。
「奈美…」
「そっか…、信也先輩、明日美に話したんだ…、実は、ご両親の話をしたり、『土砂降りの雨』を歌ったりするとその時のトラウマが出ちゃうみたいで…、頭が痛くなったり、過呼吸起こしたりして、あんまりしないんだよね…。あのアンコールの後、、実は楽屋で信也先輩倒れちゃってさ・・・。隆先輩と私もなるべくこのことには触れないようにしてるんだ…。」
「そう言えば、『土砂降りの雨』合わせて一緒に歌ってくれた時、少し苦しげな表情してたような…、でもあの曲は隆先輩が難しくて嫌がるからあんまりやらないって…」
奈美は少し哀しげな笑顔を明日美に向けた。
「隆先輩はそうやってあの曲をわざと、なるべく避けて信也先輩にトラウマが出ないようにしてたのよ…、でも明日美の前で歌って、ご両親の話もして…、それでトラウマの症状がそれぐらいなんて…、明日美、信也先輩は絶対明日美の事好きだよ、好きと言うか、心が安心する感じじゃないかな。」
「でも…、信也先輩は『俺とあまり関わらないほうがいい』って…」
「他には?」
「確か、『俺だって君がいれば心が休まるけど…俺といたらだめだ』って…」
奈美は明日美の言葉に大きくため息をつき、明日美を見つめた。
「私、明日美よりずっと長く信也先輩といるのに、一度も心休まるなんて言われたこと無いよ。いつも子ども扱いだし。」
「それは…、幼馴染だからじゃないの?」
「違うの…信也先輩は、私の前でも、隆先輩の前でも、弱音を吐いたことは一回も無いの。小さい時はいつもお兄ちゃんのように、そして、事故の後でも『大丈夫だから』って、私たちに心配掛けないように…一番辛いくせに…」
「強い…人なんだね…」
「おじちゃんとおばちゃん…、信也先輩のご両親だけど、私たちも大好きだったし、いつもよくしてくれて、事故の時、隆先輩と私が大泣きしちゃって…信也先輩が逆に私たちを慰めてくれたの…」
声を震わせて語る奈美の眼から、大粒の涙がこぼれた。
「明日美は…なんとなく、信也先輩のお母さんに似てる。」
「え…?」
「信也先輩のお母さんは、おっとりしてて、でも芯が強くて、優しくて…そして、ピアノの先生だったの。すごく上手くて。私習ってたんだよ。だから、隆先輩と信也先輩がデュオを組むって言った時、実は私もキーボードで入るって駄々こねたんだよ。そしたらあの優しい信也先輩が結構冷たくお前じゃだめだって言って…。音楽には厳しい人だからさ…」
「私にはセッションしてくれって信也先輩が…」
「そっか…、明日美ピアノ上手いから…それか、信也先輩、やっぱりなんとなく明日美の中にお母さん感じたのかも…。感性が鋭い人だから…」
明日美は奈美の言葉に、昨日の信也の姿を浮かべた。信也が言った『心が休まる』とは、今まで甘えたくても我慢してきた心の箍が、明日美の中に母親の面影を感じて外れてしまうことなのか…。
「明日美、私ね、本当は昔、信也先輩に猛アタックしてたの。でも信也先輩は冗談はよせ、みたいな感じで全然相手にしてくれなかった。それで落ち込んでた時に隆先輩が奈美らしくねえな、って、何にも聞かずに一緒に遊んでくれた。それで今はこんな感じなの。私が落とせなかった信也先輩をこうも簡単に落とすとは、なんかジェラシーだぞ。」
泣き笑いしながら睨む奈美に明日美は俯いた。
「なんてね、信也先輩は私にとってやっぱり優しいお兄ちゃんかな。明日美、信也先輩の手、離しちゃだめだぞ。」
奈美は笑いながら明日美のおでこを指でつついた。
「うん…、でも、付き合うとかそんな話はちゃんとしてなくて、私が一方的に抱きついただけだから…」
「なに言ってんの、ちゃんと抱きしめ返してくれたんでしょ。嫌いな女にそんなことするわけ無いじゃん。私が抱きついたら多分殴られるし。」
「そんなこと無いだろうけど…、そっか、うん、私、信也先輩支える!邪魔にならないように手伝うよ!」
「その意気だよ、ついでに押し倒しちゃえ!」
「だからそれは違うってば!」

