第9章・歪み

文字数 16,756文字

「もう一人、使用人が必要ですわね」
 ジョスはスヴェルトに言った。考えた末の事だった。
「別に構わんが、何の為に」スヴェルトは朝餉の麵麭(ぱん)を割りながら言った。「手が回らん所があるのか」
「ハザルの付き人が必要でしょう」
「あれは奴隷だろう。何故、付き人が必要なのだ」
 スヴェルトは顔をしかめた。スヴェルトは、ハザルを飽くまでも奴隷としてしか見ようとしない。その事に、ほっとするものの、ジョスは族長の事も考えていた。
「族長は、あなたにハザルを側女にせよ、とおっしゃったのですから、それなりに遇するのがよろしいかと」
 難しい顔をして、スヴェルトは食事の手を止めた。
「ここでは部屋が足りないのは承知しております。でも、使用人部屋を一つ、ハザルに与えておりますので、新しい使用人はミルド達と共に起居させれば、何とかなりましょう」
「俺は集会が済んでからでも良いと思うが」
「早めの方が、わたしはよろしいかと思います。族長直々のお言葉があったのですから」
 スヴェルトは顎髭を撫でた。考えているようだった。
「――お前は、それで構わないのか。俺は、あの女を側女と認めた訳ではない」
「あなたが認められなくても、族長はそうせよとおっしゃっているのですから」
 実の兄とは言え、族長の言葉を拒んでくれるのは有り難かった。だが、背く事は出来ない。いずれはやって来る事ならば、早い方が良かろうと思った。
 それに、何もなかったとスヴェルトは主張し、ジョスもそれを信じたかったが、万が一、ハザルが身籠もっている事が分かれば、それなりの待遇をこの家でも与えねばならなくなる。そうなってしまってからの方が辛いであろう事は分かっていた。
「しかし、この時期に奴隷を買うとなると、碌なのはおらんだろうし、良いのはふっかけられるぞ」
「多少の事はかまいません。弱っていても、恢復させればよいだけですもの」
「奴隷にそれ程の価値があるのか」
 ここが、意見の分かれ道だった。スヴェルトは奴隷を所有物、消耗品と見做している。それをどうすれば変えられるのか、ジョスは何度も考えた。
「主家で丁寧に扱われた者は、忠義を尽くしてくれますわ」
 それが、結論だった。
 スヴェルトは姿勢を崩さず、相変わらず難しい顔をして何事かを考えているようだった。茶色の目は、厳しかった。だが、遂に心を決めたように言った。
「分かった。お前の言う通りにしよう。奴隷は、俺が選んで来よう。お前は優しすぎて、死に損ないでも引き受けそうだからな」
 それで譲歩するのが良いだろうとジョスは思った。そして、スヴェルトに微笑んだ。
「では、あなたにお任せいたします」
 スヴェルトは無言で頷くと、食事の続きにかかった。つい今までの話など忘れてしまったかのような食べっぷりに、ジョスは胸を撫で下ろした。
 もしかしたら、機嫌を損じてしまったのではないか。
 そう思った。
 意に添わぬ事は嫌う人だ。族長の言葉も受け入れる気がなかったであろう事は、先だっての夜、途方に暮れた様子から察せられた。
 自分の事を思ってくれてなのかどうかは、分からなかった。だが、スヴェルトの側女を持つつもりはないと言う言葉は、嬉しかった。これで、ハザルの件がなければ、どれ程幸せな事だろう。
 夏になれば、全ては変わっているだろう。
 集会では父や兄に会える。弟達も来るかもしれない。
 父は全てを見透かしてしまうだろうが、それでも、会えるのは嬉しい。
 スヴェルトは、その時、どうするのだろうか。
 族長である父は別格の存在だが、スヴェルトはその娘婿になるのだ。正直、何の挨拶もなしに済むはずがない。そして、スヴェルトは父の目の鋭さを知らないだろう。
 朝餉を済ませたスヴェルトを送り出す為に、ジョスは表の扉を開けて外の様子を窺った。
「雪が、降っております」
 外套に袖を通しながらスヴェルトも外を見た。
 一面の雪景色だった。集落も、母屋も、全てが雪に覆われ、また、降り続ける雪に霞んでいた。
「お気をつけて」
 スヴェルトは無言で頷いた。元々、口数の少ない人だったが、このところ、殊に減ったようだった。
 外衣と毛皮を羽織り、手袋をはめるとスヴェルトはジョスを見た。何か言いたげに口を開いたが、結局、一言も発する事なく、ジョスから目を逸らすと出て行った。
 あの人の真意を知る事が出来れば。自分にも父のように人の心を読むに長けた力があれば、と思わずにはいられなかった。


