負債者の末路

文字数 11,428文字

 王城を追い出された佐久間と翼は、逃げるようにしてその場を立ち去った。
 どうにかして掴み取った三日という猶予。
 それを過ぎれば死が訪れる。
 まさに一刻を争う事態であった。

 二人は賑やかな大通りを行く。
 エルフやドワーフ、獣人といった様々な種族が練り歩く光景に興味を引かれたが、生憎とそれらを眺めて回る余裕はない。
 どこか落ち着いて話のできる場所を求め、佐久間と翼は足早に移動する。

 道中、二人は奇異の視線に晒された。
 この世界では珍しい黒髪に加え、日本人の服装はよく目立つ。
 おまけに首輪まで着けているとなれば、否が応でも注目を集めた。
 何とも言えない居心地の悪さを覚えながらも、佐久間たちは進み続ける。

 彼らが足を止めたのは、小さな噴水のある広場だった。
 大通りから外れた位置にあるおかげか、人はそれほど多くない。 
 ここなら会話もしやすいだろう。
 二人は周りを気にしつつ噴水の縁に座る。

「いやぁ、大変なことになったね。勇者召喚された端から処刑とか、冗談でも笑えないよ」

「最悪の日だ。滅茶苦茶すぎる……」

 困ったように苦笑する翼に、佐久間は真っ青な顔でぼやく。
 前向きに何か考えようとしても、首輪の感触がそれを許さなかった。
 爆破の恐怖は、じりじりと精神に負担を強いる。
 温暖な気候にも関わらず、寒気が止まらない。
 佐久間は早くも自らの心の限界を悟りつつあった。
 そんな彼の肩に翼がそっと手を置く。

「信ちゃん、元気出して。諦めるにはまだ早いんじゃない? ほら、三日間もあるんだから間に合うよ」

「翼……」

 顔を上げた佐久間は、自身を励ます幼馴染を見る。
 彼女は柔和な笑みを浮かべていた。
 そこには不安を感じさせない優しさがある。
 佐久間は内心で暗い自己嫌悪を覚えた。

(本当なら僕が支えないといけない立場なのに……)

 佐久間も翼も状況は同じだ。
 それにも関わらず、彼女は気丈に振る舞う。
 一方で佐久間は弱音ばかりを吐いていた。
 日本にいた頃からこんな調子だ。
 何事にも悲観的な佐久間の背中を、翼が持ち前の明るさで押してくれる。
 彼女の存在には幾度となく助けられてきた。
 佐久間は口元に手を当て、苦しそうに眉を寄せる。

(――いや、これ以上はいい。今は負債の解決方法を考えよう)

 自分だけならともかく、翼の命もかかっているのだ。
 無駄に落ち込む時間すら惜しい。
 佐久間は気を取り直して翼に話しかける。

「それで、まずはどうしたらいいんだろう……」

「とりあえずお金を集める手段を決めないといけないね。効率と金額を重視して、町の人に何か仕事がないか聞いてみよう。勇者の能力だってあるし、きっと大歓迎されると思うよ!」

「う、うん。そうしようか」

 翼は勢いよく立ち上がると、大通りへの道を進み始めた。
 彼女の後を追うようにして佐久間も続く。
 この時、佐久間は希望が見えたと感じていた。
 頼りになる幼馴染に従って頑張れば、必ず明るい未来に辿り着ける、と。
 それは盲目的で根拠のない期待だった。
 だからこそ、彼は気付けなかったのだろう。
 翼が震えを隠していたことに。





 金策を探して町中を彷徨うこと暫し。
 二人の考えとは裏腹に、進捗は芳しくない。
 謁見の間にいた誰かが噂を流したようで、佐久間と翼は負債持ちのレッテルを張られていたのである。
 加えて他者の負債額を視認できる能力持ちが噂の真偽を確かめてしまい、悪い印象が余計に広まってしまった。
 当然、そんな人間と関わろうとする者はいない。
 どこの店に行っても門前払いといった有様で、金を稼ぐ手立ては一向に得られなかった。

