終幕
文字数 6,144文字
「形はわかった。残りは因果と、名前だ」
雪白くんがそう言ってドアの方を見ると同時にドーンという大きな音と共にすごい衝撃が伝わってきた。窓ガラスは割れて床に飛び散った破片がドシン…ドシンと近付いてくる大きな音に合わせてカチャカチャと小さな音を立てて震える。
「この円から絶対に出るな」
雪白くんがそう言ってドアに向かって歩き出したすぐ後に、たくさんの黒いモヤモヤを従えた笑顔の阿隅がドアを勢いよく破って姿を現した。
彼女の名前を呼んで今すぐ駆け寄りたい衝動が湧き上がってくるけど、私は自分の手を握りしめてそれに必死で耐える。
「朱音を巻き込むのはやめろ。ともだちじゃなかったのか」
雪白くんはというと、自分に絡みつこうとしてくる黒いモヤモヤを片手で掴んで引きちぎりながら、阿隅へと近付いていく。
阿隅は、そんな雪白くんを馬鹿にするように鼻で笑い、右手を前に差し出すと、黒いモヤモヤから仔猫くらいの大きさの蜘蛛がたくさん飛び出してきて雪白くんに襲い掛かる。
しかし、まっすぐ突撃してきた蜘蛛たちは雪白が咄嗟に前に出したお札の光に当たってキィィィと高い鳴き声のようなものをあげながら灰色の煙になって消えていく。
残った蜘蛛たちの何匹かが私の足元に向かってきたけど、円の中には入れないみたいで、紅い糸の内側に入ろうとして弾き飛ばされている。弾き飛ばされた蜘蛛はそのまま逆さまになって足を折りたたんで動かなくなって部屋のあちこちに転がっていた。
「友達だから殺すのよ」
阿隅の声で蜘蛛に向けられていた視線を二人に戻す。
足元に無数の蜘蛛が蠢きながら糸を吐いかれている雪白くんは、蜘蛛を蹴飛ばしながら足や腕に絡みついた糸を引きちぎってどんどん近付いてくる阿隅を睨み付けている。
「朱音は私と一緒になるの私が先に居なくなって寂しいよね?苦しいよね?だから一緒にいこう?私はずっと友達だよ」
動きを封じられつつある雪白くんに近付いていく阿隅は、声も、顔もまだ私の親友の阿隅そのもので死んだなんて嘘で、実は悪いナニカに乗っ取られているだけなんじゃないかという思いが頭の片隅にちらつく。
「聞く耳を持つな!それはお前の親友じゃない!」
振り払ってもきりがないくらい次々と蜘蛛が足に絡みつき、腕に幾重にも糸が絡んで思うように動けなくなった雪白くんの目前に阿隅が迫っている。
阿隅は私に向かって微笑みながら、雪白くんの首に白くて細い手をゆっくりと伸ばそうとしていた。
「友達だから…友達なら…きっとこうしてあげなきゃいけないよね」
「朱音やめろ!」
衝動に身を任せる。
勢いよく円を描いていた赤い糸を飛び出すと鈴がリンと澄んだ音を立てた。
私は、雪白くんの大声での制止でも足を止めず、そのままの勢いで阿隅の元へと向かっていく。
「親友…だよ私たち…」
トンッと阿隅に私の体が当たる感触がする。いつも通りの阿隅のシャンプーの香りがした。
阿隅と見つめ合う。にっこりと笑ってくれる彼女はやっぱり阿隅そのもので、死んでしまったなんて信じたくなかった。
「キャアアアアアアア」
すごい悲鳴と共に私は阿隅に突き飛ばされてしりもちをつく。
阿隅は私を突き飛ばした後数歩後ずさりすると、お腹の辺りを押さえて蹲っていた。
「魔除けの札…いつのまに…」
「友達なら、間違ったことをしそうな時は…体を張って止めないとね」
阿隅の意識が乱れたからか、蜘蛛を蹴散らして体の自由を取り戻した雪白くんは腕に残った白い糸をちぎって捨てながら私に駆け寄って手を貸してくれた。
少しおどけてみたけど、今更になって怖さがこみ上げてくる。
