第4話

文字数 10,185文字


 あの残念なプロポーズもどき?なことをしてから、俺は部屋に帰っていなかった。
 諒と画商の女のことが頭の中でグルグル回っているのもあったけれど、それより泣き言を諒にぶつけたことが、俺を諒に会わせるのを拒んでいた。
 諒の前ではダサいことをいろいろしでかしてきたけれど、これは極めつけと言っていいダサさだった。
 俺は店で寝泊まりし、朝起きると近くのネカフェでシャワーを浴び、また店に戻って開店する。
 それをすでに一週間。あと一週間これをやって、諒の個展が終わったら話し合うか。それとも黙って出て行くか。
 俺としては、どんな顔で諒に会えばいいのか、考えただけで胃が痛くなる思いだった。
 店を閉めて、晩メシに何を食おうかブラブラ歩いていると、
「侑!!なにしてるの?」
 と後ろから名前を呼ばれ、振り返るとカフェのママが立っていた。
「お疲れ~いま店閉めたの?」
「そ。ラストオーダーの時間に誰もいなかったから」
 いつもよりちょっと早いんだ~、と、ママは笑って言った。
「つかなにブラついてるの。諒君のご飯作らなくていいの?」
「あー、ちょっとね」
 どうせこの人にはバレると分かっているので、下手な嘘も言えなかった。
「ふうん。ね、店行く?」
「いや。もう閉めたんだろ?悪いし」
「心にもないことを。行こ、腹ペコ作るから」
 そう言うと、ママは勝手に歩き出した。俺はありがたく、後について行った。
 店に戻ると、シャッターを半分開けて、
「頭、ぶつけないように入ってカギ閉めて」
 と言い、自分はさっさと店に入って電気をつけてくれた。
「カウンター座って」
 ママはネットラジオをつけてボリュームを絞り、アイスコーヒーを俺の前に出すとキッチンに消えた。
 この店は客がいてもいなくても、居心地がいいんだな。深い本紫色のシフォンの中にいるように落ち着く。
 しばらくすると、ママが腹ペコを持って俺の前に置き、さあ食え、と言った。自分はホットのソイラテを作って飲んでいる。
 俺は食べながら、ママにご迷惑おかけしてとだけ言った。
 俺が食べ終わるのを待って、ママはアイスコーヒーのお代わりと、自分のソイラテをカウンターに置いて並んで座った。
「さ、聞きますけど?」
 俺は恥ずかしかったけど、この人にカッコつけても仕方ないので、あの夜のことを正直に話した。
「ほう、で、それから帰ってないの?」
「なんか、日を追うごとに帰りづらい」
「まぁね~気持ちは分からなくないけど、逃げてても仕方ないのに」
「俺も分かってるんだけど。個展が終わるまで保留にしておいた方がいいかなって。ガチ揉めしてもさ、個展の邪魔だし」
 ママはカウンターに肘をついて、俺の顔を覗き込み、
「本当に諒君を好きね~、ちなみにどこに惚れたの?」
 と聞いた。
「バカみたいだけど、諒の顔に一目ぼれしたんだよね。あの顔には逆らえないくらい、一目惚れがまだ続いてる」
 俺は笑って言ったが、ママはじっと俺の顔を見て、
「あ~、それでか」
 と、納得したように言った。そしてしばらく黙ってラテを飲み、
「わたしが感じていることだけど、諒君は顔、コンプレックスじゃない?イケメンさんだから、顔しか見てもらえないとか、顔だけで飽きられるとかあった気がする。侑は顔から好きになったにしても、今は別の好きを持ってるでしょ?それ伝えてあげないと」
「え?伝わってない?」
「そもそも言葉にして伝えてるのかってハナシ。同じベッドで寝てるからって、何もかも理解し合えるわけじゃないんだよ」