                十、

「どうだ、信也、こんな感じでいけそうか?」
新曲の練習をしている隆が不安げに信也に尋ねた。
「そうだな…、ここはもうちょっと声を張ってくれ。但しシャウトしないようにな。ギターはまだメチャメチャだな…。もっとしっかりやってくれ、隆。」
二人は気を取り直し、信也のカウントで曲を始める。信也のメロディアスなリードに隆のアルペジオが重なるが、歌が入りだすとリズムがずれ始める。
「ダメだ。隆、もう一度最初からだ。」
信也の苛立った声が部室内に響く。
「でも信也…、このギターアレンジは難しすぎるよ。歌のメロディーラインも難しいしさ…。歌とギター、両立難しいよ…」
隆の弱音に、容赦ない信也の叱声が注がれる。
「だめだ!今度の大会はレベルが高いんだ!ただでさえデュオの俺たちは、バンドの連中の多彩な楽器やリズム押されがちなんだ、高度な音楽性を出さないと予選突破だって危ないかもしれないんだぞ!」
いつにない信也の苛立ちに、隆が肩をすくめた。
「信也…、なに焦ってんだよ。確かに、テクニックや音楽性を高めること必要だと思う。でもな、それに引っ張られて、聴く人の気持ちを考えない一人よがりになっていく…」
隆は信也の肩を軽く叩き、続けた。
「バンドの本当の解散理由…、去って行った三人はコンテストで賞を取ってから舞い上がり、テクニックに走ってしまった。あの時、信也はあいつらに言ったよな。ただ『曲』をやるんじゃない、『音楽』をやれって、もっと音を楽しみ、聴く人たちを楽しませろって。そのお前が、今あいつらみたいになってるぜ。そうやって出来上がったものは、本当に『俺たちの音楽』なのか?」
隆の言葉に、信也は俯いた。
「そうだな…、確かに焦っていたかもしれない…」
信也はギターを置き、崩れるように椅子に座った。そして、顔を上げ、虚ろな眼を隆に向けた。
「でも…今回は、絶対勝たなきゃいけないんだ…。特にテープ予選は、審査員は俺たちの顔が見えないし俺たちも審査員の顔が見えない。相手にライブの迫力が伝えられないんだ。そうなるとテクニック重視での録音をするしかない。隆、それは分かってくれ…」
「わかったよ、信也。俺も甘く考えすぎてたよ。」
隆は苦笑を浮かべ、ギターを構えた。信也は気を取り直し、隆に言った。
「隆、なんならギターと歌、別録音にして合わせるか?それならそれぞれに集中してあまり負担なく出来る。音質は少し落ちてしまうけど。」
「それはやめておこうや。ただでさえライブ感ないのに余計に無機質になりそうな気がする。」
「わかった…。じゃあ、今日は帰ってそれぞれで自分のパートの練習しとこう。俺もちょっと用事あるし、すまんな、隆。」
疲れた表情で隆を見た後、信也がギターをケースに入れた。
「了解、先に帰るぞ、信也。」
隆が帰り支度をして部室を出た後、信也は自分の右手をじっと見た。そして、そのまましばらく動かなかった。

                  十一、

「なあ、奈美、やっぱり信也、少しおかしいと思わないか?」
奈美と家路へと向かう隆は、不安げな表情で奈美を見た。
「おかしいところ?」
「ああ、なんだか、あいつらしくなくて、凄く焦っててさ、追い詰められてる感じなんだ。」
「隆先輩が感じたんだったら間違いないと思うけど…。コンテストのせいかなあ。」
奈美は首をかしげながら隆に返した。
「いや、確かに大事なコンテストだけど、あの焦り方は異常だよ。あんなナーバスな状態になってる信也初めて見たよ。」
隆は腕を組み、遠くを見た。
「それに最近…、あいつの演奏にやっぱり違和感あるんだよなあ…、半テンポ、いや、そこまでいかないけど、微妙なずれ…。なあ、奈美、今後なんだけど、俺たちが練習終えるまで明日美ちゃんと一緒に教室で待っててくれないか?」
奈美は怪訝な顔をして返した、
「そりゃ構わないけど…。いつもは邪魔だから帰れって言うくせに…。」
「まあ、頼むよ。信也のためなんだ。」
「うん…、わかった…。でも、本当に何かあるんだったら言ってよ、私だって心配なんだから。」
「ああ…。」
心配そうな奈美の横で、信也は思いつめたように考え込んでいた。