「おい、負債の勇者がいるぞ!」

「こっちに来るな! 厄がうつるじゃないか!」

「犯罪者なのに、よく平気で歩き回れるな……」

 歩いているだけで次々と罵詈雑言を浴びせられた。
 何かを尋ねようとすれば不機嫌な顔で舌打ちされる。
 耳を澄ませば、あちこちから陰口が聞こえてきた。

 王城を出て僅か一時間。
 町の人々は、佐久間と翼を排斥する動きを見せている。
 もはやどこへ行っても同様の仕打ちを受けるのだ。
 理不尽な経緯があったとはいえ、負債に関しては事実なので否定しようもない。
 負債が災厄を呼び込むという認識は、一般常識として民衆の間でも広く浸透していた。

 こうなってくると、金を稼ぐ以前の問題である。
 仕事を貰おうにもまともな会話すら望めないのだから。
 実力行使で金銭を奪うという案もあったが、この世界でそれを実行すれば状況は悪化してしまう。
 犯罪行為には負債が伴うのだ。
 やはり真っ当な手段で稼ぎを得るしかなかった。

 結局その日の夜、佐久間と翼は町を後にする。
 王都に二人の居場所はなかった。
 あのまま粘り続けたところで、結果は変わらないだろう。
 故に彼らは郊外の深い森に踏み入る。
 暗闇が不安を煽るが、ここには二人を侮辱する者はいない。
 さらに勇者としての規格外な能力があるので、危険も皆無に等しかった。
 今の二人にとってはこの上なく良い環境である。

 鬱蒼とした森をしばらく歩いた後、佐久間と翼は適当な大木の下で休むことにした。
 どっしりとした木の幹に背を預けて座る二人。
 葉の隙間に覗く夜空を見ながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。

「ねぇ、信ちゃん」

「何?」

「……私たち、生きられるのかな」

 佐久間はほとんど反射的に翼を見る。
 彼女の横顔は髪に隠れており、肝心の表情が窺えない。
 視線を夜空に戻しながら、佐久間は答えた。

「何とかなるはずさ。きっと大丈夫だよ」

「だよね! よし、明日から頑張ろう!」

 会話はそこで途切れた。
 言葉を重ねることで、余計な不安が増えることを恐れたのかもしれない。
 陳腐な励まし合いは逆効果だった。
 ほどなくして二人は互いに寄り添って眠る。
 一連の出来事のせいで気疲れしていたのだろう。
 辺りは静寂に包まれ、異世界の夜は更けていった。

 きっと何とかなるはず。
 佐久間と翼は酷く曖昧な希望に縋った。
 そうでもしなければ、眠ることすらできなかったのだ。
 約束された死は、精神を着実に蝕む。

 これが華やかな英雄物語なら、また話も変わってくるのだろう。
 土壇場で奇跡が起き、二人は助かるに違いない。
 されど現実はどこまでも非情である。
 連鎖する絶望は、翌日以降も彼らを苦しめた。



 ◆



 翌朝、森で一夜を過ごした二人はさっそく狩りを行った。
 食料を確保すると同時に、どこかで収穫を売れるのではと考えたのである。
 王都では散々な扱いをされたが、他の場所でも同じ結果になるとは限らない。
 一縷の望みに賭けて、佐久間と翼は自然を駆け回った。

 勇者として召喚された二人は、この世界でも高い水準の戦闘能力を有する。
 佐久間は優れた身のこなしと膂力を活かし、投石や格闘攻撃で狼や熊といった野生動物を仕留めてみせた。
 反撃を食らうこともあったが、頑強な肉体はあらゆるダメージを防ぎ切る。

 翼は魔術によるサポートで活躍した。
 危ない時はシールドを展開し、敵が遠くにいる場合は氷の針や風の刃を飛ばす。
 攻防を同時に行える彼女の能力は、的確なタイミングで佐久間を補助した。
 感覚のみでここまで魔術を使いこなせるようになったのは、ひとえに才覚があったからと言える。

 こういった事情もあり、狩りは非常に上手くいった。
 彼らは大量の収穫を携えて周辺地域を散策し、近くにあった村に赴いたのである。
 幸運はさらに続いた。
 村には負債の勇者の情報が流れておらず、村人たちはすんなりと取引に応じたのだ。
 むしろ、希少な野生動物の素材が手に入ったということで大いに感謝される始末であった。
 革袋いっぱいの硬貨を渡され、佐久間と翼が飛び跳ねたのも仕方のない話だと言えよう。