 ママはラテを飲んで続けた。
「その女の人のことも、もう終わったことなんでしょ?相手がどうでも、諒君は侑に夢中だし、侑は諒君に恋焦がれてる。それなら他の人が入り込む余地なんてないはずなのに、終わったことに嫉妬するなんてバカみたい」
「諒が俺に夢中?まさか。いやそれより、そんなの分かってるんだよ。でもあの気持ちのまま諒とやり合ったら、思ってもないことまで言っちゃいそうで」
 俺は黙った。
「怖いんだ。自分が諒君を傷つけるのが」
 怖い。そう、怖いことだらけだ。
 諒に嫌われるのも、ガッカリされるのも、信頼されないのも、もちろん捨てられるのが一番怖い。でもそれより怖いのは、俺が諒を傷つけること。
 諒の絵を見れば、彼が俺なんかより繊細だということが伝わる。それを知っていて、諒を傷つけるようなことを言ってしまったら。考えただけで怖くてたまらない。
「前にも言ったけど。二人は二人で話し合えば、どんなズレや行き違いも解決できる。それは二人がソウルメイトだからなのよ」
「本当にそうなのか、俺には自信がない」
「そうね、でもわたしが間違ったことある?」
 俺はママの顔をポカンと見つめた。この人の、この自信はどっから来るんだ?
「わたしには分かる。だから信じてぶつかりなさい。怖くても、先に進まないと見られない景色が、人生には必ずある」
 突然、ドアをドンドン叩く音がした。
「すご。やっぱりソウルメイトは違うね」
 ママはそう言って、ドアを開けに行った。
「侑」
 諒が入ってきた。俺がビビッて立ち上がると、諒は俺に駆け寄り、きつく抱きしめた。
 諒は何度も何度も俺の名前を呼び、俺を抱きしめ、俺の体を撫でまわした。まるでキャンバスに絵の具を広げていくときのように。
 俺は諒にされるままでいたが、我慢できなくなって、俺からキスをした。
「ちょいちょい、まだわたしいるんだけど?」
 ママが言った。
「あ、ごめんなさい」
 諒が謝って、
「それと連絡くれて、嬉しかったです。ありがとう」
 と続けた。
「どういたしまして。二人とも息子みたいなものだしね。放っておけないでしょ」
ママは笑って言うと、カウンターを片付け始めた。
「部屋に帰りなさい。話し合って、キスもして。あとはご自由に」
「ありがとう」
 俺が言うと、
「いいえ。ごちそうさま」
 と、ママはにやりとし、諒はママに向かって自分の胸に手を当てた。これは諒が、最上級の感謝を、ごく限られた人にだけ示すジェスチャーだった。
 俺たちは店を出た。
「自転車取りに行っていいか?」
 諒は無言でうなずいて、俺の手を取った。
 俺たちは手をつないで店まで歩き、戸締りを確認して店を出た。
「二人乗りで帰ろう」
 いつものように諒を後ろに乗せて帰る。
 そしていつも通りに自転車を停め、いつも通りに階段で5階まで駆け上がり、部屋に入って窓を開け、シャワーを浴びた。
 いつもと違ったのは、二人一緒にシャワーを浴びたこと。諒は1秒たりとも俺と離れないと言わんばかりだった。
 部屋の明かりを消し、エアコンを強めにかけて、少し窓を開けておく。風に揺れるカーテンの隙間から、月が顔をのぞかせている。
 ポットで作っている麦茶を、キッチンで立ったまま二人で飲み、諒は俺を抱えてベッドまで行くと、いつものように俺をベッドに放り投げる。ここから始まる。
 息も忘れる。
 諒が俺の体を攻め、唇を這わせ、弄ばれると、俺は何も考えられなくなる。
 俺はどんな顔をしている?そして諒は?
