第5話

文字数 5,436文字


 彼女の長い話がちょうど終わるくらいのタイミングで、我々は目的地に到達した。トシトシは都心のあるマンションの地下駐車場に車を停めた。そして一度ふうと息をつき、「着いたわよ」と言った。「もっとも店までは少し歩かなくちゃならないけどね」

「こんなところまで送ってくださってどうもありがとうございます」と僕は言った。

「いえいえ。というか私が無理矢理連れてきたようなものなんだからね。でもあんたってほんと僻地(へきち)みたいなところに住んでるのね。たまたま用事があったから迎えに行ったけど、そうでもなかったら行く気にもならない。本当に東京都なの?」

「まあ一応」

「ふうん。まあいいわ。そんなことは。とにかく荷物を持って、車を降りてちょうだい。私はちょっと煙草を吸うから。そのあとで一緒に店に行きましょう」

「分かりました」

 僕は車を降り、ショルダーバッグを下において、一度伸びをした。地下駐車場の空気は(よど)んでいたが、それでも構わず深呼吸をした。すると自分が予想外に疲れていることに気付いた。もちろんアルバイトが終わったあとに車に乗ったのだから、疲れていて当然だったのだが、この疲れは今までとは少々(おもむき)(こと)にしていた。それはつまり、

疲れだったのだ(方向性のない疲れなら僕はそれまで何度も経験していた)。それはもちろん、例のトシトシの長い話がもたらしたものだった。彼女の低い話し声は僕に一種の安心感を与えてくれていた。自分がどこか深いところに――源泉のような場所に――結びついているという安心感。彼女は最終的には孤独に――孤独なオカマに――なってしまうわけだが、それでもこの話を聞いてよかった、と僕は思った。それだけでもこんなところにやって来た甲斐があるというものだ。

 僕がそうやって考え事をしている間に彼女は煙草を一本吸い終え、やがてこちらにやって来た。その姿は相変わらず年齢不詳だった。若くも見えるし、年寄りにも見える。もっともあの話を聞いたあとでは、(ひたい)(しわ)が多少深くなったようにも見えた。その一本一本に、きちんとした意味がこめられているのだろう、と僕は思った。

 彼女は僕のすぐ脇に来て、そっと右手を握った。僕は左手を使ってショルダーバッグを首にかけ、出発の準備をした。彼女の手は冷たくも温かかった。それは老木の幹を思わせた。確実に死に向かいながらもなお、生きている。そこにもまた――当然のことながら――たくさんの皺が寄っていた。

 我々は手を(つな)ぎながら深夜の街を歩いた。人通りは少なかったものの、ときどき酔っぱらいの集団に出くわしたりもした。もっとも彼女はそんな人々には目もくれず、ただひたすら目的地に向けて歩き続けた。当然僕も同じ歩調で歩き続けていたわけだが、ふと自分が男なのか女なのか分からなくなっていることに気付いた。というか自分が本当は何なのかさえ分からない。でもそんなことはどうでもいいことなのだ、とすぐに思い直した。大事なのは今自分がこうやって生きているということ。そして向かうべき場所がある、ということだ。

 彼女は終始無言で歩き続けていたのだが、ある道を曲がったところでふとこう言った。「私は本当に孤独なのよ・・・」と。僕はそれに対して言うべき言葉を持たなかった。だからただ強く手を握り返した。

 十分ほど歩いたところで、ようやく店に辿(たど)り着いた。比較的新しいビルの二階で、階段下に置かれた四角い看板には「Bar Einsamkeit」と書かれていた。

「アインザムカイト・・・。これはドイツ語ですよね? 意味は・・・」

「孤独よ」とトシトシは言った。「ここは孤独なオカマたちが(つど)う場所なの。さあ、ようこそ、私の店へ。ほら! お前たち! はるばる僻地(へきち)からお客様がお見えだよ!」

 彼女がドアを開けてそう叫ぶと、店の奥の方からけばけばしい衣装を着たオカマたちが急いでやって来た。見るとほかの客も何人かいるようだった。大体がスーツを着た中年のサラリーマンだが、若い人もちらほら見える。僕はその奥に、あろうことかTの姿を発見してしまった。彼は上半身裸で――というかよく見ると赤いふんどし一丁で――テーブルの上に立ち、何かの踊りを踊っていた。僕は(あき)れてそれを見ていた。