 問題はここからだ。
 喜びも束の間、貰ったばかりの硬貨が綺麗さっぱり消えてしまったのである。
 それを目撃した村人たちの態度は豹変し、二人を負債者だと罵った。
 佐久間と翼は知る由もないが、この世界には負債者が金銭を得ると自動的に返済に充てられるという仕組みが存在する。
 つまり、二人は現金の所持を許されていないのだ。
 村人はこの法則を根拠に佐久間と翼を負債者だと見破り、憎悪を以て彼らを村から追い出した。

 なんとか森に戻った二人は、ステータスに記載された情報を前に固まる。
 負債額にほとんど変動が無かったのだ。
 一人につき約九千億ゴールドということだったが、端数が僅かに減っているような気がするといった程度である。
 とても完済に近付いたとは言い難かった。

 ここで佐久間と翼は大きな勘違いがあったことを悟る。
 あまりにも法外な負債額だったために、数字の基準が地球のそれとは根本的に異なるのだと思い込んでいたのだ。
 九千億ゴールドの負債と言っても、想像よりはマシだろう、と。

 いや、認めたくない現実であるが故に目を背けていたのかもしれない。
 心の奥底では理解していたというのに。
 その気になれば、王都の市場で物価の値段をチェックできたはずだった。
 あえて確認を怠ったのは、無意識の逃避行動とも取れる。

 佐久間と翼の心が少なからず疲弊したのは言うまでもない。
 頼みの綱だった狩猟が徒労に終わったのだ。
 さすがにもう一度挑戦する気力は残っていなかった。
 仮に実行したところで大した稼ぎにはならず、そもそも収穫を買い取ってくれる村が見つかるか怪しい。
 さらにどれだけ上手く行っても、最後は必ず罵倒されるのがオチだ。
 ここまで酷な扱いも珍しいだろう。
 まさに八方塞がりといった状況であった。





 そんな勇者の負債事情にも構わず、時は容赦なく流れる。
 黄昏に浸る森の中。
 佐久間と翼は力無い足取りで歩いていた。
 疲労をありありと滲ませる顔に、土と泥で汚れた衣服。
 召喚直後と比べると、変わり果てた姿である。
 事実、彼らは心身共に限界寸前なのだから仕方ない。

 佐久間と翼がこの世界に来てから二日が経過した。
 国王との交渉で得た猶予は三日間。
 つまり、明日には首輪が爆破されるか、負債の罪で処刑される。
 無論それまでに金が工面できれば解決するが、もはやそれは不可能な領域であった。
 負債はまだ全体の一パーセントも返済できていない。
 絶対に間に合わないのは明白だ。
 迫る絶望に苛まれながら、彼らは目的もなく森を彷徨っている。

「信ちゃん、大丈夫……?」

「あぁ……」

 会話の頻度は随分と減り、場は重たい空気に包まれていた。
 半日ほど前までは互いを積極的に気遣えるだけの余裕があったものの、今ではこの調子である。
 下手な慰めを口にしたところで虚しいだけなのは、彼らが一番分かっていた。
 考えることを放棄して、無駄な一歩をひらすら踏み締める。

 そうして日没寸前まで歩き通した頃、辺りに濃霧が発生し始めた。
 視界がぼやけ、方向感覚があやふやになる。
 これにはさすがの二人も異常を察知して足を止めた。
 互いに顔を見合わせて訝しんでいると、奇妙な声が聞こえてくる。

『負債に窮する者たちよ……お前たちに機会をやろう』

 声が喋り終えた途端に濃霧が晴れ、視界が明瞭となった。
 眼前に広がるモノを見て、佐久間と翼は思わず固まる。

 そこには、淀んだ沼があった。
 腐泥のような物が堆積して濁り切っており、吐き気を催す異臭を放っている。
 時折、水面に浮かんできた気泡が弾けて音を立てた。

 こんな沼など、先ほどまで存在しなかったはずだ。
 しかし、現実として二人は対峙している。
 まるで濃霧が引き連れてきたかのように感じられた。
 佐久間と翼は、恐る恐る沼に近付く。
 すると、またもや声が響いた。

