第三章 誰もが敗者

文字数 7,543文字

第三章 誰もが敗者

「まあ、お入りください。本当に散らかっていますけど、適当に座っていただければ。」

と、懍は全員を応接室に入れて、設置されている椅子に座らせた。

「どうもその節は、蘭が本当にお世話になりました。全くの劣等生で先生も困ったのではないですか。試験前でも遊んでばかりで、勉強はまるでしませんでしたから。」

日本の一般的な母親がよく言う台詞を使って、晴は懍にあいさつした。

「先生も、ずいぶんお年を召されたと思いますけど、お世話になったころと全く変わらず、いつまでもお元気で何よりです。」

「そうですか。83という年は、そういうご挨拶をされないといけないのですか。」

「だって80を超えたら、基本的にご長寿として尊敬されるべきですよ。老人と海の主人公だってそうじゃありませんの?」

「ああ、あれは単なる作り話ですから、大したことはありません。まあ、戸籍を調べればそういうことになっていますけど、僕自身は年をとったと感じたことはあまりありませんので、どうぞご了承くださいませ。」

「まあ、先生、ご無理をされてそういう事をおっしゃっているとご高齢なのですから、お体に障りますわよ。本当に変わりはありませんの?」

「ありません。たまに肩がこる程度です。」

「お強いですわね。私なんて、最近はこの暑さで、頭は痛いし、腰は痛いし、もう病院通いの連発となっております。」

歳が多くなってくると、自然に体の不調の話が一番にでてくるものらしい。理由の一つとして、若いころの栄華を忘れられず、それができなくなってきたことに不満を持つことがあるだろう。これをつぶやくと、若い人は迷惑がって、日本人は長生きしすぎとか、そういう変な思想を持ってしまうこともある。

「まあ、そうですね。そればかり口にしていると、本当に体も鈍ってきますから、生活体制を変えてしまうことはしないほうが良いのではないですか。」

懍は、笑ってそう返した。

「お茶、持ってまいりました。」

水穂が、台所からお茶をもってきて、それぞれの前に湯呑を置いた。

「あなた、うちの蘭をさんざんひどい目に会わせておきながら、一言も謝罪に来なかったわね。まあ、私が、あの子を逃がしてあげたからよかったようなものだけど。あのまま同じ学校へ進ませたら、もっとひどい目にあって、最悪の事態になったかもしれなかったわ。それに気が付かなかったのなら、そこまで綺麗なひとであっても、頭は大してないわね!」

「ちょっと、お母さん。そこまで言わないでくれ。」

晴が、演説する政治家みたいに罵倒したので、蘭は思わず止めた。

「いいえ、蘭もこの人にさんざんいじめられたでしょうが。被害者なんだから敵をかばうような真似は、しなくてもいいのよ!」

「敵をかばうって、戦争をしているわけでもないでしょうに。」

「何を言っているの!悪い人は徹底的に悪いとしたほうがいいのよ。そんな風に寛大すぎるから、いつまでも凶悪な犯罪も減らないんじゃないの!」

「それは関係ないと思うけどな。」

蘭がいくら止めても晴は意見をかえなかった。女性というものはなかなか意見を変えるのが難しいと聞くが、母親になってしまえば、もっとそれが強固になるのかもしれない。とくに、自分の子が障害でも持っていれば、さらにそれが強くなる。

「申し訳ありません。」

水穂が、晴の前で手を着いた。

「そ、そんなことしなくていい。」

蘭は急いでそう訂正したが、水穂はそのままでいた。

「いいえ、それだけじゃ足りませんよ!本当は、百叩きにしても足りないくらい。あんたもね、さんざんひどいことされてるんだから、もっとこの人に対して、僕の人生返してくれとか、罵倒していいのよ!」

「いえ、お母さん、それは間違いです。過去にあったことを追求し続けるのは、解決手段にはなりません。それはある意味、国家紛争の原因にもなっています。」

懍が訂正しても、晴が考えを変えることはなさそうだった。蘭はこうなれば、自分が真実を語るしかないと思い、勇気をだしてこう語りだす。

「お母さん、違うんだってば。確かに学校でいじめにあったのは事実だけど、その主犯だったのは、水穂ではないんだよ。」

「秋山先生だって、そう言ってたでしょ。同級生だって、みんなおんなじこと言っていたのに、今更それが間違いだったとでも?」

「だから、同級生がそう口裏を合わせただけなんだってば。その証拠に、僕も水穂も、友人と言われた人が誰もいなかったんだよ。」

「そんなこと当り前じゃない。ある意味では当然のことでしょう。あんただって、ただ怖かったとかそういう事しか言わなかったから、この人の犯行だと秋山先生も言ってたわよ。」

