第41話 ありがとう大島2丁目の皆さま
文字数 1,214文字
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対応してくださったのは、若い女性オーナーさんで、まさにチャキチャキの江戸っ子といった明るくステキな方だった。
状況をお話しすると、 とても親切に「その方なら九州へ引っ越されましたよ」と、その場でその中村さんに電話をしてくださった。
が、その中村さんは、「中村鶴吉さん」のことはまったくご存じない方だった。・・・がっかり。
するとオーナーさんが「そういえば、近所に中村さんがもう1軒あったわ!」と、昔の資料などから連絡先を捜してくださり、これまたすぐにお電話してくださった。
オーナーさんのお電話の様子を、私たちは、ただただワラにもすがる思いで見守るばかり・・。
しかし、こちらの中村さんも、中村鶴吉さんとはご縁のない方だった。
「ごめんなさいね。探してる方ではなかったようで・・」
「いえいえ、とんでもありません。せっかくお骨折りいただいたのに、こちらこそ、申し訳ない限りで、あのお電話代を・・」と申し上げたが、「いいですよ。お役に立てなくて」と言って、受け取ってはいただけなかった。
あまりに、申し訳ないので。せめてお礼にとホテルに戻って、島根からのお土産で用意していた日本海の板ワカメをお持ちして、再度お礼に伺い失礼した。
それから中華料理店「千島軒」の大将にも、不動産屋さんでの事をご報告に伺った。
大島2丁目では、羅漢寺さん、銭湯さん、銭湯のお客さん、歩いていた人、偶然出会えた町内会長さん、当時の中村邸があった場所の中華料理店の大将や、常連のお客さんたち、大将に紹介していただいたご近所の方、その方に教えていただいた不動産屋さん。
そして、事前に石川記者が調査を進めてくれていた居酒屋のマスターやお客さんたちなどなど多くの方に出会うことができた。
しかし、残念ながら石号はもちろんのこと、中村鶴吉さんのことを知る人は、誰ひとりいなかった。
大島2丁目の皆さんは、本当にみなさん親切で、親身に話を聞いてくださった。
その大きな感謝の思いと、中村鶴吉さんの消息が見つからない残念さとが、入り交じった複雑な思いのまま、翌日には3泊4日の調査活動を終え、島根に帰った。
やはり東京で80年前の人捜しは無謀だった。もうこれ以上は無理かも・・。
島根の石見の山の中では、80年前の家が見つかり、子孫の方にも出会えた。
しかし、東京の80年の壁は、厚く大きく、そして遥か彼方だ・・。
特に空襲ですべて焼けてしまったので、当時の戸籍も消失していた。戦前の石号の血統書は、残っていたけれど、中村鶴吉さんの戸籍は残っていないのだろうか・・。
来月は、もう還暦でおばあさんなんだから、まあ、ここまででいいかな・・。
年寄りにしては、この数ヵ月間よくやったよ・・・。
次号に続きます。