『ここは質の沼……あらゆる物を捨てることができる。さすれば負債は軽くなる。あとはお前たち次第だ……』

 二人の視界に半透明のウィンドウ画面が展開される。
 ちょうどパソコンのような感覚――この世界におけるステータス画面と酷似したものだ。
 そこには膨大な文字の羅列と何かの金額が一覧となって表示されていた。
 よく見ると、一覧の序盤は彼らの所持するスキルが大半を占めている。
 しばらくして翼が手を打って言った。

「もしかしてこれ、質屋みたいなシステムなのかな……」

「質屋?」

 オウム返しに問う佐久間に、翼はコクリと頷く。

「まだよく分からないけど、この一覧にあるのって私たちが持ってる能力なんだよね。これを担保にすれば、その分だけお金が借りられるってことじゃないかな」

 物品ではなく、能力を担保にできる質屋の沼。
 常識的に考えるとおかしな話だが、今更疑問に思うことではあるまい。
 異世界召喚を筆頭に、ここ数日はおかしな出来事ばかり起こっているのだから。
 それに加えて謎の声の内容とも合致する。
 二人には、否定するだけの材料もなかった。

 一度仮説が生まれると、そこからの行動は早い。
 翼は試しに「【魔力砲】 五百万ゴールド」という項目をタップした。
 すぐに確認メッセージがポップアップされる。

 ――本当に捨てますか?

 質問の下部に設置された「はい」か「いいえ」の二択で答えればいいらしい。
 これ以上進めば後戻りはできない。
 念を押すような形式に物怖じしつつも、翼はしっかりと「はい」を選ぶ。
 その瞬間、沼が淡い光を発した。
 光は中心へと収束し、やがて幻のように消え去る。

「……でき、た?」

 数秒の沈黙。
 両手を固く組んで祈り、翼はステータスの負債額を確かめる。
 負債額は、ちょうど五百万ゴールド分だけ減っていた。
 何度も何度も見返したので間違いない。
 代わりに一覧にあった【魔力砲】の文字が無くなっている。
 担保として沼に取り込まれたのだろう。
 翼は目を見開き、佐久間の肩を掴んでガクガクと揺すった。

「信ちゃん! 負債が……負債が減ってる! これしかないよ! どんどん能力を捨てていこう!」

「えっ、あ……うん……!」

 正真正銘、最後の希望であった。
 ここで能力を犠牲に負債を返済し切れば、問題は片付く。
 勇者としての力も大幅に弱体化することになるが、そんなものは些細なことだ。
 負債が残って死んでしまっては元も子もない。

 佐久間と翼は次々と能力を捨てていった。
 【異界言語】等の本当に必要最低限のスキルを除き、膨大な額を換金して返済に充てる。
 みるみるうちに減っていく負債。
 それに伴って二人の肉体は加速度的に常人のそれと同等に戻りつつあった。
 幾多の強力なスキルが捨てられるたびに、底の見えない沼は光の明滅を繰り返す。

 最後のチャンスに縋るあまり、彼らは忘れていた。
 自分たちの能力が、どういった経緯で手に入ったのかを。
 召喚の際、自動的に得た大量のスキル。
 それと同時に抱えた負債。
 言ってしまえば、負債を負うことでスキルを購入したような形である。

 結論から述べると、佐久間と翼が授かった能力は、担保にする時点で価値が著しく低下していた。
 能力獲得にかかった負債と比べ、だいたい半額ほどになる。
 先ほど翼が捨てた【魔力砲】も五百万ゴールドに換金されたが、負債の内訳としては一千万ゴールド分を占めていた。
 つまり、彼女は一千万ゴールドで買った能力を五百万ゴールドで売り払って喜んだのである。
 そしてどうにもできない五百万ゴールドの損失が残った。

 リサイクルショップを想像すると分かりやすいだろう。
 購入時より高値で売れる品物など皆無に等しい。
 大抵は中古品扱いで安く見積もられ、値段も相応に落ち込むものだ。
 たとえ能力でもそれは変わらない。
 ましてや、異世界侵入罪を始めとする「罪を犯したことで課せられた負債」に関しては補填すらできないのだから、結果がどうなるかなど目に見えている。