                  十二、

夕方の軽音部の部室から、さわやかなハーモニーと、ギターだけとは思えないメロディアスなフレーズが流れている。
「良くなったよ、隆。まあギターアレンジは簡単に作り直したし、これならボーカルにも影響ないだろ。」
「なんだよ、褒めるならちゃんと褒めろよな。まあギターの負担だいぶ軽くしてもらったからだけどな。ただ、その分信也に負担かかるけど大丈夫なのか?」
隆は少し心配そうに信也に言った。
「これぐらいなら大丈夫だよ。取りあえず、この分なら、明日スタジオで録音できそうだな。」
「予選突破は確実だな!」
「だから、あんまり甘く見るなよ、何回も言うが、今年は例年以上に激戦だからな。」
「あいよ、そしたらもう1回、いこうぜ。」
「了解、ワン、ツー、スリー、フォー。」
信也の拍子にあわせ、隆のギターがコードを刻む。それにかぶせて信也のメロディーがこ心地よく跳ねる。隆のボーカルが入り、信也のハーモニーが追いかけていく。
しかし、突然その流れの中から信也のギターとハーモニーが止まった。
「…!どうした!信也?」
「いや…、ちょっと昨日寝違えてな、若干肩の筋に違和感あるんだ。すまんな、間違えて…」
肩をさすりながら信也は苦笑いした。
「そうか…、う、うん、まあ、もう三時間ぶっ続けだもんな。今日はもういいだろ、無理しすぎてもよくないしな。」
隆は作り笑いをしながら、信也の肩を叩いた。
「悪いな…、気を使わせて。」
「さあ、今日は上がろうぜ。」
「ああ、俺、ちょっと気になる箇所あるから譜面見直すよ。もうギターは弾かずにいるから大丈夫、先に帰ってくれるか?」
「そうか…、無理はすんなよ。」
「わかってるよ。」
隆がバッグを背負い部室から出て行く、その後姿を見ながら、信也はため息をついた。
「優勝…か…」
信也は隆の姿が消えたのを確認し、ギターを抱えなおした。