 うつ伏せの俺は、肩越しに諒を見た。その顔は、今にも泣きだしそうに見えて、俺は焦った。体を反転させて、諒と向き合う。
「侑、お願い。僕を締め出さないで。侑がいない世界では、僕はもう生きられない」
「ごめん。二度としないって約束する」
 俺はそう言って上半身を起こし、諒にキスをした。それはとても、長くて熱い。
 唇を離すと、諒はベッドサイドの引き出しからコンドームを取り出した。口にくわえてパッケージを破るその顔は、いつも飄々としている諒の顔とは似ても似つかない。
 もう1年、俺と寝ているというのに、いつも初体験の高校生のような顔になる。そしてこの顔がたまらなく愛しい。叫びだしそうなほど、愛してる。
 諒の準備ができて、俺の中に入ってくる。
 初めはゆっくり、確かめるように。そして慣れた場所を見つけると少し俺を焦らす。
 俺が我慢できなくなるのと、諒の余裕がなくなるのとが、いつも、同じようなタイミングでやってくる。だから確認する必要もなく、俺たちはいつも一緒に昇り詰める。
 その、昇り詰めた後の深い海の底に落ちていくような感覚。深く、堕ちる。
 そこは俺と諒だけの世界。誰も入れない安全地帯で、俺たちは3歳児のように眠る。そこにいれば自分の人生が取り戻せるように。
 あの夜に戻るように。
 カーテンの隙間から見えた月が、にっこり笑って俺たちを見守っているようだった。

 次の朝。
 痴話げんか後の恥ずかしさの中で目覚めた俺は、いつも通りにシャワーを浴び、諒の朝メシを作ろうと思った。が、冷蔵庫やパントリーが空だった。
 寝室に戻ると、うつ伏せで寝ている諒の背中が白く光り、産毛が太陽の光を受けて輝いているのが見えた。俺は無言でスマホを出し、諒の背中を写真に収めた。それはとても美しい、誰にも触れさせたくない聖域。俺だけのもの。
「侑。おはよう」
 ベッドの中で、寝ぼけた声を出す諒。こんな顔も可愛い。これに飽きる人がいるのか。
ウソだろ?と思う。
「キスしてくれる?」
 俺は諒に、軽くおはようのキスをした。
「おはよ。朝メシの材料がなにも無い」
「あ、買い物行ってないや。もう出る?」
「おう、店開けないと」
 ポケットにスマホと鍵。これだけあれば後はなんとかなる。
「お昼、SUBWAY持っていく。いい?」
「マジで?つか在廊しなくていいのか?」
「今日画廊休み」
「そっか。ゆっくりでいいよ」
 まだ眠そうに大あくびをする諒に言って、俺は部屋を出た。
 昨日はセックスしてすぐ寝てしまったから、肝心なことは何も話していない。でも、話した方がいいんだろうな。俺が諒をどう思っているか、何をどう感じたから、こんなことになったのか。正直に。
 昨日のママの話しも併せて考えると、諒の本音を聞くことも、俺が本音で話すことも必要なんだと思えた。
 頑張れよ、俺。こんなに愛せる人にはもう出逢えないかもしれないのだから。
 俺は立ちこぎで自転車を走らせ、店に着くと大急ぎで、けれど綺麗に掃除をした。
 外はまだ真夏の気温だけど、店の中はもうとっくに秋冬物をディスプレイしている。もちろん黒い服ばかりだが。
「侑、お疲れさま」
 諒が、思ったより早くSUBWAYの袋を下げて入ってきた。
 レジ横に作った小さなカウンターで、俺たちは並んでサンドイッチを食べた。サンドイッチとポテトは3つ、ドリンクは4つあった。いつもの俺たちの買い方。これを二人で分けっこして食べる。
「この時期って街から人がいなくなるな」
一番好きなえびアボカドをムシャムシャ食べながら、俺は言った。俺は好きなものを最初に、諒は最後に食べる。
