ルゥナ外伝 第1話
文字数 2,200文字
僕は、期待していなかった。それでも、少しばかり劇的な展開を夢見ていたのだろうか。一週間が過ぎた夕刻、合気道の練習帰りに麓のバス停で再会した。私服姿のためか大人のような雰囲気があった。短いスカートの裾から伸びる白い生足が綺麗だった。
僕が近付くと彼女は視線だけを向けて立ち止まらせた。
「御機嫌よう。先日は、助かりました。」
僕に傘を返した。
「恩人のお名前を窺わないと。」
「‥‥レイヤです。」
「レイヤさんですか。」
年上の女性からの敬語に僕は、恐縮した。
「ご自分のお名前が、お嫌いなのかしら。」
僕は、中性的な名前に小さなコンプレックスを持っていた。
「いいぇ‥‥、」
僕の口籠る戸惑いにも視線を逸らさず続けた。
「素敵なお名前ですね。」
親以外に初めて偏見もなく褒められて逆に当惑した。
「申し遅れました。わたくしは、‥‥ルゥナとお知り置き下さい。」
珍しい姓が記憶の中で引っかかった。少し後になって、名前のルゥナが二つ名であるのを知ることになった。
「合気道を、なさっているのかしら。」
ルゥナは、自転車の籠の道着に目を止めて尋ねた。
「姿勢が良いわけですね。」
この住宅地に引っ越してきて直ぐに母親の都合で習わされた合気道は、高校になっても続いていた。辞める理由も見つからず、僕はこの先も続けるように思えるのだった。
「‥‥納得出来ました。わたくしに気付かれるはずです。」
ルゥナは自分の言葉に区切りをつけると、話を変えた。
「バスは、待っていなかったのですよ。」
ルゥナは、僕の反応を見て続けた。
「ここにいたのは、レイアさんに遇える気がしましたので。少しご一緒できますか。」
僕は、自転車を押しながら並んで歩いた。ルゥナからの移り香が何故なのか懐かしく感じた。
「先日のわたくしを、どう見られましたか。」
「‥‥崖から飛ぼうとしていた。」
僕は、背一杯の冗談を思い付き話した。
「面白い御方。」
ルゥナは表情一つ変えずにそう言って、視線だけを向け僕の本心を促した。
「本当のところは。」
「‥‥何かを待っていたのですか。」
「まぁ、素敵。」
ルゥナの鷹揚の少ない言葉が何時になく慎重な僕を畏まらせた。
「月が昇るのを、待っていたのです。」
あの夕刻、家に着く頃に時雨も止んでいた。澄んだ夜空に浮かぶ真白な月を覚えていた。
「月の御姫様でしたか。」
僕の機知に富んだ言葉が功をそうしたのだろうか。ルゥナは、立ち止まり僕を正面から見詰めた。
「面白い御方。」
ルゥナは、言った。
「いずれ、月からお迎えが来ますと、打ち明ければ信じて頂けるでしょうか。」
「信じるかもしれませんが。」
僕の躊躇が伝わったのかルゥナは、言葉の先を促した。
「‥‥信じるかもしれませんが、どうなのでしょう。」
「決して、他人には言えません。」
「面白い御方。」
緩やかな坂の途中、住宅地から少し離れた高台の公園に立ち寄った。ルゥナがあの夕刻に佇んでいた場所は、古い礎石が並べられているのに気付いた。
「ここは、万葉の昔から月見台があった場所なのですよ。」
ルゥナが、秘め事を口にするように嫋やかに言った。僕は、住宅地に向かう途中の公園を不思議な思いで改めて眺めた。
「ここから愛でる月の美しさに気付いた古人の感性は素敵です。」
ルゥナの話に引き込まれていた。そう説明を受ければ、この場所に公園を整備した理由が納得できた。
「後ろに石段があるでしょう。そこを上がった先には、小さな社があるのですよ。ご存知でしたか。」
車道を隔てた公園の真向かいに半間幅の苔生した石段が見えた。僕は、それまで気付いていなかった。
「何が祭られていると、思いますか。」
ルゥナの深い瞳の強さを前にして僕は、思案の淵に引き篭もってしまった。
「‥‥月に関係がありますか。」
その僕の言葉を辛抱強く待ったルゥナは、言った。
「面白い御方。」
三叉路に差し掛かると、ルゥナは別れを告げた。
「とても有意義でした。それでは、これで。」
笑顔一つ見せずに話すのに、冷たくなくむしろ好意を抱かせる印象を残す不思議な魅力を備えていた。ルゥナと別れた三叉路から先は、旧道だった。僕は、その先を訪れた記憶がなかった。幼稚園の頃、新興開発されたばかりの住宅地に引っ越して来た僕は、旧道の奥に昔からの民家が点在する落人の集落の噂だけを教えられた。三叉路から緩やかに山道が伸びて、その先の山陰にルゥナの後姿が消えるのを見送った。
『誰だろう‥‥。』
取り留めのない思案の中で彼女の評価は揺れ続いた。不思議な女子と結論付けて済ませ片付けるには、存在自体の衝撃が強すぎた。それまでの僕は、上品な口調で話す同世代の女子と逢ったことがなかった。
『舞台セリフでもないだろうし。それに、‥‥。』
冷静に考えれば、この地域だと進学校迄はバスを使い路面電車で乗り換えて私鉄を使い二時間近くかかる距離だった。同級生の中には、その通学時間を憂慮し断念する学力優秀なものもいた。