 数日後にスヴェルトが連れ帰ったのは、この寒さにも関わらず、薄着しか与えられていない若い女だった。短いぼさぼさの髪で俯き、震えていた。
「役立たずなので、いらんそうだ」
 それだけを、スヴェルトは言った。興味も何もないようだった。ただ、ジョスの要望を叶えたに過ぎない、という態度だった。直ぐに胴着の上に着ていた物をジョスに預け、どっしりと食卓に着いた。
「この寒いのに」
 ジョスは女を厨房へ連れて行き、用意が整うまで炉の側で暖まらせた。
 ミルドが心得た様子で様々な準備をしてくれたが、不満そうだった。この新しい女が、ハザルの世話をする為にやって来た事を知っているからかもしれない。
 ジョスは取り敢えず、スヴェルトと自分の夕餉の準備をした。
 スヴェルトは黙々と食事をした。そこからは、何の感情も読み取れなかった。淡々としていた。この人にしては、珍しい事だった。
 食事中に、右手の指だけが少し赤くなっている事にジョスは気付いた。
「どうなさったのですか」
 はっとしたように、スヴェルトは動きを止めた。
「ああ、何でもない。少し、打っただけだ」
 嘘だ、という事は直ぐに分かった。だが、その事に触れるのはスヴェルトの面目を潰す事になるのではないかとジョスは思った。
「お気をつけください。痛くはありませんか」
「心配性だな、大した事ではない」
 何かがあったのは確かだが、それを口にしたくない事も分かった。ジョスはそれ以上は追求しなかった。
 再びスヴェルトが出掛けると、ジョスは女の様子を見に行った。
 女はミルドから新しい衣服と充分な食事を貰っていた。短くはあったが豪華な金髪をしており、マルナが薬草茶を渡すところだった。恐らく、織り糸にする為に切られたのだろうとジョスは踏んだ。そういう話を母から聞いた事があった。
 女はジョスの姿を見ると、慌てた様子で平伏した。
「大丈夫よ、そこに座って、ゆっくりして」
「ありがとうございます」
 震える声で女は言った。
「何があったのかは知らないけど、ここでは、大丈夫よ」
「はい、旦那さまには、感謝しております」
「スヴェルトさまに」
 女の言葉にジョスは愕いた。皆に恐れられこそすれ、感謝の言葉をスヴェルトに対して聞いたのは初めてだった。
「はい。打たれておりましたところを、旦那さまが助けてくださったのです…」
「旦那さまが、その男の人を殴ったそうですわ」
 ミルドが言った。それが、あの跡なのだろう。
「それはよかったわ。スヴェルトさまは、そういう人を許せない方だから」
「わたしはイズリグと申します。心からお仕えいたしますので、どうぞ、こちらに置いていただきたいと存じます」
「ちょうど、人を探していたところなのよ。仕事は、充分に休息をとってからでかまわないから」
 女――イズリグは、わっと泣き出した。
 今まで、どのような扱いを受けて来たのだろうかと思わずにはいられなかった。ミルドが、イズリグの背を撫でた。そして、ジョスを見て頷いた。後は任せてくれ、と言う事だ。
 ジョスはそっと厨房を出て食卓を片付けた。慌ててマルナが来て、下げてくれた。
 これからの事を考えなくてはならなかった。
 だが、ジョスはスヴェルトが殴られていた女奴隷を助けた、という事に愕いていた。そのような場面に出くわしても、この島の人は皆、眉をひそめて通り過ぎるか無視するかだろう。他家の事には口を出すな、とスヴェルトも言った事があった。それなのに、スヴェルトは無視をしなかった。それは、嬉しい愕きだった。
 スヴェルトが戻っても、ジョスはその気持ちを伝える事はなかった。そのような事をしたところで、困らせるばかりだと分かっていた。
 それでも、「よい子を連れて来てくださって、ありがとうございました」とだけは、言わずにはいられなかった。
 照れたようにスヴェルトはジョスから目を逸らせたまま頷いたが、それで充分だった。


 ジョスはミルドと話をしなくてはならなかった。
 ミルドは俯いて聞いていたが、やがて、口を開いた。
「わたしとハザルは仲がよいわけではありません」
「知っているわ」ジョスは言った。「でも、何も知らないイズリグよりは、気性を分かっているでしょう」
「それは、そうですが…奥さまは、それでよろしいのでしょうか。ハザルを、その、旦那さまの――」
「族長のお決めになった事ですもの、誰も逆らうことはできないわ」
「旦那さまは、ご承知なさったのですか」
 ミルドはいつになく食い下がった。
「いくらご兄弟とは言っても、族長の命令は絶対なのよ」
 ミルドは溜息を吐いた。
「では、イズリグが一人前に奥さまのお世話ができるまで、わたしがハザルの世話をいたします」
 納得はいかないようだった。だが、そうでもしなければ、機織りと糸紡ぎしかして来なかったイズリグではハザルの世話は出来そうになかった。それは、ミルドも分かっている。損な役回りだという事も。
「あなたにばかり負担をかけて、申しわけないのだけれど」
 ミルドは頭を振った。
「いいえ、わたしは、奥さまのお役に立てるのでしたら、どのようなことでもいたします。ただ、奥さまのことが心配なのです。旦那さまにも頼まれておりますし」
 思わず、ジョスはミルドを抱き締めた。あの出来事から、年下のミルドの方が保護者のようになる事があった。そして、スヴェルトが自分の事を頼んでいた事も初めて知った。
「ありがとう、ミルド」
 ジョスは心からそう言った。


