子どもは寝る時間

文字数 7,916文字

 先輩の匂いが私の髪からした。柑橘系のような、はたまた不健康なエナジードリンクのようなそれが、湯気の昇るまだ乾かない顔の周りに漂っていた。
 洗面台の鏡に映った私は浮かない顔をしていた。だがそれは習慣によるものだったと、どこかで読んだような言葉が思い浮かんだ。実際私は、さほど落ち込んではおらず、生れ落ちた新たな世界を前にして不安を抱いているだけなのだ。

 ようやく戻った部屋の蛍光灯と、背後から照らす脱衣所の暖色の光が、振り向くと、狭いその廊下兼キッチンを照らしていた。六畳一間のリビングを見渡すと、右手にあるベッドから、布団やシーツが、生き物が苦しみもがいた末に果てたかのよう散らかっていた。
 その乱れた布団を僅かに寄せて、上半身を晒した先輩が部屋の中でただ一人、スマホを片手に涼しげにしていた。廊下側の壁にもたれていたので、その姿は部屋に入るまで私から隠れていた。十二月の寒さのせいだろう、下半身は布団のなかにあった。
「強くなかった?」
 予備動作なく聞かれて、私は少し飛び上がった。
 先輩も、驚く私に驚いて私の方を向いた。
 幾許かの後ろめたさの気配が感じられた。
「シャンプー、強くなかった?」
 しかしその目はやはり涼しかった。冷たくはないが、熱くも無いほどよく私を眺める瞳だ。さっきは暗くてよく見えなかった上半身に何も感じなかったのは、先輩の瞳が作る静かな空気に合わせて、私の心身が自ずとあらゆる動性を殺すべきだと察知したのだ。
「……大丈夫でした」
 またタオルを動かし始め、ベッドに腰かけた。その場所以外に私の納まり場所を知らなかったからだ。
 小綺麗に整頓されていたその部屋は、物があるべき場所にあり、あらざるべきところに無かった。だから、部屋は広くはなかったが、現状、整頓を欠いたベッドは理性的なその部屋の中で異質に浮き立って見えた。しかしそれにも増して、この部屋に最も拒まれているのは私のようにも思える。
「大丈夫?」
 先輩がまた唐突に訊いた。
「大丈夫です」
「君じゃない、彼だよ」
 些細だが確かな痛みが胸を走った。恥ずかしげもなく露わにした左胸の奥で早鐘が鳴り、呼吸が乱れ始める。けれども、この痛みから逃げたいなどとは思わなかった。



「これとかどう?」
 初めてのデートで彼ことアサヤから買ってもらったのは、ダサいキーホルダーだった。江ノ島に行ったから、島の頂上に立っているあの有名な展望台のキーホルダーだった――と思う、灯台ではないはずだ。ポップにデフォルメされた絵柄が、これからそれを自らに課さなくてはいけないと思うと、気持ち悪く思えた。いずれにせよ、私はそれに興味はなかった。江ノ島というそれだけの脈略しかなかったが、私は何を思ってか、何も思うことなく、それを買った。
「似合う?」
 リュックにつけてみると、どうでもよくなって、そんなことが言えた。

 それが今年の夏だったはずだ。同じ高校から同じ大学に上がって、同じサークルに入った。お互いに憎からず思っていて仲も良かった。私と彼と、それから男女何人かの高校時代のグループは、今思えば適当に生きてはいたが、健やかに生きていたと思う。それに、屈託なく笑う彼は美しいと思えた。なんとなく、そんな経緯で私たちは一緒になった。
 手っ取り早く言語研究会などという縁もゆかりもないサークルに二人で入ったのは、大部分では私が、少ない部分では彼が、互いに忖度した部分が大きいだろうが、後悔はなかった。緩かったし、飲みサーだったから負担にならなかったし、何百とあるマンモス校のサークルを吟味する気など私にはなかった。だから、彼が興味を示したそこに、私はあわせて入ってみた。彼も彼で、私が彼と同じところに入るだろうとは思っていたから、私が順応し易そうな場所に目をつけたのだろう――とは、やはり言い難いか。きっと彼の目には、悲しいかな、私と過ごすキャンパスライフとそのサークルで適度に生きている先輩方や同期しか見えていなかった、というのが本当のところだろう。