 そして飲み物はいつも、夏はアイスコーヒー、冬はホットコーヒーなのだが、その切り替えのタイミングも俺たちは同じだった。
「侑は?そういえば全然実家に帰ってないでしょ?」
「そういう諒もだろ」
 俺たちは目を合わせて笑った。
 俺の実家はこの街から東へ、諒の実家はこの街から南へ。それぞれ県を跨いだ先にある。
 電車に乗ってしまえば少し居眠りしている間に帰れる距離だというのに、俺たちは一緒に暮らし始めて一度も帰省していなかった。
 俺に関して言えば、父親と折り合いが悪いので、進んで帰りたくないというのが本音だ。
 諒はなぜ帰らないのだろう?今まで聞いたことがなかった。
「俺、忘れてたけど去年この時期休むとか言ってなかったっけ?」
「あーなんか。言ってたかも。ごめん、ちゃんと覚えてなくて」
「ま、いっか。店開けたまま諒とランチデートも楽しいし」
 諒はなぜか、あまり見せたことのない曖昧な表情をして見せた。
「そんな顔しないでくれよ、こっちが不安になるからさ。都合の悪いことでも、くだらないことでも、怒らないで聞くから」
 俺が言っても諒は答えず、ゆっくりアイスコーヒーを飲みながら、たぶん言葉を探している。
 続く沈黙。根負けして俺から話し始めてしまいそうだったが、サンドイッチに嚙みついて我慢した。
 諒は全部を食べ終えて、カウンターを片付け、2杯目のアイスコーヒーを飲み始めるまで無言だった。
「まず、ごめんなさい。あの夜言ったことは何もかも本当のことで、それ以上でも以下でもない」
 俺は黙って諒の顔を見た。この顔が好きだ。
「聞きたいこととか、言いたいこととか、ある?全部答えるから聞いて」
 俺はアイスコーヒーを一口飲んで、
「彼女を好きだったか?もう終わったことなのか?未練はないのか?かな」
 と聞いた。
「好きだったかは、正直分からない。一番近いのは嫌いじゃなかった、かな。侑に出逢った翌日に、もう二人では会わないってメールして。確か3日後に画廊で、大切な人ができたからもう会いませんと面と向かって伝えた。それは了承してくれた」
 そんなに簡単に、諒を手離すようには見えなかったけどな、彼女。
「ただ、画廊との契約については一切聞き入れてもらえなかった」
 なるほど。そこで時間を稼いで諒の様子を見るつもりだったのだろう。作戦としては悪くないし、気持ちも分かる。
「担当の人にも相談したけど、これは契約不履行で訴えられるって言われた。どうにもならないって」
「金を払うか、我慢するか、か」
「うん。そう。でもこの前も言ったけど僕が悪い。侑に秘密にして、終わらせて、無かったことにしようとした。全部僕が悪い」
「そんなに自分を責めるなよ。俺だって威張れた生き方してきたわけじゃない。現に諒に出逢った夜だって」
 俺は未遂だったとはいえ、諒と同じようなことをする一歩手前だったと話した。
「一人で生きていたら、いろいろあって当然だろ?問題はこれから。俺たちがこれからどう生きていくか、じゃね?」
 諒はまた、俺を惑わす上目遣いで俺を見つめている。でも。俺一生この顔に飽きない自信がある。
「画廊との契約が破棄できなくて後ろ暗いのに、恋人になったら今度は侑に飽きられるんじゃって自信がなくて。いつも怖かった。やっぱりゲイの人と付き合う方がいいって、いつか言われるんじゃないかって怯えてた」
 俺は、カウンターの上をさまよっている諒の手を握った。
「バカだよね。侑に言えばいいのに、聞けばいいのに。いつもただ不安に押しつぶされて、身動きが取れなくなって。言いたいこと飲み込んで、黙るしかないって思い込んで」