 イズリグは、飲み込みの早い娘だった。髪は、やはり織り糸にする為に切られたと言う。今回の遠征で連れて来られ、暫くは軽い労働だけで髪の手入れも念入りにされていたというが、先日、訳も分からぬままに髪を無理矢理切られたと言う。助けられたという事もあってか、イズリグはスヴェルトの大声にも怯える事はなかった。ただ、短い髪は恥ずかしいのか、頭を布で覆っていた。
「北海にも、あのような方がいらっしゃるのですね」イズリグはジョスにそう言った。「奥さまにもよくしていただいて、わたしは幸運です」
 だが、スヴェルトは、自分の連れて来た娘の事などすっかり忘れたように振る舞っていた。奴隷というものは、空気のような存在であるようだった。
「織り糸のために髪を切られた娘は、役立たずなのでしょうか」ジョスはある時、夕餉の片付けをしながらスヴェルトに訊ねてみた。「髪は、また伸びましょうに」
「俺には良く分からんが、糸に出来るほどの色と質の髪を持った女は、そうそういないだろうな。切ったからと言って、粗末にはしない」
「では、なぜ、イズリグは殴られていたのでしょうか」
 スヴェルトはじっとジョスを見た。
「お前は、何故、たかだか一人の奴隷女の事をそんなに気にするのだ。俺が、あの女を気に入ったと思ったか」
「そうではありません」そのような事、ジョスは思いもしなかった。「女が髪をあのように短く切られるというのは、それだけ大きなできごとなのです。それも、織り糸のためになんて」
「織物は、この島の重要な交易品だ。特に、金糸を用いた物は価値が高い。かつて、この島には信じられないような見事な布を織る織り()がいたらしいが、その女がいなくなってからは、金糸の織物が最も重要な交易品だからな」
 母の事だ、とジョスの心臓は跳ね上がった。
「まあ、あの女の主人(あるじ)は、あれを手籠めにしようとして逃げられそうになったようだからな、今頃、後悔しているだろう」
 スヴェルトは愉快げに笑ったが、ジョスの真剣な顔を見ると付け加えた。
「おっと、俺は、あの女に髪を切れとは言わんぞ」
「当たり前です。もし、そのような事をおっしゃったなら、わたしも切ります」
 そう言ってしまってから、ジョスはしまったと思った。随分と反抗的な物言いだった。自分は髪を短くする事には抵抗がなかった。女戦士の中には、男のように肩より少し長い位までしか伸ばさない者もいたからだ。ジョス自身は、母の美しい髪への憧れもあって切らずにいたに過ぎない。
「それだけは、止めてくれ」
 スヴェルトは慌てた様子で言った。そして、三つ編みにしたジョスの髪に触れた。
「この綺麗な色の髪を切るのは、俺が許さん。戦士階級の女は髪を長く伸ばしておくものだ」
 階級――ここでは、それが全てだった。
 奴隷、自由民、戦士、族長。
 それぞれが、はっきりと分かれている。自由民の男は戦士階級の女を娶る事は出来ないが、戦士階級の男は自由民の女を妻にも側女にも出来る。族長家の妻は戦士階級か他部族の族長家から迎えられる。自由民は側女にしかなれない。族長家の娘が嫁ぐ先も、自島他島を問わず戦士階級か他島の族長家と決まっている。
 そういった事を、ジョスはフレーダから教わった。
 そして、女は最初の結婚では相手を選ぶ事は許されない。ヨルドとフレーダとは、ジョスとスヴェルトのように家長同士の話し合いで決められた結婚だったと聞いた。だが、離婚は女の方からも申し立てが出来る上に、二度目からは決定権もある、と。
 何と不自由な事だろう。
 ジョスは思った。
 北の涯の島では、誰でも自分の好きな相手を選ぶ事が出来る。選ばないのも自由だ。身分もなく、現に、ジョスの祖母も母も元奴隷だった。島の誰もが、奴隷の血を引いている。それを他部族の者は知らないだけだ。知られてはならない事だった。
 ジョスは弱く微笑んでスヴェルトから身を引いた。髪が、スヴェルトの手から離れた。
「わたしが、どこの誰とも分からない者なら、あなたはどうなさったでしょう」
 スヴェルトは呆気に取られたような顔になった。
「お前はお前だろう、ジョス。海狼の娘ではないか」
 この人には言葉の意味が分からなかったのだ、とジョスは思った。そしてもう一度、微笑んだ。