                   十三、

隆は駆け足で人影がまばらな校舎に向かった。そして奈美と明日美が待っているはずの教室のドアを開けた。
「奈美、明日美ちゃん、いるか?」
隆が教室の中を見回すと、奈美と明日美の二人の影が見えた。
「先輩!どうしたの?信也先輩…大丈夫なの?」
奈美が心配そうに尋ね、その横で明日美が不安な顔をしていた。
「主に明日美ちゃんに用事だよ。」
「え、目の前で浮気行為!ちょっと萌えるシチュエーションかも。」
おどけて場の空気をやわらかくしようとした奈美だったが、隆のいつにない真剣な顔に息を呑んだ。
「バカ言ってんなよ奈美。明日美ちゃん、今すぐ部室へ行ってくれ。」
「え?私?」
「そう、明日美ちゃん一人で。やっぱり信也の奴、何かおかしい。」
「ちょっとちょっと。おかしいなら皆で信也先輩に…」
「いや、奈美、ここは明日美ちゃんに任せる。俺たちが一緒だと、あいつは絶対意地を張る。」
「で、でも…おかしいってどんな感じなのか…」
「感、フィーリングだよ。多分あいつ、指か腕か…いや、多分首だ、やっぱり痛めてるみたいなんだ!とにかく、今すぐ!」
「は、はい!」
明日美が廊下を走って部室に向かうと、隆はホッと息を吐いた。
「隆先輩…いったい…?」
心配そうに問いかける奈美に、隆は椅子に座り込んだ。
「今日は信也の奴、珍しく間違えたんだ。寝違えたとか言ってたけど、多分違う。やっぱり、この前からの状況を考えるとなんとなくやばい気がするんだ。」
隆は、思いつめた表情で奈美に応えた。
「俺たち、お前も含めてだ、言うなれば兄弟以上の関係だ。何も言わなくても感覚で相手の状況が分かる。奈美、お前も俺たちが落ち込んでても明るく振舞っていつも助けてくれる。だけど、だからこそ我慢する、それが信也だ。俺たちの兄貴分として、心配を掛けまいと隠すことが多いんだ。」
信也はこぶしを握り締め、辛そうな顔で続けた。
「俺もお前も、あいつが辛そうなのをわかってながらついつい甘えてしまう。でも、明日美ちゃんなら、あいつの弱音を聞いてくれるはずだ。俺だって最初から気づいてたぞ、明日美ちゃんが信也のお母さんに似ているってこと。明日美ちゃんなら、信也を支えてくれるはずだ。」
「そうだね、やっぱりお兄ちゃんには甘えちゃうんだよね…」
ため息をつきながら奈美が応える。
「同い年なのになあ…、バンドの件でもさ、あいつに迷惑かけてるし。でも、あいつといるとどうしても頼っちまう、自分が情けないよ…」
うな垂れて落ち込む隆を、奈美はギュッと抱きしめた。
「そんなことないよ、隆先輩は優しいよ、頑張る兄ちゃんのこといつも思ってるもんね、よしよし。」
「なんだよ、これじゃ俺が三兄妹の一番下みたいじゃん。」
「妹分はね、生意気ぐらいがちょうどいいの、まして彼女なんだから、ね?」
「だな、とりあえず、兄貴は母ちゃんに任せるか。若すぎる母ちゃんだけどな。」

                  十四、

部室に一人残った信也は、時々走る首から腕への痛みと痺れに苦悶の表情を浮かべながら、新曲のフレーズを反復していた。
信也の姿を見つけた明日美は勢いよく部室のドアを開け、走りすぎてあがった息を整えながら信也の前に座った。
「し、信也先輩!大丈夫ですか?」
信也は急に飛び込んできた明日美に驚いた眼を向けた。
