第9話 不思議な老人 西暦525年
文字数 3,574文字
ヒベルニア島 Hibernia Island
バッジョが次に目覚めたのは、更に一日過ぎた日の朝、老人が湧水 を汲みに出掛け、岩窟を留守にしていた時のことであった。
「ここは何処だろう?」
つばを飲み込むたびにまだ痛む咽喉 をさすり、バッジョが呟く。
鉛のように重たいからだを起こし、バッジョは暫しその場に座り込んでいた。そして流れ来る外気につられるように、岩窟の外へと足を進めて行く。
外に出ると、眩 しい光に目が眩 んだ。
バッジョはどのような世界を想像していたのであろう。岩窟を抜けた世界はバッジョが嘗 ていた世界とまるで変わらぬ自然が、目の前に広がりゆく風景、そうとしか思えないものであった。
「ここは何処なのか?」
バッジョの声はかすれている。
(着けている衣 こそは以前と異なるものの… 私は肉体を持ち、片目につけた眼帯さえ変わらぬ。これが死後の世界なのであろうか?)
バッジョは思いを巡らす。
(暖かで、気持ちの良い日和 だ)
バッジョは大きな岩が立ち並ぶ細道を歩いてゆく。
岩の細道の先は、いつしか樹林の立ち並ぶ森の小道へと変わり、それは美しい湖へと続いていた。
「虫も鳥たちのなき声さえ、何も変わらぬ」
先のまるい嘴 を持つカモ科の水鳥が、せわしなく水中の餌 を探す様子を見ながら、代り映えしない世界に向かい、バッジョは再度呟いていた。
湖の畔 を歩き終えると、道は急に途切れ、青草の生い茂る草原へと変化をみせる。草原を進んだ先には、青い海が広がっていた。
「おおっ。海ではないか」
草原の端に立ち滄海 を望むバッジョの衣を、風が揺らして行く。
切り立った崖から海岸に視線を移したバッジョの瞳に、砂浜に打ち上げられた一艘の舟の姿が映し出される。
「あれは、スパイサーの手下が俺を乗せ漕ぎ出した舟ではないのか?」
バッジョは崖を下り砂浜へと駆け出して行く。打ち上げられた舟にたどり着くと、バッジョは船べりに手を掛け、中を覗 き込んだ。
「俺が乗せられたのは、まさにこの舟ではないのか!? 俺は、死してはおらぬ!」
バッジョは絶句する。
「俺は死ななかったのか!? 死して王子の許 へ参 じなければならぬ俺が… 何故 おめおめと生き永 らえているのか?」
波打ち際にあおむけに倒れ、空に両手を翳 したバッジョが、天を仰いで声を上げる。
「私を殺し、王子に生を与えて欲しかったのです」
瞳からは涙がこぼれた。
そこに、いつの間に来ていたのか…
岩窟でバッジョを看病してきた老人が、波打ち際に倒れ込むバッジョの隣に立っていた。
「騎士殿よ。ここにおられたか?」
優しい語り口である。
「貴方は?」
立ち上がったバッジョは、膝を折り老人の前に跪 く。
「良いのだ。礼節 は無用にいたそう」
「いいえ。命を救って戴いた御礼も述べぬまま、洞窟を出て来てしまいました」
「いや、騎士殿は死にたかったのであろう。儂 は余計 な事をしたのだ」
「いいえ。手厚い看病をして戴きました。今、私に出来る事など、命の次に大切な剣まで奪われる始末で、今は何もないのです。せめて貴方の為に仕事をさせてください。水汲みでも、畑仕事でも、森に入り鳥や鹿を捕まえることも出来ましょう」
紳士的な態度で、バッジョが応える。
「騎士殿は何でも出来る器用 な御方だ。儂も独り身の生活、暫く共に暮らしてくれると助かる。しかし、その後に命を絶つ御積りか!?」
口調は優しいが、老人はバッジョに遠慮ない言葉を浴 びせる。
「貴方には私の心が解るのですか? 私がどのようにしてここに流れ着いたかも知らぬ貴方が何故、私が死を求めていると思うのです」