「お母さん、少し蘭さんの話を聞いてやったらどうですか。当時は子供でしたから、具体的に状況を説明するのは難しかったのも、仕方ないことですよ。同級生だって同じことです。今更なんだと考えたくなる気持ちもわかりますが、ある程度時間がたたないと、真実を語ることはできませんよ。山形マット事件が解決しなかったのも、自白を急ぎすぎたことが理由の一つでしょう。」

懍が少し、語勢を強くしてそう言い、美千恵も、

「晴さん、もう蘭さんもそれくらいの歳よ。」

と、優しく言った。晴は嫌そうな顔をしたが、

「息子さんのことを信用しないでどうするの。」

美千恵に言われて

「仕方ないわね。」

と、ぼぞっと言った。

「よし、じゃあ始めるか。」

杉三に肩を叩かれて、蘭は真実を語り始めた。

蘭と水穂は小学校時代から同級生であった。これは、ここにいるメンバーならだれでも知っている。蘭の家が、その学校にいる生徒たちから考えられないほど大金持ちであったことから、水穂を含めて他の生徒は彼に対して敵意を持った。蘭は勉強に対しては抜群の優等生で、よく担任教師の秋山先生にも可愛がられていたが、大変な虚弱なため体育の成績はまるで最悪。クラス対抗のリレーなどでは、クラスが最下位になった原因を作った。それの直後に水穂がやってきて、蘭に対して暴言を言ったというのが定説になっている。

「もう、その話は聞きたくないわよ。秋山先生から耳にタコができるくらい聞かされたから。」

「違うんだよ。続きはこれからなんだ。」

「続きなんて、この人から何をされたか、秋山先生から聞いているわ。運動会の話でしょ?あんたが、この人に、二度と運動会に出るもんじゃないと言われて、ひっぱたかれて帰ってきたと言っていたわね。」

晴はそう返した。もう、わかり切っていると思っていた。

「本当にごめんなさい。」

水穂もそういうので、もう事実は固まってしまっているらしい。

「違うんだってば。お母さんがクラス会で勝手にそう決着をつけただけだよ。秋山先生が開催した保護者会で。」

「クラス会があったの?」

美千恵が質問すると、いじめの解決のため、秋山先生が、緊急で保護者会を開催したと晴が答えた。それが開催されただけでも、かなりひどいいじめであったことは、容易に想像ができた。

「その時に、他の保護者のかたと話しあって、この人の主犯だと決着をつけて、うちへ賠償金をしはらってもらいました!そうよね。忘れたなんて、言わせないわよ。ちゃんと、証文だって、残っているし。まさか捨ててしまったなんてことはないでしょうね。」

「そこまでひどかったのか。なんだか、戦争の後片付けみたいな話だな。」

思わず、杉三がつぶやくほど、晴の対処は徹底していた。蘭が、そのお金で晴が新たに事業所を建設したと説明したから、相当な額だったと思われる。もしかしたら、家が破産寸前になるくらいの額だったのではないかと美千恵が聞くと、

「当り前じゃないの!どれだけひどいことをしたのか、わかってもらうためには、一軒つぶれるぐらいの事をしないといけないのよ!」

と、返ってきた。

「ちょっと、やりすぎじゃないか?」

思わず杉三が言ったが、晴には当然の罰としか映らなかったようだ。なるほど、こういうところが母御前と呼ばれるようになったのだと蘭は言った。まあ、そういう事である。伝統的な企業運営では、こういう形でほかの店や家を潰すことは珍しくないから、晴はなんとも思わないのだろう。それに大変な金持ちであれば、数千万円という金額で破産をすることはないだろうし、たいした額でもないのである。

「いいじゃない。それで決着はついたんだし。それ以降、蘭も卒業するまでいじめられることはなかったわ。ただ、もうこの一件で私は、次の学校に蘭を進ませるのはあまりにもかわいそうだと思ったの。それに日本から出したほうが、安全に暮らせるんじゃないかと思ったから、うちで働いていたドイツの職人を頼りにしてそちらに進ませました!ご存知の通り、日本では、親の都合で、遠方の学校にわざわざ行かせることはなかなかないでしょ。それに、二度と繰り返したくなかったし!」