「大丈夫って…何がだい?」
「だって、隆先輩が、信也先輩は指か腕か、首か…痛めてるんじゃないかって…どこか怪我でも、もしかしたら病気!」
信也はため息をついたあと、明日美に笑いかけた。
「やっぱり隆にはバレてたか…、仕方ないな。これだけの付き合いだし、ごまかしきれるとは思わなかったけど…」
「やっぱり、どこが悪いんですか!」
「まあ、落ち着いて。そんなにグイグイ来られても話しようがないよ。」
信也は、明日美の肩を叩き落ち着かせようとしたが、明日美はおろおろしながらさらに言った。
「で、でも、私心配で…、隆先輩と奈美も…」
信也は今にも泣きそうな明日美を座らせ、自分の首を掴み揉み始めた。
「まあ、頚椎がね…」
「え?」
「前に事故の話しただろ、全体的には軽症だったけど、むち打ちがひどくて…、その後遺症、まあ早く言えば頚椎ヘルニア、それが最近ちょっと辛くなってきてね…」
「それって…」
「昔は雨が降った時とか、体調が悪い時なんかに若干痺れが出たぐらいだったけど、今は右手の痛みと痺れの症状が頻繁に出てくる。正直なところ、痛み止めもあまり効かなくなっててね。」
明日美は信也の言葉に驚きながらも、信也の右手を取り、包んだ。
「でも、ヘルニアだったら、手術とかいろんな治療法あるし、治りますよ、絶対。」
「いろいろ調べてみたけど、手術はリスクが高いみたいでね、完治も難しいらしい。この症状は悪くなることはあってもあまり良くなることはないって医者に言われたよ…。俺がプロは無理って言ってたのはこれもあるんだよ。事故の後、病院に通って、治ったと思っていた。でもだんだん、ほんの少しずつ、右手に違和感を感じだして、中三の時、また医者に行ったら、ヘルニアが少しずつ進んでいると…、そして最悪の場合は麻痺に近い状況になる可能性もあると…。」
信也は悔しそうな顔をして右手と首をさすった。
「ギタリストとしては死刑宣告と同じさ。右手が上手く動かなくなる前に、何とか全国大会に出て、隆の声を大舞台で、大勢に聴かせたかったんだが…、ちょっと焦り過ぎたかな…。いや、まだもつさ、あと数カ月、痛み止めとか整体とか、隆を全国大会に出せれば悔いは無い。優勝できなくても、きっと誰かの目に留まるはずだ…」
明日美は急に信也の頭を抱えると、自分の胸に押し付け、抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、明日美ちゃん…」
「なんで泣き言言わないんですか!甘えればいいじゃないですか!いろんな事一人で抱え込んで…、見てると辛くなるじゃないですか!」
「だから…俺にはあまり関わらない方がいいと…」
「もう無理です!意地でも関わります!私が無理やりにでも甘えさせます!何にも出来ないけど…、信也先輩が癒されるなら、私なんでもします!」
信也は、明日美の胸のぬくもりと、頬に落ちてくるの涙を感じながら、眼を閉じた。
「明日美ちゃんに抱きしめられると…昔、母さんに抱きしめられた時の感じと同じだ…、暖かくて…、優しくて…、癒されて…、だから、こんな格好の悪い姿見せたくなかったなのに…、マザコンみたいでさ…」
「いいんです…、ちょっとでも辛い気持ちが私で癒してもらえるなら…私は幸せです…、そばにいるだけで幸せなんです…」
「気持ちいいなあ…、これだけで頑張れるよ…、全国、絶対行ってやる…」

