第八話「脱出」
文字数 3,144文字
揃いのリボンが結ばれた体温のない手を握りあって、二人は黙って部屋に背を向けた。急がなければ。足を進めながら、どうにかしてエリスを安全な所に置いてバーソロミューを回収する手順 を組もうとする。だが何度組み直してみたところで、どうにも成功の可能性は低いように考えられた。彼は最初からそのつもりで娘を自分に託したのではないか、という疑念ばかりが思考回路を巡っていた。
「……の……どう……」
二人が黙り込んでいたのはある意味幸運だったと言えた。前方から聞こえてきた声にすぐ気づけたからである。二人は顔を見合わせ、足を止めた。集音装置をフルに稼働させ、声を拾う。地上からだ。複数の人間が苛立ちながら何かを試行錯誤しているようだった。
「……聞こえる?」
エリスがこちらの耳元に押し殺した声で囁いた。命懸けの内緒話だ。
「ああ。多分、あの出口は向こうに見つかってる。入り方はわからないみたいだけど。どうする?」
「どうするって。わたしたちがどう出来るっていうの?」
「連中が諦めるのを待つか、別の出口がある事に賭けるかだ」
待つにしても座っているよりは別の出口を探しているほうがマシだ、という結論はすぐに導かれた。二人とも、何かで思考メモリを埋めておきたかったのだ。
二人は手をつないで暗闇の中を彷徨った。エリスがときたま風の流れや匂いの変化を口にして、フィリアが時折足場の崩れを注意する。それ以外の目的で口を開くことはない。少女の形をしたものたちは機械的にただ足を動かしていた。フィリアが来た方角と歩数を全て記録していたので、迷う事はなかった。
崩れかけた通路をどれほど歩いただろうか。不意にひどく細く弱い光が射した。腹這いになってようやく通れるほどの穴が開いていて、そこから光が漏れてきているのだ。顔を見合わせて慎重に近寄る。人の声や足音はない。フィリアはしばらく計算を行い、行動を決めた。
「先に見てくる。もし戻れなくなったら何とか足を引っ張ってほしい」
「ええ」
穴の中に顔を突っ込み、腹ばいで光に向かって進んでいく。幸いにも、引っかかることはなさそうだ。これなら引き返す事もできるだろう、と伝えて前に進んでいく。ひどく暗い。光に向かって手を伸ばしても、掴めるのは土くれだけだ。淡々と匍匐前進を続けていく。随分進んだ気もするし、全く前進していないような気もしていた。光が見えたと思ったのはカメラの誤作動 だったのではないかという気もするし、今でも光はフィリアの頬を淡く照らしているような気もする。
ふと頭上から光が射し込んだように感じられ、フィリアは試しに身を起こそうとしてみた。背中の上で何かが持ち上がる。慌てて動きを止めたが、人間の気配は何一つ感知できなかった。全身の関節に力を込める。
腐った木の板が破れる音が響き、フィリアは光と再会した。
周囲を見回し、どうやら廃屋の床を突き破ったらしいと理解する。遠くから人々の歓声が聞こえてきた。同時に炎の爆ぜる音もしている。フィリアは破れた窓に駆け寄って外を伺い見た。
あの教会が炎に包まれていた。
地下にいる間に日は大分傾いていて、空は紅く染まっていた。沈みかけた夕陽よりもなお赤い炎が教会を包んでいた。そして、それを何人かの人々が見世物であるかのように興奮した様子で取り囲んでいた。フィリアはじっとそれを物陰から見つめた。
「神の義は為された」という叫び声が上がり、人々は呼応してどっと鬨の声をあげた。それに囲まれて、自分達の教会が焚き火か何かのように楽しげなぱちぱちという音をたてて燃えていく。彼がなした秘密も、地下で二人の少女が積み上げてきたものも、全てが煙になって風にほどかれていく。それを見て彼らは嬉しそうに笑っている。
その笑い声の中で高らかに、誇らしげに唱える声が響いた。
「主を愛する人は主に守られ
主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
わたしの口は主を賛美します。
すべて肉なるものは世々限りなく聖なる御名をたたえます」
その声が消えたのを合図に、二人の男が何かを担ぎ上げた。二人に掲げられた物体からだらんと何かが力なく垂れる。荷物はちょうど成人男性くらいの大きさで、今朝見た布地に包まれていた。二人の男は燃え盛る炎の中にそれを投げ込んだ。また群衆が口々に何か叫んだ。切れ切れになった言葉の中に「墓荒らし」という単語が混じっていた。
それが大義名分か。それが罪状書きか。一人の父親を火の中に投げ込んで償わせなくてはならないほどの罪だというのか。
背後で響いた音に炎から目を背けて振り返れば、エリスが床から顔を覗かせたところだった。駆け寄って手を引き、穴の外に出るのを助ける。
「大丈夫かい」
「ええ。あなたが上に移動したのが見えたから」
