3.4 食べないもん

文字数 3,264文字

深夜のシラクス。人けのない小さな屋内競技室。

忙しすぎる暴君は、こんな時間でなければ愛する者に会うことができない。


ディオニスは激怒していた。

モラルに反し、成人した男子を好きになってしまった自分自身に。


そして、まだ来ないその相手に。


(遅い、何をしているのだ……)

眉間にシワを寄せ、イライラしながら待っている。


ふだんの王は冷静である。どんなに恐ろしい命令であろうと、覚めた瞳で淡々と下す。有能な王ではあるが、その冷酷な(さま)は人々に恐怖を与えた。


妹婿(いもうとむこ)を殺し、妹を殺し、賢臣(けんしん)アレキスも殺した。臣下に対して情け容赦はなく、派手な暮らしをしている者には人質を差し出すことを命じ、それを拒むと磔刑(たっけい)にする。


残虐非道(ざんぎゃくひどう)な暴君と言われているシラクスの王、ディオニス。

彼はとても不機嫌な顔をしていた。

(わざわざ時間を作っているというのに……)

たったひとり、室内で腕を組み、神経質そうに片足を揺すっている。


ランプの明かりに照らされたディオニスは、あの悪名高い暴君とは思えなかった。短い黒髪にキリッとした涼やかな瞳。想像するよりもはるかに若く見え、背筋をピンと伸ばした(うるわ)しい青年。


キトン(古代ギリシャの服)を着ていたが、その下に見える鍛え上げられたたくましい肉体。領土を広げた勲章(くんしょう)のように、百戦錬磨(ひゃくせんれんま)の王の身体には古傷が見える。

(こんなに待たせるなど、あってはならない)
王は忙しいのである。

大変なのである。


何もせずに待っているなど、そのような時間はまったくないのである。

余った時間は休むことに使わねばならない。


その時間をメロスに充てていたのに、その肝心のメロスが来ない。

(やはり、別れた方がいいのではないか?)
何度も何度も考えたことだった。
(なし崩しに恋人にしてしまったが、メロスは成人した男子。妃にもできぬし、子も成せない。メロスを恋人にする理由などどこにもない)
それは、はじめからわかっていたはずだった。
(子供であれば、指導するという理由があったが、成人している男子に教えるのは間違っている)
子供だったとしても、少々やりすぎな感は無きにしも非ずだったが。

というか、教える感じではなかった。

(恋人であれば、致し方ない程度である)
彼は真面目な王だった。

ゆえなのか、言い訳がかなり苦しくなっていた。

(それにしても、遅い……)

ディオニスは顔を上げると戸口を見つめた。

先ほどと変わらない、静かな空間。

(まさか、また襲われているのか?)

怒りは心配に変わる。

(いやいや、鍛練(たんれん)しているのだから、以前よりはマシになっているはず。そうそう簡単には……)

思い直し、深く息を吐く。うつむいて目を閉じ、じっと待つ。

わずかな時、静寂が広がる。



そこはシラクスでも端の、人通りが少ない場所にある建物だった。しかも深夜。何かあっても気づかれないかもしれない。


ディオニスは目を見開き、顔を上げる。

やはり、迎えに行こう。

とてつもない危機が迫っているようなしかめ面で、キビキビとした動作で競技室を出て行こうとする。


そこへ、愛してやまない男が戸口から現れた。

ディオ

ごめ~ん。待った?

ディオニスの心配を吹き飛ばす、……というか火に油をそそぐような明るい笑顔だった。

ピンクのお花がとてもよく似合う、ディオニスの恋人のメロスだった。


ディオニスは行きかけていた足を止めた。

……遅いではないか。
メロスの姿を見て安堵していたがそれを隠し、再び腕を組むと怒りを押し殺したように王は言った。それに、待たせておきながらご機嫌なメロスにイラっとした。
ウチを出ようとしたら、せっちゃんが夜食を食べてたんだよ。
きらっきらの笑顔でメロスは言う。

『せっちゃん』とはメロスの幼なじみで同居人のセリヌンティウスのことである。


長い名前を言おうとすると噛んでしまうので、このような呼び方をしていた。

それがどうして遅れた理由になるのだ?
言い訳にもならない言い訳だった。
目の前で夜食を食べている人がいたら、食べたくなるよね?
クリっとした瞳をパチパチさせ、なぜそのようなことを聞くのかという顔でディオニスを見つめて言う。
食べてきたのか?
うんっ
悪びれもせずにうなずいた。
(……人を待たせて食事をしていただと?)
と、言おうとしていると、
せっちゃんが作るリゾット

めっちゃ美味しいんだよ。

満面の笑みでメロスは言った。

しかもその愛くるしい笑顔で同居人の名を呼んでいる。


ディオニスの顔がますます険しくなる。

私とリゾット、

どちらが大事だ?