    ※    ※    ※

 スヴェルトは、ジョスの言葉が何時までも引っ掛かっていた。
 どこの誰とも分からない者。
 そのような事は考えた事がなかった。スヴェルトにとっては、ジョスはジョスだった。それ以外の何者でもなかった。
 一体、ジョスは何を言いたかったのだろうか。
 蜜酒を呑みながら、スヴェルトは考えていた。
「何だか、不味そうな酒ですな」
 ヨルドが横に座った。
「不味くはない。いつもと変わらん」
「それにしては難しそうな顔をしていらっしゃる」
 揶揄うようなヨルドに、スヴェルトはむっとした。
「これでも、考える事は色々あるんだ、放っておけ」
「そうは行きますまい。貴方の周りは憶測やら噂やらで賑やかなものですから」
 スヴェルトは顔をしかめた。
「その話は、聞きたくない」
「聞きたくはなくとも、聞かなくてはなりますまい。私の妻が貴方の奥方様と近しくして頂いているようですから、釘を刺しては置きましたがね、いつかは奥方様の耳に入る事も、御覚悟なさった方が宜しいですぞ」
「お前、また細君を殴ったのか」
「女は口が軽いですから、その位はしておかなくては」
 スヴェルトはぐいとヨルドの胸ぐらを摑んだ。広間の空気が一瞬にして凍り付いた。
「お前は戦士として優秀だ。副官としても信頼している。ただ一点、そこだけを除けば、何もかも満足だ。だから、俺の前で自分の女房を殴った事を自慢のように話すのは止めろ」
「分かりました、分かりましたから、手をお放し下さい」
 蒼い顔で、降参するように両手を挙げてヨルドは言った。スヴェルトは手を放した。ざわめきが、戻った。
「不思議なものですな。貴方は戦いとなると皆殺しも辞さないお人なのに、女は陵辱しても殴りはしない。尤も、貴方の力で殴れば女は死んじまうでしょうがね」
 スヴェルトは黙って杯を口に運んだ。答える気はなかった。それよりも一人で呑んでいたかった。
 ジョスは、謎だった。それで良いのか悪いのかはスヴェルトには分からなかった。そして、その答えは誰にも求める事は出来ない。男にとって女が謎なのか、それとも、これはスヴェルト一人に限った事なのか。兄は、男にとって女は分からん事だらけだと言った。それ以上に、ジョスは謎なのかどうか、スヴェルトは判断しかねた。
「時に、お前は自分の細君の事なら何でも分かるのか」
 スヴェルトは重い口を開いた。
「あいつは俺に惚れていますから、嘘はつけませんね」
 その答えは、スヴェルトには自慢げに聞えた。
「どうしてお前に惚れていると分かるんだ。暴力ばかり振るいやがって」
「そりゃですね」ヨルドはにやりと笑った。「その位は分かりますよ、事の最中にね」
「馬鹿馬鹿しい、訊いた俺が間違っていた。唯の惚気(のろけ)だろうが」
「まあ、家内は二人産んでますからね。(うぶ)な奥方様とは違うでしょうが」
 他の者にはジョスはそう見えているのだろうかと、スヴェルトは初めて知った。慎み深いのと(うぶ)なのとでは違う。
「しかし、羨ましい限りですな。(うち)の奴はすっかり奥方様の味方ですからね。貴方のように男が惚れる男はいますが、女が惚れる女がいるとは愕きです。それだけ、魅力的な方なのでしょう」
 女にとって魅力的。その意味は分かる気がした。家の女奴隷は子供でさえもジョスの事を慕っているようだった。あの、兄から側女にせよと言われた女は分からなかったが、それはどうでも良かった。ジョスの優しさと内に秘めた強さによるものなのだろうとスヴェルトは思った。初日から族長の妻を前にして一歩も引かなかったあの時のジョスは、今でも脳裏から離れない。あのような姿は、以降、目にしなかったが、女達にはあの強さが分かるのかもしれない。そして、そこに魅かれるのだろう。
「で、お前はどうなんだ、ヨルド」スヴェルトは少し、意地悪な気分になった。「お前は細君に惚れているのか」
「親父殿が勝手に決めた相手ですからね、惚れるも惚れないもないでしょう。まあ、男子を二人産んだ事には感謝はしますが」
「それだけか、面白くもない」
 平然と言ってのけるヨルドに、スヴェルトはぐいと杯をあおった。慌てて見習いの少年が蜜酒を満たしに来る。
「貴方だって、そうだったでしょうが。お互様です」
「その癖、俺には女房に惚れていると言いやがる」
「違いますかね」ヨルドは笑いをこらえるように言った。「奥方様は、あんなに貴方の事を慕っていらっしゃるじゃありませんか。あれで惚れない男がいますか」
 ジョスが自分を慕っている。
 そのような事は思いもしなかった。スヴェルトは、どういう顔をして良いのか分からなくなって顎を大きく撫でた。
「お前はずっと、そう言っていただろうが」
「ああ」ヨルドも少年に杯を満たさせた。「あの時ですね。余りに熱心に御覧になっていらっしゃいましたから、そう思ったのですが」
「あんな女は初めて見たからな」
「私もです」笑うヨルドをスヴェルトは睨んだが、気心の知れた間では効果はなかった。「無邪気で、とても人妻には見えませんでしたな。しかし、そこが奥方様の良い所ではありませんか。貴方のような戦馬鹿には丁度お似合いだと思いますが」
 スヴェルトは黙って蜜酒を口にした。味がしない。
 弁の立つこの男には言葉では敵わない事は分かっていたはずだ。
「しかしですね、人の不幸を喜ぶ奴は多い。特に、長い冬には格好の退屈しのぎになりますからね、お気を付け下さい。くれぐれも、

が奥方様の耳に入らぬように用心される事です」
 スヴェルトは唸った。それが、問題だ。もし、耳に入ったとしたら、ジョスはどうするのだろう。
 泣く。
 有り得ない。
 叫ぶ。
 これもない。
 相手をやっつける。
 自分でもあるまいに、絶対にない。
 黙ってやり過ごす。
 そうしろ、とジョスが自分に言っていたのをスヴェルトは思い出した。そう、あの女ならば黙って噂が消えるのを待つだろう。どれ程傷付いても、それを見せずに、毅然と顔を上げて。
 では、もし、噂が真実だったとしたら――
 そう思うと、スヴェルトの胸はぎりぎりと痛んだ。いかに自分が不甲斐ないとは言え、あのような噂を認めたくはなかった。兄から聞いた際にも、始めは一言も出なかった。
「お前は、どう思っているのだ、ヨルド」
 スヴェルトは訊ねた。
「私は意見を言える立場ではないでしょう。しかし、敢えて言わせて頂くならば、あの方に限ってそれは有り得ないでしょうな。遠征の日の事を思い出しますとね、一途な方なのでしょうから」
 ならば、それで良い。少なくとも一人は、真に受けない者がいるという事だ。この男の細君もそうだろう。
 スヴェルトは再び杯を傾けた。

