第4話

文字数 5,178文字

 自分が不甲斐無いのはわかっている。晴翔だって好きでいまだに勉強をしているわけじゃない。日々がつまらないとも思うし、通りすがる他人の幸せと比べると自分の人生の色あせた感じがなんともただただ情けなくて。しかし、都に怒鳴りつけたのはやりすぎだ。いまだって都はよくしてくれている、収入の面はこの状況では難しいから実家に頼るしかないのだが……。
 晴翔と都、客観的に見れば都の方が心の面では大人かもしれない。自分に必死な晴翔とくらべて幼い頃から大人に虐げられつつも、一人で立ち上がり黙って辛い環境の中を生き抜いた。日々無理をしていたことも多いだろう、その身体があまり丈夫でないことも知っている。

「……」

 人気の無い公園で、晴翔は小銭入れを出して自動販売機で缶ジュースを買う。そしてもやもやを発散するように中身を一気飲みをしていたその時、一台の自転車が晴翔を見て止まる。乗っていたのは、見覚えのある男。

「あれ? 何やってんの、晴翔」
「市川……」
「一人? 都いないじゃん、また何かあったのか」

 いつもならこの感情は誰にも明かさなかった。しかし今日の晴翔はどこか気が弱くなっていたのかもしれない。すべてを正直に打ち明けると、市川に思いきり足を蹴られる。

「何するんだよ……!」
「この、ガキが、お前見た目より随分と幼いよな。都は何も悪いことしてねえだろうが」
「わかってるよ……」
「いや、わかってないな。何もわかってないよ、都はただ少しでも働いて自立しようと考えただけじゃないか。それを全くお前は早とちりして……このままあいつが離れていってしまうとでも思ったのか?」
「……そうかもしれない」
「俺が見る限り都はそこまでお前に情がないわけじゃない、むしろ……」
「むしろ?」
「そこから先は自分で考えろ!」

 市川はため息をついて自販機で缶コーヒーを買った。ブラックで苦いはずのそれを一気に飲み干す、そしてため息とともに呟いた。

「お前ばっかりずるいよなぁ、全くこの世は理不尽だ」

 ***

 天井の染みを数えている。日に日に増えては来ていたのだろうけれど、最近の都はそれを意識することなくは横になればすぐ眠ってしまっていた。未だに晴翔の帰宅する気配は無くて、都はただ彼を思うもどうしようも出来ない。晴翔を嫌な気持ちにさせてしまった自分が悪い。せめて彼の心を傷つけてしまった謝罪を、しかし今夜はもう帰ってこないかもしれないうえに、そもそも迎えに行こうにもあてもなく……。
 横になっていても眠れない、疲れているはずなのに心の中がいまだ落ち着かなくて。明日も朝からバイトだった。店主、東雲はクセがあるから少し話しづらいが、多少慣れてしまえば彼がそこまでいつも怒りや呪いの類を抱えているかと言うとそうでもないようだ。
 彼は昔からこの街にいたわけでは無く、数年前に現れたらしい。だから近所ともそこまで交流はないと言う。そのせいかいつまでも買わずに店内をうろついているからと言うことだけで、早く出て行けと怒鳴りつけるのを見た。冷やかしは来るな、そんな接客をしていたら店は潰れてしまうのではないか? 都会はいろんな人がいるのだな、と都は驚くことが多かった。

 ***

 ドアの開く音にうつらうつらとしていた都は目を覚ました。慌てて起き上がると荷物を持った晴翔の背中が。

「は、晴翔さ……!」
「少し早いがまた出かける。朝食は自分でどうにかするから」
「えっ、あ、あの」

 帰宅して数分もたたずに彼はまた出て行ってしまった。唖然としている都はぼんやりと時計を見れば午前六時。彼は結局朝まで帰ってこなかったのか。
 まだ怒っている? けれど都にそれを謝る術も与えてくれない。今日も東雲の店にバイトにいかねばならないから、その前に掃除と洗濯をしてしまわないと……昨日の夕飯になるはずだった漬物がまだ冷蔵庫にあった。冷やして置いたし随分と漬けていたものだから傷んではいないだろうが、都はどこか置き去りにされた感がある。好きだからこそ、晴翔との距離の取り方が難しい。都は彼を嫌いになんかなれなかった。
 午前八時を過ぎた頃、燃えるゴミをゴミ捨て場に出して都はバイト先に向かう。昨日の擦り切れた手のひらには痕が少し残っていた。けれど力仕事を承知してのこと。文句は言えないからただ我慢するしか。続けていけばいつかきっと気にならなくなるだろう。