「ごめん。合図するべきだった」
「いいの」
土から這い出したエリスは土くれと擦り傷にまみれていたが、それでも透き通って輝くような白さは残されていた。薄暗い廃屋で、彼女だけが煌めきを保っていた。
木材の焼け落ちる音がひときわ大きく響き、エリスはびくりと肩を震わせた。反射的にその方角に目を向け、窓に近寄る。
そして、その血の透けた赤い目が炎を映して見開かれた。血の気のない唇が動いたが、音は出てこない。彼女はただ呆然とそれを見つめていた。
「エリス」
呼びかけると、教会から無理やり目を逸らすようにしてエリスは顔をこちらに向けた。掠れた声で「お父様は」と絞り出す。人形は黙って首を横に振った。エリスは数秒凍り付いていたが、やがてフィリアに抱きつき、肩に顔を埋めた。手を添えた薄い肩は細かく震えていた。そうやって二人の肉ならざる者は床に座り込んで嘆き、静かに抱きあっていた。
「エリス。行こう、ここを離れなきゃいけない」
肩の震えが収まってくるのを待ってフィリアは切り出した。薄く涙の膜が張った目がこちらを見上げる。
「どこに行くの? お父様の言った出口はあの向こう側よ」
「とにかく村の外へ。あいつらから離れなきゃいけない」
興奮して視野が狭くなっていたからだろう、彼らの目を逃れて村を出るのは簡単だった。行く当てもないまま南へと進みながらフィリアは考える。
神は己の姿に似せて人間をお造りになった、とバーソロミューは言っていた。教会と共に灰になってしまったであろうあの金色の本にもそう書いてあった。
人間の姿が美しいと思うから人はそれを語り、歌い、描き、形作ろうとするのだ。そう死んだ錬金術師は語っていた。人間の姿の向こうに人は時折神の姿を垣間見るのだ、と。
フィリアは疑問に思う。どこに神の姿があるのだろう。
たくさんの人々の姿がここにあった。十字架のもとに断罪を告げる者。己の罪に苛まれ、それでも後悔していないと断言した男。神の義は果たされたと喜び告げる声。死に直結するとわかった上で黙って階段を登って行った足音。
力強く十字架を、輝く松明を、己の信仰と正義を掲げる腕。力なく垂れ、炎の向こうに消えていった腕。
掘り返され、骨を削られた無数の死体。それによって成り立った、体温を持たない白い娘。
土にまみれ、うちひしがれてとぼとぼと前を歩く人造人間。全てを見ておきながら何の表情も浮かべることのない自動人形。
どこに神の貌があるのだろうか。神はどのような表情でこの光景を見ているのだろうか。
――論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
(イザヤ書 1章18節)――
「……の……どう……」
二人が黙り込んでいたのはある意味幸運だったと言えた。前方から聞こえてきた声にすぐ気づけたからである。二人は顔を見合わせ、足を止めた。集音装置をフルに稼働させ、声を拾う。地上からだ。複数の人間が苛立ちながら何かを試行錯誤しているようだった。
「……聞こえる?」
エリスがこちらの耳元に押し殺した声で囁いた。命懸けの内緒話だ。
「ああ。多分、あの出口は向こうに見つかってる。入り方はわからないみたいだけど。どうする?」
「どうするって。わたしたちがどう出来るっていうの?」
「連中が諦めるのを待つか、別の出口がある事に賭けるかだ」
待つにしても座っているよりは別の出口を探しているほうがマシだ、という結論はすぐに導かれた。二人とも、何かで思考メモリを埋めておきたかったのだ。
二人は手をつないで暗闇の中を彷徨った。エリスがときたま風の流れや匂いの変化を口にして、フィリアが時折足場の崩れを注意する。それ以外の目的で口を開くことはない。少女の形をしたものたちは機械的にただ足を動かしていた。フィリアが来た方角と歩数を全て記録していたので、迷う事はなかった。
崩れかけた通路をどれほど歩いただろうか。不意にひどく細く弱い光が射した。腹這いになってようやく通れるほどの穴が開いていて、そこから光が漏れてきているのだ。顔を見合わせて慎重に近寄る。人の声や足音はない。フィリアはしばらく計算を行い、行動を決めた。
「先に見てくる。もし戻れなくなったら何とか足を引っ張ってほしい」
「ええ」
穴の中に顔を突っ込み、腹ばいで光に向かって進んでいく。幸いにも、引っかかることはなさそうだ。これなら引き返す事もできるだろう、と伝えて前に進んでいく。ひどく暗い。光に向かって手を伸ばしても、掴めるのは土くれだけだ。淡々と匍匐前進を続けていく。随分進んだ気もするし、全く前進していないような気もしていた。光が見えたと思ったのはカメラの
ふと頭上から光が射し込んだように感じられ、フィリアは試しに身を起こそうとしてみた。背中の上で何かが持ち上がる。慌てて動きを止めたが、人間の気配は何一つ感知できなかった。全身の関節に力を込める。
