3.4 食べないもん
文字数 3,264文字
深夜のシラクス。人けのない小さな屋内競技室。
忙しすぎる暴君は、こんな時間でなければ愛する者に会うことができない。
ディオニスは激怒していた。
モラルに反し、成人した男子を好きになってしまった自分自身に。
そして、まだ来ないその相手に。
眉間にシワを寄せ、イライラしながら待っている。
ふだんの王は冷静である。どんなに恐ろしい命令であろうと、覚めた瞳で淡々と下す。有能な王ではあるが、その冷酷な
彼はとても不機嫌な顔をしていた。
たったひとり、室内で腕を組み、神経質そうに片足を揺すっている。
ランプの明かりに照らされたディオニスは、あの悪名高い暴君とは思えなかった。短い黒髪にキリッとした涼やかな瞳。想像するよりもはるかに若く見え、背筋をピンと伸ばした
キトン(古代ギリシャの服)を着ていたが、その下に見える鍛え上げられたたくましい肉体。領土を広げた
大変なのである。
何もせずに待っているなど、そのような時間はまったくないのである。
余った時間は休むことに使わねばならない。
その時間をメロスに充てていたのに、その肝心のメロスが来ない。
というか、教える感じではなかった。
ゆえなのか、言い訳がかなり苦しくなっていた。
ディオニスは顔を上げると戸口を見つめた。
先ほどと変わらない、静かな空間。
怒りは心配に変わる。
思い直し、深く息を吐く。うつむいて目を閉じ、じっと待つ。
わずかな時、静寂が広がる。
そこはシラクスでも端の、人通りが少ない場所にある建物だった。しかも深夜。何かあっても気づかれないかもしれない。
ディオニスは目を見開き、顔を上げる。
とてつもない危機が迫っているようなしかめ面で、キビキビとした動作で競技室を出て行こうとする。
そこへ、愛してやまない男が戸口から現れた。
ディオニスの心配を吹き飛ばす、……というか火に油をそそぐような明るい笑顔だった。
ピンクのお花がとてもよく似合う、ディオニスの恋人のメロスだった。
ディオニスは行きかけていた足を止めた。
『せっちゃん』とはメロスの幼なじみで同居人のセリヌンティウスのことである。
長い名前を言おうとすると噛んでしまうので、このような呼び方をしていた。
しかもその愛くるしい笑顔で同居人の名を呼んでいる。
ディオニスの顔がますます険しくなる。
大人げない問いだ。
本心では、『自分とセリヌンティウスのどちらが大事か』と問いたかった。
けれどできなかった。
暴君と言われてしまう彼だったが、言えるはずがない。
彼は、正しい王なのである。
そうであろうと振る舞っている。
周りにはそう受け取られていないが、本人はそのつもりだった。
王とは自分の感情を押し殺し、世のため人のために行動しなければならない。何より、色事に
さらに、王とは『嫉妬』などという曲がった心を持つべきではない。大切な判断を間違いかねない、王が持っていてはいけない感情なのである。
だから、メロスから「せっちゃん」という言葉が出てきても、グッと我慢しなければならない。それに、浮気相手の名前をこんなに堂々と言うはずもない。
ただ、メロスはよくわからないところがある。
浮気相手でも平気で自慢するかもしれない。
疑心暗鬼な王は、愛する者すら信じられなくなっていた。
メロスは真剣な顔でディオニスを睨む。
精神力が強いディオニスは表面上はまったく変わっていなかった。しかし、少なからずショックを受けた。
同居人ではなく、リゾットに勝てなかったことが信じられなかった。
ほんのわずか、ショックが収まる。そもそも無生物に負けるはずがない。
しかし、メロスは首を振り、
と力強く言う。
メロスにとって、食事は大事なことのようだ。
とても真面目に言っている。
いつの間にか、ディオニスの怒りもどこかへ消えていた。
メロスがいれば、けっこう他のことがどうでもよくなる。
しかし、それを認めるわけにはいかない。
彼は王と呼ばれる男だからだ。
怒っているポーズを取ってはいた。
それに、とてもがんばっていた。
しかし、態度はかなり柔らかくなっていた。しかも、なんだか嬉しそうにも見えた。
そして、
そう言って、嬉しそうに暴君を見つめた。
その顔が愛らしすぎて、ディオニスの理性が飛びそうになる。
喉元までその言葉が出てくる。しかし、それをグッと
そんな大衆が使うような品のない言葉を言ってしまいそうになる自分を心の中で
少年のように見えても、メロスは成人した男だった。
いままではそれを知らなかった。知らなければ何をしてもいいわけではない。
その罪を知ってしまったのなら、その分も
この愛くるしい生き物を目の前にして、理性で欲望を抑えこまねばならないのだ。
彼は王なのだ。
誰もが畏れる暴君とすら言われてしまうが、それは彼が正しい王であるゆえなのである。
己の欲望を抑えこもうと。