                  十五、

「予選通過、決勝進出ばんざーい!ついでにかんぱーい!」
「てか、何で奈美が乾杯の音頭取ってんだよ!俺と信也だろが!」
「まあまあ、お兄さん、軽く一杯。」
「あ、お前酒飲んでるのか!高校生だぞ。」
「だって、冷蔵庫にいっぱいあったもーん。ね、信也先輩、いいなあ、一人暮らしだから怒られないもんね。」
「いやいや、だからって俺の冷蔵庫勝手に開けるなよ。おい、隆、お前の保護者責任だぞ。」
「もう知るか!俺も飲む!明日美ちゃん注いでくれ!」
信也の家での簡単な決勝進出の祝いのつもりが、奈美のせいかおかげか、だんだんと賑やかになっていく。
「はあ、だから俺の家でやるのは嫌だったんだ…」
「いつのまにか酒をたんまり買い込んでる信也が悪い!」
「俺の貴重な晩酌用だぞ!お前ら買って返せよな。」
「ケチケチすんな、優勝して、全国行けばすぐ大金持ちだ!信也、出世払いな。」
「隆までもう酔ってやがる。弱いから飲むなって言ってるのに。また酔いつぶれてここで寝るパターンか。」
チビリチビリと酒を飲む信也に、まだ飲んでいない明日美が声を掛ける。
「信也先輩…、いつもこんな感じでなんですか?」
「たまにライブの後とかね、俺一人の家だからこいつらはちゃめちゃになるんだよなあ、あとで片付ける身にもなって欲しいよ。」
「今日は、私も片付け手伝いますから…」
「まあ、それはあとで。明日美は酒飲まない?」
「あんまりは…正月のお屠蘇ぐらいで。」
「明日は休みだし、今日は…泊まるって家族に言ってあるんだろ?」
「奈美の家に泊まるって…、でも親に電話されたら…」
「あ、それは大丈夫、奈美のところは口裏合わせてくれるから。」
「そうなんですか?」
「あそこはフランク…というか、隆のところもだけど、俺たちのことは全部OKだよ。付き合い長いし、俺は信頼されてるからねえ、なあ隆、奈美。」
信也はニヤニヤとしながら二人に声を掛けた。
「へいへい、信也兄ちゃんはしっかりしてるからねえ、どうせ俺と奈美は出来が悪いですよ。」
「そうそう、おかげで私たちも親にお目こぼししてもらってますよ。それに、優しくてしっかり者の明日美母ちゃんもいるからねえ。特に信也先輩にべた甘の!」
「ち、ちょっと、奈美、その言い方おかしいって!」
「おかしくないもーん。いつも信也先輩をギュッてしてるしー」
「もう!おかず取ってくる!」
明日美は顔を真っ赤にして台所へ向かった。
「いいねえ、新婚さんの家にお邪魔、って感じ。うらやましいなあ、明日美。」
奈美はそう言って、とろんとした眼で隆を睨んだ。
「な、なんだよ、俺に飛び火か?」
「私も新婚生活したーい。」
「お前、俺と結婚したとして、新婚生活っていう新鮮味感じるか?」
「あ、既に熟年夫婦の香りが漂ってた!」
三人の笑い声を耳にしながら、台所から明日香が食事を持って帰ってきた。
「なに?また私の悪口?」
「違う違う、明日美ちゃんは初々しくていいなあという話。それに比べて奈美は…」
「どうせ腐臭漂ってますよ!」
「はいはい。お酒もいいけどちゃんと食べないと悪酔いしますよ。どうぞ。」
「お、すげえ!明日美ちゃん料理も上手いなあ。」
皿に盛られた料理をみて隆が感嘆の声を上げた。
「私だって作れるもん!ね、明日美。」
「う、うん、そうだね…」
「おい奈美、明日美ちゃん困らすな。お前が下手なのは知ってるから。」
「う、明日美の評価がまた上がる、悔しい!」
「まあまあ、とりあえず腹になんか入れないと、なあ隆。」
「よっしゃ、食べますか。」
わいわいと和やかな時間が過ぎ、飲みつかれたのか、それぞれがリビングに転がり寝息を立て始めた。
そしてしばらくすると、すっと一つの影が動き、辺りをうかがい立ち上がった。その影に対し、眼を開けた隆が声を掛けた。
「信也…痛むのか?」
「隆か…少しな、まあ大丈夫だよ。」
「信也、ちょっと二階で話さないか?」
隆は立ち上がり、階段へと向かい、信也が後に続いた。
少し寒々とした二階の一室に入り、隆と信也は向かい合って座った。
「改まって話って…どうした?」
「お前、首の状況、本当のところどうなんだ?」
「やっぱりその話か…。まあ、牽引とかの理学治療とかマッサージとか投薬とか…いろいろと試してるよ。とにかく悪化しないように、状態を保っておかないとな。」
「症状はどうなんだ?」
「相変わらず、右腕の痛みと痺れかな…、まあ、決勝は、痛み止め射てば乗り切れるよ。そんな心配するな、隆。」
信也はポンと隆の肩を叩く。そんな信也に、隆は少し怒ったような声で応えた。
「俺も…本でいろいろ調べた、頚椎ヘルニアのこと…、このまま練習やら大会出場とか無理してたら、悪化していくだけじゃないのか?酒、だいぶ買い込んでたけど、痛み止めが効かなくなってきて、酒の量が増えたんだろ。」
「大丈夫だよ、悪化しないための治療だし、そんな急に病状の進行は無いよ。」
深刻そうな隆をなだめるように信也は笑顔を向けた。
「そうか…、なあ信也、もし、決勝で優勝して、全国に出られたら、その後はどうするつもりだ?」
「…、まあ、当分は治療に専念かな。お前には悪いが、当分活動休止、かな。」