大人げない問いだ。

本心では、『自分とセリヌンティウスのどちらが大事か』と問いたかった。


けれどできなかった。

暴君と言われてしまう彼だったが、言えるはずがない。

彼は、正しい王なのである。

そうであろうと振る舞っている。


周りにはそう受け取られていないが、本人はそのつもりだった。


王とは自分の感情を押し殺し、世のため人のために行動しなければならない。何より、色事に(おぼ)れることがあってはならない。


さらに、王とは『嫉妬』などという曲がった心を持つべきではない。大切な判断を間違いかねない、王が持っていてはいけない感情なのである。


だから、メロスから「せっちゃん」という言葉が出てきても、グッと我慢しなければならない。それに、浮気相手の名前をこんなに堂々と言うはずもない。


ただ、メロスはよくわからないところがある。

浮気相手でも平気で自慢するかもしれない。


疑心暗鬼な王は、愛する者すら信じられなくなっていた。

比べられないよ。

メロスは真剣な顔でディオニスを睨む。

ふっ

精神力が強いディオニスは表面上はまったく変わっていなかった。しかし、少なからずショックを受けた。




同居人ではなく、リゾットに勝てなかったことが信じられなかった。


あのリゾットがなかったら、ボクはお腹が空いてここにたどり着けなかったかもしれない。ここに来れないってことは、ディオに会えないってことなんだよ。
メロスは真面目に言う。どんなことでも一所懸命に思考して答えを言う。その様子はハンパなく愛くるしい。ディオニスはメロスを見つめる。
私に会うために、リゾットが必要だったということだな?

ほんのわずか、ショックが収まる。そもそも無生物に負けるはずがない。

しかし、メロスは首を振り、

リゾットはリゾットで大事!

と力強く言う。

メロスにとって、食事は大事なことのようだ。


とても真面目に言っている。


ふっ

いつの間にか、ディオニスの怒りもどこかへ消えていた。

メロスがいれば、けっこう他のことがどうでもよくなる。


しかし、それを認めるわけにはいかない。

彼は王と呼ばれる男だからだ。


怒っているポーズを取ってはいた。

それに、とてもがんばっていた。


しかし、態度はかなり柔らかくなっていた。しかも、なんだか嬉しそうにも見えた。


でもね、食べ物とディオを比べるべきじゃないんだよ。
妹がいる兄らしく、悪いことをした子供に言い聞かせるように言う。


そして、

だって、ディオは食べないもん。

そう言って、嬉しそうに暴君を見つめた。

その顔が愛らしすぎて、ディオニスの理性が飛びそうになる。


(食べてしまいたい……)

喉元までその言葉が出てくる。しかし、それをグッと(こら)えた。

そんな大衆が使うような品のない言葉を言ってしまいそうになる自分を心の中で叱咤(しった)する。


少年のように見えても、メロスは成人した男だった。

いままではそれを知らなかった。知らなければ何をしてもいいわけではない。


その罪を知ってしまったのなら、その分も(つぐな)わなければならない。

この愛くるしい生き物を目の前にして、理性で欲望を抑えこまねばならないのだ。


彼は王なのだ。

誰もが畏れる暴君とすら言われてしまうが、それは彼が正しい王であるゆえなのである。

(愛らしすぎる。どうしようもなく愛らしすぎる。なんなんだ、この愛くるしい生き物は!)
ディオニスは耐える。

己の欲望を抑えこもうと。

(ディオ、怒ってる?)
メロスは首を傾げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

メロス

村から王都シラクスまで走った

ディオニス

シラクスの王

メロスの今カレ

セリヌンティウス

メロスの幼なじみ&同居人

フレイア

メロスの妹

アレクサンドロス

妹の旦那

メロスの元カレ

フィロストラトス

セリヌンティウスの弟子

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色