「おのれ…」
怒りの感情をあらわにした阿隅は、私たちの方を睨み付けながら立ち上がった。
バキバキとなにか太い木の枝が折れるような音が聞こえたかと思うと、阿隅の体は持ち上がり、腕が脇の下から更に2本生え、蜘蛛の体のようになった下半身には2対の昆虫のような足が生え始めた。
ギチギチギチと嫌な感じの音がした先を見ると、お腹であろう部分に大きな牙だらけの口がぱっくりと開いている。
目に見えない速さで飛んできた何かを、私に覆いかぶさった雪白くんが咄嗟に振り返り、腕でその何かを防いだのが見えた。
そのあとズルズルズルと引きずられる音と生臭い匂いに包まれ視界が暗転する。
『おなかが…みたされない…なんで…』
どのくらい経ったのだろう。
気が付くと誰かの腸を食べながら泣く阿隅を後ろから見ていた。
なんとなく、これは昨日殺された秋雨くんなんだな…とぼんやりと思う。
『朱音…朱音…朱音…嫌…食べたくない…食べたい…』
意識が明確になるにつれ目の前の光景を直視するのはつらくなってきてこみ上げてくる吐き気に耐えながら私はよくわからないままふらふらと立ち上がる。
「なに…ここ…」
「夕乃の魂の中」
つい独り言を漏らした私に見知った声が返ってきて少し安心する。
どこからともなく表れた雪白くんは、「辛いなら目を閉じてろ」というと、私の手を取って歩き出す。
「咄嗟に結界を張ったのが間に合ったからよかったものを…」
少し怒った声でそう続ける雪白くんに謝ろうと口を開こうとしたが、急に足元がぐらついた。
思わず閉じていた目を開けると、ぐにゃっと景色が解けるように変わり、学校から急に見知らぬ部屋の一室へと景色が変わった。
『やだ!やめて』
飛び込んできたのは阿隅の悲鳴と男性の怒号。
阿隅が数人に殴られ乱暴される光景。
あまりの光景に目を逸らすことも忘れた私に、咄嗟に雪白くんが私の目を手で遮ろうとした瞬間、一瞬景色が暗くなり、目の前に巨大な黄色と黒の縞々もようの蜘蛛がドアップになって現れると、その蜘蛛が開いた口の中に飲み込まれ目の前が暗転する。
『好きだった愛していたお腹が空いた』
阿隅の声がまた頭の中に流れ込んできた。
雪白くんが阿隅の魂の中だと言っていたし、これは、多分阿隅の記憶なんだろう。そして今見たのは阿隅は蜘蛛に食べられた瞬間の過去…。
いつの間にか私の目からは涙が溢れていたことに気が付いてハンカチで目を拭う。肩も震えているのか、雪白くんがそっと私の肩に手を回して支えてくれている。
場面はまた切り替わり、先ほど阿隅が乱暴をされていたであろう部屋へと戻った。
阿隅のことを殺した元カレなんだろうな。阿隅が何回か彼の写真を見せてくれたので顔だけは知っている。
その元カレが今怯えた表情で目の前に映し出されている。腰を抜かしている男は、座ったまま後ずさりをするが、狭い寝室の中ではすぐ壁に当たってしまいそれ以上の後退は出来なくなる。
そこに下半身は蜘蛛、上半身は4本腕の人とは言い難い姿の阿隅がニコニコと微笑みを浮かべながら近付いていく。
『愛してる愛してた憎い美味しそう食べたい愛おしい』
阿隅の声が流れ込んでくると同時に雪白くんの手で目を覆われた私の耳には咀嚼音と骨が軋む音、そしてなにやら粘土のある液体がボタボタと落ちる音がやけに鮮明に聞こえてくる。
『満たされない…愛しい愛しい…もっと愛しい人を…食べなきゃ…』
「恋慕…か…」
悲しそうな阿隅の声を聞き終わった雪白くんはそう呟くと、私の視界を遮っていた手を離した。