「入院ってことか…」
「ああ、手術を考えてる。」
信也は俯き、首に手を当てた。
「なるほど…。手術ならいい病院行かなきゃな。いろいろ金かかるな…。だからお前、この家を売るのか?」
隆の突然の言葉に、信也は口ごもった。
「…」
「俺の情報網なめんなよ。正直、お前の最近の練習は鬼気迫るものがある。いつも以上に細かい音やフレーズのチェック、一音一音に妥協していないし、アレンジをいくつも考えてまだ曲に納得していない。絶対優勝して全国行くつもりなのが感じ取れる。」
隆は信也の眼をじっと見続ける。
「まあそこまではいいよ。だけど、それを達成した後、お前手術を受けるために腕のいい医者のところ行くつもりなんだろ。しかも、家を売って、ここには、この街には二度と帰ってこない…」
隆はそう言って目を瞑った。
信也はホッとため息を一つつき、ぼそりと話し始めた。
「…、まあ、知っての通り、手術はリスキーだからさ、なるべくいい医者に掛かりたいし、手術費用や入院費とかもかかるだろ?この家はもともと俺一人では広すぎたし、いずれ売るつもりだったからちょうどいいタイミングかなって思ってさ…、リハビリとか終われば、またこの街に帰ってくるさ。どこかアパートでも借りて住むよ。」
俯きながら話す信也の肩を、隆は両手でガシッと握り締めた。
「お前は…、信也は絶対帰ってこない。俺にはわかる。お前、俺たちに迷惑かけないためにどこか遠い街で手術と治療するつもりだろ。確かに、俺も、奈美も、そして明日美ちゃんも、お前が手術と入院なんてことになれば、心配だし力を貸したい、当たり前のことだ。迷惑だなんて思ってない!お前がいないことの方がよっぽど嫌だよ!」
隆は泣きながら信也の肩を揺すった。信也は隆の腕を肩から取り、握った。
「…ありがとうな、隆。でもな、全国に出られれば、プロといわないまでも、お前なら音楽関係の仕事に必ず関われる、俺が保証する。ただそれには最初が肝心だ、そして奈美と明日美は来年高三だ、受験か就職か、進路を決めなきゃいけないし勉強も大変なんだ。お前ら三人とも、俺に関わっている場合じゃないんだ…、わかるだろ?」
信也は、頬に伝わる涙を拭いもせずに続けた。
「隆、俺は優勝するつもりだ、そして全国大会に行って、それが終わったら手術をする。高校にもそのタイミングから欠席が続いても卒業可能なことは確認した。ただ手術をしたあと、結構リハビリが必要なんだ。それが上手くいったとしても、たぶん、もう思ったようにギターは弾けないと思う。ブランクもできるしな。日常生活には問題が無くなったとしてもね。それに、やっぱり年齢を重ねるごとにだんだんと右手は痺れてくるらしいんだ。だから音楽を辞める。俺の夢を、隆に託したい。」
信也はさらに強く隆の手を握り締めた。
「ギターは、両親を失った俺の生きるよりどころだった…、大げさかもしれないけど…、まあどこか適当に就職するさ。何とか一人で生きていける。今までだってそうさ…。だけど、ギターを弾けなくなった俺の姿を、そんな情けない姿をお前たちには見られたくないんだよ…」
隆は泣き続けながら、淋しく笑う信也の顔を見た。
「信也!ギターが弾けなくなる辛さはわかるよ!でも、お前には、曲作りも、歌も、そして俺たちだっているじゃないか!俺たちがしてきたのは、ギターじゃなくて音楽だろ?音楽を使って、俺たちの思いを伝えることだろ?お前が弾けなくなったら俺が弾く、お前より上手くなってやる、俺がお前の右手になってやる!だから、お前は俺の隣にいてくれ、一緒に音楽をしてくれ!俺は音楽を続ける、音楽の仕事をやる、だから…だから、いなくならないでくれよ!ずっと、音楽を、俺と続けてくれ!」
「隆…」
「信也、今度の決勝『土砂降りの雨』をやろう、まだ曲目変更できる、俺は…本当は、あの歌が大好きなんだ、歌っていても伝わってくるんだ、そして聴いてる人たちにも絶対伝わってるんだ。お前の思いが、気持ちが…」
「でも…、あの曲は…、俺にはトラウマ出るし、ギターも今の状態では自信がない…」
信也は首を振り、俯く。隆はその信也の顔を上げ、眼を見た。
「ギターは俺がやる!信也は俺のパートのベースをやってくれ。あれなら右手が多少痺れようが痛かろうが大丈夫だろ?俺のために単純にアレンジしてくれたんだからさ。」
「隆、お前、あのギターできるのか?」
「好きな曲って言っただろ?俺、あれだけは練習してたんだよ、いつかお前に聴かせて、トラウマ払拭してもらおうと思ってさ。」
「隆…」
「それに、お前のトラウマ、ある程度治っただろ?明日美ちゃんのおかげでさ…。そして信也、あの曲、お前はギターアレンジに固執しすぎて、歌がおろそかになってる、まあ当然トラウマもあったんだろうけど。だから、本気で歌おう、俺も本気でやる。」
隆の熱い眼に、信也の眼にも光が戻ってきた。
「…わかった、それで行こう。但し、一つだけ条件がある。」
「…?」
「あの曲を、ツインボーカルにアレンジし直す。ギターとベースもアレンジを変える。俺とお前の本気の歌、出しやすいようにさ…、いいだろ?」
「了解!今までの俺たちの集大成だ!」

