三十

文字数 3,751文字


 話が父親のことに及んだとき、響子が話し出した。
「父は、自分が、がんだと思っていたそうなんです。
 それで、母があの先生と一緒になろうとしたとき、一種の賭けをしたそうなんです。
 父は、言っていました――。
 もともとわたしは、先生か、父親のような存在だった……。
 だから、わたしが死んだからといって、お母さんは決して取り乱したり嘆き悲しんだりはすまい。だけど、わたしが死んだあと、若い彼女は何十年も独りで生きて行かなければならないのだ。
 これまでもそうだったが、これからは、いままでよりも、もっと辛く孤独な日々が待っている……。
 お前も知っているように、お母さんは、つねに誰かを支えていなければ心の休まらないひとだ。頼るのではなく、頼られることに生き甲斐を、支えられるのではなく、支えるために生命を削り、喜びを見出す。そんなひとが、お前のお母さんなんだ。
 だから、お母さんが、あの吉田という男と一緒にさせてほしいと言ってきたとき、最後の最後、もう一度だけ、わがままを許してやろう。自由を認めてやろう。そして今度こそ、支えられるのではなく、支えることに喜びが見出せる、彼女にしかできない人生を歩ませてやろう。そう思ったんだ……。
 わたしががんではなく、そして、せめて十歳も若ければ、そんなことは思わなかったかも知れない。しかし、わたしにはかつてのようなパッションは残っていなかった。もう五十だった。
 おそらく彼女の心の奥底には、なにもしてやれなかった弟への負い目がトラウマのようにへばりついているんだと思う。一種の欠如感の顕われなのだろうが、それをしないでは、彼女は彼女でいられなかったんだ――。
 それが証拠に、色んな人間と彼女は恋愛を繰り返してきた。
 そして、いつもわたしの介入により中断させられた。彼女の心はその部分だけ補償されないまま、くすぶり続けた。その火種がふたたび燃え上がったのが、吉田との出会いだった。彼は、それまでの男にはないタイプの持ち主だった。
 それは、お前も知っていよう。
 彼は、彼女を連れ去った。
 小さかったお前には、それが略奪に見えたかも知れないが、その実は、わたしが許した恋愛だった……。
 それからは毎日、彼女への思いから解放されて、わたしは純粋にがんのことだけを思って生活した。研究にも精が出たし、講義にも楽しさが増した。もうすぐ死ぬのだと思うと、ますます一生懸命やらなければと思った。男と女のごたごたはもう沢山だった。
 おまえにも、辛くあたったことがあったと思う。辛いとき、苦しいとき、お前はよくしてくれた。お前の明るさだけが救いだった。
 彼女が、わたしの病気のことを知れば戻ってくるという一縷の望みもあったが、それもいつの間にかなくなり、お前の笑顔を見る喜びに換わって行った……。
 そして、その後、がんは再発せず、ほかにも転移しないまま、今日に至った。
 彼女は戻ってこなかった……。
 賭けは、失敗した。――と思っていた。
 だが、いまごろになって、がんだけが戻ってきた。
 いまとなっては、結果的に同じことだが、わたしはその選択をしたことを後悔していない。がんであると知っていなかったら、わたしはまた、それまでと同じように彼女の生を縛り、その自由を奪う生活を強いていたことだろう。
 そういう意味で、わたしは彼女のようにすまなさや負い目は感じていない。少なくとも、相手が生きているうちに相手の望んだことを、望んだとおりにしてやることができたのだから……。
 父は、そんな話をわたしにしてくれたあと、満足そうにこの世を去って行きました。享年七十七歳でした。がんとはいえ、余裕を持った幸せな晩年だったと思います」
「そうでしたか。人生の最後に、自分のしたことを褒めて死ねるのが一番いいですね。わたしも、でき……」
 ――れば、そんな死に方をしたいものですと言おうとしたとき、携帯の着メロが鳴った。
「あ、すみません。いいですか」
 里中が響子に向かって言うと
「どうぞ」
 響子が笑顔で応えた。
「はい、里中です」
「お疲れさまです。三田です」
「なんだ、きみか。どうしたんだ」
「いま、いいですか」
「よくもないが、すぐ済むならいいよ」
「例の吉田さんの小説なんですが、全部お読みになりました」
「いや、まだ三分の一ほどでしか読んでないよ」
「じゃ、言います。あの小説は、殺人事件の記録ですよ」
「なんだよ。薮から棒に――」
「もし部長が京都におられるのなら、ぜひ調べてみてほしいことがあるんです」
「どこで、なにを調べるんだね」