『地の人に間違いないと思うが、どうして今まで見かけなかったのか‥‥。』
次から次に沸き上がる収拾のつかない疑問に絡み取られた。家までの道のりは長く重かった。
僕が近付くと彼女は視線だけを向けて立ち止まらせた。
「御機嫌よう。先日は、助かりました。」
僕に傘を返した。
「恩人のお名前を窺わないと。」
「‥‥レイヤです。」
「レイヤさんですか。」
年上の女性からの敬語に僕は、恐縮した。
「ご自分のお名前が、お嫌いなのかしら。」
僕は、中性的な名前に小さなコンプレックスを持っていた。
「いいぇ‥‥、」
僕の口籠る戸惑いにも視線を逸らさず続けた。
「素敵なお名前ですね。」
親以外に初めて偏見もなく褒められて逆に当惑した。
「申し遅れました。わたくしは、‥‥ルゥナとお知り置き下さい。」
珍しい姓が記憶の中で引っかかった。少し後になって、名前のルゥナが二つ名であるのを知ることになった。
「合気道を、なさっているのかしら。」
ルゥナは、自転車の籠の道着に目を止めて尋ねた。
「姿勢が良いわけですね。」
この住宅地に引っ越してきて直ぐに母親の都合で習わされた合気道は、高校になっても続いていた。辞める理由も見つからず、僕はこの先も続けるように思えるのだった。
「‥‥納得出来ました。わたくしに気付かれるはずです。」
ルゥナは自分の言葉に区切りをつけると、話を変えた。
「バスは、待っていなかったのですよ。」
ルゥナは、僕の反応を見て続けた。
「ここにいたのは、レイアさんに遇える気がしましたので。少しご一緒できますか。」
僕は、自転車を押しながら並んで歩いた。ルゥナからの移り香が何故なのか懐かしく感じた。
「先日のわたくしを、どう見られましたか。」
「‥‥崖から飛ぼうとしていた。」
僕は、背一杯の冗談を思い付き話した。
「面白い御方。」
ルゥナは表情一つ変えずにそう言って、視線だけを向け僕の本心を促した。
「本当のところは。」
「‥‥何かを待っていたのですか。」
「まぁ、素敵。」
ルゥナの鷹揚の少ない言葉が何時になく慎重な僕を畏まらせた。
「月が昇るのを、待っていたのです。」
あの夕刻、家に着く頃に時雨も止んでいた。澄んだ夜空に浮かぶ真白な月を覚えていた。
「月の御姫様でしたか。」
僕の機知に富んだ言葉が功をそうしたのだろうか。ルゥナは、立ち止まり僕を正面から見詰めた。
「面白い御方。」
ルゥナは、言った。
「いずれ、月からお迎えが来ますと、打ち明ければ信じて頂けるでしょうか。」
「信じるかもしれませんが。」
僕の躊躇が伝わったのかルゥナは、言葉の先を促した。
「‥‥信じるかもしれませんが、どうなのでしょう。」
「決して、他人には言えません。」
「面白い御方。」
緩やかな坂の途中、住宅地から少し離れた高台の公園に立ち寄った。ルゥナがあの夕刻に佇んでいた場所は、古い礎石が並べられているのに気付いた。
「ここは、万葉の昔から月見台があった場所なのですよ。」
ルゥナが、秘め事を口にするように嫋やかに言った。僕は、住宅地に向かう途中の公園を不思議な思いで改めて眺めた。
「ここから愛でる月の美しさに気付いた古人の感性は素敵です。」
ルゥナの話に引き込まれていた。そう説明を受ければ、この場所に公園を整備した理由が納得できた。
「後ろに石段があるでしょう。そこを上がった先には、小さな社があるのですよ。ご存知でしたか。」
車道を隔てた公園の真向かいに半間幅の苔生した石段が見えた。僕は、それまで気付いていなかった。
「何が祭られていると、思いますか。」
ルゥナの深い瞳の強さを前にして僕は、思案の淵に引き篭もってしまった。
「‥‥月に関係がありますか。」
その僕の言葉を辛抱強く待ったルゥナは、言った。
「面白い御方。」
三叉路に差し掛かると、ルゥナは別れを告げた。
「とても有意義でした。それでは、これで。」
笑顔一つ見せずに話すのに、冷たくなくむしろ好意を抱かせる印象を残す不思議な魅力を備えていた。ルゥナと別れた三叉路から先は、旧道だった。僕は、その先を訪れた記憶がなかった。幼稚園の頃、新興開発されたばかりの住宅地に引っ越して来た僕は、旧道の奥に昔からの民家が点在する落人の集落の噂だけを教えられた。三叉路から緩やかに山道が伸びて、その先の山陰にルゥナの後姿が消えるのを見送った。
『誰だろう‥‥。』
取り留めのない思案の中で彼女の評価は揺れ続いた。不思議な女子と結論付けて済ませ片付けるには、存在自体の衝撃が強すぎた。それまでの僕は、上品な口調で話す同世代の女子と逢ったことがなかった。
『舞台セリフでもないだろうし。それに、‥‥。』
冷静に考えれば、この地域だと進学校迄はバスを使い路面電車で乗り換えて私鉄を使い二時間近くかかる距離だった。同級生の中には、その通学時間を憂慮し断念する学力優秀なものもいた。
『地の人に間違いないと思うが、どうして今まで見かけなかったのか‥‥。』
次から次に沸き上がる収拾のつかない疑問に絡み取られた。家までの道のりは長く重かった。