隣り人。

文字数 1,437文字

「マタイによる福音書、22章37節から40節」
 檀上の牧師先生の言葉に、生徒たちがバッと聖書を開く。僕は目次で確認してえっちらおっちら開く。新品の聖書は癖がついてなくて、開きにくい。

「イエスは言われた」と厳かに、牧師先生が聖書を朗読し始めた。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、(しゅ)なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と予言者とが、かかっている」

 毎日聞いてるけど、聖書の言葉ってホントわかりにくい。
 『主なるあなたの神を愛する』っていうのは、なんとなくわかる。
 ただ、すっごい疑問なのが、『神』と『イエス・キリスト』は一緒なの? 違うの? というところだ。
 礼拝や授業で「主イエス・キリストの御名において」とかって出てくるんだよね。
 神さまも主、キリストも主。本当によくわからない。
 聖書の授業の時に、先生に質問すればいいのかもしれないけど、キリスト教の世界で常識だったらどうしよう……と思うと、聞くに聞けない。

 今日の聖書の言葉で更に気になるフレーズが出てきた。
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』

 前提の、自分を愛するように……が大問題。
 僕は自分が好きじゃないんだけど、そういう人はどうすればいいんだろう。
 頭はよくないし、オーラもない、友だちも少ない。一樹と比べると、かなり劣っている自信がある。こんな自分を愛せるわけがないんだよなぁ……。

 そして、『隣り人』。
 僕は左隣の小島先生を見た。うーん、愛せよ、と言われても。

 小島先生は英語の先生だ。
 お母さんと同じ世代かなぁと思うけど、年齢不詳。丸顔にひっつめにした髪型で、多分、ノーメイク。白いブラウスに膝丈のスカートがトレードマークだ。
 授業中に私語をすると、即座に教室から追い出される。ものすごく怖い先生、という印象だ。
 怖すぎるから、愛するのはちょっと難しい、今のところは。

 右隣の家須(やす)浩司(こうじ)も、愛するのが難しい相手だ。
 僕よりも少し背が高くて足も長い。前髪は少し長いけど、ふんわりと流されていて、爽やかなイケメン。
 わぁ、モテそうと思ったけど、これが意外とそうでもなかった。
 彼はちょっと――というか、かなり上から目線なところがある。

 東京生まれの東京育ち。母方の祖母の家に居候して英宣に通っているらしい。
 お父さんが財閥系の同族会社の役員で、いつかは社長、会長になることが決まっている。
 それを自分で自慢気に言っちゃう家須は、自分を愛せない僕にとっては苦手な人種で、愛することなんてできやしない。

 そんなことをツラツラ考えているうちに、眠気が襲ってきた。
 牧師先生の淡々とした口調のせいだろう。
 『三位一体』の額に誓ったはずなのに、結局、今日もまた礼拝中に居眠りを始めてしまった。

 目が覚めたのは、右わき腹に強烈なエルボーを食らったから。
 あまりの痛さに右の隣り人を見ると、家須は素知らぬ顔で両手を組んでいる。
 牧師先生の話が終わり、お祈りが始まる絶妙のタイミングだった。
 家須は毎朝、こうして起こしてくれる。愛することは難しいけど、結構優しい、いいヤツかも。
 荘厳なパイプオルガンの演奏が始まり、僕は慌てて両手を組んで頭を軽く下げた。
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