馬鹿

文字数 2,492文字

全身に強い衝撃が走って目を覚ました。鼻腔を強い海の臭いが支配する。湿った地面に投げ出されたであろう私の体は不愉快に濡れ、ここが海か、そこに近いどこかであると感じさせる。暗闇でほとんど目が見えなかったが、目の前に立つ人物の影が動くのが分かった。

「光村くん……なの」

「ああ、起きたのか。寝てた方が良かったのに」

驚くほど感情のこもらない声だった。直樹は優しく、よく響く声をしていた。いつも表情豊かで……こんな声は聞いたことがない。これは本当に、直樹なのだろうか。

「一体何がしたいの、私……光村くんのこと好きだった。光村くんが望むなら、付き合ったり、セックスだってしてもいい。だからこんなところ、早く出よう、皆のところに帰ろうよ」

「いじくらしい」

聞いたことのない方言だが、悪い意味の言葉だということは、直樹の苛立った声から察することができた。

「いじくらしい。何が好きだ。気持ち悪い。お前みたいなブスとセックスなんて、想像するだけでもゾッとする、二度と言うな」

直樹は横たわる私の腹を思いっきり蹴飛ばした。堪らず胃の中のものを吐き戻すと、直樹は吐瀉物に私の顔を押し付けた。

「お前はただの材料なんだよ。写真と体の一部で人間ができるわけないだろ。お前はバカか。お前がぐちゃぐちゃ騒ぐから、お姉ちゃんをあんなに大きくして、たくさん苦しめてしまった。これ以上ぐちゃぐちゃ騒ぐな」

ただの材料。直樹が言っていることは全く分からない。それでも分かることは、直樹は私のことなんか好きでもなんでもないということ。それどころか今、殺されそうになっている。恐怖と痛みで全身がこわばり、動けなくなる。臭い。汚い。怖い。

「気持ち悪い女だと思ってるけど感謝もしてる。ありがとう、ここに来てくれて。きちんと思ったように動いてくれて。俺は嬉しい。栄子はこれから誰よりも美しいものの中で生き続ける。一回くらいは思い出すこともあると思う」

直樹は私の頭の上から足をどけ、嬉しそうに笑い出した。ここから逃げなくてはいけない。足が震えて立てないので、手だけで必死に明るい方へ進もうとした。伸ばした手に硬いものが当たる。妙にベタベタとした手触りに覚えがあって、再び体が凍りついた。
これは骨だ。人の、恐らく女性の大腿骨。よく見るとまだ

が付いている。

「それはお前の、言わば先輩ってやつだな。ちょっと年が行ってたからあんまり美味しくなかったみたいで、お姉ちゃんも少し残しちゃったんだ。お姉ちゃんはグルメで、こうやって食べ残すことも結構あるんだよね。ワガママだよな。美人だから、そんなことどうでもいいけどさ……あっ」

直樹が急に大きな声を出した。喜びの色が混じっている。

「お姉ちゃん、栄子だよ。沢山食べて、綺麗になってね」

ざぶざぶと波をかき分ける音がして何か大きいものが近づいてくるのを感じた。より一層海の臭いが強くなる。私が吐き戻したものの臭いが気にならなくなるくらいに。
暗闇に慣れた目が、それを捉えた。
サカナだ。サカナは私があの日見たときよりも、ずっと大きく、醜くなっている。もう人間の面影はどこにもなかった。

「ハァァ」

サカナが息を吐くと、生臭い空気が流れる。小さな目はぎょろりと反転し、瞳が見えない。大きな頭を左右に降り、独特な動きで、四足を使ってゆっくり、ゆっくりとこちらに這い寄ってくる。

「助けて!誰か助けて!お父さん!お母さん!お兄ちゃん!」

直樹の笑い声が反響する。
頭が割れそうに痛い。怖い。怖い。怖い。怖い。誰か。

――突然直樹が前のめりに崩れ落ちた。

「えっちゃん、早く立って」

でっぷりと太った体型の男が、パイプのようなものを持って立っていた。敏彦、と呟く前にもう一つの影に体を抱き起こされる。

「感傷に浸っている場合ではないでござる」

サカナの動きが止まった。しかし全く喜べない状況にあることはすぐに分かった。怒っている。目はこれ以上ないくらいに釣り上がり、その場に強く拳を打ち付けている。何度も、何度も。サカナが地面を叩く度、足元が大きく揺れた。

「まずここを脱出できるかどうかですな」

るみがウオ―と奇声を上げながら、爆竹のようなものをサカナに投げつけた。すぐさまそれは破裂し、爆竹とは思えない量の煙と風を巻き上げる。

「フハハ、こういうのがやってみたかったのでござる。忍法隠れ身の術!おっと、今のうちに逃げましょうぞ!車を回してきますので、東大氏はえっちゃん氏ををよろしく頼みまするぞ」

そう言って、るみはその体からは想像出来ない早さで視界から消えた。
敏彦は私の肩を抱きかかえるようにして風が吹き込む方向へ慎重に進んでいく。未だに煙幕が洞窟のほとんどの空間を覆っていたので、こちらからはサカナがどうしているのか見えなかった。そしておそらく、サカナも私たちのことは見えないのだろう。それでも荒い息遣いと鼻をつく海の臭いで、サカナが私たちを探していることが分かった。
なんとか気付かれずに洞窟から出ると、敏彦は岸壁に垂れ下がるロープのようなものを手に取って言った。

「俺たち、このロープを伝ってここに降りてきたんだ。上に登ったら引っ張り上げるから少し待ってて」

敏彦が大きな体を揺らしながら登っていく。何度も後ろを振り返ったがサカナはまだ私たちが洞窟の外に出たことに気付いていないようだった。
しばらくして上を見上げると敏彦が手を振っていた。垂らされたロープに手を伸ばしたその時、私は右手を掴まれて引き倒された。

「逃げられると思うな。お前はお姉ちゃんの一部になるんだ。もう決まっているんだ」

直樹は頭から流れる血もそのままに、私を見下ろして嬉しそうに笑った。
気付いた敏彦が大声で叫ぶ。

「えっちゃん!早くつかまって!つかまれば引き上げられる、だから早く!」

直樹の投げた石が、敏彦の頭に命中し、倒れるのが見えた。
私は成すすべなく元来たところに引きずられていく。私の左手は、うまく動かないのだ。
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