「付き合ってどのくらいだっけ?」
「半年以上……。八か月とかじゃないですかね」
「ちゃんと告白はされたの?」
「一応、形だけみたいなものでしたけど」
「お互いスキ同士だったんでしょ?」
「いや――まあ……」
 煮え切らない答えになった。アサヤの面影は思い浮かばなかった。そのうちに先輩が布団から出ようとしたので私は少し動揺したが、思えばもう隠すものも無かったことを思い出した。だが先輩は既に下着を着ていた。その黒地の伸縮性のあるボクサー型のそれが、私を無駄のない先輩のお腹に注目させた。
 こういう時、先輩も一応は学生なら、煙草を吹かすなり、冷蔵庫からビールだの大人ぶって買ったサントリーの角瓶なんかを戸棚から取り出してハイボールを作るくらいのものだろうが、生憎先輩が取り出したのは酒でもなければ煙草でもなかった。
 ヘルシーな先輩、小綺麗な先輩が取り出したのは、味も色も、もちろんアルコールも含まないクリスタルカイザーだった。
「風呂浴びる前に水飲まなきゃ脱水するからね」
 そう答えた先輩は、それをラッパ飲みするでもなく、くすみのないグラスのコップに注いで私に寄越した。
「今更だけど」
 今更でよかった。この施しが、この言葉の上の作られたぶっきらぼうが、私を先輩に導くのだ。



 手っ取り早く入部を志した言語研究会の体験入部に参加した私とアサヤは、その帰りに飲み会に招待された。部会の教室を出る間際にこれを伝えられたのだが、他の新入生の肩越しにアサヤを見ると、すでに上級生や同学年と話すという有意義に一も二も無く飛びついていた。私はと言えば、彼が行くならとつまらない答えだった。どちらにせよ上級生の驕りでアサヤとタダで飲めると思えば断る理由はなかった。店に着くまでにその答えについて二、三言及されたが、あながち幸せだったということ以外はよく覚えていない。
 飲み会は大学近くの居酒屋で大部屋を、学内外を問わず、春の朗らかな新人勧誘ムードを漂わせる他のサークルと居合わせる形で催された。初めのうちは双方の知り合いが軽く挨拶する程度で互いに干渉せずといった姿勢に思われたが、酔いが回ればそんなことも無くなった。威張り腐った高田馬場の学生なんて所詮そんなものだ――と早稲田生の私が言うのも滑稽だ。
座敷の上に長テーブルが、壁で仕切られることもなく、入口から続く通路と垂直に四つ続いて並んでいて、一番奥とその手前の二つが我々のテーブルとなった。
 田舎者の私は上座下座などという堅いことを考えたのだが、その居酒屋よろしく、新歓の陳腐な文句だが、分け隔ての無い言語研究会は、とっとと席に着けと言うのが総意だった。私はこれに反してどこに座るべきかとくだらないことで戸惑ってしまった。すると私を追い越して一人の男性が一番奥に座った。
それが先輩だった。
「座って?」
 彼は右手で、敷かれていた座布団を叩いた。
 入口の方を見ると、新入生と上級生のその向こうにアサヤの広い右肩が見えた。誰かの頭の向こうに隠れた彼の顔は、私ではない誰かと楽しく会話しているらしかった。
「他の子待ってる?」