「死なねばならぬ。死なねばならぬ。そう顔に書いておるぞ」
老人は真顔で答える。
「御冗談 を!?」
バッジョは顔に手をやり、老人に鋭い視線を向ける。
「それに私が騎士だと何故解るのですか? お会いした事は無いように思いますが」
「仰 る通り、この世で会った事は無い。しかし、おぬしのことは良く知っている。現世 では正義の騎士バッジョと呼ばれていよう」
「私をバッジョ カーレルと知って助けたと言うのですか?」
「そう騎士バッジョと知って助けはした。しかし、この世でおぬしや、おぬしを知る人間との交流はなかった。更に言えばスパイサーとも無関係じゃ」
「スパイサーの事まで知っているのですか? しかし、無関係と…」
老人の難解な言葉は続く。
「セラヌの奴は知っておる。但し、現世 で会った事は無いがのう」
バッジョの頭は混乱する。
「アーテリーのことも知っている。同じく現世 では会えなかった。しかしバッジョ、お前に逢えて嬉しい。心から嬉しいのだ!」
理解を超える会話の内容を前に、バッジョの口からは言葉が途切れてしまう。
「すまぬ。混乱させてしまったようだ。騎士殿が理解出来るよう、ゆっくりと時間を掛けて話すが、聞いてくれるかのう?」
バッジョは老人の眼を見詰め、頷 いた。
「ここは風が強い。おぬしはまだ病み上がりのからだじゃ。そろそろ岩窟に戻ろう。話は道々歩きながらしようではないか。しかしその前に一つだけ手伝っておくれ。今宵 は大潮 だ。この舟をもう少し陸地に寄せておこう。折角 の舟が海に流されてしまっては勿体 ない。騎士殿を運んでくれた有り難い舟じゃ。手入れをして大事に使わなければのう。いずれ漕ぎ出す日が来るであろう」
老人とバッジョは打ち上げられた舟を陸地に押し上げ、杭 の代わりに大きな石を船底 に嵌め置き、舟を固定した。
海岸を後に、草原を歩きながら、最初に口を開いたのはバッジョの方であった。
「看病をしていただいた朦朧 とした意識の中で、貴方は確か、私の問い掛けにこう答えた。『ぬしは既に死の領域に居るではないか』と。それはどのような意味だったのでしょうか? あなたの事ですから、その場限りのでまかせとは思えないのです」
「そうじゃ。騎士殿はここに流れ着いた時から既にその領域に居る。それは本当だ。生の前と生の後の世界。眠りの度 に人間が戻る世界。騎士殿は儂を通じてそれを知る定めにあるのだ。それ故 にここに流れ着いた」
「眠りの度に戻る? やはり私には理解しかねます」
「今は良い。しかしいずれ解るであろう。それより騎士殿は死後の世界、これが存在すると信じているかのう?」
「いいえ。そのような世界が存在するのか否 かは、行って見る迄は分かりません」
「死後の世界が存在しなければ、騎士殿が死んでも、貴殿の王子に会うことは叶うまい」
バッジョは老人を見詰めている。
「騎士殿は有るか無いかも知らぬ冥界 で、そこに巣食 う諸々 の存在から、王子を守ろうと考えている御様子。だから聞きたいのだ。あの世、つまり死後の世界が本当にあると信じているのかと…」
「分かりませぬ」
「騎士殿。頭にきて儂を殴り倒したくなったら何時でも構わぬが、見ての通りの老体故、なるべくやんわりと頼むぞ」
老人は振り向き、バッジョに告げる。あくまでも表情は微笑んでいる。
「ご冗談を。左様 なことは致しません」
バッジョは真顔 で否定する。
「それでは続きだ」
歩きながら、老人は再び話しはじめた。
「死後の世界の有無も分からぬのに、自 らで死を選ぶと言う。騎士殿が死を望む理由はなんじゃ? そこをよく考える事だ!!」
