第5話
文字数 1,556文字
塔の上の少年
永見エルマ
夜が明けて次の日、喋り疲れてリビングのテーブルで寝てしまった二人は、開けはなしのアトリエ部屋から差す朝日で目を覚まします。東の山際から指す柔らかい陽光は、森の木々を照らし、湖のほとりの草花たちを優しく包んでいます。硝子玉のように美しい朝でしたが、塔の影は濃くなるばかりなのでした。少女は寝ぼけ眼で少年に言います。
「私、ずっと遠くから歩いて旅をしてきたの。それでね、私、あなたと一緒にいてすごく楽しいし、それにあなたはこの塔から出たことないって言うから、あなたも私と一緒に外の世界へ出てみない? きっと今まで以上に素敵な旅になると思うの」
少年は少女の提案に胸が高鳴ります。少年には、恐怖がないと言えば嘘になりますが、それ以上に外の世界に対する羨望がありました。陽の光を浴びた少女の顔が一段と明るくなったような気がして、
「氷の降る砂漠や真夏のように暑い雪原、一面塩でできた湖に天国みたいにきれいなお花畑。一緒に見に行こうよ。そして、そこに行って絵を描こうよ」
最後の一言が少年の迷いを確固たるものにしました。少年は以前の塔との会話を思い出していました。自分の人生を作品にしたい。その夢を叶えるためには、この旅は必要に思われてならないのです。しかし、会話を思い出したことで、新たな迷いが生じてしまいました。
「でも、僕が出て行ったら、とうさんはどうなるの?」
「お父さん? お父さんなんて、この塔には誰もいないじゃない」
「ここにはいないけど、けれど確かにこの部屋にいるんだ。今は聞こえないだけなんだ。ねえとうさん、返事をしておくれよ」
少女はきょろきょろと部屋を見渡し、誰もいないことがわかると、少年の次の言葉を待ちます。少年はじっと返事を待ちますが、いつまで経っても返答はありません。部屋には静寂が降り落ちました。それは今までのこの部屋で交わされた塔との全てが、幻であったということを痛切に少年に告げているのでした。
少年は自分の感情を言葉にできず、俯いてしまいました。少年は今まで塔の存在があまりに当然のものだったので気が付かなかったのです。塔がどんな姿をしているのか、塔が自分に何を残してくれたのか、塔が自分をどう思い、そして自分が塔をどう思っているのか、あまりに考えていなかったのです。少年は泣きたくなって、今更になって塔の声が聞きたくなってきました。
「あなたの言う父さんが誰なのかはわからないけど、あなたにとってその人は大切な人なの?」
沈黙に耐えかねた少女が尋ねます。
「ああ、今まで考えたこともなかった。いや、本当は気づいていたけど、目を逸らしていただけなのかもしれない。僕にとっては、そこにいるのが当たり前だったんだ。けれども、もう空っぽになってしまった」
「空っぽ? 何が空っぽになったの?」
「僕とこの塔さ」
少年の目に溜まっていた涙がついに、流れ始めてしまいました。少女はなぜ泣いているのかわからなかったので、心に浮かんだことを素直に言うことにしました。
「少なくとも、あなたは空っぽなんかじゃないわ。だって、あんな素敵な絵が描けるんだもの」
少年は顔を上げ、少女を見つめます。
「出会ってたった一日だけど、私にはわかる。あなたはそんな卑下するような人間じゃないわ。あなたの絵がそう言っているもの。それでも、空っぽだって言うなら、私があなたに注いであげる。絵を描きながらでも、植物を育てながらでもいい。あなたがあなたを見つけるのを、私が手伝ってあげるわ」
少年の目にはさっきまでとは性質の違う涙が溢れてきました。
「僕にも外の世界は綺麗に映るかな?」
震える声で少年は尋ねます。
「もちろんよ」
そう言うと、少女は少年を強く抱きしめました。少年は少女の胸の中でずっと泣いていました。