 佐久間たちが沼を利用して返済を図ったのは、まさに愚の骨頂。
 負債を減らすどころか、本質的には損失をいたずらに増やしたばかりだった。
 彼らは一か八かの賭けだと思っているが、実情は違う。
 ありもしない希望を餌に踊らされた、何とも滑稽な茶番に過ぎない。
 彼らがそれに気付いたのは、スキルを捨て尽くした後であった。





「どうしてなんだ……」

 佐久間は途方に暮れていた。
 呟いた言葉は何に対する言葉だったのか。
 全てを呑み込んだ沼は答えず、不気味な雰囲気を以て鎮座している。

 これで負債はどうにもできなくなった。
 強大な能力も失い、生きて森を出られるかも怪しい。
 状況はとことん詰んでしまったのである。

 うな垂れる佐久間は、無意識のうちに翼へと視線を向けた。
 彼女なら諦めずに足掻くはず。
 きっといつもの笑顔で励ましてくれるだろう。
 今までと同じように。
 佐久間は隣に佇む幼馴染の顔を覗き込み、そして固まった。

「翼……」

「うん? なぁに、信ちゃん」

 翼は、穏やかな笑みを浮かべていた。
 とろんと呆けた目が佐久間を見つめているものの、明らかに焦点が合っていない。
 妙に散大した瞳孔は爛々と光を灯し、不安を掻き立てる色を滲ませる。
 それに反して彼女は心底から楽しそうだった。
 恐怖や絶望とは真逆の感情である。
 陽気に鼻歌を奏でても何ら不思議ではない。
 明らかに様子のおかしい翼。
 無邪気に首を傾げる彼女を前に、佐久間は一つの事実を悟った。

 翼は狂ってしまったのだ。
 度重なる絶望を前に、とうとう限界を迎えたのである。
 彼女は佐久間が思っているほど、心の強い人間ではなかった。
 罵倒を受ければ傷付き、猶予が無くなるほど泣きそうになる。
 ただ、本音を隠すのが上手いだけだった。
 佐久間を心配させたくないという想いもあったのだろう。
 それが却って精神の負担を大きくしたに違いない。

「ふふっ、静かでいいところだねー」

 翼は両手を広げてくるくると回ってみせる。
 夕闇を背景に微笑む彼女は、危うい美しさを纏っていた。
 ともすれば崩れそうなガラスの細工。
 ふらふらと頼りなく揺れている。
 あと一押しで粉々に砕けてしまいそうだ。

「そんな……」

 佐久間は倒れそうになりながら呻く。
 変わり果てた翼の姿に、何の言葉も出てこなかった。
 ほんの少し前までは正気を保っていたのに。
 いや、そもそも彼が気付いていなかっただけで、随分と前から兆候が出ていたのかもしれない。
 自分のことで精一杯だった佐久間には、それすらも曖昧である。
 よろめく佐久間の腕を、壊れた幼馴染が掴んだ。

「信ちゃーん、どうしたの? 元気ないよ? お腹空いた?」

「や、やめてくれ……」

 翼はニコニコと笑いながら佐久間の腕を引っ張る。
 恐ろしいまでの力強さであった。
 佐久間は俯いて首を振るばかりで、まともに抵抗しようとしない。
 ズルズルと引きずられるような形で動く。
 二人の歩みの先には、沼があった。

「あははっ、いい天気だねー。そういえば二人で散歩なんて久々な気がするよ。最近は大学が忙しかったからねぇ。あ、そうだ。今日ってバイトのシフトとか大丈夫? たまには信ちゃんと一緒にご飯食べに行きたいなぁ」

 翼は陽気な調子で饒舌に語る。
 内容からして現状が見えていないのは明らかだった。
 チラチラと佐久間に目を向けているものの、両者の視線が合うことはない。

「私、駅前のファミレスでハンバーグが食べたいよ。今ならランチタイムで安いもんね。ドリンクバーでオレンジジュースも飲むんだー」

 沼まであと十歩。
 僅かに顔を上げた佐久間は、低い声で幼馴染に声をかけた。

「止まってくれ、翼……」

「信ちゃんはエビのグラタンが好きだったよね。あとはフライドポテトだっけ。頬っぺたにケチャップ付けながら食べてて、子供みたいに可愛かったなぁ……それを私が拭いてあげたんだよねー」

