星のかたちの白い花
文字数 3,428文字
地面に両手を付けて微動だにしなかったリリが、ふいっと力を抜いた。
静電気を帯びていた髪も地面に垂れる。
いつもなら溜め息吐きながらうなだれる所が、今は超然とした顔で黙って立ち上がる。
そのままふわふわと崖淵へ歩いて行った。
「おい、危ない!」
シルフィスが止める手を振り払って、娘は淵から足を降ろして、そこを降り始めた。
「何を、何をやっているんだ。よせ、危ないから、やめてくれ」
リリは淵から顔を出して、ゆっくりと言う。
「そんなに危くはないわ。あたし、貴方が思っている程、子供じゃないし」
「下に降りたいのなら、竜を飛ばしてやる」
「下じゃないのよ」
言いながら、リリはサクサクと身体二つ分も崖を降り、少し広くなった棚で足を止めた。
そのままそこに取り付いて、斜面に向いて身体を丸める。
「ねえ」
「んん?」
「リィリヤがここに来たのって、今時分の季節だったのでしょう?」
「……ああ」
青年の返事に、リリは無言で納得して、今度は崖を登り出した。
差し出す手の助けを借りないで淵から上がった娘は、膝の土をパンと払って、シルフィスの正面に立った。
そして、目を上げて、彼をじっと見る。
「……?」
夕暮れ間近の桃色の空を背景に、鼻の頭に土を付けた娘が、口の両端を上げて微笑んだ。
「はい」
差し出された指の先には、爪より小さい、星のかたちの白い花。
「…………」
「リィリヤは、この花を採りに来たのよ。ただ運が悪くて、足場が崩れて、草を掴んだだけで落ちてしまった。ここの『地の記憶』が教えてくれたわ。あっという間の出来事で……その……本人は、多分、何が起こったのかも分からない程、あっという間の……」
「まさか、いや、……出任せじゃないだろうな」
「『地の記憶』を語って嘘を口にすると、二度とその術は使えなくなる。そんなリスクを冒すくらいなら、最初から何も言わないわ」
「…………」
「輿入れの道で花を見付けて、後で採りに来ようと決めていたのじゃないかしら。彼女、手紙が書けないのでしょう? 手紙の代わりに貴方に送ろうと」
「そんな事まで、地面が教えてくれるのか?」
「いえ、その辺は、握っていた草の切れ端から」
「…………」
「貴方に花を贈りたいという気持ちだけが、谺(こだま)のように、何度も何度も響いて来たわ」
シルフィスはただ黙って、綿毛みたいな花びらの小さな星を見つめている。
「あたしはリィリヤじゃないから、何でその花なのかは分からない。でもとにかく受け取ってあげて。彼女の最後にやろうとした事よ」
青年は、そろそろと手を伸ばして、その花に触れた。
触れた瞬間、身体の中に、風が雪崩れ込んできた。
懐かしい、暖かな、風。
そうして当たり前みたいに、それの意味を呑み込んだ。
空は薄桃の時間を過ぎて、星達が忍び寄っている。
両頬の涙にそれを映してただ立ち尽くす青年に、リリはそっと話し掛けた。
「受け取れたの?」
彼は小さく頷(うなず)いた。
「そう……良かったわね」
蒼の長の力。本来繋がりえなかったバラバラの糸を手繰り寄せる力。
だけれどけして万能ではない。術で出来るのは糸の端を渡すまで。
それらを結ぶのは、あくまで渡された者自身の意思だ。
蒼の長は手助けをするだけ。
今まで口頭で教えられていただけの理(ことわり)を、リリは初めて実感した。
そうだ、あたしはそういう者になるんだ。
他の誰にも代えられない、あたしの生まれて来た、意味。
***
カサリと音がして、背後の繁みから何者かが出て来た。
「うわ、驚いた! こんな所にヒトがいるなんて。えっと、こんばんは?」
シルフィスよりちょっと若いぐらいの、身なりの良い若者。
服装が身軽だから、近隣の者だろう。
「こんばんは……」
リリがそっと返事をした。
若者は安堵の顔をした。
こんな女の子を伴っているんだから、不審者ではないと思ってくれたのだろう。
「うちの集落にご用ですか?」
シルフィスはムスッと黙っていた。
どう考えたって、リィリヤを荷車に乗せて返して来た部族の者だろう。
「ううん、通りすがりだわ。すぐに立ち去るから気にしないで」
代わりにリリが答えたが、若者はそこに突っ立ったまま動かない。
旅人に興味を持っちゃったのだろうか?
