第4話 気づいてしまった

文字数 3,450文字

僕達はまた地下鉄を乗り継いで、目的地へと向かった。園山さんは「秘密です」と言って、どこへ行くのかは教えてくれなかった。どこへ行くんだろう。


バーガー屋でも一度見たけど、園山さんのお財布は黒の革製のもので、「女性にしては珍しいけど、シックな服や鞄が似合う園山さんらしいな」、と思った。

今日の園山さんは膝下までの黒いプリーツスカートに白いブラウス、それから黒いジャケットを羽織っていて、ブラウスの衿元には緑色の細いリボンタイが結ばれていた。

可愛い服もきっと似合うだろうけど、奥ゆかしい服装をするのも園山さんらしい、と僕は思いながら、園山さんのスカートの裾あたりを見ていた。

それから、あんまりじろじろと見てはいけないと思って、電車の広告など読みながら、僕は考えていた。


「秘密」とは言われたけど、僕たちはどこに行くんだろう?


かわいらしいスイーツのお店かな?でもそれはあまり秘密にする必要がないような気がする。

美術館か博物館だろうか?それも言えない場所ではないなあ。

もしかして、意表を突いてゲームセンターとか?でも、それならさっきバーガー屋に入った駅前にもあったし、これも秘密にする必要はないなあ。


うーん、わからない。


僕は、地下鉄の乗り換えの時に、隣を歩く園山さんの表情を窺う。彼女は楽しそうだったけど、学校にいる時と同じような、どこか引き締まった顔をしていた。

もしかして、これから行く所はどこか園山さんにとって重大な場所なんだろうか?

そうは思っても、それは僕には思い当たる場所はない。園山さんは、あまり自分のことは話したがらないので、大学の図書館で雑談をする時も、僕ばかり喋っている。


そういえば、学校で園山さんが勉強している哲学って、どんな勉強が必要なのかな。


僕はいろいろな勉強をしてみて、それこそ技術職の人が手に取るような専門書を読んだこともあったけど、哲学には手を付けていなかった。なんとなくだけど、「漠然とした観念を扱う」というようなイメージがある。

「あの、園山さん」

僕は、駅のホームのざわめきや、流れて来るアナウンスに邪魔されないように、少し大きな声で園山さんに話しかける。

「はい?」

「あの…園山さんが勉強してる哲学って、どんな学問なんですか?僕、よくわからなくて…」

僕がそう言うと、園山さんはびっくりして、そのままそこで立ち止まってしまった。彼女は顎に手を当てて俯き、何か重大な一事について考え込んでいるように、眉間に皺を寄せる。

「え…すごく難しいんですか…?」

すぐに言うのを躊躇するような難しい説明なのだろうか?僕はそう思って、悪いことを聞いたかな、と考えていた。


「…はい、すごく難しい質問です…」


「えっ…?」

やっとのことでそう言った園山さんは、仰天する答えを出してきた。僕の質問が難しいってどういうことだろう?