バッジョは黙っている。
「全てを自分の責任と背負い、自らの死で償 うと、自らの死で購 うというのか? 王子アーテリーや朋友 、兵士や民衆の死はおぬしの所為 ではないというのに」
バッジョは口を閉じている。
「戦 にも人々の死にも、人間にもたらされる現象には全て理由がある。騎士殿の所為ではないのだ!」
「いいえ。全ては私の浅はかさ故に起こった事。王子を、そして沢山の者たちをむざむざと殺させてしまったのです」
バッジョは堪 らず口を開く。
「殺したのは誰か? おぬしが殺させたなどとは笑止 。いい加減に気づく事だ。おぬしが生きてこの世界に留まったのは、決しておぬしに贖罪 をさせる為ではないという事を」
老人は寂 しげにバッジョを見詰める。
「いいえ。幼い王子を城から連れ出し戦士に育て上げ戦場に導いたのも、朋友を説得し争いに巻き込んだのも、全て私が行った事。これは事実なのです」
後悔してもしきれない。バッジョはそんな表情をして視線を地に落としていた。
老人は首を横に振る。
「バッジョよ。この世には人間の眼からは隠されている力が存在する。その中には、人間の思考や行動を器用に操 り、大きな苦しみや悲しみの連鎖を編み上げる邪悪な存在もいる。誰が多くの悲しみや死を悦 んだのか!? ぬしはそれと知らずして戦い、そして破れたのだ。邪悪な者がこれから何を企 てるのか。これは我らの宿命 であった」
バッジョには老人の言葉がうまく理解できない。
「バッジョよ。魔王を、魔王セラヌを倒さねばならぬ!」
老人の力強い言葉が、草原に響き渡った。
バッジョが次に目覚めたのは、更に一日過ぎた日の朝、老人が
「ここは何処だろう?」
つばを飲み込むたびにまだ痛む
鉛のように重たいからだを起こし、バッジョは暫しその場に座り込んでいた。そして流れ来る外気につられるように、岩窟の外へと足を進めて行く。
外に出ると、
バッジョはどのような世界を想像していたのであろう。岩窟を抜けた世界はバッジョが
「ここは何処なのか?」
バッジョの声はかすれている。
(着けている
バッジョは思いを巡らす。
(暖かで、気持ちの良い
バッジョは大きな岩が立ち並ぶ細道を歩いてゆく。
岩の細道の先は、いつしか樹林の立ち並ぶ森の小道へと変わり、それは美しい湖へと続いていた。
「虫も鳥たちのなき声さえ、何も変わらぬ」
先のまるい
湖の
「おおっ。海ではないか」
草原の端に立ち
切り立った崖から海岸に視線を移したバッジョの瞳に、砂浜に打ち上げられた一艘の舟の姿が映し出される。
「あれは、スパイサーの手下が俺を乗せ漕ぎ出した舟ではないのか?」
バッジョは崖を下り砂浜へと駆け出して行く。打ち上げられた舟にたどり着くと、バッジョは船べりに手を掛け、中を
「俺が乗せられたのは、まさにこの舟ではないのか!? 俺は、死してはおらぬ!」
バッジョは絶句する。
「俺は死ななかったのか!? 死して王子の
波打ち際にあおむけに倒れ、空に両手を
「私を殺し、王子に生を与えて欲しかったのです」
瞳からは涙がこぼれた。
そこに、いつの間に来ていたのか…
岩窟でバッジョを看病してきた老人が、波打ち際に倒れ込むバッジョの隣に立っていた。
「騎士殿よ。ここにおられたか?」
優しい語り口である。
「貴方は?」
立ち上がったバッジョは、膝を折り老人の前に
「良いのだ。
「いいえ。命を救って戴いた御礼も述べぬまま、洞窟を出て来てしまいました」
「いや、騎士殿は死にたかったのであろう。
