第23話 さようなら、大好きな人

文字数 8,633文字

「源様。お話があるのです」
「何じゃ」

二階堂病院のベッド。元気になった源之丞。顔にはちゃんと狐面をしていた。
付き添いの清吉が見守っていた。

……文子。しっかり。こうするしかないのよ。

文子は冷たく言い放った。

「文子は神社に戻りません」
「何じゃと」

びっくり顔の源之丞。文子は続けた。

「やっぱり。ここがいいです。何でもあるし」

話を察した清吉。思わず背を向けていた。事情を知らぬ源之丞。文子に迫った。

「そなたは。あんなボロ屋でも良いともうしたではないか」
「忘れてくださいませ。源様。どうぞお引き取りを」
「おい?お前」

全てを察知した清吉。源之丞を抱き上げた。

「源様。帰りましょう。さあ」
「離せ!爺。やい。お前」

源之丞。面のまま。文子に向かった。文子は泣くのを必死で堪えた。

「なあ。本当か。お前は俺が嫌いになったのか」

……ああ。源様。私はなんということを。


何と切ない声。こんな声を聞いて立っているのが精一杯である。狐面の下。見えなくても彼の顔がわかる。愛しい彼は、悲しい顔である

これに背を向けた文子。涙を堪えて必死に叫んだ。

「そ、そうよ。あなたなんか嫌いよ。顔も見たくないわ!」

やっとそう言った文子。病室を出て行った。しばらく動かなかった源之丞、黙って清吉と帰っていった。





そして病院の玄関を出ていった彼の背中。文子は涙でカーテンの隙間からそっと見ていた。

「よくやったじゃない」

背中の声。嬉しそうに文子の肩を叩いた。文子はこれを払った。

「もうこれでいいですか」
「さあ?それはあなた次第よ」

照代は文子を母家の座敷牢に連れてきた。

「何度も言うけど。あなたは病院のお金の使い込みの罪に問われているから。まあ、大した罪じゃないと思うけど。よろしく認めてちょうだいね」
「警察が調べればわかると思いますが」
「あなたが認めればそれで終わりよ!さあ、入りなさい!逃げようたってそうはできないから」
「……」

逃げる場所など、どこにあるのだろうか。それに逃げても、そこには幸せはもうない。幸せは自分で壊してしまったのだから。

文子には源之丞の悲しみを感じ、普通ではいられなかった。

……源様。ごめんなさい。私のせいで、辛い目に。ああ、私はなんて言うことを。


手紙を持ち、安易に彼を頼ってせいで、こんなにも源之丞を傷つけてしまった。

素直で純情。粗暴であるが優しい人。誰よりも自分を思ってくれた人。そんな彼を好きになったばかりに。こんなにも傷つけてしまった。

……もう、思い残すことはないわ。私の幸せは、もう、無くなってしまった。

座敷牢の文子。この日から口を聞かず食も取らず。心は無になっていった。



◇◇◇

「源様。さあ。帰ってきましたぞ」
「ああ。一人にしてくれ」

神社に帰ってきた源之丞。まずは囲炉裏に座った。そこにはいるはずの娘はいなかった。

……くそ!どうしてだ!あんなにここが良いと、申しておったのに。

あまりの悔しさ。彼は刀を持ち出し庭に出た、そして庭中の木々を片っ端に切っていった。

……ずっと一緒にいると。この俺の胸の中が一番と。言っていたのは嘘か?!