    ※    ※    ※

 家の中のいざこざをスヴェルトに知られないようにするのは簡単だった。元から興味のない人には、見えない事も多いものだ。
 ハザルとミルドとの間は、やはり、上手くは行かなかった。食事の用意の間も、ミルドはハザルに些細な事で使われ、時にはマルナまで駆り出された。ミルドはジョスに気を遣ってか、なるべくハザルと顔を合わせないようにしてくれてはいたが、ハザルの横暴ぶりには、ジョスも愕かざるを得なかった。
 その日も、結局は朝餉の支度に手が足りなくなり、ジョスは上の棚から滅多に使う事のない高価な香草の容器を取ろうとした。手を延ばせば何とか届きそうだったので爪先立ちになり、思い切り背伸びした。届かない。いかにジョスの背が女としては高くても、無理があったようだった。
 ミルドやイズリグが普段使っている踏み台があったので、それを使った。簡単に手に取る事が出来たので、最初から使えば良かったと思いながら、足を降ろした。だが、高さを見誤った。大きな音を立てて転んでしまった。香草の容器は無事だ。
「奥さま、大丈夫ですか」
 悲鳴のような声を、卵を取りに行っていたイズリグが上げた。
「どうした、何があった」
 スヴェルトが勢い込んで来た。
「転んだだけです、大丈夫ですわ」
 立ち上がろうとしたところを、スヴェルトが抱き上げた。
「駄目だ、一度、横になれ」
 そのまま、スヴェルトはジョスを寝室まで運び、そっと寝台に横たえた。
「大丈夫と、申し上げましたのに」
「何かがあっては、遅いだろうが」
 声を荒げるスヴェルトの顔は蒼かった。「今日は一日、こうしていろ。分かったな。これは俺の命令だ」
 以前の事を思い出して、ジョスも黙って頷いた。
「女主人の仕事ではないだろう。何故、何もかも自分でしようとするのだ、お前は」
 言葉は荒く、声も大きかったが、ジョスの身を心配しての事だと分かっていた。
「大人しくしていられないのなら、縄で括り付けておくからな」
 ジョスは思わず、小さく笑った。
「笑い事ではないのだぞ、全く」
 赤くなったり蒼くなったりするスヴェルトを見て、ジョスはその首に腕を回した。
「申しわけありません。あなたにいならいご心配をおかけしました。これからは、気をつけます」
「これから、ではない。二度と、危ない真似はしてくれるな。もし、また――」
 スヴェルトにしては珍しく言葉を濁したが、言いたい事は分かっていた。そして、それには触れずにおきたいという気持ちも。
 ジョスは腕を緩めてスヴェルトの頬に自分の頬をそっと押し付けた。髭が当たってくすぐったかったが、その顔を見る勇気がなかった。自分は、どれ程この人に迷惑を掛けているのだろう、心配させているのだろう。面倒な女だと思われてはいないだろうかと、ジョスは不安だった。
 スヴェルトは、黙ってジョスの背と頭に手を添えてくれた。
「構わない。お前に大事がなければ」
 まるで、ジョスの心を読んだかのようにスヴェルトは言った。
 やがて、スヴェルトは一人で朝餉を済ませると出掛けた。
 暫くして、ミルドがジョスに食事を持って来た。
「申しわけございません。奥さまに危ないことをさせてしましました…このお叱りは、旦那さまからいくらでもお受けいたします」
「お説教を喰らったのは、わたしだから大丈夫よ」
 ジョスはミルドの笑って見せた。「縄でくくりつけられるかもしれないのですって」
「奥さま」
 それどころではない、と言いたげにミルドは首を振った。
「やはり、わたしが奥さまにお付きすることはできませんか。イズリグもだいぶ慣れたようですし」
「そうね、そろそろ、そうしてもらいましょうか。あなたも大変だったでしょうから」
「わたしが奥さまに付いておりましたら、絶対に、今朝のようなことはないようにいたします。奥さまのことを任せてくださっている旦那さまにも申しわけがたちませんんもの」
 ミルドの顔は真剣だった。
 あの出来事。それを、スヴェルトに思い出させてしまった。どちらも自分の軽率さが招いた事だった。

