53.  黒い霧

文字数 2,250文字

 あの体の異変に耐えられなくなり気を失っていたシャナイアは、間もなく意識を取り戻した。

「私・・・気絶してたの?・・・いたっ⁉」

 床にうつ伏せで倒れていたシャナイアは、うっすらと開けた目で、まず不意に痛みを感じた左手首だけを見た。ブレスレットを外してみると、火傷(やけど)のように赤くなっている。

 奇妙に静まり返っていた。
 おぞましい気配も、足を引きずる音も消えた。

 けれど、シャナイアは、身動きがとれないままでいた。なぜなら、まるで、この部屋に自分一人だけで居るよう・・・いったい何が起こったのか分からない。自分が今、部屋の中のどこを向いているのかも。覚えているのは、自分がいた場所が、突然、爆発したように白く光ったことだけ。

 皆は無事だろうか・・・もし皆に何かあったら、ミーアに何かあったらどうすればいいの。怖くて、守るべき者たちの居場所を、安否を確認できない。だって何も聞こえない・・・顔を上げるのに、かなり勇気がいる。

 シャナイアは、全身が震えるほどの不安で、ほとんど床を見ている視線を動かすことができなかった。不吉な想像がふくらみ、動悸(どうき)はますます激しくなって心臓が破裂しそう。気が変になるかもしれない・・・顔を上げたら・・・。

 そうしてただ(すく)み上がっていると、バサッ・・・と物音がした。それは鳥の羽音・・・フィクサーだ。

 シャナイアはようやく腕を動かし、両手をついて、上半身を床から押し上げた。音がした方へ、恐る恐る首を向けてみる。

 すると、床に広がった灰色の粉と、その中にある遺骨のような燃えカスが目に飛びこんできた。思わず視線を()らしたせいでよく見てはいないが、頭が、そうだ、と瞬間的に判断した。ショックのあまり、シャナイアは衝動的に口をおさえた。だが発狂するよりむしろ声も出ない。

 その時、そばにキースがいることも分かった。キースは気使わしげに(のど)を鳴らして、鼻先(はなさき)(ほお)に押し付けてくる。たまっていた涙がこぼれ、シャナイアは腕を回して、キースの首にすがりついた。

「シャーナ・・・。」

 呼ばれたような気がした・・・ミーアの声。

 シャナイアの胸に、驚きと安堵(あんど)とが一緒になって殺到した。すぐさま背後に目を向ける。先ほどとは違う涙があふれだした。

 三人ともそこにいた。まだ強張(こわば)った顔で座り込んでいるが、生身の体でいてくれた。無事だった。ミーアも夫妻もキースもフィクサーも・・・自分も。みんな・・・。

 シャナイアが真っ先に見たのは、もともと死んでいた体が何らかの現象によって火葬されただけのものだ。

「ミーア!」
 シャナイアは駆け寄りたくて、まだ力が入りきらない(ひざ)を無理に伸ばした。

 すると、突然 ―― 。

 パリンッ・・・!

 けたたましい音が響いた。ガラスが(くだ)ける音。

 シャナイアは(つまず)くように足を止めた。見ると、やはり部屋の照明ランプが割れている。それと同時に灯りも消えた。五体の化け物はどれももはや遺灰となり、その灯りのそばには誰もいない。部屋の照明は二つあるので、一つ消えたのを確認できたが、血の気が引く思いに(すく)みあがっていると、また同じ音がして、部屋は群青色(ぐんじょういろ)の夕暮れのように暗くなった。

 再び緊張が襲う。

 このおどろおどろしい空気は、先ほどと変わらないものだ。

 さらに、何かヒヤッとしたものが(まと)わりついてきた。まるで夜霧(よぎり)の中にいるようだったが、気味の悪いことには、その霧は黒く、筋状(すじじょう)の密なまとまりも見られる。それが生き物のようにうねるのである。

 再び剣を取ったシャナイアは、部屋中に鋭い視線を走らせた。今度はどこから何が現れるかと。

 だが、次の相手はもう室内にいた。

 そして夫人の悲鳴が聞こえて目を向けると、いつの間にか、その黒い霧の筋がつながって(おび)となり、ミーアの小さな体を取り巻いて・・・いや、締めつけている!

「シャ・・・ひっ・・・。」

 ミーアの口から一瞬、ひどくかすれた、助けて欲しそうな声が聞こえた。苦しい表情で、浅い息しかできていない。立ってるその状態も、自力ではないと分かった。やはり、得体の知れないものにじりじりと締めあげられている。

 主人も何とかしようと、そばで狼狽(ろうばい)していた。

「お願い、どいて!」

 シャナイアは長剣を捨て、(もも)のベルトからナイフを引き抜いた。そして切り裂こうと黒い帯に左手でつかみかかったが、それは形あるものになっても、握り締めることができない。やはり・・・という絶望感に襲われた。それでも(あきら)められるはずもなく、シャナイアはそこにナイフを突き刺して上下に何度も動かした。やはりどうにもならない。見た目には確かに食い込んでいるのに、何の手応(てごた)えも感じることができないのだ。

「こんなの切れないわよおっ、レッドのバカアッ!」

 声にせずそう罵倒しながら、シャナイアは役に立たない刃物を投げ捨てた。今度は両手でつかみかかる。やはり手応えは何にもない。気が動転し、もどかしさのあまり悲鳴のような(うな)り声を上げながら、狂ったように手を動かした。ダメだ、無意味だ。分かっていても、ほかに何も思いつかない。もはや途切れ途切れに息を吸い上げるだけがやっとのミーアに気が()くばかりで、むやみやたらに引っ()き回すことしか ―― 。

 取り乱した(うな)り声は、いつの間にか気弱な涙声(なみだごえ)に変わっていた。

 やがて、シャナイアは力無く両手を下ろした。

 助けて・・・早く帰ってきて。

 せめて自分の体で少しでも(さえぎ)ることはできないかと、シャナイアはその黒い化け物に体を押しつけていき、意識が遠のいてゆくミーアの体を抱きしめた。





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