「な、なるほどねえ、、、。それでわざわざドイツまで行かせたのね。」

晴の演説に美千恵が圧倒されるように言った。

「そうですね。日本の伝統品は、薩摩焼などもそうですが、日本国内より、ヨーロッパで人気があるのはまぎれもない事実ですね。ヨーロッパに日本の文化を広めたいとか言って、弟子入りしてくる外国の職人さんは、結構多かったですか?」

懍が言うように、海外に目を向ける伝統企業は結構ある。と、いうより日本の伝統のほとんどがそうなっている。杉三と仲良しのカールおじさんもそうだけど、日本人よりも日本の伝統に詳しい外国人は多い。

「ええ。中には、有能な公家の息子さんなんかが、うちへ働きに来たこともありましたよ。早くから、そういう人がいましたので、ドイツの学校を調査してもらったりして、蘭を安全なところへ避難させることは、難しいことじゃありませんでした。」

「そうですか。確かにドイツではシュタイナー学校のように、多少身体的に障害があったとしても、教育を受けられるシステムは充実していますからな。そういう事をいえば、日本の管理教育に比べると、自由が利くのかもしれませんね。」

「でも、そうしてあげたのに、恩をあだで返されたような気がします!」

「ま、その話はまた後でしましょう。それよりも、蘭さんの話を続けてもらわなければ。」

懍に促されて蘭は、身の上話の続きを始めた。

「だから、運動会で僕のせいで負けたと言いがかりをつけてきたのは水穂ではなく、他の同級生だったんだよ。彼等が僕に対して暴行を加えた時、水穂がやってきて、」

これを語り始める蘭の気持ちも複雑だ。時々詰まらせながら、涙を浮かべて話をする。

「いいよ、蘭。もう、うちも賠償金出してしまったから。」

不意に水穂がそう言った。

「何を言っているんだ。お前が無実だったの、話さないと、永久に解決しなくなってしまうぞ。」

「もう、片付いたのではないの?それでいいんだよ。」

水穂はあっさりと蘭の話を打ち切らせた。確かに、こういう話を伝えるのは、非常に難しいことであった。機械と違って人間は、事実をそのまま伝えるのがいかに難しいか、多くの文献や、歴史書に書かれている。

「だってさ、お前にとってはいい迷惑だっただろ。僕も子供だったから、まだそこら辺を理解することができなくて、申し訳ないと思っている。」

「いい迷惑と言っても仕方ないよ。権力者には逆らえないだろ。とにかく、お母様には本当に申し訳ないことをしたと思います。許してくれといっても、多分信じてはくれないでしょう。そうなったら、素直に賠償金でも払ったほうが、よほど早く解決しますよ。教授が例として挙げた、山形のマット事件に比べたら、よほど良い解決方法だったのではないでしょうか。あの事件の加害者は、今公務員として働いているらしいです。でも、被害者からみたら、それははらわたが煮えくり返るほど許せないと思いますから。それなら、うちが破産してくれればいいのです。」

「しかし、水穂!」

蘭は止めようと思ったが、水穂は変わらないようだった。

「いいんだよ。きっと蘭のお母さんからみたら、うちの事なんて、永久につぶれたままでいてくれたほうが、心が休まるよ。」

「その通り!私から見たら、その周郎と呼ばれていた顔に、傷でもついてもらいたいくらい!」

晴が勝ち誇ったように言う。

「そうでしょうね。僕も自分の顔のことはあまり好きではないので、そうなったほうがよかったかもしれませんね。」

「だったら、そうしてもらいたかったわ。きっとその顔を使って、何十人の女性と関係をもったでしょうから!それに、代わりの相手はいくらでもできると思うから、女性を一人か二人捨てることなんて、なんとも思わないでしょ!」

「いい加減にやめてくれ!お母さんは会社の中で、命令すればみんなが従ってくれるから、何を言ってもいいと思っているのかもしれないけど、僕はそうじゃないよ!」

蘭が、これ以上怒鳴れないほどいきり立った顔をして、母親に怒鳴った。

「何よ。あんたが一番安心して暮らせるように、適切な処置をとっただけよ!」

「適切でも何でもないよ!お母さんは、口減らしのために僕をドイツに出しただけでしょ!」

「変なことをいうもんじゃないわよ!あんただって、弱かったんだから、普通の人たちのような幸せは望めないことくらいわかってるでしょ!それを回避するために、安全なところへ出してやっただけよ!」

「安全どころか、いい迷惑なだけだったよ!いきなりこんな危ないところへはいられないから、どっか外国へも行きなって言いだして!僕からしてみれば、決して楽しくはなかったよ。だって、ドイツ人の同級生たちはみんな親御さんとどこかへ出かけたりしていたが、僕は、そうしたことは一回もなかったんだからな!」