私の目の前には肉色の壁が蠢いているのが目に入り、急に息苦しさを覚える。どうなっているのかと辺りを自分の状況を確かめると、私は屈みながら雪白くんに後ろから抱きしめられていた。
多分ここは阿隅の体内なんだろう。さっきまでは夢みたいな出来事だったのか、それとも飲み込まれる前に阿隅の魂の部屋みたいなところにいたのかわからなくて混乱したけど、どっちにしてもあまりよくない状況には変わらないように思えて考えるのをやめた。
ふと上を見てみるとびっしりと歯のようなものが並んでいて、私たちのことを噛もうとしているのか絶え間なく蠢いている。
よく見ると、その歯たちは私や雪白くんの服に触れられず弾かれていくように見えるが、歯は懲りずに何度も何度も噛もうとして弾かれるを繰り返している。
「結界が耐えられなくなる前に出られそうだ」
雪白くんは、不安そうにしている私を見てそういうと、首元にぶら下がっている綺麗な紫色の丸みを帯びた石の紐を引きちぎる。
ブチンという音と共に雪白くんの手に握られた石は、彼の手の中で紫の光を急激に強くしていった。かと思うと、ぶにっとした感覚がお尻に伝わってきて私たちはねばねばした液と共に外に一気に押し出された。
黄色と赤色が交じり合う粘液と共に私たちは少し空中を浮き、その粘液が苦しんでいる蜘蛛の化け物になった阿隅から少し離れた地面に落ちるべちゃっという音を聞いて、助かったこともそうだけど、結界のお陰で制服が汚れなくてよかった…なんて少し呑気なことを考えてしまった。
「形・因果・名…すべて揃った」
雪白くんの声でそんなこと考えている場合ではないと、声の方を見ると、そこにはさっきまでの制服を着た雪白くんはいなかった。
代わりにそこにいたのは真っ白な神社の人が着ているみたいな和服を着た狐の耳とふさふさとした尾を揺らしている美少年だった。
声と顔つきで雪白くんだということはすぐにわかったが、彼の自慢の真っ黒な髪は朝日に照らされた積もりたての雪景色のような綺麗な白銀になってサラサラと風に靡いていた。
「夕乃阿隅…いや、絡新婦…今楽にしてやる…」
静かな声で姿を変えた雪白くんがそういうと、彼が持っていた紫の石は炎に代わり、その炎が半円形になると、紫と銀のおおきな扇へと形を変えていく。
『あなたになにがわかるのよ!』
雪白くんは私の前に立ち、阿隅と正面から向かい合う。
それを見て阿隅は怒った顔をしてそのまま下半身の4本足をフル稼働して巨大な体からは考えられないスピードで私と雪白くんの方にまっすぐ糸を吐きながら向かってくる。
焦る様子もなくサッと扇を開いた雪白くんは、扇をくるくると回転させて絡新婦の吐く糸を弾き返し、そのまま扇を振り回し周りに張り巡らされた糸も断ち切っていく。
「…なにもわかるつもりはない」
そう冷たく言った雪白くんは、姿勢を低くして風みたいな速さで阿隅の足元へと走り出すと開いたまま扇を振って阿隅の頑丈そうで太くなった蜘蛛の足を切り落としていく。
雪白くんが私と阿隅の中間の位置に戻ったと同時に、甲高い悲鳴が響き、大きな体を支える足を失った阿隅は地面へと腹をつけ恨めしそうに雪白くんを睨み付けている。
雪白くんは、阿隅が動けなくなったのを確認すると、彼女に向かって勢いよく扇を投げた。
扇は光の粒子をまき散らし、彗星のように光の尾を生やしながらスッと飛んでいくと絡新婦となった阿隅の顔の前で止まって回転をし始める。
「恋い慕う相手を喰らわねば生きられぬ哀れな物の怪よ。この地、この縁 からお前の魂を解き放つ」