「うん。分かる。俺もいつも不安。初めは受け入れてもらえるのか、好きになってもらえるのか。そのあとは、やっぱり女性が好きだと言われるんじゃないかって。ずっとその不安と戦ってる」
 ダサい泣き言だけど、これをさらけ出さないと先に進めない。そんな気がした。
「僕は今までに好きになった人や付き合った人とは比べ物にならないくらい、侑が大切だと知ってる。でもだから、余計に嫌われないようにしなきゃって思ってた」
「そうだよな。俺も余計なことを言って、諒を傷つけたり嫌われたりしたらどうしようって思うと、何も言えなかった」
「一緒だったんだね」
 諒が、俺が恋した笑顔で言った。
「あのさ。俺、諒の顔が好きだよ。諒の笑った顔に一目惚れだったから。もちろんいまは絵の才能とか、粘り強くもの事に向き合うとか、ちょっとドジなとこや、でも俺を想ってくれるのや抱いてくれる時のぴったりくるカンジとか。諒の好きなところがどんどん増えてく」
 諒が、俺の手を少し強く握り返した。
「僕も。僕も侑に一目惚れだったけど、2年前よりもっと侑を好き。毎日一緒にいるのに、もっと一緒にいたい、離れたくないって思っちゃうんだよ?」
 俺の手をいじりながら、迎えに行っちゃうくらいにね、と言って、諒は笑った。
 本当に、彼の手も声も。もちろん顔も。俺は好きなんだと、あらためて、胸が痛くなるほどの恋心を自覚した。
「諒。約束する。俺はおまえの顔に飽きたりしない。一生、諒も諒の顔も好きでいる自信がある」
 諒は俺を抱きしめた。1年前と同じに、諒の腕の中は温かく、俺に天国を連想させた。
「ありがとう、侑。大好き。僕も約束。ずっと好き。一生離さない。いい?」
 俺は諒の腕の中でうなずいた。じわっと涙が滲んだ。ちょっとダサい。でも仕方ないよな、幸せなんだから。
「なんだかプロポーズみたいだね」
 諒が言った。そうだ。プロポーズを忘れてた。こんなゴタゴタした後だから、仕切り直してもう一度、しっかり伝えよう。
 俺たちは椅子に座り直した。
「あのさ、侑にお願い」
「ん?なんだ?」
 泣き声にならないように、俺は返事をした。
「個展の最終日と、そのまま打ち上げのパーティーに出る服、侑が決めて。なに色でもいい」
 俺は固まり、とうとうこの日が来たかと思った。いやでも待て。いま話したことを思い出せ。
 そうだ。今までみたいに怯える必要はないだろ?諒の服を選んだから、もう一緒にいる必要はない、という意味じゃないぞ。この件でも俺は怯えていた気がする。
「個展の打ち上げって画廊でやるのか?」
「そう、立食で簡単なケータリングとお酒」
「タキシードとか?」
 俺が言うと、諒は笑って、
「そんなんじゃなくていいよ。暑いし、ジャケットもなくていいかな~とも思うし。でも侑がこれっていうのがあれば、それを着るから、選んでくれる?」
 最初の約束。それを果たす時が来た。ビビるな、俺。
 タイは?と俺が聞くと、諒は首を振った。
「侑がいいと思う、僕に似合う服で行きたいから、そんなに堅苦しく考えないで。画廊だし、ドレスコードも無いと思って」
 俺は頭を横に倒した。考えているポーズなのだが、諒にはそう見えないらしい。これをやると頭をなでてくる。今もだ。
「俺は猫じゃないぞ」
「可愛いから、つい。ごめん」
「いいけど」
 俺は上の空で返事をして、頭の中で諒に着せる服を考えていた。
「ね、もう一つお願いがあるんだ」
「あ?なんだ?」
 諒は浮ついている俺の視線を捕まえて、がっちりホールドしてから言った。
「打ち上げ、侑に一緒にいて欲しい。一緒に出てくれない?」
 俺は一瞬迷って返事ができなかった。
