第1話 Dust Glassman from Strange Siphon

文字数 3,086文字

 カランコロン。
 ベルの鳴る音が響くと、男がひとり入って来た。
 疲れ切った表情をみせるその男は、ハンチング帽を目深に被り、幅の広い大きめの黒のサングラスで無精ひげを携えている。薄汚れたグレーのジャンバーに泥の付いたチノパンで、いかにも履きつぶしているスニーカーは同じく泥まみれで、すり切れた糸が数本出ていた。左手には紫色のボストンバッグをぶら下げており、こちらは新品らしく衣装に対してちぐはぐな印象である。サングラスのせいで年齢ははっきりしないが、肌の老け具合と帽子からはみ出た白髪交じりの髪から推測すると、四十代以上なのは間違いない。異様なまでの猫背で、怪我をしているのか、右足を引きずりながら辺りを見廻し、只者ではない威圧的な空気を醸し出していた。
 人を見た目で判断してはいけない。もしかしたら常連かもしれないと、厨房にいるマスターの様子をうかがう。だが、二人とも顔をしかめ、明らかに警戒している。その表情から顔見知りでない事がありありと伝わってきた。国長野は一瞬見ただけで顔を正面に戻し、微動だにしない。あんなに大声ではしゃいでいたカップルさえも、今は二人ともスマホに目を落としている。
 ハンチング帽の男は国長野の後ろを通り過ぎ、一番奥のカウンター席に座りながら、ボストンバッグを足元に置く。おもむろにメニューを取ると、それを指さし、何かを喚いていた。
 どうやらアルコールをご所望のようだが、マスターはないと答えたらしく、渋々といった感じでコーヒーと何かを頼んだ模様。
 注文を済ませた男は、ぶっきらぼうにメニューを退けると、腕時計に視線を向けた。三つ隣に座る国長野は、チラチラと横目を送ると、ただならぬ気配を感じたのか、伝票を掴みながら静かにレジへと向かった。高野内も小夜子に目配せして、伝票に手を伸ばす。
 そこでハンチング帽の男の声が上がった。「おい、兄ちゃん。ここら辺は詳しいのかい」高野内の手が止まる。だが、その声は国長野に向けられたものだった。一瞬ビクつき、引きつった表情でゆっくり振り返ると、国長野は、私ですかと人差し指を自分の顔に向けた。
「そうだ、お前だよ。まあ、こっちに来な」
 男は手招きをして、ここに座れとばかりに隣の椅子をポンポンと叩く。その威圧的な態度に押されたのか、国長野は肩を落としながらトボトボとハンチング帽の男に近づいて隣に座った。ハンチングの男は何かを話しかけているようで、国長野はぎこちない相槌を繰り返している。
 マスターは黙々とコーヒー豆を挽き、麗奈は眉を寄せながら不自然に食器を洗いだす。帰るタイミングを失い、小夜子も困惑の色を見せていた。
 店に来てから二度目となる松田聖子の明るい歌声が、やけに鼓膜を震わせた……。
 ちょっと怪しいだけで、たかが客ではないか。人を見た目で判断してはいけないと、学校の先生が言っていた。ああ見えて、話せば意外といい奴かもしれない。
「臆することはない、堂々としていればいいんだよ」と、小夜子に虚勢を張りながら煙草に火を灯す。しかし、その煙は激しく揺れた。
 ふと、ハンチング帽の男と目が合った。正確に言えば男はサングラスをしているので、そんな気がしただけかもしれない。慌てて背中を向け、息をひそめた。しかし、男の椅子が鳴り、近づいてくるのが判る。小夜子は顔を伏せながらも、上目使いで男の動向を探っているようだった。
「ちょっといいかい」高野内の横に立ち、男は右手をテーブルに乗せると、体重をかけながら顔を覗き込んだ。「あんた、どっかで見たことがあると思ったが、ひょっとして高野内さんじゃねえかい? ……間違いねえ、探偵の高野内和也だ。まさかこんなところで有名人と会えるとはな」
