第1話

文字数 1,998文字

 自分の指がキーボードを打ち込む音だけが響く、どれほど時間が経ったのか。こらえきれずため息がもれた。
 連休中日の平日の今日、家族や子どもがいる人はみな休みを取る中、独身の私は甘んじて課内の電話番を受け入れていた。煩雑な事務作業を一人こなしていると、昼頃、課長から電話がった。派遣の子に頼んだプレゼン資料の修正が今日中に必要だという。後ほど課長から届いたメールの資料の膨大さに白目をむき、残業に突入し今に至る。
 おなかへったな。
 粗雑に引き出しを開け手に当たったおやつを取り出すと、某交通ICカードのペンギンクッキーだった。ペンギンと目が合い課長お気に入りの派遣の子の照れた顔を思い出し、ぐずりと胸の内で何かが崩れた。
「よ!」
「うわっ」
 急に机上にコンビニ袋がおかれた。同期の岸だ。
「え、今日は外回りで直行直帰するんじゃ」
「その予定だったけど、近く来たらまだ電気ついてるからさ。ビルの中でここだけよ? 明るいの。もう涙でそうになっちゃって、また汐里だなって思ったらさ」
「呼び捨てやめて」
「いいじゃん、幼馴染でしょ」
「……絶対バラさないでよそれ」
「バラしてない。俺は恩を大事にするからね。ずっと助けてもらいましたから」
 助けてはない、と思う。岸が中学にあがると彼の母は家を出た。偶然私はそれを知り、中学生の岸から秘密にしてと言われたから秘密にし、自分にできるフォローをした、ただそれだけ。
 大人になって偶然同期として再会した岸は今や整った顔の営業エースだ。その岸が袋からおにぎりやらパンを次々と出す。甘いお酒、ビールも。
「終わったら飲もうぜ。課長も人選ミスすぎるよな。派遣の彼女じゃこんな大量の資料を正確に作るのは無理でしょ」
「可愛いから話したいんでしょ」
 おにぎりは鮭、焼きそばパンは紅ショウガいり。見事に私好みだ。岸の母がいなくなっても、岸は変わらず気遣いと観察力に長け、どの層の友人にも平等だった。あの頃私は母の言葉の中にある呪いに気づき始めていて、岸の暖かさに触れるたび陽光の粒を集めるように、何度も頭の中で繰り返した。昔は教室で、今は職場で、岸は晴れた日のような笑みを浮かべ人から愛されている。派遣の彼女と同じように。
 食べる気が失せ、ペンギンクッキーを岸に押し付ける。
「あげる」
「いらんの?」
「うん……あのね、彼女の子どもの頃の夢はペンギンなんだって。お散歩するのが仕事だからって。彼女にぴったりよね」
 ペンギンの話を聞いたあの時、愛らしく照れた彼女と反対に、私は突如現れた幼い頃の自分と対峙していた。親が与えるものが良いものか悪いものかもわからず、雛ペンギンさながら口を開け丸のみしていた私。
 二重手術すれば汐里はまあまあの顔立ちよね、大学? 必要なの? 高校は家政学科か保育科の専門で十分、将来お嫁さんになったときに困らないよう大事なことよ。
 たくさんの棘入りの冷えた言葉を私は丸のみした。いつまでも満たされないから雛ペンギンのように口を開け、もっともっとと欲しがった。溶けない冷たい棘が私を愛しているはずの母の言葉につまっていると分かったとき、ようやく私は口を閉じて欲しがることをやめたのだ。疑いもなく母の言葉を丸呑みした幼い私と、冷たい棘がこれ以上増えないよう母から離れた大人の私。一人泣きそうな顔で立っているところだけ、変わらない。
「よくわかんないけど。昨日俺ペンギンのドキュメンタリー見たんよね。俺は彼女より汐里がペンギンぽいと思う」
 意図が分からず岸を見た。まさか、30近い私はまだ、何かに飢えて見えるのか。
「群れで生きるペンギンって自分のためだけに頑張るやつが皆無なの。安全確認のため一羽だけ先に海に飛び込むこともある」
「私そんなに体はってる?」
 終わらない仕事をチラリとみて自嘲気味に呟くと、岸は朗らかに笑った。
「違うでしょー誰かのために動けるってこと! 優しさをもらう前に先に与えられるって、俺はすごいと思う」
 そんなの、岸だよ。穏やかな笑みを浮かべる岸と目があう。ほらまた、私はあなたの言葉を拾っているだけ。
「汐里は昔から、相手のことばっかだよ。だから俺、中学の頃から汐里に念力送ってた」
「念力?」
「頑張りすぎんな、俺を頼れって。今も、送ってる。届いてる?」
 岸の目に私が映り、ああ、と急に腑に落ちた。岸の言葉が温かなのは私のために見つけてくれた言葉だから。
 唐突に岸の社用のスマホが鳴った。岸は慌てて席を離れ、空気がゆるまる。
 自分一人の力で、温かいものを一粒ずつ拾い大事にできる大人になれたと思っていた。でも最初に大事にする言葉を投げかけてくれたのは、岸だった。
 じき戻ってくる岸にどう返事をしようか、考えを巡らせていると岸が置いていったペンギンクッキーと目が合った。さくりと口に含むと甘い味と香りが満ち、泣きそうな顔の自分はいつの間にか消えていることに気づく。
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