第30話 悔しいの?

文字数 2,016文字

 風花には、どこの誰よりも音への反応に自信があったつもりだったが、昨日は何もできなかった。やっぱり始めたばかりの自分や孝太が簡単に勝てるわけがないのだ。でも、せっかく始めたんだからもう少し頑張ってみよう。そんなことを思いながら風花はベッドに入った。

 翌朝、なぜか目覚まし時計が鳴るよりだいぶ前に目が覚めてしまい、寝ていても仕方ないので、いつもよりも早めに着替えて「決まり字の坂道」へ向かい、坂を下る。
 さすがに早すぎるよね——そう思っていた風花だったが、すでに孝太はいつもの場所で待っていて、体を動かし始めていた。
「おはよ。どうしたの? 今朝は早いね」
 風花が声をかけると、孝太はちょっと照れ笑いを浮かべながら、
「なんか……悔しくてね。眠れなかった」
と頭をかいた。
「えっ、悔しいって昨日の練習試合のこと?」
 風花がそう聞き直すと孝太が小さく頷いた。
 正直にいうと、少し驚いた。風花も孝太も入学してから始めた競技かるただ。まだ百首もちゃんと覚えていないし、相手は同じ1年生とはいえ経験者だと聞いている。「勝てる」などとは最初から思ってなかったし、風花が本気で取ろうと思ったのは、あの最後の1枚である「せをはやみ」だけだった。それで少しはミオの言葉を否定できると意気込んだのだが、結果怖気づいて負けた。確かに情けない自分にはがっかりした。
 だが、孝太はその相手に勝つ気だったという。
「まあ、無茶だってわかってんだけどね。でも——やる以上は勝ちたかった」
 そう本気で悔しがっていたのだ。
 私たちは初心者なのに、負けて当たり前なのに、孝太はなんでこんなに悔しがれるんだろう。
 風花は幼稚園のときから始めた水泳で負けたことはなかった。少なくとも水泳で負けて悔しいなどと思った経験がない。
 だけどかるたは違う。水泳のように自分を追い込むほどのトレーニングをしてないし、それは孝太も同じだと思っていた。
 だから、始めたばかりの競技かるたに、孝太が本気で「悔しい」という感情を持つことが、風花には不思議だった。

「言わなかったっけ。ああ見えて結構ストイックなのよ、何にでも」
 ミオに孝太が負けて悔しいって言っていることを教えると、ミオは驚きもせずに当たり前だという顔をしている。そういえば、そんなことを言っていた気がする。
「でもさ、始めたばっかりじゃん。そんな悔しがらなくても」
 それでも風花がちょっとした疑問を口にすると、
「風花はそうかもねえ。でも、やる以上はなんでも全力。それが孝太なのよ。ちょっと肩の力を抜けばええのにね」後ろの席で机に突っ伏して寝ている孝太をチラッと見ながらミオは言った。「ところでさ、そんな話をふたりがどこでしてたかの方がうちは気になるんだけどなあ」
「あっ、ええっと、ほんのさっき」
 慌てる風花。毎朝の孝太との坂道トレーニングのことは、まだ誰にも言ったことがないのだ。
 だが、意味ありげにミオがニタニタと笑って、
「ほほお。午前の授業が終わってから、ずっとうちらはここで一緒におるよねえ?」
と間髪を入れず突っ込まれた。
「あっ、そうそう、違う違う。昨日のことよ。昨日の帰り道に」
「走って帰る孝太とバスに乗ってる風花がそんな会話した、と」
 やけに今日は絡んでくる。あっ、もしかして妬いてる?
 そうだった。本当はミオは孝太のことが——
「友達だもの。そのくらいの会話もするって。でも、ほんと一瞬よ、一瞬。気にしないで。私たちミオが思うような関係じゃないから」
 ミオはヤキモチ妬いてるんだきっと。ここは穏便に、穏便に。
 すると突然ミオがグッと風花の耳に顔を寄せて周りに聞こえないぐらいの小声で言ったのだ。
「ねっ、そろそろキスぐらいした?」
「ばばば、ばか言わなひで! そそそ、そんなことあ、あるわけないでしょ!」
 とんでもないことを言われて、慌てて全力で否定した。
「もう付き合ってんじゃないの?」
 コソコソと顔を寄せて話す。
「そんなわけないじゃん。孝太君だって、め、迷惑でしょ。それに、孝太君にはミオがいるでしょうが」
 しまった。言ってしまった。静かに見守ろうって思ってたのに。
「はあ? まだ言ってんの? だから、うちらは付き合ってないって」
 だが、あきれた顔のふりでミオがいう。ほら、それがずるいんだってば。私は気がついてるんだから。
「いや、ホントもう隠さないでいいよ。私はわかってるからさ」
「勘違いもはなはだしいって、こういうことか。あーあ、孝太もかわいそうに。これは脈なしってことよね」
 ミオは大きなため息とともに肩をすくめ、後ろを振り向いて寝ている孝太の頭をなでたのだった。
 だが、なんでミオが孝太が「かわいそう」と言ったのか、風花にはまったくわからなかった。

 だけど、少なくとも孝太のかるたに全力をかけている。せっかく一緒に始めた競技かるただ。来月の大会ではそろって1勝できるように、自分も全力をかけてみようと風花は心に誓った。
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