「嫌だよね、分かってる。でももしかしたらもう個展もやらないかもしれない。僕の絵の仕事がどうなるか分からないし、最終回みたいなものだから」
 侑に一緒に見届けて欲しいんだ、と諒は言った。俺は残っているアイスコーヒーを飲み干してから言った。
「最終回じゃないだろ?なに弱気なこと言ってんだよ。第一章の終了で、これから新しい章が始まるんだからな」
「そ、そうだね」
「第二章からは死ぬまで俺が登場するから覚えておけよ」
 俺は言って、カッコつけて笑った。
「そうなんだ。じゃあ死ぬまでよろしくお願いします」
 諒は笑って頭を下げた。
「諒の服も人生も、俺がいるから安心しろ」
「うん。侑もね。なにかあったら僕がいるって忘れないで。なんでも話して」
「俺も、よろしくお願いします」
 俺も頭を下げた。
「昨日さ、ママに言われたんだよ」
「なんて?」
「諒は俺に夢中だし、俺は諒に」
 恥ずかしくなって、口を閉じた。
「なに?侑は僕になんなの?」
 またあの上目遣い。くそっ。
「俺は諒に恋焦がれてるんだって。ママにはそう見えるんだと」
「さすがママ。僕は侑に夢中だよ?」
「ああ、俺も諒に恋焦がれてる」
 その瞬間、俺のスマホが鳴った。DMの着信で、通知を見るとママからだった。
「やべっ、ママからだぞ」
「え、噂してたのが聞こえたのかな」
 珍しく、諒が冗談を言う。
 ママはとてもフレンドリーだし、俺たち客にもとても親身になってくれる。けど客と連絡先を交換するとき、ママはSNSのDMしか教えない。
「わたしの電話番号なんて、知りたい人いないでしょーよ」
 と言って笑っていたが、そこはたぶん、ママの線の引き方なんだろうと思っている。
「なんだって?ママ」
「ちょっと待って」
 俺はメールを開けた。
「読むぞ。昨日はお疲れ~キラキラ親指。店開けてるの?昨日の腹ペコとアイスコーヒー代払ってくれる?踏み倒す?どっちでもいいけど、仲良くしなさいね~にっこりハート」
 俺が読み上げて、二人で笑った。
「どうする?踏み倒す?」
諒が笑って言う。
「バカ、どこに逃げてもバレるぞ。払った方がいいに決まってる」
 俺も笑いながら答えた。
「昨日のお詫びに、店閉めてからお茶しに行こう。諒は他に用事ないのか?」
「大丈夫。予定は昼寝とコレだけ」
 諒はそう言うと、椅子から尻をずらして俺に体を寄せ、長い長いキスをした。
 この間、全く客が入ってこなかったことに俺は感謝した。そして俺の頭の中は、諒と、諒に着せる服のことで一杯だった。

E
 個展って、こんなカンジなのか?と、俺は首を傾げつつ、画廊の中を一周した。
 画廊の中は音楽がかかっていて、みんな思い思いに絵を見ては、おしゃべりしている。
「どうしたの?侑。居心地悪い?」
 諒が心配そうに聞いてくる。
「いや、個展ってこんな?もっと静かで、足音もさせちゃいけないかと思ってた」
 俺が言うと、諒は笑って
「それは美術館とか?古いものだと息もしないで見るかもだけどね」
 と言った。
「今日はBGMをGryffinにしたんだよ」
 俺たちが好きなDJだ。部屋ではもちろん、俺は店、諒はアトリエでも聴いている。
 店の名前のcolorsは、彼の曲のタイトルだった。黒いものしか置かない店の名前を、colorsのままにした。これは諒が譲らなかった。
 今日の諒は、俺が選んだ服を着ている。
 朝、着替えさせて鏡の前で自分を見た諒は、
「大丈夫?変じゃない?」
 と聞いた。
「おい、俺が選んだんだぞ。変なわけも似合わないわけもないだろーが」
「すごい自信」
 俺は諒の服の襟元を直してやりながら、
「当たり前。諒のことは誰より俺が知ってる」
 と言い、熱を込めたキスをしてやった。
