第2話 文明論

文字数 1,689文字

「紅茶って文明的だよね」

 僕は、隣に立つ津久井(つくい)さんにそう言った。

「そうですか? あれ、ただの葉っぱじゃないですか」

 津久井さんはそう答えながら、通行人を避けて壁に一歩近づいた。

 平日16時台の下北沢(しもきたざわ)駅には人があふれている。学生服姿の男子女子、チャラそうな大学生、大きな紙袋を手に提げた女性。人の流れを避けるため、僕たちは通路の壁際に立っている。

「紅茶って、種類あるじゃないですか。産地とか銘柄?」

「ダージリンとかセイロンとかね」

「違いが分からないんです。どれも葉っぱ煮込んだ汁だもん。同じですよ」

「化学調味料が人間の味覚を殺すって本当なんだね」

相模(さがみ)センパイ、紅茶飲んで違い分かるんですか? 分からないでしょ。それなのに部屋で一人『うーんこの香りはアールグレイ』とか分かったフリして気取るとか、正直どうかと思います。わたしはセンパイのためを思って言ってるんです」

「突然の妄想長文ディスに僕はどうしたらいいか分からない」

「水飲めばいいんですよ、水。地球には水があるんです。お湯沸かすの面倒だし」

「お湯沸かすなんて手間じゃないでしょ。電気ポットですぐだよ」

「うち、そんな洒落たものありません」

「じゃあヤカンで沸かしてるの?」

「鍋で沸かしてます」

 頭にイメージが湧いた。静かな湖畔で焚き火の上に鍋をかかげてニヤニヤ笑っている津久井さんの姿が。

「きみ、家に住んでる? 屋根ある? 公園に住んでない?」

「だってポットってお湯沸かす専用じゃないですか。他に使いみちないし」

 そう言って、津久井さんは口をとがらせた。

「鍋って何でもできるじゃないですか。最強ですよ。鍋、最強」

「そう? うち、鍋ないから分からないな」

 津久井さんが「え」と口を開ける。

「煮たり茹でたりしないんですか?」

「そもそも、今の家でコンロに火を点けたことがないよ」

 津久井さんは目を丸くし、ぽかんと口を開けた。

「火苦手なんですか? 野生ですか? それとも点け方分からない?」

「必要ないだけだよ。火って危ないし」

「コンロの火は飼い馴らされ牙を抜かれてます。怖くない怖くなーい」

 津久井さんは赤ちゃんをあやすように両手をぶらぶら振った。

「家に帰るとさ、ポストにチラシとか請求書とか書類が入ってるでしょ」

「入ってますね。おかげでわたしの部屋は床が見えません」

「玄関で紙束を手にとって部屋に入ると、まず台所があるわけ」

「ありますね。うちもです。1Rとか1Kってそんな間取りですよね」

「で、ちょうど腰の高さの台があるから、そこに紙束を置くよね」

「センパイ、わたしの推理によると、その台はコンロというものです」

「もし火を点けたらさあ大変。ほら、火って危ない」

「危ないのはセンパイの人間レベルです。暴落です。底打ってますよ」

「火を使えるのがそんなに偉い? 自慢? きみは下北(しもきた)原人なの?」

「日本史に新たな1ページ加えないでくださいよ」

「火を使うなんて野蛮だね。人類は火を手放す段階にきたんだよ」

 と、そのとき。

 階段の上から案内放送が聞こえてきた。案内放送は、()(かしら)線各駅停車の到着を告げている。

「いやー、今日は若干ドン引きでした」

 津久井さんはそう言って、上り階段の方へと一歩を踏みだした。

「これは間違いなくセンパイのほうが人間レベル低いです。反論許しません」

「火より電気を使いこなせるほうが上だと思うんだけどなあ」

 僕と津久井さんはふたりとも通学に下北沢の駅を利用している。

 ただ、使う路線が違う。僕は小田急(おだきゅう)線各駅停車に、津久井さんは井の頭線各駅停車に乗る。

 この時間、各駅停車は10分に1本走っている。

 僕たちはいつも、各駅停車を2本見逃してから帰る。

 その20分。駅の通路の端っこに、僕たちは立っている。

「センパイ、間違ってコンロの火点けないでくださいね。おつかれさまでした」

 津久井さんは、真面目ぶった顔で敬礼をした。

「おつかれ」

 腕を組み、大きくため息をつきながら挨拶を返す。

 津久井さんが階段を駆け上っていく。

 僕も背を向け帰途につく。



 僕と津久井さんは、一人暮らしをしている。

 そして20分の間だけ、僕たちはふたりになる。
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登場人物紹介

相模センパイ。

都立下北沢高校二年生。

一人暮らし歴はもうすぐ二年。

梅ヶ丘駅北のアパートに住んでいる。

津久井さん。

都立下北沢高校一年生。

一人暮らし歴はもうすぐ一年。

東松原駅南に住んでいる。

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