 優しくそう訊かれると、早く何か言わなければ彼の善意を無下にするようで後ろめたくなった。
「いえ、大丈夫です」
 私は先輩の隣に座った。すると他の人たちもぞろぞろと私に続いて、井草の香りも薄れ、ところどころ染みや焦げ跡のある座敷に、会話に花を咲かせつつ上がってきた。
「飲み始めたらみんな、コップ持って移動し始めるよ。安心して?」
 先輩はそこでは名乗らなかった。
 それから先輩たちにお酒が入って数十分、私は先輩を含めて声が幾分か大きくなった上級生二、三人と話をしたが、名前も知らない言語の名前や専門用語が僅かに、まだ覚えていない授業や大学施設の名称がたまに飛び交ったものの、意外にも自分がアウェーの会話の輪に入れる人間であったことが分かった。
 現役生? 出身は? 趣味は?
 そんなオーソドックスな会話は、陳腐ではあったが気を負わなくて良かった。
なんとなく、私がそこにいて見られている、見てもらえているのだと感じた。
「君、言語に興味ないでしょ?」
 夜も更け、上級生たちの会話から解放され、疲れからかまどろみかけた矢先にそう言われた。言葉が言葉なだけに、不意を突かれてたじろいだ。
「良いんだよ、それで。うちは個々で調べた好きなものを発表する場で、それがたまたま言語だったってだけなんだ。うちは本質的に飲みサーなんだよ。だから気負う必要もないし、飲み仲間を作る、なんていう軽い気持ちで入って欲しいなって思うわけ」
 通路の方、アサヤのいる方で、馬鹿笑いやら、零したやら、この間お前が連れてきた彼女はどうした、やら、いやぁそれがあれから十日も経たず別れたんだ、やら、学生の溌溂な生の音が聞こえた。その心地よい人間臭さに、私は自然と微笑んだ。
「私、入りますよ」
 視線はそのままに答えた。
「本当に? 言っておいてなんだけど、決め手は何?」
 その時、アサヤがふと思い出したようにこちらを向いた。無邪気なその顔に、初めて一抹の不快感を覚えた。しかし私は笑顔を作り、手を振り返した。彼は私と先輩を僅かに見ただけで、また他の人との騒ぎに戻って行った。
「彼、入るらしいので……」
 私は遠くで他の新入生やサークルの人たちと大声で話し合っているアサヤを見た。
「彼って……どれ?」
「え、今こっちを向いた男の子ですよ」
 男の子というには些か肩幅やら背丈が規格外に思えたが、太陽のようなあの無垢には当てはまるだろうか。
 アサヤはもともと運動部だったので身体が大きい。ハグされると、着ぐるみのそれのように、私は簡単に包み込まれてしまう。
「ああ、あの子ね。仲いいの?」
「いえ、高校の頃からの友達です」
「そりゃあ恋人には見えないからね」
 私と先輩はテーブルの端からアサヤを見ていた。平凡な私よりも純真なアサヤが人の輪の中で目立つことは目に見えていた。そして私たちの仲が良い関係、あるいはそれ以上のものとみられる予想もしていたのだが、こちらについては、少なくとも先輩に対しては、外れたらしい。先輩には私たちというものが見抜かれてしまった。
「彼、こっちに来ないね」
 胸に沸いた不快感が、火傷のようにじわじわと痛んだ。

