文字数 1,176文字

 明日、二回目の笛吹きのテストがあるという日の夜、ヨシノリは泊まりに来ていたオジに、
「おんちゃん、明日何処か遠くへ連れていってくれんかい」
 冗談交じりに云ったが、内心は切羽詰った思いだった。
「そうやにやぁ、オラも明日は仕事休みで暇やけん、ほんなら車で何処か行くかよ」
 と、オジは酒を飲みながら呑気そうに笑って云った。
 この時、大人は呑気でいいなぁと感じ、早く大人になりたいと思ったものだ。


 五時間目の終了のチャイムが鳴ると、束の間の休み時間があり、それぞれカバンから縦笛を出し、音楽室にすぐに移動する者や、最後に総仕上げの練習をする者など、否が応にも次に来る音楽の時間の緊張をヨシノリに伝える。
 だけど、何故この笛吹きのテストに対してのみ、異常とも思える緊張感を持つのか? ヨシノリにも解せない。スポーツでプレッシャーのかかる場面とかでも、特別緊張する訳でもないし、また、気がメチャクチャ弱いと云う事もない。
 ソフトボールでは、小学四年生の時から上級生に交じってただ一人試合に出させてもらっていた。初めて試合に出た時も、試合に出られる喜びの方が大きく、あまり緊張する事もなかった。
 小学時代はずっと学級委員にも選ばれていたし、学級委員会の中で発表もさせられた。そんな時、副級長が発表出来ずに泣いてしまった事もあったが、ヨシノリにはそんな事は一度もない。
 少々喧嘩っ早くもあり、生意気な奴らと放課後取っ組み合いの喧嘩もした。だから、大人しくてひ弱という感じではない。多少生来の気弱さが見られる程度で、どちらかと云えば活発な部類だった。
 六時間目の開始を告げる無情のチャイムが鳴る。
 当時のヨシノリは、授業をボイコットする術を知らない。しかし、この時は正直逃げてしまいたい思いだった。また、あの一学期の惨めさを今から味わう事を思うと、拷問を受けるに等しい気持ちだった。ヨシノリは必死にこの授業が済めば、クラブで好きな野球が出来ると、自分を慰めていた。
「はい、次、三田君」
 厚化粧のババアの顔が鬼に見える。
 昨夜寝つかれない長い夜を過ごしながら、明日もしも前回みたいに指が震えてまともに笛を吹けなかったら、もう自分の人生は取り返しがつかなくなると、ひそかに危惧していた。
 その結果、ヨシノリにある秘策が浮かんだ。
 ヨシノリは、机の三方向に教科書を衝立の様に立て、縦笛を押さえる指が皆の視線から見えなくして吹いたのである。
 これが功を奏したのか、指は小刻みに震えていたが、前回の様に途中棄権と云う最悪の事態は免れた。しかし、心の何処かに、みっともない事をしたというコンプレックスは、更に増した様に思えた。
 これから中学校を卒業するまでの間、こういうせこい事を続けていくのは、屈辱にしか思えない。皆と今まで、正々堂々勝負してきたヨシノリには耐えがたい屈辱だった。



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