「この!この」

思い出すのは彼女のことばかり。泣き顔、笑顔。寝ている顔。怒っている顔。刀を振るっても振るっても。それは消えることはなかった。

同志、仲間、家族、友人。どれも彼にはいなかった。だからわからなかった。文子がどんなに愛しく、大切で、愛していたかを。

彼の耳には文子の声。彼の手には文子の温もり。あの時の甘い口付けが残っていた。

忘れようにも染み付いて離れない彼女の匂い。こんなにも愛していたと。源之丞はやっと気がついた。


「うわああ」

絶叫し狂いそう。どうすれば忘れられるのだろう。必死に山奥を走り回った。まるで獣のように。死ぬまで疲れたいと走り回った。



山奥に入った源之丞。姿を消して一週間。やっと神社に戻ってきた。
またもや寂れてしまった大森神社。そこに清吉とイネが待っていた。

「やっと戻った」
「まずは何か食べられよ」
「ふん」

風呂も入っていない汚れた姿。やつれた様子。二人は悲しみで見るだけだった。この二人、しばらく源之丞を案じ、顔を見にやってきた。

そして十日ほど経ち、清吉は村人を通じ電報を受け取った。血相を変えてイネと一緒に源之丞の元に走ってきた。

「源ちゃん。お文ちゃんが大変なんだよ!」
「知らぬ。その話を致すな」

いじけている源之丞。ここでイネは彼の面をサッと取った。

「返せ!」
「あのね。話を聞きなよ!文ちゃんが」

ここで源之丞。刀を抜き、イネに向けた。その前は真っ赤。彼の怒りと悔しさと悲しみの色。まだ彼女を思っている証。イネはこれに息を呑んだ。

「その名を言うな!お前でも許さんぞ」

震える手。源之丞の気持ちを誰よりも知る友人イネ。彼のため。文子のため。決意を新たに叫んだ。

「ばか源!あの文ちゃんが、本気でお前を嫌いになったと思っているの!」
「黙れ」
「あんなに優しくて。お前と仲良くここいたんだ。それは全部、お前のためだよ!いい加減に目を覚ませ」

この時。清吉が電報を読み上げた。

「『フミ、キトク』とありますが、源様。どうしますか」

この冷静な声。源之丞、動きを止めた。

「危篤とは?あれは元気であったはずだぞ」

源之丞。震える手で刀を下ろした。イネはその刀を取り上げた。清吉は静かに諭した。

「……源様。確認しましょう。これからあの病院に電話をしましょう」

この足で三人は電話がある家にやってきた。その途中、イネが源之丞にもわかるように文子の事情をした。

「そうか。あれは家出をしたのに。俺を連れて行ったので。家を出してもらえぬのだな」
「そう!でも文ちゃんは、帰れないとわかって。源を病院に連れて行ったんだよ。それだけ、源を助けたかったってことさ」
「……では、なぜあんな意地悪を申したのだ」

清吉は首を傾げた。

「もしかしたら。源様を襲った蛇男が関係しているかもしれません。あの男は文子様に一緒に来るように言っていたようなので。文子様は二度と源様に
蛇男が来ないように、関係を切りたかったのかもですな」

源之丞はふと噛まれた腕を見た。

「蛇男め。今度あったら八つ裂きにしてくれるわ」

事情を飲み込んだ源之丞。イネも清吉もホッとしてきた。

「源。それでね。あの病院には大森村出身の看護婦さんがいてね。こうして電報で文子ちゃんのことを教えてくれたんだよ」

やってきたのは大森村の大地主の家の電話。代表で受話器を持ったイネは二階堂病院に勤務の看護婦を電話で別の用事で澄まして呼び出した。

「もしもし?加代さん?私、イネだよ」
『イネちゃん?懐かしい?!っていうか!大変なのよ!文子様は座敷牢に閉じ込められていて。あの日から表に出ていなかったのよ』
「あの日って。源が退院した日のこと?そして?どうして危篤なの」

イネの質問。受話器には源之丞も耳を当てていた。電話の向こうの看護婦の加代、早口で話した。

『それがね。一昨日、座敷牢から出されたの。私、見たんだけど、びっくり。痩せちゃったのよ。文子様はあの日以来、何も食べてないんですって。今はお父様の毅先生が必死に栄養注射してるけど、……あ、誰か来た?もしもし!会うなら今よ。じゃあね』