「おはようございます」
「ああ、さっさと着替えて来い。ほら」
「あ、あの……エプロンですか?」
「いらないのか」
「いえ、お揃いです、よね……」

 見れば店主も同じエプロンをつけている。昨日までは制服どころかこのエプロンもなかったのに。

「店の者が誰だわからないと客が困る。この数日見て来たが君はそうそう辞めないだろう?」
「えっ、ああ、辞めるつもりはありません……けど」
「じゃあ良いじゃないか、それをつけてさっさと働くぞ。今日は昼までレジで接客もやってみるか」
「はい……!」

 認められたのだ、東雲に。都はまだ必要とされる間は辞めないし、バイトとは言え始めたからには自分のためにも辞めたくない。落ち込んでいた気分が少し上がって、都は初めてのことに戸惑いながらも前向きな感情で新しい仕事に取り組むことにした。

 ***

 昨晩は結局市川の家に泊まっていた。アパートは晴翔のところよりも古くて壁にはヒビが入っている。

「帰った方がいいんじゃないのかー?」
「……明日ゆっくり時間があるときに謝る」
「こう言うのは時間をおけば置くほど気まずくなると思うがね」
「……」

 テレビすらないその部屋で晴翔は市川とぽつぽつとたわいも無いことを話しながら朝を迎える。扇風機二台を回しながら本棚を見れば見覚えのある小説の単行本があった。たしかこれだ、流行の小説が読みたい、そんなことを都が言っていたっけ。

「それ、今度映画化するらしいぜ」
「老緑に映画館はあるのか?」
「隣の駅にあるよ、駅前からは少し離れてるけど」
「そうか……」

 都を誘ってみようか、漢字が読めなくても映画なら。節約生活だが、これは必要経費。今になって都の笑顔が見たいなんて、こじらせた自分が悪いのだが……映画の帰りには駅前の洋食店にでも行こう。というわけで課題を終わらせたら商店街の下見をして、良い店がないか探しに行く。都も喜ぶ店があるといいのだけれど……。

「臨時閉館ってなんだよ!」

 晴翔が喫茶店のモーニングで朝飯を済ませたら、再び図書館前で再会した市川が絶叫している。なんでも都合により本日中は図書館が休みだと言う、途端に教科書を抱えたかばんが重くなった気がする。晴翔の課題はもうすぐ終わりそうだったが、市川はぎりぎりのところらしい。しかしがっくり座り込んだ市川の立ち直りは早かった。

「もー今日は諦めて家で寝る! 昨日の夜はお前いたからあまり眠れなかったしさ!」
「間に合うのか?」
「知らねぇ、でも図書館が閉まってるのは俺のせいじゃ無いしー」
「言い訳にはならないと思うぞ」
「うるさい、うるさい晴翔! じゃあな、また明日」
「ああ」

 午前九時だった。こんな時間から予想外に暇になってしまった。いや、やることが無いわけでは無いが……とりあえず、商店街にでも行ってみよう。

 ***

「君はとんだ機械音痴だな……」
「す、すみませんー……!」
「数字さえも満足に打てないのかこの指は、器用そうに見えたから任せたのに」
「野菜刻むのは得意ですよ?」
「レジは野菜じゃ無い」
「うう」

 店主の言うとおりにレジをいじったらお釣りの金額が想定外の桁になった。また、ボタンを押すタイミングが悪かったらしく、勢いよく引き出しが開いて都にぶつかって中のお金が飛び散って大きな音も立てる。もう朝から……大きなため息をついた店主に、都は小さくなっている。

「慌てずにゆっくりと操作してみろ。お釣りを待つ客は逃げない」
「は、はい!」

 そうしている間に開店時刻になった。とは言ってもこの店の開店時間はまちまちだったし一部の熱い常連客以外、なかなか人は入ってこない。店主は在庫を数えながらああでも無いこうでも無いとひとり言を言っている。

「このグラスの色違いはないの?」

 レジにやって来たのは高齢の老婦。いかにもお金持ちそうな風貌で、カールさせた髪に大きなイヤリングをしている。

「あ、あの、すみません、僕そこまでわからなくて……東雲さん!」
「なんだ」
「あの、お客さまが……」

 老婦は店主に向かってグラスの話を、彼はこれはフランスから仕入れたもので……などと表情を変えずに説明して、倉庫から色違いを数個出してくる。少し時間の空いた都は、レジの使い方を練習していた。