「いいえ。手厚い看病をして戴きました。今、私に出来る事など、命の次に大切な剣まで奪われる始末で、今は何もないのです。せめて貴方の為に仕事をさせてください。水汲みでも、畑仕事でも、森に入り鳥や鹿を捕まえることも出来ましょう」
紳士的な態度で、バッジョが応える。
「騎士殿は何でも出来る
口調は優しいが、老人はバッジョに遠慮ない言葉を
「貴方には私の心が解るのですか? 私がどのようにしてここに流れ着いたかも知らぬ貴方が何故、私が死を求めていると思うのです」
「死なねばならぬ。死なねばならぬ。そう顔に書いておるぞ」
老人は真顔で答える。
「御
バッジョは顔に手をやり、老人に鋭い視線を向ける。
「それに私が騎士だと何故解るのですか? お会いした事は無いように思いますが」
「
「私をバッジョ カーレルと知って助けたと言うのですか?」
「そう騎士バッジョと知って助けはした。しかし、この世でおぬしや、おぬしを知る人間との交流はなかった。更に言えばスパイサーとも無関係じゃ」
「スパイサーの事まで知っているのですか? しかし、無関係と…」
老人の難解な言葉は続く。
「セラヌの奴は知っておる。但し、
バッジョの頭は混乱する。
「アーテリーのことも知っている。同じく
理解を超える会話の内容を前に、バッジョの口からは言葉が途切れてしまう。
「すまぬ。混乱させてしまったようだ。騎士殿が理解出来るよう、ゆっくりと時間を掛けて話すが、聞いてくれるかのう?」
バッジョは老人の眼を見詰め、
「ここは風が強い。おぬしはまだ病み上がりのからだじゃ。そろそろ岩窟に戻ろう。話は道々歩きながらしようではないか。しかしその前に一つだけ手伝っておくれ。
老人とバッジョは打ち上げられた舟を陸地に押し上げ、
海岸を後に、草原を歩きながら、最初に口を開いたのはバッジョの方であった。
「看病をしていただいた
「そうじゃ。騎士殿はここに流れ着いた時から既にその領域に居る。それは本当だ。生の前と生の後の世界。眠りの
「眠りの度に戻る? やはり私には理解しかねます」
「今は良い。しかしいずれ解るであろう。それより騎士殿は死後の世界、これが存在すると信じているかのう?」
「いいえ。そのような世界が存在するのか
「死後の世界が存在しなければ、騎士殿が死んでも、貴殿の王子に会うことは叶うまい」
バッジョは老人を見詰めている。
「騎士殿は有るか無いかも知らぬ
「分かりませぬ」
「騎士殿。頭にきて儂を殴り倒したくなったら何時でも構わぬが、見ての通りの老体故、なるべくやんわりと頼むぞ」
老人は振り向き、バッジョに告げる。あくまでも表情は微笑んでいる。
「ご冗談を。
バッジョは
「それでは続きだ」
歩きながら、老人は再び話しはじめた。
「死後の世界の有無も分からぬのに、
バッジョは黙っている。
「全てを自分の責任と背負い、自らの死で
バッジョは口を閉じている。
「
「いいえ。全ては私の浅はかさ故に起こった事。王子を、そして沢山の者たちをむざむざと殺させてしまったのです」
バッジョは
「殺したのは誰か? おぬしが殺させたなどとは
老人は
「いいえ。幼い王子を城から連れ出し戦士に育て上げ戦場に導いたのも、朋友を説得し争いに巻き込んだのも、全て私が行った事。これは事実なのです」
後悔してもしきれない。バッジョはそんな表情をして視線を地に落としていた。
老人は首を横に振る。
「バッジョよ。この世には人間の眼からは隠されている力が存在する。その中には、人間の思考や行動を器用に
バッジョには老人の言葉がうまく理解できない。
「バッジョよ。魔王を、魔王セラヌを倒さねばならぬ!」
老人の力強い言葉が、草原に響き渡った。