クルクル回り出した扇からは、光の球や粒がキラキラと辺り一面にまき散らされ、地面に落ちた光の球はなんかいか弾んで消えたり、そのままコロコロと転がって線香花火のような火花を散らして弾けていく。
「朱音…朱音…朱音…」
下半身が光に包まれて紫煙をあげてながら私の名前を呼ぶ阿隅の声に抗えず、私は変わり果てた親友の元へ行くため走り出した。
手を伸ばせば届く位置にまで近付いて見た阿隅は、もうさっきまでの恐ろしい妖怪ではなく、私の知っている美人で自慢の親友の姿をしていた。
目がくらみそうな光が阿隅を包んでいく。彼女が伸ばした手を掴もうと私も光で白んでいく視界の中懸命に手を伸ばした。
『ごめんね…朱音…』
※※※
あんな騒ぎなんてなかったようにいつの間にか私は日常に戻っていた。
事件は結局犯人の手掛かりもなにもなく、ニュースやネット、雑誌でも事件については芸能人の不倫や、新しい事件、どこかに飛んだミサイルの話題の中に埋もれて忘れられていった。
いつのまにかよく話す友達も出来始めた私と、以前と同じように、みんなから少し浮いた感じでいつも静かに本を読んでいる雪白くん。
あれから私は、泣きじゃくり、雪白くんに手を引かれながら家へと送り届けられた。
2,3日休んだ学校へ登校すると、クラスの子が心配して駆け寄ってきてくれた。何人かは「夕乃さんと仲良しだったもんね。ひどいうわさをしてごめんね」なんて謝ってまでくれた。
私は、仕方ないよと力なく笑って席について雪白くんの方を見る。何かフォローでもしてくれたのかと思ったけど、雪白くんはというと、私に気づかないみたいに本に落とした目をあげてくれることはなかった。
あの二日間が特別だっただけで、元から話なんてしてなかったし、仕方ないよね。折角できた友達だと思ってたから、もちろん少し寂しいけど。
その寂しさにも慣れてきた頃だった。たまたま先生に頼まれたプリントの整理が遅くまでかかってしまい、日もすっかり落ちた教室に荷物を取りに行くために足早に向かう。
ガランとした教室を見て不気味だな…と立ち止まる。早く帰らなきゃと足を踏み入れようとした瞬間目の前を黒い影が通り過ぎた。
べチャッという重い肉塊が床にたたきつけられたような音がして、恐る恐る足元を見てみると、首から下のないやけに大きい頭がニヤッと笑って私の方を見ていた。
ビックリして息を呑んだそのとき、急に肩を掴まれ体が後ろに引っ張られ、更に驚いた私はパニックになって腕を振り回そうとするが、その腕も掴まれ更に焦る。
「落ち着け」
知っている声にやっと少しだけ落ち着きを取り戻して声の先を見ると、雪白くんが呆れたような表情で私を見ていた。
「雪白くん!これも物の怪?倒せる?」
「…形と因果を見極め名前を定めないといけない。前も話しただろ?」
「生首おばけとかじゃだめ?」
「…危機感がないな君は」
雪白くんは意地悪そうに笑ってそういうと、私の手を掴んで一緒に走り出した。
そのまま学校を出ると、いつの間に持っていたのか、雪白くんは私のカバンとコートを手渡してくれる。
「あの時一緒にいた影響が残ってるから…しばらくはこういうことが増えるかもしれないって一応警戒はしてたんだ」
私がそれを受け取って身に着けていると、雪白くんはそういったあとに「無視みたいなことしてすまなかった」と小さな声で言った。
「雪白くんが守ってくれるなら安心だね」
「…まったく」
はぁ…と小さな溜息をついたあと、雪白くんは微笑むと私の頭をポンポンと撫でて一足先に歩き出した。
私は、カバンに狐のキーホルダーがちゃんとついていることを確認すると彼の後ろを小走りで追いかけていく。これからの奇怪な日常に期待をしながら…。