そう言って電話は切られた。シーンとなった。

「どうする源ちゃん」
「……」
「源様。ここは行かねば、一生後悔しますぞ」
「……ああ。参る」

おおと二人と電話を貸してくれた地主の旦那は目を輝かせた。この時、地主の母親の老婆は手をパンと叩いた。

「おい、源之丞。その娘さんに結婚を申し込め」
「何だと?」

老婆の意見。皆驚いた。

「何を言うのじゃ。お前はこの村一番、鎌倉時代から続く由緒ある神社の神官じゃ。医者の娘に遜色などない。臆するな。堂々と申し込め」

ここで地主の息子が口を挟んだ。

「しかし母さん。そんなことを言っても。相手は二階堂病院の娘さんだぞ?結納金とかその、金がかかるぞ。源には無いだろう」

すると老婆の目がカッと開いた。

「お前はそんな弱腰だからダメなんじゃ!金などそんなもの。後からどうとでもなる!源よ。早く行け。死なせても良いのか」
「婆婆」

老婆は生き生きと指示を出し始めた。

「清吉。こいつに神官の格好をさせろ。トメに言って、髭も髪も整えよ」
「そうですね。磨けば男前です」

源之丞、びっくりして部屋中の人を見た。

「そしてイネ」
「はい」
「これから申すものを、村から集めてまいれ。金は私がいくらでも出す」
「なぜだ。婆婆。どうしてそこまで」

源之丞の言葉。老婆は真顔を向けた。

「わしの孫娘。心の病で口を聞かぬのじゃが。この前、腕をムカデに刺されてな、あの娘が優しくしてくれたと初めて口を開いたのじゃ。これは金には変えられぬ。お前だけではない、我が村にあの娘が必要じゃ」
「……わかった」

源之丞はそう言って出て行った。そして神社に行き、出かける支度をした。
婆婆様の指示。日頃源之丞に世話になっている村人、文子にも恩があると言い無償で彼に品を差し出した。
イネと清吉も伝助も。彼のために必死に支度をした。

そして翌朝。一行は船に乗り、二階堂病院を目指した。






◇◇◇

「おい。文子。しっかりいたせ」
「お父様……文子のことは放っておいて」
「なぜだ。なぜそこまでして。あんな男を慕うのだ」

家の金を盗んだ娘。しかしそれを戻して男を助けてくれと言ってきた。毅はまだ全て信じられなかった。今わかっていること。それは、文子が食べ物を食べず死のうとしていることだった。

栄養注射をしている。が文子は死に向かっている。本人の気力がない以上、どんな薬も効かない状況だった。

娘を追い込んだのは自分。父親の毅。どうすれば良いか目の前が真っ暗になっていた。

「あなた。どうですか」
「だめだ……点滴も効かぬ」

絶望の夫。照代は赤い服で彼を慰めていた。

「大丈夫よ。きっと良くなります……文子は罪を悔いているんですよ」

その時。病室にいきなり一郎が入ってきた。背後には次郎と見慣れぬ人が数人いた。

「何だ?お前」
「一郎。お前、どうして。あ、次郎まで」

二人の兄弟。瀕死の姉のベッドにやってきた。

「父さん……この人達は警察で、この女の人は内偵でうちの病院の算盤係をしていたんだ……姉さんの金は、病院の金じゃないよ」
「経理が自白したんだ。俺たちが使った金は、母さんが病院から使い込んだ金だったんだよ」
「お、お前達、何を言うんだよ?」

狼狽える照代。背後の警察は手帳を見せた。

「失礼します。二階堂照代さんですね。製薬会社の鈴木と名乗る男をご存知ですね」
「それが。何か」
「殺人の容疑が出ています。そのことで、詳しい話を聞かせてください」