シルフィスは彼に関わりたくもないだろうし、困ったな……
リリが思案に暮れている間に、若者は歩いて来て、二人の横を通り過ぎて崖淵に立った。
「えっと、気にしないで下さい」
そう言って、後ろ手に持っていた野花を束ねた物を、谷に向かって投げた。
「…………」
「ああ、すみません、これで用事は終わりです、では」
去りかける若者に、シルフィスが掠れた声で聞いた。
「誰への、花だ?」
「妻への……です」
シルフィスとリリは、雷に打たれたみたいに若者を見た。
しかし夕闇でお互いの表情は分からない。
「本当は墓に参れればいいのですがね。私には妻の墓の場所が分からないのです。おかしいでしょう」
「おかしくはないわ。夫が妻を悼むのは、ちっともおかしくないわ」
リリが慌てて言った。
「はは、夫と言えるかどうか」
若者は下を向いて、自嘲気味に息を吐いた。
「子供の頃の、幻みたいな出来事でした。家々が飾り立てられ、大人達が、私の婚礼だと言う。どこか遠くから私の花嫁がやって来ると。実感もないまま、大人に言われるままに、衣装を着て儀式をしました」
「…………」
「儀式の最後に、やっと、妻になる女性に会えました。キラキラしたビーズの冠の向こうに、花がこぼれるように微笑む女の子がいた。その時初めて現実の実感が湧いたのです。ああ、これからこの方と添い遂げるんだ。大切にしなきゃ。明日になったら沢山話をしよう、と」
「…………」
「でも、その夜に彼女はいなくなった。大人たちに聞いても、その事はもう口にするなと怒鳴られた。何年かしてから、ここで亡くなった事を教えられました」
「…………」
「『明日になったら話をしよう』ではいけなかったのです。大切にしたいと思った時、すぐに大切にしなくては」
「…………」
「私はそれを一生の戒めにする事にしました。今では、私には勿体無い程の妻と子供達に恵まれています。その戒めを守ったお陰だと思っています。だから毎年この時期に、感謝の気持ちを彼女に伝えに来るのです」
「そう……」
何も言えなかったリリだが、やっと声を出した。
「きっと伝わるわ」
「ありがとう。集落内ではタブーなんです。いつもコッソリ来なきゃならなくて。通りすがりと聞いて、ついお喋りが過ぎました。すみません、辛気くさい話で」
「辛気くさくなどない!!」
シルフィスが大声を出して、大人しそうな若者は飛び上がった。
「美しい、尊い話だ」
青年の両目から雫がボタボタ落ちるのを見て、若者は面喰らった。
「こ、このヒト、感動屋なのよ。お話ありがとう、あたしも感動したわ。お幸せにね」
リリに言われて、若者は気恥ずかしそうにお辞儀をし、繁みを分け入って集落へ戻って行った。
シルフィスは、小さい白い花を胸に当てて、しばらく目を閉じていた。
リリは黙って待ってあげた。
彼の中で色んな整理を着けるまで。
「リリ」
「うん?」
「帰ろう」
「うん」
星夜を駆ける鈍(にび)色の竜。
後ろのシルフィスが黙っているのでリリも暫く黙っていたが、蒼の里の灯りが見える頃に、ふわりと話しかけた。
「ねえ」
「ん?」
「あたし、貴方の事、何て呼ぼうか。シルフィス? シィシス?」
「リリの好きな方でいい」
「どちらも好きだわ」
「じゃあ、シィシスって呼んでくれ」
「いいの?」
「ああ、これから一生、僕をシィシスと呼んでいいのは、リリだけだ」
「貴方に彼女が出来ても?」
「ああ、妻が出来ても、子供が出来ても」
「分かった……」
リリは強いてあの花に込められたメッセージの中身を聞かなかった。
シルフィスも特に言わなかった。
言わなくても何となく分かる事って、ある。
リィリヤはあの花が好きだった。
いつも欲しがっては、シルフィスが岩地を登って採って来た。
リィリヤがこっそりこの花を摘みに行ったのは、
『もう自分独りでも採りに行けるのよ、だから安心して』
と、兄に伝えたかったのだ。
ウスユキソウ・・・厳しい荒れ地の斜面にしか咲かない、小さい儚げな花。
だがその見かけと裏腹に、この花は驚く程の生命力を持っている。
全身の綿毛から空気中の水分を吸い込んで、乾いた岩地に強く咲くのだ。
リィリヤ
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)