***

「見てくれが良くて紳士的な先輩? そんな人いたっけ?」
 梅雨頃のこと、あれ以来先輩と顔を合わせる機会がなかった私は、三年生に先輩のことについて訊いた。
 屋根のついたテラス席での飲み会だったと思う。土砂降りの空の向こうで雷が鳴っていたのに、メンバーたちは暢気に長机を囲って酒を煽っていた。早大生にとって酒とは、鬼にとっての金棒、魚にとっての水なのかもしれない。ただ、大量に飲んだところでその分吐き出すものだから豚に真珠とも思える。飲みサーに所属している私が言っても仕方がないが。
「確か木内先輩と吉田先輩も私とその先輩の前にいらっしゃったと思います」
「あ、覚えてる! 富田先輩でしょ? 言いそびれたけど、あの人には関わらない方がいいよ」
 正面の木内先輩がハイボール片手に身を乗り出すと、ほんの束の間、そのテーブルの騒がしさが一時的に下がったのを私は確かに覚えている。張り合うような我々の発する喧噪がその瞬間だけ拮抗を崩し、遠雷にかき消された。が、それはやはり一時的なもので、彼らは何もなかったかのように再び騒ぐのを始めた。
「いろんなサークルに出入りして女にだらしないって訊くからね」
 それを聞きつけて周りの上級生たちがこちらを向いた。
「見てくれは良いから、無駄にモテるんだよ」
右斜め前の入江先輩がお猪口に熱燗を注いで言った。
「あの人ん周りじゃあ、月に一ぺんぐらいで起こっちょるけーな、キャットファイト」
今度はビールを飲み干して左手の江崎先輩が言った。
「ああ、あの中文の先輩ですか? 発音綺麗でしたよね?」
「あのかっこいい先輩? この間見たよ?」
 同期の佐々木と後藤が左斜め前と江崎先輩の向こうから言った。同期なのに佐々木は顔が真っ赤だった。
 そして発言権は私の右隣の吉田先輩に戻った。
「良い人ではあるし顔も広いんだけど、こと女性関係が頗る悪い、それがあの人ね。アサヤ君っていう彼氏がいるなら、関わらない方がいいよ」
 入江先輩から熱燗を受け取って、吉田先輩はお猪口を溢れさせた。びっくりした拍子か何かで彼女はお猪口を落とした。陶製のそれは二つと無数の破片となって床に散らばった。
「先輩! 何してんですか!」
「ごめ~ん、もう手元のコントロールが効かね~……」
 私は後藤におしぼりを顎で催促しつつ、通りがかった店員を呼び止めた。だが私の声は遠雷と喧噪に掻き消されて彼には届かなかった。
 催促していたおしぼりを後藤から受け取るとき、彼女の少し派手な紫色で光沢のあるネイルが目に付き、少し羨ましいと思った。
 飾りっ気のない髪を翻し、私は去り行く店員の白シャツの背中に向かって声を投げた。
「お冷三つ!」
 店員は首を竦めて私を振り返った。不快な表情をされるかと思ったが、意外にも笑みを湛えて親指を上げた彼に、かえって私の方が驚いた。
「紗英ちゃんは面倒見がいいね~」
 常温の日本酒を拭いていると、聞し召した吉田先輩がヘロヘロな声を上げた。少し泣き上戸な一面が窺えるようで、私は彼女を可愛いと思ったが、深く馴れ合おうとは思わなかった。



 蛇口を捻る音がして、それから水が幾分柔らかくタイルを打つ音が聞こえた。
 シャワーを浴びる富田先輩を想像すると、上半身だけで下半身は不鮮明だった。それ以上想像したいとも思わなかったので、私は水の音に耳を傾け、そのままベッドに横になった。横になって初めて、それが北枕になっていることに気づいた。迷信は信用しない性質(たち)なのだろうか。
 目の前の壁にはどこにでもあるような円い時計がかけてあった。眠いのも当然で、時刻は十二時を過ぎていた。
 昨日の今日が終わった。昨日の明日が始まった。
 この「た」は完了なんだっけ? getの過去形と完了形って何が違うんだっけ? 確かアサヤがそんなことを言っていたような気がする――