 思わず唾を飲み込み、全力で首を振る。「いえ、人違いです。私は高野内とかいう探偵じゃありませんし、こいつも助手の峰ヶ丘ではありません」
『訊かれもしないのに余計な事を』ナイフのような鋭い視線が高野内を攻撃している。
 ハンチング帽の男はポケットからスマホを取り出して、しばらく指を動かす。「ほらやっぱりそうだ。完全にお前だろ!」と、フンと鼻を鳴らし、画面を向けた。そこには高野内がバッチリと表示されている。そのいで立ちは鹿追帽にチェックのインヴァネスコート。パイプを咥えながら、右手に虫メガネといった、さながらシャーロック・ホームズを気取っている。
 続いて画面を見せられた小夜子は、まるでコントの衣装じゃん、といった反応で、軽蔑のまなざしを送っていた。
「誤魔化そうったってそうはいかねえぞ。あんたには興味ねえが、高野内って名前には親しみがあるんでな」
 名前に親しみがあるということは、知り合いに同じ苗字の人がいるのだろうか。まさかこいつも高野内だったりして。だとすれば、読者にとってかなりややこしいことになりそうだ、もちろん作者にとっても。などと、どうでもいい事(?)を頭に浮かべつつ、何も言えずにコーヒーカップを傾ける。カップは既に空だったが、そんな事はお構いなしだ。
 男は画面を見直しながら、またも指を動かした。
「なになに……へえ、この前の金代台高校の連続殺人事件はあんたの仕業か。その前は弥生丸で起きたジュエリー北鳴門社長の事件。表向きは副船長が解決したとあるが、真相は名探偵高野内和也、つまりあんたが解き明かしたことになっているみてえだな。……それに蒼ノ衣島の事件も。これってマジか?」
 高野内は黙って首を振る。また何か突き付けてくるかと思いきや、男は次のターゲットとして小夜子を選んだようだ。
「おいお前! こいつの助手なんだろう? もしかして、この記事を書いたのは、あんたじゃないのか? ……正直に言えよ、お前たち付き合ってるんだろ」
「付き合ってません!」
 高野内と小夜子は同時に声を張り上げた。その声に僅かに退くと、ハンチング帽の男は口をへの字に曲げる。
 立ち上がって男の前に立つと、小夜子はサングラスの奥を睨みつけるように瞳孔を寄せた。
「大体失礼じゃないですか。人がプライベートでお茶を楽しんでいるところに、ずかずかと入り込んで。私たちが誰だろうとあなたには関係ないでしょう! それにその記事を書いたのが私ですって? 冗談言わないで。私たちには守秘義務があります。例え誰であろうと捜査上の秘密を漏らすようなことは決してありません。それなのに不特定多数が閲覧するSNSにそんな情報をアップするなんて。そんな下衆な真似、探偵としてのプライドが……!?」そこで小夜子は、なにかに気が付いたようで、はっとした顔になった。
「まあまあお嬢ちゃん、そうむきになるなよ」ハンチング帽の男は軽く手を挙げて、「邪魔して悪かったな」と、元いた席に足を向ける。
 男がテーブルから去ると、小夜子は声のトーンを落としながら、「……目の前にいたわね、プライドの欠片もないヘボ探偵が。さっき言いかけた“奥の手”とは、まさにこの事だったんでしょ。事件の事は表立って言えないものだから、こんなベタな恰好してまでネットでアピールして、仕事が舞い込むのを期待しているんでしょ。もしバレたら、それこそ信用を無くし、探偵業から足を洗うしかないわね」
 バレてしまっては仕方がない。小夜子にはすべてお見通しのようだ。
「やっぱりダメか……」伏し目がちにポツリとこぼす。
 更に『当然でしょう? そんな低レベルなリスクを平気で侵す人物は、世界中でたった一人しか知らないわ』といった目で頬を膨らませていた。
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