    ※    ※    ※

 心臓が止まりかけた。
 スヴェルトの鼓動はなかなか鎮まらなかった。
 つい、乱暴な事を言ってしまったが、ジョスの身体が心配だった。あの時も、気付かなかった。今度は、きちんと気付けるように、先からいる奴隷女にジョスの体調について変化があれば知らせるようにと言い付けてあった。
 今のところは、何もない。
 ジョスを腕に抱く夜にには、そのような事は霧散してしまっているというのに。その行為の結果を、考えもしないというのに。
 こういう場合の自分の力のなさ、知恵のなさを思い知らされた。頼りになるのは、あの奴隷女のみというのも、不安だった。ヨルドの妻がもっと近くにいればジョスの良い相談相手になれるのだろうが、そこまで期待してはいけない。
 自分は何の役に立つのだろうか。
 ただ、監視させるだけ。
 男には男の世界があり、女には女の世界がある――そう思っていた。だが、実際には、その二つは複雑に絡み合っているのだという事を、この年齢(とし)にして初めて知った。恐らく、ジョスと共にいなければ気付かなかった事だろう。
 スヴェルトは戦士の館へ行く前に、鍛冶屋に寄った。遠征に持って行った長剣は余りに傷みが激しかったので、新調する事にしたのだった。使えなくなった分は小太刀にして貰ったが、正直、これ以上小太刀や短剣が増えても困るとは思っていた。褒章として誰かに与える事も考えねばならないかもしれない。
 そう思いながらも、スヴェルトの心の中には亡くした子の事があった。あの子が産まれていたらならば、男であれ女であれ、贈ったであろうに。誰かにやるにしては上等の品だ。自分の、ジョスの血を引く子に継がせるのが最も良いであろうに。今後、そのような日は、来るのだろうか。その考えを、スヴェルトは直ぐに振り払った。
 長剣の出来は良かった。鍛冶屋の親方が、船団長に相応しく心血を注いで鍛え上げたのが良く分かった。元となった鋼は、遠征帰りに交易島で購った大陸渡りの物だったが、それを鍛える技は北海の方が上だといつもスヴェルトは思う。刃全体にくっきりと現れた龍の息吹と呼ばれる黒い文様は、禍々しいまでに美しく、血溝にはいつも通りスヴェルトの名が刻まれていた。
「惚れ惚れとする出来だな、親方」
 スヴェルトは言った。
「有り難う御座います。ただ、力任せに胴体切りなどされましては、如何にしなりの良い鋼と申しましても、また、新調せねばなりません」
「なんだ、儲かって良いのではないか」
 スヴェルトよりも十は年上の親方は首を振った。
「どれ程良い出来でも、結局は小太刀になるのかと思うと哀しいもので御座いますよ」
 そんなものかと思った。
「鞘の方もご用意してあります。人魚の意匠をお望みでしたので、僭越ながら、奥方様に似せて作らせて頂きました。出過ぎた事で御座いましょうか」
 スヴェルトは鞘を受け取り、まじまじと見た。羊の毛皮を鍔口にあしらい、木の上に分厚い皮を張って銀で装飾が施してある。
「いや、気に入った。あれは海の民の娘だからな」
 男は少しほっとしたようだった。人魚の意匠は、まず、頼む者はいない。魔性と恐れられているからだ。魔のつもりでスヴェルトがこれを注文したのか、それとも海の民である海狼の娘を表しているのか、迷ったのだろう。
 小太刀も満足のいく仕上がりだった。柄も鞘も装飾が見事だった。
 代金を支払うと、スヴェルトは戦士の館へ向かった。
 そして、ジョスの言葉を思い出した。
 ――わたしが、どこの誰とも分からない者だったとしたら、あなたはどうなさったのでしょう。
 結局、自分はジョスを選ぶのだろうとスヴェルトは思った。身分違いであろうともジョスを選んだだろう。
 共に生きる事が出来るのは、ジョス以外にはいない。
 それが、結論だった。
 一度出会ってしまえば、決して忘れる事のないであろう女。
 ジョスとの婚姻は不承不承受けねばならなかったが、ジョスを先に知っていたならば、自分から兄に話を持ちかけて貰ったのかもしれない。いや、直接海狼に頭を下げて――平伏してでも、妻にと望んだだろう。
 そうだ、自分は、ジョスを綺麗だと一目見て思わなかっただろうか。あの空色の目に、捕われなかっただろうか。
 だが、ジョスがまるで以前から自分を知っていたような気がするのは、何故なのだろうか。イルガスからの話で自分の事を知っていたのだろうか。碌でもない話ばかりだと思うし、自分は容姿ではジョスの父親や兄には遠く及ばない。それなのに、ジョスはヨルドの言うように自分を慕ってくれているのだろうか。肉親が男前ばかりだから、却って容姿には気を払わないのだろうか。
 不思議な女だった。
 海狼を父に、海神の娘を母に持つというのだから、当たり前なのかもしれない。
 人魚の意匠をジョスが目にしたらどう思うのかと気付き、スヴェルトは一人、赤面した。女はしょっちゅう、鏡を見て身なりを整える。あの意匠が自分に似ていると気付かぬ程、鈍い女ではないだろう。
 惚れている、というのではない。何か、不思議な感情ではあったが、どうしてもあの女とは出会わなくてはならなかったような気がした。
「何を道の真ん中でぼおっとしていらっしゃるのですか」
 背後からヨルドの声がした。「これから若い連中をいたぶろうって言うのに」
「人聞きの悪い事を言うな」スヴェルトは平静に戻った。「鍛錬だ、鍛錬」
「ああ、新しい長剣と小太刀が仕上がったのですね」
 ヨルドは目ざとく言った。「鍛冶屋の親父も力が入ったのでしょうな。時間はかかりましたが、それだけの価値はありそうだ。後で、皆でじっくりと拝ませて頂きますよ」
 否とは言えなかった。
 雪を踏み締めながら、二人は暫し無言で歩いた。
「噂の出所ですが、それとなく調べましょうか」
 小声でヨルドが言い、スヴェルトは思わず足を止めた。
「かなりの悪意を感じますからね。貴方か奥方様に何か、含む所があるのでは、と思うのですが」
「そこまでの事ではないだろう」スヴェルトは再び歩き始めた。「夏になれば、あんな馬鹿げた噂など、消えてしまうだろう」
「しかし、もし、海狼殿の耳に入りでもすれば、只事では済みますまい。それでなくとも、貴方は側女をお持ちになるのですから」
 それが最も頭の痛い問題だった。
「おっと、貴方としては、そちらの方が困った事でしたな」
 ヨルドの言葉が更に追い打ちをかけた。
「その事は俺の問題だ。他人(ひと)を巻き込む訳にはいかない」
「貴方は船団長ですし、もし、貴方が外れるような事にでもなれば、誰があいつらの面倒を見るのですか」
「お前がいるだろう」
 ヨルドならば、何の心配もない。
「冗談じゃない。貴方が船団長だからこそ、私は安心していられるんです。海戦でも陸戦でも、貴方の右に出る者はこの島にはおりませんからね」
「お前が本気を出せば、その位は大した事はなかろうに」
「私には副官の位置が丁度良いのですから、余計な責任は押し付けないで頂きたい」
 ヨルドは笑った。
「しかし、本当の所」ヨルドは真剣な顔になった。「宜しいのですか、それで。貴方の為にならば皆、喜んで動きますぞ。女共の事は、(うち)の奴に任せておけますし」
「大丈夫だ。誰かの悪意を受けたのだとしても、それは俺の招いた事だろうからな」
 その言葉に、ヨルドは沈黙した。
「それよりも、今日は何で行こうか」
 スヴェルトは話題を変えた。
「どうせなら勝負させて、負けた奴、勇気を見せられなかった奴は海に放り込んでやりますか」
「それは中々、良い考えだ」スヴェルトは大きな声で笑った。「そろそろ、戦士としての厳しさも教え込まねばな」
「投げ役は唯論、団長の貴方ですぞ」
「当然」
 スヴェルトはにやりとした。「せいぜい遠くまで投げてやろう」