「まず、吉田さんの死体の上がった地域を管轄する伏見署というんですか、そこへ行ってみてほしいんです」
「ああ、それなら昨日、谷口さんと一緒に行ってきたよ」
「どうでした」
「どうもなにも、それらしいことは、なにも教えてくれなかった。挙句の果ては、社会福祉関係の事務所に行けと言われたよ」
「部長。こんなことを言ってはなんですが、あれは、入水自殺の失敗による凍死ではないんじゃないかと思うんですが……」
「きみも、そう思うか――。実はわたしも、あの新聞記事を読んだとき、直感的にそう思ったんだ。『なんらかの不具合が生じて果たせず』というところが、どうにも引っかかってね」
「そうでしょ。いずれにせよ、予断は許しませんが、あの小説がノンフィクションを志向したものであるかぎり、吉田の死は疑問の残る死です。最後までお読みになっていないから、ご存じないでしょうけど、彼は三千七百万円もの保険金を真崎響子という女性の許に送ろうとしていたんですよ」
「!」
 里中は、その女性がいま、自分の眼の前にいるとも言えず、うん、それで――と先を促したものの、これは時間を改めて一から聞いたほうがいいかも知れないと判断した。
「それで、その金が実際に真崎響子の手許に届いているかどうかということが、問題解決のひとつのキーになるんです」
「わかった。それだと、話が長引きそうだから、折を見て、あとから電話するよ」
「わかりました。お電話、待ってます」
「うん。じゃあ」
「なんだか、浮かない顔ですね」
 響子が急に真顔になった里中を見て言った。「事件かなにかあったんですか。新聞記事がどうのとおっしゃってましたけど……」
「いや、大したことじゃないんです」
 里中は言い、三田の言っていたことを心の中で反芻した。
 保険金三千七百万円……。
 つまり、吉田本人が死ぬことで得る保険金ということなのか。死んだ人間が、自分の死亡保険金を受け取ることは不可能だ。にも拘わらず、どうやったらそれを相手に届けることができるというのか――。
 里中は思ったが、口には出さなかった。
 その代わり、三田が言っていた、もうひとつの疑問に対する探りを入れてみよう――と思った。
「でも、下種な言い方ですが、お父さまもそれだけ余裕をお持ちになったお方ですから、それなりに保険にも入られて……」
「そうですね。一応、がんということでしたから、がん保険が間に合いました。普通の生命保険もありましたし、わたしには過ぎた遺産を遺してくれたと思っています」
 さすが吉田が褒めていただけあって、頭の回転が速い女性であった。里中は感心しながら、感想を述べた。
「そうでしょうねぇ。わたしにも娘がひとりいるんですが、正直、同じようにしておいてやらないとなぁ――なんて思いますよ」
「それは絶対、しといてあげたほうがいいですよ。受け取る本人が言うのもなんですけれど……」
「それはそうと、さきほどお母さんのことを言っていましたが、相手の吉田さんからは、なにも……」
「ええ。後にも先にも、あれっきりです。連絡もありませんし、ものが届いたこともありません」
「そうですか。面影といえば、小学五年生のときのものしかないんですね」
「ええ」
「なるほど。いま会ってもわからないでしょうね」
「そうでしょうか。わたしは覚えていますよ。先生のことは、いま会っても多分、わかると思います」
「記憶力がいいんですね」
「そうじゃなくて、それだけインパクトがあったということです」
「つまり、お母さんのことは、あなたにとって一種の事件であったと……」
「そうですね。重大事件でしたね」
 彼女はにこりと微笑み、腕時計に眼をやって言った。「さてと、もうそろそろ、お開きにいたしましょうか」
「ああ、そうですね。そうしましょう」
「長時間、お付き合いいただいて、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、こちらこそ。楽しかったです」
「ありがとうございました」
「では――」
 と、レシートを掴もうとした彼女の手を止めて里中が言った。
「いや。これだけは、ぼくに奢らせてください」
「そうですか。じゃ、おことばに甘えて――」
 にっこりと微笑んだ彼女だったが、里中にはそれが嫌味には思えなかった。こういうことには慣れているのだろう。変に遠慮せず、かといって悪びれるわけでもない。実に爽やかな印象だ。
 感謝の表情をさらりと見せることのできる彼女の振る舞いが、里中には心地よかった。
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