「つまり寄宿生だったんですか?」

美千恵が横に入って質問した。

「いいえ、さすがに一人で住ませるのはかわいそうかなと思ったんで、職人として来ていたドイツ人の男性の家に住んでました。ちょうど、子供さんを失くしたばかりの人で、寂しそうにしていたので、よかったんじゃないですか。彼が定期的に写真を送ってよこしたりしていましたから、しっかり暮らしているんだなと思っていましたけど。」

「うん、確かに親切にしてくれたけどさ、他人の家に住んでいると、どうしてもそれに対して素直に感謝という気持ちにはならないんだよ。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになるんだよ。だから、表では笑顔でも、裏ではすごくつらかったよ!」

晴が話すとそれを打ち消すように蘭は答えた。子供が他人の家で暮らすとなると、大人がホームステイするのとはまた違い、複雑な感情が生じてしまうものだ。そういうところが、蘭もうまく処理できなかったのだろう。晴の話によると、蘭を預かってくれたドイツ人の職人さんは、雇われたときに事故で幼い実子をなくしたばかりであり、それもあってか彼を実の子供以上にかわいがってくれたようだ。定期的にドイツ国内のテーマパークなどに連れて行ってくれて、その写真を晴のもとへ送り届けていたという。晴はその写真で蘭が幸せに生活していると思ってしまったのだ。しかし、画像というものでは、表面的なことは読めても、その人の内面的な感情を読み取るのは難しい。

「そうですか。僕も、父をノモンハン戦争で亡くしてしまって以来、母の再婚相手と一緒に暮らしてきましたが、確かに違和感がありましたね。まあ、それが善となるか悪となるかについては、いまだに決着はでておりません。それができるのは、おそらく死ぬ間際でないとできないでしょう。若いうちに結論を出すなんて、無理なことだと思いますよ。」

懍が言うように、こればかりはそういうものだった。

「もしかしたら、永久にできないまま、終わる人も珍しくないでしょうね。」

「僕としてみれば、変なほうに行ったとしか考えられないな。単なる金持ちであることを利用して、蘭に余計な事をさせたような気がする。なんか、外国へ行かせるよりも、いじめっ子から守る方法を伝授するべきじゃなかったのかい?」

杉三がそう発言した。誰も止めようとはしなかった。

「いいえ、日本ではどこに行ったって安全な教育は受けられませんよ。私としてみれば、もともと弱かった蘭の事だから、好きなことを思う存分学ばせたいっていう気持ちもありましたしね。」

「そうだけどね、逃げることもできる人ばっかりじゃないと思うよ。できないとあきらめて、じゃあ、どうしたらいいかを考えることも必要なんじゃないのかよ。弱かったことを口実にしているようだが、水穂さんだって、弱い人だったぜ。」

「お母さん、杉ちゃんの言う通り、水穂だって、強くないよ。毎日吸入器を首から下げて学校に来てたの覚えてないのかい?それに、一回も給食を食べたことがなかったのに、給食費を払わされて大変だったんだよ。」

水穂が、アレルギーのため普通の食事ができないことは早くから知られていたことだった。肉魚油一切抜き、牛乳さえも飲むことはできなかった。ある時は、同級生に面白半分で牛乳を無理やり飲まされて卒倒してしまい、クラス中で大問題に発展したこともある。

「そんなことは関係ないでしょう。あるのは、この人がうちの蘭に、暴行を加えていたという事だけよ!」

「晴さん、給食さえもろくに食べられない人に、暴行を加えるなんてことができると思う?」

美千恵がそっと彼女にいう。それと同時に激しくせき込む声がした。

「おい、肝心な時に倒れないでくれよ!本当に君という人は!」

「ごめんなさい、すみま、」

杉三に背を叩いてもらって、何とかそこまで言いかけたが、咳に邪魔されて最後まで言い切ることはできなかった。あっという間に水穂の足元が血液で染まった。

「布団敷いて休もうか?」

蘭がそう言うが、返答することはできない様子だった。懍は調理係のおばさんに来てもらおうかと提案したが、美千恵がすぐに水穂を背負って、居室まで運んでくれたので、その必要はなかった。介護施設の理事長となれば、そのくらい朝飯前だった。

「いい気味だわ。」

晴が、皮肉たっぷりに言うと、蘭は悔しそうに車いすのふちを叩いた。戻ってきた美千恵は黙って汚れた床を拭いた。
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