    ※    ※    ※

 夏が近付いている、とジョスが感じたのは、風からだった。明らかに、吹く方角が変わって来ていた。相変わらず雪は深かったが、夏の訪れが近い事はジョスの心を明るくした。やがて、雪解けが来て地は生命に満ちるだろう。渡り鳥も戻って来る。
 そして、この島での族長集会が開かれる。
 自分がスヴェルトに嫁いで間もなく一年になるのだとは、俄に信じ難かった。その間に起こった出来事は、嫌な物ばかりではなかった。楽しい事もあった。全てが、この小さな家に詰まっていた。それも、集会が終わるまでだ。
 一年我慢して、どうしても駄目ならば帰って来ても良い、と母は言ってくれた。だが、ジョスにはもう、その気持ちはなかった。ずっと憧れて来た人。そんな人を棄てて行けるだろうか。いかに側女を持つ事になろうとも、ジョスはスヴェルトから離れたくはなかった。かつてヒュルガの言ったように、お飾りの妻でも良かった。男子を産むだけの存在でも良かった。
 その人となりを知れば知る程、ジョスはスヴェルトに魅かれていった。拍子抜けする位あっさりと期限を認めたあたり、母はそれを予感していたのだろうか。運命に出会った人には、その力が分かるのだろうか。
 その母の運命である父や兄弟に会える、というのは、ジョスにとっては待ち遠しく楽しみでもあったが、同時に恐ろしくもあった。弟達は恐らく、何も気付かぬであろう。そして、スヴェルトの戦士としての力強さとあの磊落な所に魅かれるだろう。まだ若いのだ。それに、運命にも出会ってはいない。その苦しさも知らぬ子供なのだ。自分とスヴェルトの間にある