真っ青の照代。そんな母を無視し、兄弟はベッドのやつれて青ざめた姉を見つめた。

「父さん。姉さんの金は、やっぱりお婆さまが残したものだったよ。お婆様は前から言っていたんだ。俺たちは男だから、資産があるけど、姉さんにはお金が行かないから、可哀想だって」
「俺も聞いていた……ああ、姉さん。こんなに痩せてしまって」

一郎、次郎の悲しい顔。照代は驚いていた。

「どうして何だい?お前達、文子なんか、嫌っていたじゃないか」

一郎は涙目で母を睨んだ。

「母さんが仕事で忙しい時、姉さんはいつだって優しくそばにいてくれた!俺たちが意地悪しても、姉さんは、甘んじて受けてくれていたんだ」
「俺だってそうだ……姉さんは頭が良くて。俺なんか何をやってもだめなのに。いつも優しくしてくれたよ……そんな姉さんが、金を盗んで逃げるなんてないだろう」

文子の手をそれぞれ握り寄り添う弟達。毅は照代を見つめていた。

「どういうことだ?確かに二人には散財したと聞いているが、それはお前が用意したはずだ。それが病院の金なのか」
「……それは」

この話。次郎が切った。

「父さん。それよりも姉さんだよ。栄養注射は効かないのかい」
「姉さん……どうか。食べてくれよ」

姉を思う兄弟。青ざめた姉を見ていた。胸を痛めていた毅。背後には化粧の妻がいた。

「あの、私はその……」
「出て行きなさい。お前の顔など見たくない。警察の方。その女をお願いします」

文子の病室から照代を追い出した毅。そのドアから看護婦が入ってきた。

「恐れ入ります。先生。面会の希望の方々です」
「文子に面会?無理だ、断ってくれ」
「で、ですが」

すると。スッと子供が入ってきた。着物姿の小僧。烏帽子をかぶっていた。

「失礼、仕る《つかまつる》。大森村の大森神社。神官の大森源之丞がお目通しを願っておりまする……ささ、どうぞ」


毅の返事もないまま、ドアから白装束の神主が入ってきた。


「失礼致す。我、大森神社の大森源之丞と申す。ここに文子殿がおいでのはず」
「源様。あそこ!寝ているよ」

伝助の声。そこには面はなく。髭を剃り黒髪を揃えた凛々しい神主姿の源之丞。あの日、文子が直した白衣装。蛇の毒の時に担ぎ込まれた時とは別人の凛々しい姿。

呆気に取られてる二階堂家族を無視して、彼は寝ている文子のそばにやってきた。

「……おい。俺だ」
「源様……これは夢……?」

目を開けた文子。その目には涙が浮かんでいた。もう二度度会えないと思っていた彼。文子は震える手を布団から出した。彼はそれを握り頬に当てた。

「夢ではない。お前に会いにきたぞ」
「私……あんなひどいことを言ったのに」

大粒の涙。息も絶え絶えの言葉。源之丞は首を横に振った。

「もう忘れた……あのな。お前に結婚を申し込みに参ったぞ」
「源様……」

ここで源之丞。家族に振り向いた。

「二階堂の当主殿。ここに娘御に結婚を申し込みいたしまする。その証として。まずはこの、品々をお受け取りくだされ」

源之丞の言葉。伝助は廊下から必死に品を運んできた。一緒に来ていたイネ。なぜか男装で説明をした。

「これは村特産の絹の巻物。そしてこれは、村の刀鍛冶が作りました、小刀でござりまする」

特別室であるが狭い病室。ひとまず受け取った一郎と次郎。二人はまず刀に興奮していた。

「父さん。これ、手術の外科用ナイフみたいだ」
「すごい切れそう……うわ?指が切れた」

騒ぐ兄弟。にっこり微笑むイネ。読み上げた。

「よろしいですか?他には」

病室に入れぬ数。イネは目録を読み上げていた。その間、毅はじっと文子を見ていた。

「……そして最後。この砂金でございます。これは拙者が長年かけて歳出しました」