腐った木の板が破れる音が響き、フィリアは光と再会した。
周囲を見回し、どうやら廃屋の床を突き破ったらしいと理解する。遠くから人々の歓声が聞こえてきた。同時に炎の爆ぜる音もしている。フィリアは破れた窓に駆け寄って外を伺い見た。
あの教会が炎に包まれていた。
地下にいる間に日は大分傾いていて、空は紅く染まっていた。沈みかけた夕陽よりもなお赤い炎が教会を包んでいた。そして、それを何人かの人々が見世物であるかのように興奮した様子で取り囲んでいた。フィリアはじっとそれを物陰から見つめた。
「神の義は為された」という叫び声が上がり、人々は呼応してどっと鬨の声をあげた。それに囲まれて、自分達の教会が焚き火か何かのように楽しげなぱちぱちという音をたてて燃えていく。彼がなした秘密も、地下で二人の少女が積み上げてきたものも、全てが煙になって風にほどかれていく。それを見て彼らは嬉しそうに笑っている。
その笑い声の中で高らかに、誇らしげに唱える声が響いた。
「主を愛する人は主に守られ
主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
わたしの口は主を賛美します。
すべて肉なるものは世々限りなく聖なる御名をたたえます」
その声が消えたのを合図に、二人の男が何かを担ぎ上げた。二人に掲げられた物体からだらんと何かが力なく垂れる。荷物はちょうど成人男性くらいの大きさで、今朝見た布地に包まれていた。二人の男は燃え盛る炎の中にそれを投げ込んだ。また群衆が口々に何か叫んだ。切れ切れになった言葉の中に「墓荒らし」という単語が混じっていた。
それが大義名分か。それが罪状書きか。一人の父親を火の中に投げ込んで償わせなくてはならないほどの罪だというのか。
背後で響いた音に炎から目を背けて振り返れば、エリスが床から顔を覗かせたところだった。駆け寄って手を引き、穴の外に出るのを助ける。
「大丈夫かい」
「ええ。あなたが上に移動したのが見えたから」
「ごめん。合図するべきだった」
「いいの」
土から這い出したエリスは土くれと擦り傷にまみれていたが、それでも透き通って輝くような白さは残されていた。薄暗い廃屋で、彼女だけが煌めきを保っていた。
木材の焼け落ちる音がひときわ大きく響き、エリスはびくりと肩を震わせた。反射的にその方角に目を向け、窓に近寄る。
そして、その血の透けた赤い目が炎を映して見開かれた。血の気のない唇が動いたが、音は出てこない。彼女はただ呆然とそれを見つめていた。
「エリス」
呼びかけると、教会から無理やり目を逸らすようにしてエリスは顔をこちらに向けた。掠れた声で「お父様は」と絞り出す。人形は黙って首を横に振った。エリスは数秒凍り付いていたが、やがてフィリアに抱きつき、肩に顔を埋めた。手を添えた薄い肩は細かく震えていた。そうやって二人の肉ならざる者は床に座り込んで嘆き、静かに抱きあっていた。
「エリス。行こう、ここを離れなきゃいけない」
肩の震えが収まってくるのを待ってフィリアは切り出した。薄く涙の膜が張った目がこちらを見上げる。
「どこに行くの? お父様の言った出口はあの向こう側よ」
「とにかく村の外へ。あいつらから離れなきゃいけない」
興奮して視野が狭くなっていたからだろう、彼らの目を逃れて村を出るのは簡単だった。行く当てもないまま南へと進みながらフィリアは考える。
神は己の姿に似せて人間をお造りになった、とバーソロミューは言っていた。教会と共に灰になってしまったであろうあの金色の本にもそう書いてあった。
人間の姿が美しいと思うから人はそれを語り、歌い、描き、形作ろうとするのだ。そう死んだ錬金術師は語っていた。人間の姿の向こうに人は時折神の姿を垣間見るのだ、と。
フィリアは疑問に思う。どこに神の姿があるのだろう。
たくさんの人々の姿がここにあった。十字架のもとに断罪を告げる者。己の罪に苛まれ、それでも後悔していないと断言した男。神の義は果たされたと喜び告げる声。死に直結するとわかった上で黙って階段を登って行った足音。
力強く十字架を、輝く松明を、己の信仰と正義を掲げる腕。力なく垂れ、炎の向こうに消えていった腕。
掘り返され、骨を削られた無数の死体。それによって成り立った、体温を持たない白い娘。
土にまみれ、うちひしがれてとぼとぼと前を歩く人造人間。全てを見ておきながら何の表情も浮かべることのない自動人形。
どこに神の貌があるのだろうか。神はどのような表情でこの光景を見ているのだろうか。
――論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
(イザヤ書 1章18節)――