雪白くんがそう言ってドアの方を見ると同時にドーンという大きな音と共にすごい衝撃が伝わってきた。窓ガラスは割れて床に飛び散った破片がドシン…ドシンと近付いてくる大きな音に合わせてカチャカチャと小さな音を立てて震える。
「この円から絶対に出るな」
雪白くんがそう言ってドアに向かって歩き出したすぐ後に、たくさんの黒いモヤモヤを従えた笑顔の阿隅がドアを勢いよく破って姿を現した。
彼女の名前を呼んで今すぐ駆け寄りたい衝動が湧き上がってくるけど、私は自分の手を握りしめてそれに必死で耐える。
「朱音を巻き込むのはやめろ。ともだちじゃなかったのか」
雪白くんはというと、自分に絡みつこうとしてくる黒いモヤモヤを片手で掴んで引きちぎりながら、阿隅へと近付いていく。
阿隅は、そんな雪白くんを馬鹿にするように鼻で笑い、右手を前に差し出すと、黒いモヤモヤから仔猫くらいの大きさの蜘蛛がたくさん飛び出してきて雪白くんに襲い掛かる。
しかし、まっすぐ突撃してきた蜘蛛たちは雪白が咄嗟に前に出したお札の光に当たってキィィィと高い鳴き声のようなものをあげながら灰色の煙になって消えていく。
残った蜘蛛たちの何匹かが私の足元に向かってきたけど、円の中には入れないみたいで、紅い糸の内側に入ろうとして弾き飛ばされている。弾き飛ばされた蜘蛛はそのまま逆さまになって足を折りたたんで動かなくなって部屋のあちこちに転がっていた。
「友達だから殺すのよ」
阿隅の声で蜘蛛に向けられていた視線を二人に戻す。
足元に無数の蜘蛛が蠢きながら糸を吐いかれている雪白くんは、蜘蛛を蹴飛ばしながら足や腕に絡みついた糸を引きちぎってどんどん近付いてくる阿隅を睨み付けている。
「朱音は私と一緒になるの私が先に居なくなって寂しいよね?苦しいよね?だから一緒にいこう?私はずっと友達だよ」
動きを封じられつつある雪白くんに近付いていく阿隅は、声も、顔もまだ私の親友の阿隅そのもので死んだなんて嘘で、実は悪いナニカに乗っ取られているだけなんじゃないかという思いが頭の片隅にちらつく。
「聞く耳を持つな!それはお前の親友じゃない!」
振り払ってもきりがないくらい次々と蜘蛛が足に絡みつき、腕に幾重にも糸が絡んで思うように動けなくなった雪白くんの目前に阿隅が迫っている。
阿隅は私に向かって微笑みながら、雪白くんの首に白くて細い手をゆっくりと伸ばそうとしていた。
「友達だから…友達なら…きっとこうしてあげなきゃいけないよね」
「朱音やめろ!」
衝動に身を任せる。
勢いよく円を描いていた赤い糸を飛び出すと鈴がリンと澄んだ音を立てた。
私は、雪白くんの大声での制止でも足を止めず、そのままの勢いで阿隅の元へと向かっていく。
「親友…だよ私たち…」
トンッと阿隅に私の体が当たる感触がする。いつも通りの阿隅のシャンプーの香りがした。
阿隅と見つめ合う。にっこりと笑ってくれる彼女はやっぱり阿隅そのもので、死んでしまったなんて信じたくなかった。
「キャアアアアアアア」
すごい悲鳴と共に私は阿隅に突き飛ばされてしりもちをつく。
阿隅は私を突き飛ばした後数歩後ずさりすると、お腹の辺りを押さえて蹲っていた。
「魔除けの札…いつのまに…」
「友達なら、間違ったことをしそうな時は…体を張って止めないとね」
阿隅の意識が乱れたからか、蜘蛛を蹴散らして体の自由を取り戻した雪白くんは腕に残った白い糸をちぎって捨てながら私に駆け寄って手を貸してくれた。
少しおどけてみたけど、今更になって怖さがこみ上げてくる。