「侑、画廊、行きたくなくなる」
 諒が言って、俺たちは笑った。
 諒は画廊へ行き、俺は部屋の掃除と洗濯をして、画廊の閉まる少し前に到着した。
 あの、画商の女性につかまるかと思ったが、今は姿を見せていなかった。俺は少しほっとしていた。
 諒の個展の最終日は、なにごともなく終わりを迎え、諒の画家としての第一章も静かに終わった。
 そしてパーティーが始まる。
現実にはパーティーと打ち上げの間、的なもので、みんなが知り合いのような温かい感じでお疲れさま会を開いている、というイメージだった。
 俺も適当にゲストと話しをしながら、ケータリングのなにか分からない料理に感動したりしていた。
「侑、侑~どこ?」
 諒の声が俺を呼んだ。
 俺は手を上げて、諒のいる場所へ急いだ。
「どうした?」
「どうもしない。ここにいて」
 そう言うと、諒はスタッフに手を上げた。
 音楽が止まる。
「皆さん、本日はお越しいただきありがとうございます。僕のここでの活動は今日でいったん終了になります。今までありがとうございました」
 諒の挨拶に、拍手が起こった。
「最後に皆さんに見届け人をお願いします」
 諒はそう言うと、俺の前に跪いて、
「侑。これからも僕に、見えない色を見せてくれる?」
 と言って指輪を出した。
「死ぬまで一緒に、ゲリラ豪雨に打たれよう」
 え。プロポーズ?された?待て待て。俺がするはずだったのに。
「返事、してくれないの」
 諒が、不安そうに言った。
「おう。死ぬまで二人乗りで帰ろう」
 俺が言うと、諒は俺に指輪をはめて立ち上がり、俺を優しく抱きしめた。それを待っていたように、スタッフがGryffinのcolorsをかけた。
 涙があふれる。くそっ、止められない。
 ゲストのおめでとうと言う声や、拍手だけが聞こえて、こんなに幸せだと早死にしそうだと思った。そう思いながら、死んでもいいから今を、諒を、手放したくないと強く願った。
 それからしばらくして、会はお開きになった。
 俺たちは、最後に黙って二人で会場を一周し、画廊の入り口で一緒に頭を下げた。諒は、きっといろんな思いがこみ上げているんだろう。神妙な顔をしていた。
「あの、ちょっといいですか?」
 会場にいた、俺たちより少し上の男性が声をかけてきた。俺たちは顔を見合わせた。
「突然すみません。俺、侑さんの店で服を買ったことが何度かあって」
「あ、そういえば」
 俺は見覚えのある人がいると思ったのを思い出した。ウチのお客さんだったのか。
「実は俺、飲食店を何軒かやってるんですが、持ち帰り用の容器やバッグを諒さんにデザインしてもらえないかと思って」
 俺たちは顔を見合わせたまま動けなかった。
「あれ、侑さんの店のショッパー、諒さんがデザインしたって侑さんから聞いてて」
 お願いしたいと思っていたんです、と、その男性は言った。
 男性の名刺をもらい、俺たちは電話番号を伝えて、今週中に一度打ち合わせることになった。
「やった、ありがとう。楽しみです」
 そう言って男性は帰って行った。
「これって、画廊離れたご褒美なのかな」
 諒が言った。
「凄いな。第一章の幕が下りる前に第二章が始まったみたいだ」
 画廊を出るとき、少ししんみりしたのがウソみたいに、俺たちは早口に話しながら電車に乗った。
 何とも言えない気分だった。俺も頑張ろう。
 駅に着いて、駅前の駐輪場からママチャリを出した。
「諒、二人乗りで帰ろう」
 俺が言うと、極上の笑顔で諒がうんと言った。




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