これだけは手に掲げた源之丞。袋の大きさ。兄弟はその量に驚いた。

「すごい?こんなに」
「自分で採ったんですか?」
「お前達、鎮まれ。して、源之丞とやら。なぜに文子をそこまで所望するのだ」


神官姿の源之丞。真っ白な装束。烏帽子の美麗。頬は火傷の痕、しかし煌々と目を光らせ静かに毅を見つめた。

「拙者。文子殿を好いております。お幸せにしたいのです」

……他に理由はないと申すのか。

文子との婚姻でこの男に利益はない。外科医、二階堂毅には娘、文子への縁談が山ほどきている。そのどれもが彼女を利用するもの。好きだから。幸せにしたいから、と言う理由の者は皆無である。

「それに、拙者だけでなく。娘御は村にはなくてはならぬ存在。大森の村民が、文子殿の帰還を待っておりまする」

この言葉。毅は涙が出た。娘を疑っていた自分が恥ずかしかった。文子は清く優しく、兄弟を思い、他人に優しい娘であった。そんな娘は彼を思い、こんなにも苦しんでいる。これは全て、父親である自分の不徳である。

「……おい、文子。聞こえたか?彼がお前を迎えに来たぞ」

話を聞いていた文子。涙でうなづいた。

「はい。お父様。私は……源之丞様の元に行きたいです。お願いです」

初めて言ったわがまま。それは愛しい男の元に嫁ぎたいとうい思い。父はこれを目と瞑り受け止めた。

「……わかった。では、約束してくれ。食事をして、元気になると。出なければ、嫁には行けないよ」
「はい……」
「姉さん、よかったね」
「早く元気になろう」

一郎と次郎の言葉。文子は微笑んだ。姉に駆け寄る兄弟。しかしその肩を毅はそっと叩いた。

「では、源之丞君。娘を頼む。この病は、我々では治せない。君しか無理なようだ……」

二階堂一家の言葉。源之丞は静かに頭を下げた。

「確かにお預かり致す。この源之丞。命を持って文子様をお守り申しまする」

そして彼はベッドに寄り添った。

「おい。父上の許しをもらったぞ」
「……源様。そばにいて」
「おう。さてさて。お前には元気になってもらわなくてはな」

この笑顔の二人、家族は退室し二人だけにした。







そして五十日後の冬の前。
大森村に嫁がやってきた。花嫁行列。牛に揺れた娘。白無垢姿。神社に到着した。一緒に歩いていた男三人はもうくたびれていた。

「文子。本当にここを登るのか」
「はい。お父様。足元を気をつけてね」

あまりに急な階段。毅は息子達を振り返った。

「一郎。文子を助けろ。次郎は後ろから見てやれ」
「はい。姉さん。手を」
「俺は尻を押すよ」
「ふふふ」


急な階段の神社。必死に上がった二階堂一家。照代は拘置所を出て実家にて謹慎。このため毅と一郎と次郎の参列であった。

田舎と思っていたが、大森村は秘境で貴重な村。特に外科用のナイフを毅は大変気に入り、その後、特注したほど。さらに源之丞が送ってくる野菜や獣肉の旨さに感激。中でも村の特産の日本酒を絶品と気に入り、病院関係者へのお歳暮用に大量に注文し酒造を驚かせていた。

薬物中毒だった一郎。目を覚まし医学の勉強を邁進していた。親の勧めで目指した外科医であったが、本当は不器用。さらに大森村の竹工芸品の細やかな作品に感激している父に、自分には器用な外科医は無理だと説得した。今は元来興味があった内科医を目指していた。

弟の次郎。医学部受験のため本気で取り組んでいた。大森村の特産の書道の毛筆。書の腕がある次郎。この筆にて文字を書いたところ、あまりの滑らかさに衝撃を受けた。己の乱れが映る書は心の窓。濁る文字に大いに未熟な自分を恥じた。以後、精神を鍛えようとこれで毎日、書いている。