「おのれ…」
怒りの感情をあらわにした阿隅は、私たちの方を睨み付けながら立ち上がった。
バキバキとなにか太い木の枝が折れるような音が聞こえたかと思うと、阿隅の体は持ち上がり、腕が脇の下から更に2本生え、蜘蛛の体のようになった下半身には2対の昆虫のような足が生え始めた。
ギチギチギチと嫌な感じの音がした先を見ると、お腹であろう部分に大きな牙だらけの口がぱっくりと開いている。
目に見えない速さで飛んできた何かを、私に覆いかぶさった雪白くんが咄嗟に振り返り、腕でその何かを防いだのが見えた。
そのあとズルズルズルと引きずられる音と生臭い匂いに包まれ視界が暗転する。
『おなかが…みたされない…なんで…』
どのくらい経ったのだろう。
気が付くと誰かの腸を食べながら泣く阿隅を後ろから見ていた。
なんとなく、これは昨日殺された秋雨くんなんだな…とぼんやりと思う。
『朱音…朱音…朱音…嫌…食べたくない…食べたい…』
意識が明確になるにつれ目の前の光景を直視するのはつらくなってきてこみ上げてくる吐き気に耐えながら私はよくわからないままふらふらと立ち上がる。
「なに…ここ…」
「夕乃の魂の中」
つい独り言を漏らした私に見知った声が返ってきて少し安心する。
どこからともなく表れた雪白くんは、「辛いなら目を閉じてろ」というと、私の手を取って歩き出す。
「咄嗟に結界を張ったのが間に合ったからよかったものを…」
少し怒った声でそう続ける雪白くんに謝ろうと口を開こうとしたが、急に足元がぐらついた。
思わず閉じていた目を開けると、ぐにゃっと景色が解けるように変わり、学校から急に見知らぬ部屋の一室へと景色が変わった。
『やだ!やめて』
飛び込んできたのは阿隅の悲鳴と男性の怒号。
阿隅が数人に殴られ乱暴される光景。
あまりの光景に目を逸らすことも忘れた私に、咄嗟に雪白くんが私の目を手で遮ろうとした瞬間、一瞬景色が暗くなり、目の前に巨大な黄色と黒の縞々もようの蜘蛛がドアップになって現れると、その蜘蛛が開いた口の中に飲み込まれ目の前が暗転する。
『好きだった愛していたお腹が空いた』
阿隅の声がまた頭の中に流れ込んできた。
雪白くんが阿隅の魂の中だと言っていたし、これは、多分阿隅の記憶なんだろう。そして今見たのは阿隅は蜘蛛に食べられた瞬間の過去…。
いつの間にか私の目からは涙が溢れていたことに気が付いてハンカチで目を拭う。肩も震えているのか、雪白くんがそっと私の肩に手を回して支えてくれている。
場面はまた切り替わり、先ほど阿隅が乱暴をされていたであろう部屋へと戻った。
阿隅のことを殺した元カレなんだろうな。阿隅が何回か彼の写真を見せてくれたので顔だけは知っている。
その元カレが今怯えた表情で目の前に映し出されている。腰を抜かしている男は、座ったまま後ずさりをするが、狭い寝室の中ではすぐ壁に当たってしまいそれ以上の後退は出来なくなる。
そこに下半身は蜘蛛、上半身は4本腕の人とは言い難い姿の阿隅がニコニコと微笑みを浮かべながら近付いていく。
『愛してる愛してた憎い美味しそう食べたい愛おしい』
阿隅の声が流れ込んでくると同時に雪白くんの手で目を覆われた私の耳には咀嚼音と骨が軋む音、そしてなにやら粘土のある液体がボタボタと落ちる音がやけに鮮明に聞こえてくる。
『満たされない…愛しい愛しい…もっと愛しい人を…食べなきゃ…』
「恋慕…か…」
悲しそうな阿隅の声を聞き終わった雪白くんはそう呟くと、私の視界を遮っていた手を離した。
