Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=3,116文字

「死体なんて、ここにはもうないですよ」
 デイヴィッド警部に連れ出されたニコルが、困惑した表情で呟いた。
 ここはイースト・エンドの裏通り。
 目の前には、舗装がところどころ剥げたまだらな地面が広がっており、くわえてその一角には、くっきりとわかるほどに赤黒く変色している部分があった。
 そう。この場所こそなにを隠そう、今朝三人目の被害者が発見された場所なのだ。
 だが、すでに遺体も運び出され、あたりに散らばる警官もいまやまばら。ニコルが困惑するのも無理はない。
 しかしその問いに、デイヴィッド警部がしれっと、
「当たり前だろ」
 さも当然といわんばかりの表情で、さらりと言い放った。
「当たり前って言われましても……」
「一応お前さんには現場を見ておいてほしかったんだよ。本当はちゃんとした検死もしてほしかったんだが、そっちの方はもう第一検死課があらかた調べちまってるからな」
 言って、デイヴィッド警部は手にしていたカバンをごそごそやって、厚い紙切れの束を取り出した。
「ほらよ」
「なんです、これ?」
 小首を傾げながら、のぞき込むニコル。
「例の事件の書類だよ。こっちには遺体の写真もある。要はこれで検死の代わりをしてくれってことだ」
 デイヴィッド警部は書類に貼り付けられた写真を見せつけるように、ニコルの目の前でひらひらとさせた。
 そこに写っていたのは、物言わぬ女性の姿。白黒だが、誰もが思わず視線を逸らしたくなるような、無残な惨殺死体だった。
「これは……、ひどいものですね」
 直視しつつも、ニコルは搾り出すように呟いた。
「この写真が三人目の被害者。ここで殺されていた女性だ」
 一枚の写真を書類から引き剥がし、デイヴィッド警部がずいと差し出す。
 ニコルはそれを受け取り、まじまじと見つめた。
 横たわる女性の死体。腹は真横に引き裂かれ、腸の一部が顔をのぞかせる。それ以外にも、胸や手足に刻み込まれた無数の傷跡。そして、身体中のいたるところから流れ出る、大量の鮮血。その名残が、いまなお目の前の地面を赤黒く染めていたのだった。
 すると、黙って写真を見つめるニコルに、デイヴィッド警部が横から口を挟んできた。
「被害者の名前はアイリーン・コックス。二十四歳の女性で、売春婦をやっていた。殺害日は昨日、十一月二十九日。殺害場所は、ここホワイトチャペル地区。ま、これは言わんでもわかるわな」
「売春婦、ですか。まだ若いのに……」
「どうせ日銭欲しさのことだろうさ。一応遺族のことも考えて、新聞記者(ブンヤ)には職業のことを伏せてある。これは一、二件目の被害者も同じだ」
「三人とも売春婦ですか。切り裂きジャックと同じなんですね」
「そうだ。だから犯人が切り裂きジャックの再来っていわれているんだ。だが……」
「だが?」
 言葉に詰まったデイヴィッド警部に、聞き返すニコル。
 すると直後、それを合図とばかりに、デイヴィッド警部が自分の中に溜まったものを吐き出すが如く、一気に捲くし立ててきたではないか。
「だが、この犯人は切り裂きジャックと比較して、その手際が稚拙すぎるんだよ! 俺がまだ警察として駆け出しだった頃、切り裂きジャックの事件に当たったんだ。あの時見たやつの切り口はまるで解剖でもするかのように見事で、しかも内臓の一部をちゃんと持ち去っていたんだよ!」
「だから、この犯人は切り裂きジャックなんかじゃない、と?」
「当然だ!」
 そうきっぱり言い切るデイヴィッド警部に対し、
「たしかに、警部の言うとおりかもしれませんね」
 さも落ち着いた口調で、ニコルはにっこりと笑顔すら向けながら同意してみせた。
 そう。これはその表情からもわかるとおり、決しておざなりの返答などではなく、はっきりとした肯定の言葉だった。