永見エルマ
夜が明けて次の日、喋り疲れてリビングのテーブルで寝てしまった二人は、開けはなしのアトリエ部屋から差す朝日で目を覚まします。東の山際から指す柔らかい陽光は、森の木々を照らし、湖のほとりの草花たちを優しく包んでいます。硝子玉のように美しい朝でしたが、塔の影は濃くなるばかりなのでした。少女は寝ぼけ眼で少年に言います。
「私、ずっと遠くから歩いて旅をしてきたの。それでね、私、あなたと一緒にいてすごく楽しいし、それにあなたはこの塔から出たことないって言うから、あなたも私と一緒に外の世界へ出てみない? きっと今まで以上に素敵な旅になると思うの」
少年は少女の提案に胸が高鳴ります。少年には、恐怖がないと言えば嘘になりますが、それ以上に外の世界に対する羨望がありました。陽の光を浴びた少女の顔が一段と明るくなったような気がして、
「氷の降る砂漠や真夏のように暑い雪原、一面塩でできた湖に天国みたいにきれいなお花畑。一緒に見に行こうよ。そして、そこに行って絵を描こうよ」
最後の一言が少年の迷いを確固たるものにしました。少年は以前の塔との会話を思い出していました。自分の人生を作品にしたい。その夢を叶えるためには、この旅は必要に思われてならないのです。しかし、会話を思い出したことで、新たな迷いが生じてしまいました。
「でも、僕が出て行ったら、とうさんはどうなるの?」
「お父さん? お父さんなんて、この塔には誰もいないじゃない」
「ここにはいないけど、けれど確かにこの部屋にいるんだ。今は聞こえないだけなんだ。ねえとうさん、返事をしておくれよ」
少女はきょろきょろと部屋を見渡し、誰もいないことがわかると、少年の次の言葉を待ちます。少年はじっと返事を待ちますが、いつまで経っても返答はありません。部屋には静寂が降り落ちました。それは今までのこの部屋で交わされた塔との全てが、幻であったということを痛切に少年に告げているのでした。
少年は自分の感情を言葉にできず、俯いてしまいました。少年は今まで塔の存在があまりに当然のものだったので気が付かなかったのです。塔がどんな姿をしているのか、塔が自分に何を残してくれたのか、塔が自分をどう思い、そして自分が塔をどう思っているのか、あまりに考えていなかったのです。少年は泣きたくなって、今更になって塔の声が聞きたくなってきました。
「あなたの言う父さんが誰なのかはわからないけど、あなたにとってその人は大切な人なの?」
沈黙に耐えかねた少女が尋ねます。
「ああ、今まで考えたこともなかった。いや、本当は気づいていたけど、目を逸らしていただけなのかもしれない。僕にとっては、そこにいるのが当たり前だったんだ。けれども、もう空っぽになってしまった」
「空っぽ? 何が空っぽになったの?」
「僕とこの塔さ」
少年の目に溜まっていた涙がついに、流れ始めてしまいました。少女はなぜ泣いているのかわからなかったので、心に浮かんだことを素直に言うことにしました。
「少なくとも、あなたは空っぽなんかじゃないわ。だって、あんな素敵な絵が描けるんだもの」
少年は顔を上げ、少女を見つめます。
「出会ってたった一日だけど、私にはわかる。あなたはそんな卑下するような人間じゃないわ。あなたの絵がそう言っているもの。それでも、空っぽだって言うなら、私があなたに注いであげる。絵を描きながらでも、植物を育てながらでもいい。あなたがあなたを見つけるのを、私が手伝ってあげるわ」
少年の目にはさっきまでとは性質の違う涙が溢れてきました。
「僕にも外の世界は綺麗に映るかな?」
震える声で少年は尋ねます。
「もちろんよ」
そう言うと、少女は少年を強く抱きしめました。少年は少女の胸の中でずっと泣いていました。