私の目の前には肉色の壁が蠢いているのが目に入り、急に息苦しさを覚える。どうなっているのかと辺りを自分の状況を確かめると、私は屈みながら雪白くんに後ろから抱きしめられていた。
多分ここは阿隅の体内なんだろう。さっきまでは夢みたいな出来事だったのか、それとも飲み込まれる前に阿隅の魂の部屋みたいなところにいたのかわからなくて混乱したけど、どっちにしてもあまりよくない状況には変わらないように思えて考えるのをやめた。
ふと上を見てみるとびっしりと歯のようなものが並んでいて、私たちのことを噛もうとしているのか絶え間なく蠢いている。
よく見ると、その歯たちは私や雪白くんの服に触れられず弾かれていくように見えるが、歯は懲りずに何度も何度も噛もうとして弾かれるを繰り返している。
「結界が耐えられなくなる前に出られそうだ」
雪白くんは、不安そうにしている私を見てそういうと、首元にぶら下がっている綺麗な紫色の丸みを帯びた石の紐を引きちぎる。
ブチンという音と共に雪白くんの手に握られた石は、彼の手の中で紫の光を急激に強くしていった。かと思うと、ぶにっとした感覚がお尻に伝わってきて私たちはねばねばした液と共に外に一気に押し出された。
黄色と赤色が交じり合う粘液と共に私たちは少し空中を浮き、その粘液が苦しんでいる蜘蛛の化け物になった阿隅から少し離れた地面に落ちるべちゃっという音を聞いて、助かったこともそうだけど、結界のお陰で制服が汚れなくてよかった…なんて少し呑気なことを考えてしまった。
「形・因果・名…すべて揃った」
雪白くんの声でそんなこと考えている場合ではないと、声の方を見ると、そこにはさっきまでの制服を着た雪白くんはいなかった。
代わりにそこにいたのは真っ白な神社の人が着ているみたいな和服を着た狐の耳とふさふさとした尾を揺らしている美少年だった。
声と顔つきで雪白くんだということはすぐにわかったが、彼の自慢の真っ黒な髪は朝日に照らされた積もりたての雪景色のような綺麗な白銀になってサラサラと風に靡いていた。
「夕乃阿隅…いや、絡新婦…今楽にしてやる…」
静かな声で姿を変えた雪白くんがそういうと、彼が持っていた紫の石は炎に代わり、その炎が半円形になると、紫と銀のおおきな扇へと形を変えていく。
『あなたになにがわかるのよ!』
雪白くんは私の前に立ち、阿隅と正面から向かい合う。
それを見て阿隅は怒った顔をしてそのまま下半身の4本足をフル稼働して巨大な体からは考えられないスピードで私と雪白くんの方にまっすぐ糸を吐きながら向かってくる。
焦る様子もなくサッと扇を開いた雪白くんは、扇をくるくると回転させて絡新婦の吐く糸を弾き返し、そのまま扇を振り回し周りに張り巡らされた糸も断ち切っていく。
「…なにもわかるつもりはない」
そう冷たく言った雪白くんは、姿勢を低くして風みたいな速さで阿隅の足元へと走り出すと開いたまま扇を振って阿隅の頑丈そうで太くなった蜘蛛の足を切り落としていく。
雪白くんが私と阿隅の中間の位置に戻ったと同時に、甲高い悲鳴が響き、大きな体を支える足を失った阿隅は地面へと腹をつけ恨めしそうに雪白くんを睨み付けている。
雪白くんは、阿隅が動けなくなったのを確認すると、彼女に向かって勢いよく扇を投げた。
扇は光の粒子をまき散らし、彗星のように光の尾を生やしながらスッと飛んでいくと絡新婦となった阿隅の顔の前で止まって回転をし始める。
「恋い慕う相手を喰らわねば生きられぬ哀れな物の怪よ。この地、この
クルクル回り出した扇からは、光の球や粒がキラキラと辺り一面にまき散らされ、地面に落ちた光の球はなんかいか弾んで消えたり、そのままコロコロと転がって線香花火のような火花を散らして弾けていく。