                  十六、

一階では、二つの影の肩が震え、時折すすり泣く声が小さく響いた。
「…もう、二階がうるさくて眠れないよ…、グスッ。」
「そう…だね…、でも…よかった…、私も、信也先輩がどこかに行っちゃうんじゃないかって気がしてたから…」
「そうなったら、明日美、どうしてた?」
「絶対ついてくって決めてた…、勝手に行っちゃっても、絶対探して看病するんだって心に決めてたの。」
「明日美って…おとなしいくせに結構大胆だよね…」
「だって…信也先輩の心の声が聞こえるし、感じるから…」
「仲のいいことで…それに比べて隆先輩は…」
奈美のため息に明日美はクスッと笑った。
「なに言ってんの、隆先輩と奈美は、何も言わなくてもお互い感じあって分かってるんでしょ。さすが熟年夫婦。」
「あー、新鮮さが欲しいよっ。」
「贅沢な悩みだよ、他の恋人たちからしたらさ。」

                  十七、

十一月、ミュージック・コンテスト決勝ステージの上に、隆と信也が立っていた。
客席の一番前には、奈美と明日美が緊張した面持ちで二人を見つめる。
会場の外は夕方から降り出した雨が本降りとなり、コンテスト会場のホールの窓を叩いていた。
スポットライトの下で、隆の手にはギターが、信也の手にはベースがあった。
そして、二人は顔を見合わせ、頷いた。
信也の左手が、4弦の12フレットを押さえ、そこからゆっくりとスライドダウンすると、隆のギターがそれに合わせ、透明感のあるアルペジオを奏でる。
信也の、優しげで憂いを含んだ甘い声が会場を包む、隆の、よく通る芯の強い声が、美しいコーラスとなって響き渡る。
『あの日あなたは遠くに行った 
僕の目の前で 突然に
 あの日あなたは遠くに行った 
光に包まれ 手の届かぬ場所に
 土砂降りの雨の中を探しても探しても 見つからない 追いつけない
 だけど僕はあなたの影を 
ずっと追い続けて 生きていく』
どちらがメインでもサブでもない二人のハーモニーは、二人を見守る観客の心の中に優しく吸い込まれていく。
「凄い…これが信也先輩の言ってた二人の完成型…」
「うん…信也先輩の病気で、マイナスになったと思ったけど、隆先輩がギターを真剣に弾いて、信也先輩はギターの負担が取れて声が一段と凄くなって…二人進化したんだよ。」
「心に響くね…奈美…」
「うん…私もこんな凄い二人初めて見たよ…、きっと、天国にいる信也先輩のお父さんとお母さんに届いてるよ…」
曲の終盤に入ると、隆と信也のほとばしる汗は、スポットライトに照らされてきらきらと輝く。
最後のフレーズが二人の口から流れ、ギターとベースのゆっくりとしたアウトロが余韻を残しながら消えていく。
曲が終わり、一瞬の静寂のあと、会場は歓声と拍手で溢れ、土砂降りの雨の音を掻き消した。
「やったな…信也…」
「ああ…やりきったよ、隆。」

                 十八、

「それでは、本年度ミュージック・コンテストの審査結果を発表します。優勝は…」 

                                                 
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