 これこそデイヴィッド警部にとっては、待ちわびていた、ありがたい発言のはず。なのにそれにもかかわらず、上官にすら歯牙にもかけられなかったデイヴィッド警部は、かえって怪訝そうな表情で、半ば反射的に聞き返していた。
「なんで、そう思うんだ?」
 するとニコルはデイヴィッド警部の手から書類をひょいと取り上げ、うんうんとうなずいてから、言葉を続けた。
「警部の仰っていたことがそのまま答えですよ」
「そのまま?」
「ええ、まず切り口について。スティーヴ警視の言うように、たしかに切り口の鋭さに関しては、衰えという線もあるのかもしれません。ですが、切り方の手順などは衰えようがないでしょう」
「手順?」
 思わず右に首を傾げるデイヴィッド警部。
 だが、二コルはそれを気にするでもなく、さらりと答えを述べ続ける。
「はい。だってほら、この腹部の傷。もし切り裂きジャックが警部の言うとおり『解剖のように見事な切り口』なら、まずすっぱりと縦に割いてないとおかしいでしょう。それなのにこの被害者は二十九箇所もめった刺しにされていますが、どの傷も腹を横に割いたものばかりじゃないですか」
「な、なるほど!」
「だからこの犯人は切り裂きジャックなんかじゃない、と断言してもいいでしょう。それにそれを証明するものはまだありますからね」
「うん、まだなんかあるのか?」
「あれ、もうお忘れですか? これも警部が仰ってたことなんですけどね」
「あん?」
 言われて、デイヴィッド警部は今度はさっきとは逆、左の方へと首を傾げた。
 しかしまたもや二コルはそれをさほど気にするでもなく、穏やかな笑みで返していた。
「ま、いいでしょう。では、まずは第一の犯行と第二の犯行を比較してもらえますか?」
 言って、ニコルは手にしていた書類を、デイヴィッド警部に手渡した。
「うん? とりあえず読み上げりゃいいのか? えー、第一の犯行は十月十四日、イースト・エンドのセントキャサリン地区で行われた模様。夜明け頃、近所の酔っ払いが遺体を発見。被害者の名前はアニー・スコット。二十七歳。職業は売春婦。死因は十八箇所に及ぶ刺し傷からの失血死で──」
「はい、そこまででけっこうです。それでは、二件目の方もお願いします」
「えーっと……、第二の犯行は十一月十五日、イースト・エンドのホワイトチャペル地区で行われた。うん、ここのすぐ近くだな。深夜、悲鳴を聞きつけた巡査が駆けつけるも、すでに事切れた状態で発見された。被害者の名前はローズマリー・ジョーンズ。二十三歳。職業はむろん売春婦。死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死で、それ以外にも腹部に七箇所の刺し傷あり、と」
「その二件の犯行と今回の犯行を比べて、なにか気づいたことはありますか?」
 いきなりニコルに質問をぶつけられ、頭をこりこりと掻くデイヴィッド警部。
「う、う~ん……。二件目は、それ以外の事件と比べて、腹部の傷が七箇所だけという少なさ、とかかな?」
「それは巡査が駆けつけたから、解剖の真似事を途中で止めて、慌てて逃げただけでしょう」
「そう……なのか?」
「ええ、その証拠に、一件目と三件目の事件も切り裂きジャックのように遺体の一部を持ち去ろうとしていますが、いずれも途中で断念して逃亡しています。おそらく二件目の場合も、時間があれば同様に切り傷が増えていたことでしょう」
「じゃあ、他になにかあるか?」
「あります。それは被害者の年齢です」
「年齢ぃ?」
 声を裏返して、デイヴィッド警部は思わず訊ね返した。いや、それはそうだろう。なんせ切り口の手順の線はともかく、被害者の年齢層の偏りの線は、今朝警視にあっさりと反論され、丸め込まれたばかりなのだから。

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