この兄弟、当然の如く、酒とタバコを止めた。さらに実家に住まい、父親と一緒に早朝ランニングを始めるなど親子で健康的に仲良くしていた。


すっかり大森村が好きな三人。しかしやってきたのは初めてだった。次郎は階段を振り返り村を見ていた。

「姉さん。本気であのバス停で、夜明かししようとしたのかい」
「ええ。でも源様が心配して迎えにきて、神社に泊めてくれたのよ」

これに毅はため息ついた。

「あのバス停……彼にはまだ礼を言わねばならぬな」
「あ。みんな。あれは源さんじゃないか」

一郎の声。階段を登るとそこには狐面の一本下駄の神官が立っていた。彼はスッとお辞儀をした。

「ようこそ。遠路はるばる」
「確かに?文子はよくここに家出をしたものだ」
「……自分も最初、そう申しました」

どこか神妙な彼に一同はどっと笑った。こうして挙式となった。
傷んでいた神社。これは毅が受け取らなかった砂金で修繕し、少しは立派になっていた。

村人と二階堂の家族が見守る中、神前挙式が行われた。

挙式後はイネや伝助による奉納。料理はトメの自慢料理が振る舞われた。しかし、夜の宿泊はできない。宴会は夕刻で終わりとなったが、山の幸をもてなすと誘われた二階堂一家。大森村の大地主の家に泊まることになり山を降りて行った。

そして。清吉らも帰った夜の大森神社。二人だけになった。

「源様。大丈夫ですか」
「ぐあああ」

いびきの彼。お酒を一口飲んで倒れた源之丞。父の毅は寝かせておけというので文子は静かにしていた。

懐かしい家。大工の工事で部屋がきれいになっていた。嬉しいが少し寂しい文子。寝支度をして源之丞の横にいた。

……今夜は疲れた。寝よう。

久しぶりの彼との出会い。あの求婚から文子はずっと二階堂家にて療養していた。そして事情を理解した父に財産を返し、何もかも整理してきた。

少しは持てと多少のお金と、亡き祖母の形見を少々もらった文子。しかし、今はここに戻ってこられて、ホッとしていた。

……お部屋が治っているけど。障子はあのままね。

文子が直した素人障子。しかし源之丞はそのまま愛用してくれていた。文子は嬉しかった。その時、彼が起きた。

「ん?ここは」
「源様の部屋よ。宴は終わりました」
「ふわああ?水」
「はい、どうぞ」

すっかり寝ていた源之丞。面を外して水を飲んだ。

「ふう……何だ、お前は寝るのか」
「はい」
「そうか。ここで寝るのか」

頭をかく彼。文子は急に恥ずかしくなった。

「いや?その。文子は今夜はやっぱり向こうで寝ます。源様はここで」

しかし。彼はふわと文子を抱きしめた。

「俺は何も申しておらぬ。ああ、それにしても、あんなに人が来るとはな」
「でも終わりました。また静かに暮らせますよ」
「ああ、お前と二人だ」

彼はゴロンと布団に横になった。

「みろ。前はな。屋根のあそこから星が見えたんだ。しかし。大工が塞いでしまった」
「どこですか。ああ。本当だわ。星が見えないわ。私の部屋もそうなのかな」

二人で頭をくっつけて見上げていた天井。文子はこの幸せに思わず寄り添った。

「なあ、あのな」
「はい」
「今宵はその、初夜と聞いておるが、その……」

戸惑っている源之丞。文子はそっと手を繋いだ。

「いいんです。お疲れでしょう、このまま手を繋いで寝ましょう」
「お(ふみ)……」

彼は文子に覆い被さってきた。真顔だった。

「もうどこにも行くな。ずっと一緒にいてたもれ。約束じゃ」
「はい……」

静かな夜。二人だけの時間。時は優しく流れていった。こうして文子は狐に嫁入りを果たした。










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