 ***

 午前十時前だが商店街はまだ静かだった。都の行きつけの八百屋も品出しをしているところ。ぼんやりと辺りを見ながら歩いていると、開店中と書いた看板を出している輸入雑貨店があった。そこは老緑雑貨店。
 晴翔が小さなドアから入っていくと店内は海外の香水の醸し出すような独特の匂いがして、やけに大きな声の老婦が男性と大きな声で話している。品物を見ながらふと会計の方に目をやれば、そこにはエプロン姿で緊張した面持ちの都がいた。予想外の事態に驚いた晴翔は思わず物陰に隠れる。大きな声の老婦は商品を購入することに決めたらしい。レジを打つ都の手は緊張しているのか少しこわばっていた。そこへ一人の目つきの鋭い黒髪の男性が晴翔のもとにやって来る、都と同じエプロンをして。

「お客さま、何か探しているものでもあるのかい?」
「えっ、いや……その」
「冷やかしはごめんだよ。目当てのものがあるなら一緒に探しますがね」
「あ、すみません、出直します」

 早々に晴翔は店を後にした。最後振り返った都は何か失敗したらしく、老婦に深く頭を下げていた。ここが都のバイトする店、なかなか癖も強いところだがそれでも一生懸命な都に晴翔の心の中は変わろうとしていた。
 教科書を抱えながら晴翔は駅に向かって歩く。市川の言った隣の駅の映画館へ、前売り券を買いに行こう。都の気になる映画、お詫びと尊敬の意味を込めて。

 ***

 今日初めてのレジ係は緊張してしまった。都は数人の客とのやりとりをしたが、覚えたことをこなすので精いっぱい。店主には怒られるだろうと思っていたが、意外と何も言わずに都の手のひらにアルミに包まれた飴を渡した。

「西洋の飴、甘いけどな。声を出して疲れただろう、まあ今日は六十点くらいか」
「いただきます、すみません。わからないことばかりで……」
「最初は誰でもそうだ、わからないから人は勉強するんだよ」
「ああ、そうですね……」

 飴は何かの果物のような味がする。店主の言う通り国内のものより何倍も甘かった。

「明日は定休日だよ、明後日また来い。今度は違う仕事を教えてやる」
「レ、レジでめいっぱいですよ!」
「知らないことより知っていることが多い方が良いだろう?」

 ***

 店を出た都は帰り際に八百屋に寄って、特売だったじゃがいもとにんじんを買った。おまけに玉ねぎも一個もらったから肉屋によって牛肉を買って肉じゃがにでもするか。途中の本屋では、かつて気になっていた小説の単行本の続きが出ている。最近問題集を解く暇がなかった。いつかは手をだしてみたいのだけど、そのうち晴翔に辞書を借りて読んでみようか。そうして帰宅したのは午後に差し掛かる頃だった。少し遅くなってしまったかもしれない。

「あれ……?」

 帰宅してみればドアの鍵が空いていた。おかしい、ちゃんと戸締りをして行ったのに……もしや、と思った都がドアを開けるとそこには晴翔の靴が揃えて置いてあった。

「は、晴翔さんですか……?」

 返事がない、でも靴は置いてあるし。慌てて靴を脱いで玄関から居間に行くと布団も敷かずに晴翔が畳の上で眠っている。図書館に行ったのではなかったのだろうか。

「晴翔さん、そんなところで眠っていると風邪ひきますよ」
「……」
「晴翔さんてば」

 目を閉じたままの晴翔に都はせめてと思って押し入れからタオルケットを出してかけようとすれば、その瞬間に手首をつかまれた。力強い男の手のひらだ。

「は、晴翔さん?」
「……都、悪かった」
「なんです、いきなり。晴翔さんは何も悪いことなんてしてないですよ」
「その、……嫉妬もあるんだよ、お前を他の誰にも見せたくないって。でもそれは俺の個人的な感情でお前のせいじゃない、それを伝えに帰って来たんだ」
「……じゃあ、もう黙って出て行かないでください。心配もするし、不安にもなります」
「ああ、それも悪かったと思っているよ」

 じっと目と目を見つめあった。晴翔はそっと都の頬に触れて、髪を撫でる。馴染みのある優しい手だった、今日は特に柔らかくて温かい気がする。

「都、俺を許してくれるのなら、今度一緒に映画にでも行かないか」
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