「朱音…朱音…朱音…」
下半身が光に包まれて紫煙をあげてながら私の名前を呼ぶ阿隅の声に抗えず、私は変わり果てた親友の元へ行くため走り出した。
手を伸ばせば届く位置にまで近付いて見た阿隅は、もうさっきまでの恐ろしい妖怪ではなく、私の知っている美人で自慢の親友の姿をしていた。
目がくらみそうな光が阿隅を包んでいく。彼女が伸ばした手を掴もうと私も光で白んでいく視界の中懸命に手を伸ばした。
『ごめんね…朱音…』
※※※
あんな騒ぎなんてなかったようにいつの間にか私は日常に戻っていた。
事件は結局犯人の手掛かりもなにもなく、ニュースやネット、雑誌でも事件については芸能人の不倫や、新しい事件、どこかに飛んだミサイルの話題の中に埋もれて忘れられていった。
いつのまにかよく話す友達も出来始めた私と、以前と同じように、みんなから少し浮いた感じでいつも静かに本を読んでいる雪白くん。
あれから私は、泣きじゃくり、雪白くんに手を引かれながら家へと送り届けられた。
2,3日休んだ学校へ登校すると、クラスの子が心配して駆け寄ってきてくれた。何人かは「夕乃さんと仲良しだったもんね。ひどいうわさをしてごめんね」なんて謝ってまでくれた。
私は、仕方ないよと力なく笑って席について雪白くんの方を見る。何かフォローでもしてくれたのかと思ったけど、雪白くんはというと、私に気づかないみたいに本に落とした目をあげてくれることはなかった。
あの二日間が特別だっただけで、元から話なんてしてなかったし、仕方ないよね。折角できた友達だと思ってたから、もちろん少し寂しいけど。
その寂しさにも慣れてきた頃だった。たまたま先生に頼まれたプリントの整理が遅くまでかかってしまい、日もすっかり落ちた教室に荷物を取りに行くために足早に向かう。
ガランとした教室を見て不気味だな…と立ち止まる。早く帰らなきゃと足を踏み入れようとした瞬間目の前を黒い影が通り過ぎた。
べチャッという重い肉塊が床にたたきつけられたような音がして、恐る恐る足元を見てみると、首から下のないやけに大きい頭がニヤッと笑って私の方を見ていた。
ビックリして息を呑んだそのとき、急に肩を掴まれ体が後ろに引っ張られ、更に驚いた私はパニックになって腕を振り回そうとするが、その腕も掴まれ更に焦る。
「落ち着け」
知っている声にやっと少しだけ落ち着きを取り戻して声の先を見ると、雪白くんが呆れたような表情で私を見ていた。
「雪白くん!これも物の怪?倒せる?」
「…形と因果を見極め名前を定めないといけない。前も話しただろ?」
「生首おばけとかじゃだめ?」
「…危機感がないな君は」
雪白くんは意地悪そうに笑ってそういうと、私の手を掴んで一緒に走り出した。
そのまま学校を出ると、いつの間に持っていたのか、雪白くんは私のカバンとコートを手渡してくれる。
「あの時一緒にいた影響が残ってるから…しばらくはこういうことが増えるかもしれないって一応警戒はしてたんだ」
私がそれを受け取って身に着けていると、雪白くんはそういったあとに「無視みたいなことしてすまなかった」と小さな声で言った。
「雪白くんが守ってくれるなら安心だね」
「…まったく」
はぁ…と小さな溜息をついたあと、雪白くんは微笑むと私の頭をポンポンと撫でて一足先に歩き出した。
私は、カバンに狐のキーホルダーがちゃんとついていることを確認すると彼の後ろを小走りで追いかけていく。これからの奇怪な日常に期待をしながら…。