 翼は佐久間の言葉を無視する。
 聞こえないのか、聞こえないようにしているのか。
 独りで思い出話に花を咲かせる様は、酷く虚しいものがあった。
 沼まであと七歩。

「そっちは駄目だ。行っちゃいけない」

「バイトの給料日は、ちょっと高めのレストランに挑戦してみたよね。信ちゃんってば、値段を見て顔を顰めちゃってさ。ふふっ、あの時から貧乏性だったんだなぁ」

 沼まであと四歩。
 佐久間は、腕を引く力が強まるのを感じた。

「なぁ、分かってるだろう!? ここは日本じゃないんだ! 異世界なんだ!」

「年末は二人で年越し蕎麦を食べたよね。テレビの特番を観ながら笑って、そのままこたつの中で寝ちゃったもんね。朝起きたらはみ出た身体が冷え切ってて、凍えながらストーブを付けて……」

 沼まであと二歩。
 翼は無我夢中で歩き続ける。

「頼む、目を覚ましてくれ! こんな最期で満足なのか? お願いだから」

「今日は一緒に過ごそうね。明日も一緒に過ごそうね。明後日も一緒に過ごそうね。ずっと一緒。私、信ちゃんがいれば寂しくないから」

 沼まであと一歩。
 翼の足先がぐちゃりと腐泥を踏み締めた。
 形容し難い刺激臭が鼻腔に広がる。
 佐久間は沼の中央に視線をずらした。
 どこまでも昏く、穢れた水の底。
 その最奥に何らかの意思が潜んでいるような気がした。
 身を竦めた佐久間は、声にならない悲鳴を漏らす。

「…………っ!?」

 驚いた拍子に硬直する手足。
 根源的な恐怖を煽られる感覚であった。
 死の淵に立ったと言ってもいい。
 極限まで追い詰められた佐久間は、無意識に行動した。
 強張ったはずの腕が翼の手を振りほどき、彼女の背中を突き飛ばす。

「あっ」

 気付いた時には、もう遅かった。
 翼はぬかるんだ地面に足を取られ、ぐらりと体勢を崩す。
 咄嗟に佐久間が手を伸ばすも、互いの指先が掠めるに終わった。

「…………」

 倒れゆく翼が後ろを振り向く。
 彼女はきょとんとした顔をした後、慈しみのある笑顔を浮かべた。
 佐久間のことを想う、優しい笑みだ。
 最期の最期で我に返ったのか。
 必死に手を伸ばす佐久間に対し、微笑む翼は言う。

「ごめんね、ありが――」

 そこまで言い残し、翼は勢いよく沼に落下した。
 腐った水がばしゃりと跳ね、彼女をあっという間に包み込む。
 目を瞑る翼は、ずぶずぶと沈むままに身を任せていた。
 数秒も経たないうちに彼女の姿は見えなくなる。
 浮かんできた気泡が水面でぱちんと弾けた。
 一つの命を呑み込んだ沼は、何事もなかったかのように静寂を取り戻す。
 タイミングよく、謎の声が佐久間の鼓膜を叩いた。

『浅木翼は不正な自己破産を行った。彼女の負債は、相互保証人である佐久間信介に譲渡される』

 本来ならさらなる絶望を味わうはずの内容。
 しかし、佐久間には反応するだけの気力が無かった。
 目の前の光景を信じられなかったのだ。
 彼は瞬きもせずに沼を凝視する。

「翼……?」

 返事は返って来ない。
 沼はそこに存在するだけであった。
 佐久間は震える両手を眼前に持ち上げ、ぽつりと呟く。

「僕、が……?」

 その続きは、言えなかった。
 事実を認めたくない。
 佐久間は地面に崩れ落ち、脇目も振らずに慟哭した。
 零れた涙が地面に染み込んでは消える。

 佐久間は感情を抑え切れなかった。
 大きすぎる悲しみを許容できず、声を嗄らしてひたすら泣き喚く。
 全ての希望が潰えた中、ここまで支え合ってきた幼馴染をも失ってしまった。
 これ以上の不幸が一体どこに存在するというのか。
 彼の叫びは、深い森の木々に阻まれて誰にも届かない。