には気付けまい。
 だが、父や兄は――
 その時、自分はどうすれば良いのだろうか。どのように振る舞えば、どのようにしてあの青い眼を見れば良いのだろうか。スヴェルトはどうするのだろうか。
 大体、住処(すみか)にしてこの小さな離れだった。ダヴァルは父に、自分達には亡き叔父の遺産でスヴェルトが相続した土地に住むのだと約さなかっただろうか。特に族長には悪感情は抱いてはいなかったのだが、ダヴァルとタマラの言い訳を聞いてみたくはあった。スヴェルトは身内を庇うだろうが、その言葉も聞きたかった。
 ジョスはミルドを使いに出して夕餉の献立を考えた。冬の間の料理の種類は、どうしても限られてくる。いかに好物だからとは言っても、スヴェルトも甘藍(かんらん)と塩抜きをした羊肉の煮込みには飽きが来る頃だろう。鰊や鰯の塩漬けはやはり好まなかったが、仕方がなかった。
 雪道を歩く事は、転倒の一件から禁じられた。
 そこまで信用がないのかとも思うが、同時にスヴェルトの気遣いを感じずにはいられなかった。愛ではないかもしれない。それでも、嬉しかった。
 ミルドが使いから帰るまでの間、ジョスは集会に向けてのスヴェルトの衣服を検めた。婚姻の際に来ていた丈の長い胴着は、ジョスの目からすると糸が太くて織りも粗かった。色も地味だ。何度か紡いでみたものの、この島の羊毛ではこれがせいぜいのようだった。
 あの、遠征の際に作った緋色の胴着。それの丈を長くして縁に鶸色で蔦模様を入れようと思った。しかし、実際には織るだけの腕はない。緋色の生地を仕立て、文様の紐か布を縫い付ければ良いだろう。細かくかがり付けるのは苦手だったが、何とかなるだろう。刺繍も良いかもしれない。
 それと長剣の飾り緒も作りたかった。胴着を緋色で新調するならば、今の緋色の飾り緒では目立たなくなる。護符の意味も込めて、この一年に集めた自分の髪を編むのだ。島ではそうするのが通例だった。それでは太さが足りないだろうから、色糸を足さなくてはならないが、それを新しくする頃には充分な量の髪がたまっているだろう。そうなれば、自分と母とは同じ色の髪なので、父とスヴェルトは同じ色の飾り緒を使う事になる。それが嫌であったり、あの飾り緒が気に入っているのならば胴着の色を変えねばならない。相談をした方が良さそうだった。
 相談をする。
 そんな簡単な事なのに、言い出せそうにない自分がいた。
 島では、女の長い髪には力が宿ると考えられていた。だが、ここでは美しい金の髪ですら、織り糸にする為に簡単に切られてしまうのだ。それだけ意識が違う。もしかしたら、髪で編んだ物など、気味悪がられるかもしれない。
 自分達は、どれ程違っているのだろうか。自分は、本当にスヴェルトの事を理解出来るのだろうか。
 考えればきりがない事は分かっていた。それでも、ふとした瞬間にその疑問が頭をもたげて来る。
 ミルドが戻り、夕餉の最後の味見をした所で、いつものようにスヴェルトは帰って来た。
 長剣を見せて頂けますか、といつものように問うと、困ったような顔で駄目だ、と言われた。だが、何かの褒美か遊戯盤で勝てば、とスヴェルトは笑った。そして、夕餉が家鴨に詰め物をした物だと見ると早速、食卓に着いた。
 背の短剣を抜くと、スヴェルトははち切れそうな肉に切れ目を入れた。中からは肉汁をたっぷりと吸った野菜や果実、木の実がこぼれ出た。短剣を使って器用に肉を切り分け、匙で中身をすくって口に運ぶとスヴェルトは唸った。
「お気に召しましたか」
「家鴨とは思えんな。まるで違う鳥のようだ」
 スヴェルトは普段の健啖ぶりを発揮して一人で一羽を平らげた。ジョスは他の者達と二羽を分けた。それで充分だった。
「ご褒美にはあずかれましょうか」
「いや、まだまだ」スヴェルトは杯を傾けた。「もっと素晴らしい御馳走をお前なら作れるだろうが」
 何があってもスヴェルトは自分には新しい剣を見せてはくれないのだ、と思った。では、父親仕込みの遊戯盤で負かすしかないだろう。そう言えば、この島に来て初めての遊戯盤だった。スヴェルトの腕の程は分からなかったが、相当の自信はあるのだろう。駒も自分で作る程なのだから。
 食卓の上の皿を片付けると、マルナがそれを厨房へ持って行った。そして、今日は動く気配のないスヴェルトにミルドが蜜酒を満たした酒入れを持って来た。戦士の館に出掛けないのは、ジョスの具合が悪かった時以来ではないだろうか。
「毎日、こんな御馳走を食っていたら、堕落しそうだな」
 スヴェルトは言った。
「悪いが、楽にさせて貰うぞ」
 そう言うや、スヴェルトは両脚を卓子の上に投げ出した。唯論、長靴のままで。そのような仕種は父や兄は見せなかったので、ジョスは少し愕いた。もしかしたら、女達が退出した後や宴会ではそのようにしているのかもしれなかったが。
「満足なさいましたか」
「俺がお前の料理に文句を言った事があるか」
「いいえ」
 ジョスは苦笑した。最初の内は見慣れぬ料理に警戒していたものの、今では食卓に上る物は何でも平らげてくれる。一年共に暮らす事で、好みの味や食材も把握する事が出来た。
 父から婚約の事を告げられて一年、嫌々ながらも習い覚えたあれこれがスヴェルトを喜ばせる事になるとは思わなかった。いや、スヴェルトだからこそ、喜んでくれる部分もあるのかもしれない。
 ジョスはスヴェルトの杯を満たした。
「今日はお出かけにならないのですか」
「ああ」
 スヴェルトは気のないように答えた。「そうだな、別に構わんだろう。このところ随分、若いのを鍛え上げさせたからな。たまには奴らにも発散させた方が良かろう」
 女戦士と同じだ、とジョスは思った。年長者から厳しい指導を受けた日には、若い者は夕べにこっそりと集まって

をまく事もあった。思わず、笑みがこぼれた。
「おい、何を笑う」
 そう言いながらも、スヴェルトも笑っていた。
「いいえ、あなたにもそういう時があったのでしょうかと、思っただけです」
 ジョスは誤魔化した。自分が女戦士であった事は、秘密だ。
「馬鹿言え。俺は負け知らずだったぞ。良く年長者を海に放り込んだりしたもんだ」
「素面で、ですか」
「試合で負けた者はそうされる決まりだ」
 しかつめらしくスヴェルトは言った。ジョスは思わず笑い声を上げた。それに釣られるようにスヴェルトも笑った。
 幸せだった。
 このような毎日だと、どれ程良いだろうかと思った。
 その時だった。厨房の戸口にハザルが姿を現した。
 スヴェルトの機嫌が見る見る悪くなって行くのが、分かった。
「何か、あったの」
 ジョスはスヴェルトの気分をそれ以上損じないようにと、ハザルに訊ねた。「話があるなら、あちらで聞きましょう」
 厨房へ行こうとすると、ハザルは首を振った。
「いいえ、奥さま。旦那さまにもお話があります」
 その姿は自身に満ちており、女主人であるジョスよりも優位に立ったという表情だった。
 ジョスは嫌な予感がした。
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