「そんなに説明しにくい学問なんですか?」

園山さんは駅の雑踏の中、静かで厳かな空気をまとって顔を上げ、厳しいとも言えるほど真剣な表情で頷いた。僕はそれに気圧されて、何も言えなくなってしまう。

「…だから、「哲学する」ということも、とても難しいことなんです。私はまだできていません。いつか、それがやりたいんです」

そう言う園山さんは、入学式の挨拶をしていた時のように真摯な眼差しで、僕を見つめていた。でもそれは、僕を鏡として、自分に言い聞かせているような風だった。

僕には園山さんの決意の内容は詳しくはわからなかったけど、彼女が、とてもじゃないけど人間業ではできないようなことを目指していることだけはわかった。


すごいなあ、この人は。大きな目標を見つけて、それに、そこから逃げないんだ。


僕がそう思って黙ったままでいると、彼女の背後に、僕達が降りた路線の次の列車が滑り込んできた。


電車がレールと擦れ合う轟音に彼女は驚いて振り向き、また僕の方を向いた時には、いつもの彼女に戻っていた。


「すみません!急に変な空気にしてしまって!早く行きましょう!」

彼女は気まずそうに顔を赤くして、僕を見ながらエスカレーターを指差す。

「はい」








そうしてさらに四駅ほど電車に乗って着いたのは、都心にある、とても大きな本屋だった。

「本屋ですか?」

「あ、はい、本屋です…実は、ここの本屋さんに、教授の本の取り寄せをお願いしたので…」

「教授って、入学式の挨拶で言っていた、皆川教授の、ですか?」

「はい…教授本人のお手元にも、もうないようだったので…」

園山さんは恥ずかしそうに俯く。

「個人的な用事ですし、遊ぶ場所でもないので、前もって伝えておくのが、気まずくて…」

そう言ってしょんぼりと項垂れて肩を落とし、両手の指を組み合わせたり離したりする園山さんの肩を、僕は思わず叩いた。

「大丈夫ですって。僕も本は大好きですから」






それから、取り寄せた書籍をカウンターで彼女が受け取り、二人で店内を見て回った。

もちろん勉強の本も見たけど、僕達二人は最後はずっと、児童向けの絵本のコーナーにいた。


「わあ~、これ懐かしい!よく読んでもらったなあ~」

そう言って嬉しそうに可愛らしい小熊が描かれた絵本を見つめてから、彼女は僕を振り向く。

「僕もそれはよく読んでもらいましたよ。あと、こっちのも」

そう言って僕は三人の怪しそうな男が描かれた表紙を指差す。すると、彼女は一層目を輝かせた。

「いい話でしたよね!その本!想像とは全然違いましたし!」

「そうそう。実はこの三人、良い人だったんですよね」

僕達はその後、互いの読んだことのない絵本を紹介し合ったりして、本屋を出た。



「今日はもう帰りますか?」

本屋の前で出口の脇に逸れて、僕達はそこで立ったままのろのろと足踏みしていた。

「そうですね。もう夜ですし…」

彼女が言ったことに僕は当然の返事をしたけど、そこで、「まだ帰りたくないな」と思い、ふと、悲しいような、切ないような自分の気持ちを見つけた。



もっと彼女と一緒にいたいな。本当はずっと。



そう思った時僕は、大学の学食で彼女に初めて微笑みかけてもらった時の衝撃を思い出した。


嬉しかった。とても。


あの時は、急なことに驚いただけだと思っていたのに。



僕は、してはいけないことをしようとしている気分で、自分の気持ちを確かめるために、おそるおそる彼女を振り返った。


背の低い彼女は僕の視線に気付いて顔を上げて僕を見る。綺麗に編み込んだ、花冠のような髪の毛と、今、僕を見ているだけの両目の輝き。


それがこんなに美しく見えるんだ。こんなの、もう、恋以外の何物でもないじゃないか。



慌てて彼女から目を逸らして、熱くなる頬を隠し、僕は帰ろうかどうしようか考えている振りをした。

そして、心臓と手の震え、喉の強張りが収まってきてから、「じゃあ、駅まで一緒に行って、別れましょうか。僕、ここから二駅なんですよ」と、何気なく彼女に笑ってみせた。






家に帰ってから僕は、その日だけ勉強をしなかった。勉強どころか、何も手につかなかったのだ。

頭の中には、園山さんのことしかない。今は3+3の計算だってうんざりだ。


鞄を机の横に放ったままで、僕はベッドに身を投げ出していた。夕食を勧めに母が部屋を覗きに来たけど、「今日は食欲がなくて」と、言い訳をした。



僕は今日、彼女と二人きりで街に出かけて楽しかったはずなのに。

いつも彼女と一緒に図書館で過ごしていて幸せだったはずなのに。

今の僕は、重苦しい気分をなんとかため息にして吐き出し、それはもう部屋中を満たしてしまった。



僕は気持ちが苦しかった。園山さんを恋する人にして、「見ているだけでは満足できないもの」としてしまったことで。

憧れて尊敬できるだけで良かった。僕はそう思っていたから、自分の気持ちにこんなにも長い間気づかなかったんだろう。

もしこのことを僕が園山さんに言ったとしたら、どうなるかな。

…そんなことをしたら、いくら優しい園山さんだって、僕に幻滅するだろう。

だってこれを伝えるということは、今まであった心地よい距離感を否定して、敬意だけを持つ健全な関係を、不純な動機で否定するということになるんだもの。


僕がこれを口にした時、園山さんが今まで僕に向けてくれていた微笑みが、内心の軽蔑を隠した無色に変わるんじゃないか。そうして優しい園山さんは、心の内で思っていることを僕には告げずに、黙って僕の元を立ち去るんじゃないか。僕には、そんな不安な想像しかできなかった。


友達だから、そばにいることを許されていたのに。




僕はとても寂しい気持ちで、服も着替えずに眠った。








Continue.
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み