 ひとしきり泣いた佐久間を襲ったのは、激しい怒りだった。
 世界。人々。運命。自分。
 それはあらゆるものへの憎悪。
 多少なりとも心が落ち着いたことで、今まで押し込んできた感情が溢れ出したようである。
 彼は拳で地面を殴ると、歯噛みして叫んだ。

「なぜッ! こんなこと、あってはならないんだッ! 僕は絶対に、許さない……!」

 涙で腫れぼったくなった目は、どす黒い殺意を湛える。
 そんな佐久間の視界に、無機質なウィンドウ画面が表示された。
 沼で担保にできる能力の一覧表だ。
 現在は粗方のスキルを捨ててしまい、ほとんどを空白が埋めている。
 もはや残る項目など僅かで、たとえそれらを担保にしても負債は到底返せない。
 今更やれることはないと判断しかけたその時、佐久間はあることに気付いた。

「これはまだ下にある、のか……?」

 空欄だらけの一覧を延々とスクロールしていくと、唐突に見覚えのない項目が登場し始める。
 流し読みで確認できるだけでも、その種類は豊富かつ目を引くものばかりだ。
 序盤にある「シャツ」や「スニーカー」などはまだ分かりやすい。
 さらに進んだ先には「脳味噌」、「心臓」といった過激な言葉、果てには「寿命」、「記憶」という非物質的な代物まで、ありとあらゆる項目が並んでいる。
 それらの取引価格もまたバラバラで、スキル以上に高額なものもあれば、逆に捨てれば負債が増える項目も存在した。
 膨大過ぎる一覧を見ながら、佐久間はようやく理解した。

 ――担保にできるのが、スキルだけではないことを。

 質の沼は、文字通り「その人間が有するすべてを担保にできる」力があるらしい。
 数少ない例外として首輪と負債そのものは対象にならないようだが、それを除けばどんなものでも捨てることができる。

 佐久間は暫し考え込んだ。
 もはや進退ままならない状況である。
 望みは消えたが、ここで諦めたくなかった。
 何もかもが不条理すぎる。
 元凶は勇者召喚を実行した王国だというのに、なぜ被害者である自分たちがこんな目に遭っているのか。
 どうにか一矢報いるまで、佐久間は生き抜くつもりだった。

「僕らが、何をしたっていうんだ! ふざけるなよ……! こんな展開は、認めない! 理不尽すぎるんだ! 殺してやるッ!」

 吐き出される怨嗟の言葉。
 皮肉なことに、絶望は負の活力となって彼に死を選ばせない。
 土壇場で冴え渡った佐久間の思考は、天啓とも言うべき発想に至る。
 傍目には頭がおかしいと揶揄されかねない行為だが、今の彼に躊躇はなかった。
 佐久間は担保のラインナップに指を伸ばす。

 「倫理観」が捨てられた。
 負債が二百万ゴールド増え、思考に劇的な変化が生じる。

 「殺人への忌避感」が捨てられた。
 負債が一千六百万ゴールド増え、彼は冷酷な感情に目覚める。

 「身体能力の限界」が捨てられた。
 負債が三千万ゴールド増え、彼の肉体は新たな可能性を切り開く。

 「成長速度の上限」が捨てられた。
 負債が七千万ゴールド増え、骨や筋肉が急速に変質する。

 「膂力のリミッター」が捨てられた。
 負債が四億ゴールド増え、潜在的な破壊力が増す。

 「再生能力の制限」が捨てられた。
 負債が十一億ゴールド増え、細胞が爆発的に活発化する。

 「勇者としての栄光と誉れ」が捨てられた。
 負債が八百七十億ゴールド増え、偽りの運命に亀裂が走る。

 そして、「人間であること」が捨てられた。
 負債が九千億ゴールド増え、僅かな正気が執念と狂気に蝕まれる。


 ――黄昏に沈む森の中、人知れず怪物が誕生した。
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