60.

文字数 2,563文字

 外は昨日の雨の名残を感じさせる程度に灰色の雲が幾つか浮かんでいるだけで、とても雨が降りそうな気配はなかった。その天気とは裏腹に、紗江の心は暗く沈んだ。

 正樹が紗江を連れてきたところは、海辺のそばにあるホテルの敷地内のとある場所だった。その場所は青い空と海に対比して白一色で纏められ、円形に陣取られた大きな柱はアテネの神殿の中に佇んでいるよな錯覚さえ覚えた。正面には祭壇のようなものがあり、その隣には金色の鐘が朝の光を受けて輝いていた。

 もしかしてここは…。

 そう、そこは紛れもなく、ホテルのチャペルであった。

 どうして、こんなところに…

 紗江の心は凍りつき、目の前の全てが色を失った。青も白もない、灰色の世界。紗江はそこに一人置き去りにされた。
 急に立ち止まってしまった紗江を不審に思った正樹が掛け戻ってきて顔を覗き込んだ。

「どした?気分が悪い?」

「大丈夫」と答えようとしたが、声を失ったかのように言葉が出てこず、紗江は小さく首を左右に振ることで答えた。
 正樹は疑い深そうに見つめていたが、軽く目を閉じ、次に目を開いたときには紗江の肩を抱き、半ば強引に紗江を祭壇の前へと連れて行った。突然のことで抵抗することもできず、二人は祭壇の前に向かい合っていた。

 正樹がどうしようというのか、紗江には理解できなかった。ただ、この場所に立っていることなど、もうただの一秒もできそうになかった。

「私、部屋に戻りますっ!」

 そう言って踵を返した紗江だったが、それ以上進むことはなかった。
 なぜなら、正樹が紗江の腕を掴んでいたからだった。

「待って」
「いやっ!戻らせて!」
「だめだっ!俺の話を聞いて欲しいんだ」

 話?何の話をするというの?もう逢えないって、そう言うの?

「いやよ!聞きたくないっ!」
「どうして!?俺のことが嫌い?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう。わかっているくせに。知っているくせに。

「好きよっ!だからいやっ!」
「なら聞いてくれ!」

 いつもこの人はとても優しい。なのに、今は、とてつもなく残酷だ。

「いやっ!」

 正樹の胸を突き飛ばして、紗江は彼の束縛から逃れた。
 けれど、数メートルも離れないうちに、再び捕らえられてしまった。

「離してっ!」
「いやだっ!」

 正樹は無理やり紗江を自分の元へと引き寄せ、その唇を荒々しく奪った。
 堪えきれず、紗江の頬を涙が伝った。一度堰を切って流れ出した涙は、もう止めようがなかった。その涙を見て、正樹を彼女をしっかりと捕まえていた力を少し緩めた。

「ごめん。でも、俺の話しを聞いてくれ」
「聞いてどうするの!?」

 零れ落ちる涙もそのままに、紗江は正樹に向き直った。

「何を聞いたって同じなのにっ!もう逢えないっていうんでしょ!」
「えっ!?どうして…」
「知ってるのよ。見たんだから…」

 紗江の脳裏に思い出したくもないあの幸せそうな光景が鮮明に甦る。記憶さえも彼女に残酷だった。

「何を、見たって!?」

 正樹は不振も顕に紗江を問い詰めた。それが余計に紗江の心を苛立たせた。

 こんなに思い出したくないものを、どうしてまた、思い出させようとするの!?それとも、見てしまったことを責めるの?しらばっくれてみせるの?

 苛立ちは怒りへと変貌した。

「見たわっ!正樹が家族で車に乗っていたのを!幸せそうに私の目の前を通り過ぎていったのよ!一度じゃないわ!ちゃんと見たんだから!これでいい?満足!?」

 全てを吐露して、紗江は怒りの炎を瞳に宿らせ、正樹を正面から見据えた。彼女は彼から吐き出されるであろう終わりの言葉に対して体を硬くし身構えた。
 しかし、正樹の言葉も態度も彼女の予想とは大きくかけ離れたものだった。

「待って、紗江。それ、いつ?」
「日曜日…ううん、他の日も見たのよ!」

 顎に手をやりしばらく考え込んでいた正樹だったが、顔を上げると次の質問を投げかけた。

「それ、男の子が二人、いなかった?」
「いたわ!」

 紗江の答えを分析しながら聞いていた正樹は、突如力が抜けたように紗江の肩に手をかけて寄りかかり、盛大な溜息をついた。そして肩を震わせて俯いていたかと思うと、これまた盛大に笑い出した。
 一人取り残された紗江はいきり立った。

「いいかげんにしてっ!どうして笑うの!?」

 しかし正樹は笑いを止めようとはせず、その代わりに紗江をその胸に掻き抱いた。突然抱きしめられた紗江は、その強さに思わずむせた。

「ごめん、紗江。嬉しくって」

 この状況の何がどうして嬉しいことになるのだろう。紗江が抗議の声を上げようと口を開きかけたが、それは正樹の唇によって塞がれてしまった。

「それ、違うよ」

 何が違うというのか、紗江が問うよりも先に正樹が続けた。

「紗江が見たのは、俺の妹と甥っ子だよ」

 妹?甥っ子?

 目を丸くしたままの紗江に向かって正樹は説明を続けた。

「アニキ、あ、妹の旦那がさ、単身赴任してて俺は足によく使われるの。紗江が見たのは間違いなくそれだよ」
「でもっ!初めて電話したときにだって、後ろで声が…」

 正樹は記憶を辿るように宙を仰いでいたが、ああと声を上げた。

「それもそう。旦那がいなくて淋しいからって、無理やり遊びに来てたんだよ」

 紗江の肩から力が抜けた。

「ちなみに俺は結婚もしてないし、彼女は紗江以外いないから」

 正樹の言葉が紗江の頭に木霊した。

 結婚はしてない
 彼女は紗江以外にいない

 それを聞いてなお、紗江は小さく「うそ…」と呟いた。

「信じられない?」

 それまで、彼には素敵な家族がいて自分のことは遊びだと、信じて疑わなかったのだ。信じたいけど信じきれない自分がいた。

「じゃ、これで信じてくれる?」

 スラックスのポケットから取り出した小さな箱を、正樹は紗江の目の前で開いて見せた。そこには朝日を受けて輝く、透明な宝石のついた銀色の指輪が鎮座していた。

「これ…」
「実は今日、紗江にこれを渡そうと思ってここに連れてきたんだ」

 これを、私に…?

 まだ信じきれないでいる紗江に向かって何かを思い当たった様子で、正樹は紗江の前に跪いた。

「紗江、愛してる。俺と結婚してくれないかな?」

 紗江の目には喜びの涙が沸き上がった。

「イエス?それとも、ノー?」

 紗江は目の前に差し出された手を取り、にっこりと微笑んだ。

「イエスよ!私も愛してるわ!」
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