 ああ、私本当に興味無かったんだな。

「電話! 鳴ってるよ!」
 浴室から先輩が声を上げた。
 私の携帯に着信が入っていた。
 そこには綾野アサヤと書かれていた。
「もしもし」
 思いのほか疲れた声が私の口から漏れ出た。
「紗英? 今どこ? 飲み会終わったら、いなくなっててびっくりしたよ?」
「ああ、ごめん」
「んで、今どこにいるの? 先に家に帰った?」
 言葉が詰まった、だが胸は詰まらなかった。
 ついでにこの会話もつまらないと思った。
 少し笑えて来た。
「え? どうしたの? ねえ、大丈夫?」
 コイツはどこまでも薄っぺらい。薄っぺらく見えるほどに、純粋で清らかなんだ。彼は典型的な落伍者で、私は幻想を見ていたんだ。
「いやー、ごめんごめん」
 ただ、もう美しくは見えない。清らかなだけが美しさではない、そう思ってしまったからこそ、私は今、先輩の家で先輩のベッドに寝っ転がっている。
 底抜けに明るい彼が、滑稽に思えて、愚かに思えて、そして――不憫に思えた。
 誰のせいでもない。君は無垢で無知だっただけだ。無神経なんていうには、君はあまりに多くのことに目を輝かせ過ぎたんだ。そうやって光を追っている人には、一歩下がったところで、卑屈な目で、いろんなものを嫌いになる人のことなんて分からない、それだけなんだ。
「ごめん……」
 涙も出なかった。裏切ったなんて思わない。ただ仲の良い二人、あるいはそれ以前に戻るだけだ。どうせ一線も越えなかった高校生の恋愛の延長戦なんだから何もなかったのと大差も無い。他人とも大差ない。
「アサヤ、英語の完了だかの話してよ」
「ええ? 今日富田先輩が話してたやつ? いい加減自分で分かるように勉強しなよ――」
 ちがう、ちがう、ちがう。そう言いたかったが、彼に非凡な答えを望んでいる自分は、果たして何者なのだろうかとふと考えてみた。答えは出なかった。
「今、富田先輩の家に――」
 その時私の携帯を先輩が奪った。先輩の髪から柑橘系のような、不健康そうなエナジードリンクの匂いがした。
「綾野君、久しぶり。元気かい? 君は相変わらず朗らかな声をしているね」
 先輩はまたもやこちらを見ることも、目配せすることも無かった。
「君に一つ言っておこう。恋人はね、所有物じゃないんだよ。愛の告白とか、ラブレターとか、契約とかで繋ぎ留められるようなモノじゃないんだよ。
「君、運命とか信じてるだろ? 残念だけどね、そんなものはないよ。でもね、僕も虫唾が走るような台詞を吐くけど、君たちが運命って言っているそれは、可能性をつぶしまくった試行錯誤の結果に過ぎないんだ。せめて恋人が自分のことを見限らないように、って試行錯誤すること、それが君たちの言う運命の正体なんだ。一つ君に質問しよう、どうして紗英が僕を選んだと思う?
「違うよ、偶然だよ。君、村上春樹は読むかい? 共時性っていうのは君も好きな言語学の用語じゃなかったかい? え、僕? 僕は知らないよ、だって言語なんて大して好きじゃないからさ。本当に言語が好きなら少数言語とか、実利性度外視な研究とかするんじゃない?
「あ、もしかして僕のことを下衆だと思ってる? それはそっくりそのまま君に返すよ。君こそ彼女の人権を踏みにじったとも言える下衆なんだよ? 分かってる? 彼女は君の非を認めないだろうけど、僕は違うよ? え、女にだらしのない僕こそ人権侵害してるだろって? 違うよ綾野君、問題は彼女が傷ついているかどうか、だろ? ……もう十二時だ、夜も更けたし、魔法は解ける時間だ。埒が明かないからもう切るよ? 子どもはとっとと寝なよ」
 先輩が通話を切る間際、スピーカーからアサヤの叫ぶ声が聞こえた。狼狽えてはいたけれど、やはり若くて元気のある声だった。

 寒い寒いと言い、先輩は私に布団をかけてベッドに入った。それから結局互いに身体を触りあって、私は先輩に跨った。仕方がないことだ、と異邦人の台詞が思い浮かんだ。そうか、異邦人だったか。
 また汗をかき始め、ベッドの上から、シャツを放り投げた、すると手が絡まった感触があった。見ると時計の下にあった籠が倒れ、洗濯してきれいに畳まれていた衣服が床に散らばってしまった。
 その中に、私のものではない女性ものの下着がいくつかあった。それらの洗濯物は、シャツやズボン、スカート、靴下などがあって、色合いや飾り気などから類型すると、三つほどの嗜好が見え透いた。
 では、浴室になぜ女性もののシャンプーが無かったのかと疑問に思ったが、簡単なことだった。不健康そうな匂いのする、私にも使えた先輩のシャンプー、その正体がそれだったのだ。彼女らは、少なくとも、先輩がもう来ないと判断した人のだ。私は大きな幸福感に包まれた。
これからどんなキャットファイトに巻き込まれようと、尻の軽い女と言われようと、この幸せを知ってしまっては、もう何もかもがどうでも良かった。どうせ私も、彼女らも、そして彼も、皆それは承知の上なのだ。私はまだ先輩の家の勝手を知らないが、彼女らは互いに存在を消し合い、先輩を囲っているのだ。そして各々、自分が「一番」だと思い込んでいる、あるいは思っていたに違いない。
 ただ一つ思うのは、もっと多くの人間と話して、大胆に変わればよかった、ということだ。
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