「ご主人様お帰りなさいまし」と急いでこっちにやって来たオカマの一人が言った。四十代後半くらいの、体毛の濃い男――女――だった。メイド服を着て、金髪のかつらをかぶり、顔には濃いメイクが(ほどこ)されている。彼――彼女――は僕を奥の席に連れていった。

「なあ、何をやってるんだよ!」と僕は大声を上げてTに向かって言った。というのも音楽がうるさくて、なかなか声が通らなかったからだ。

「お! ようやく来たか。さあ君も服を脱いでテーブルに上がれ。一緒に踊ろうじゃないか」

 トシトシがカウンターの方に合図を出し、ビールを持って来させた。「あら、あんた未成年だっけ? でもそんなことどうでもいいでしょ? 今晩は私のおごりだからさ。記憶がなくなるまで飲みなさいよ」

 僕は腹を(くく)ってビールを飲み――ビールを飲んだのはそれが生まれてから二度目くらいだった――見事に酔っぱらった。つまみを食べ――スルメイカとナッツ――またビールを飲んだ。それは驚くくらい不味(まず)かったが(もちろん僕がまだ慣れていないせいだ)、そんなことはどうでもよかった。たしかに今日は踊りたい気分だった。僕は普段結構クールな人間ということになっている。そして自分でもそう思って生きてきた。でもそんなのはただの

に過ぎなかったのかもしれないな、と朦朧(もうろう)とする意識の中で思った。僕はたまたま店に居合わせた頭髪の薄いサラリーマンや、ちょっとその()のある男子大学生と踊った。意外なことに女性客もいたが、彼女とも仲良くなった。暑くなってきたので服を脱ぎ、テーブルに(のぼ)った。そして音楽に合わせて、Tと一緒に踊った。ちなみにTは酒に強いらしく、どれだけ飲んでも踊りのキレを失わなかった。僕がそのとき踊っていたのは、つまりこういう曲だった。


『オカマ音頭』

ア、ソレ! ア、ソレ! ア、ソレソレソレソレ!

オ、カマになりたけりゃ

お、とこを捨てなさい! (ソレソレ!)

き、れいになりたけりゃ

す、ね毛を()りなさい! (()()れ!)

(しり)を ((しり)を!)

突き出せ! (突き出せ!)

夢を (夢を!)

燃やせ! (燃やせ!)

あっはん (あっはん!)

うっふん (うっふん!)

そこは駄目 (そこは駄目!)

あっはん (あっはん!)

うっふん (うっふん!)

そこも駄目 (このスケベ親父!)


じ、ゆうになりたけりゃ

オ、カマになりなさい! (ソレソレ!)

オ、カマになりたけりゃ

じ、ゆうになりなさい! (ソレソレ!)

・・・(以下永遠に続く)


 翌日の朝、僕は従業員用控室のような場所で目を覚ました。狭く、薄暗い。備品や、衣装、酒の空き瓶なんかがそこかしこに置かれていた。僕が寝ていたのは一人掛け用のソファの上で、誰かが薄い毛布をかけてくれていた。見るとパンツ一丁だった。痛む頭を押さえながら、近くに畳んで置いてあった衣服を一枚一枚身に付けた。昨日アルバイトが終わってから、十年くらいの歳月が経ったようにも感じられた。しかし実際には十二時間ほどしか経っていないわけだ。トシトシの長い話がまだ頭の中で渦を巻いていた。それは僕の中心のような場所に、しっかりと収まっていた。そして例の音楽。オ、カマになりたけりゃ・・・。

 そのときドアが開いて、Tが入ってきた。彼はきちんと服を着て、どうやら(ひげ)()ってあるみたいだった(僕はまだ()るほど(ひげ)が生えない)。その身体からは石鹸の匂いがした。

「よお、起きたか」と彼は言った。「どうだい気分は?」

「最悪だよ」と僕は言った。そして痛む頭を何度もさすった。「二日酔いってこんな感じなんだな」

「ハッハ。まあそういうことだ。これで君も一歩大人に近づいたわけだ」

「君が僕を呼んだんだろ?」

「まあそうだ。俺はちょっと用があってこっちに来たんだが、トシトシが君ん()の近くに用事があるっていうもんだから、ふと思いついたんだ。じゃあ君を呼べばいいじゃないか、とな。それで彼女に頼んだんだ」

「なかなか興味深い話を聞かせてもらった」と僕は言った。

「そうか」と彼は言った。

「ところで君は彼女と一体どんな関係にあるんだ? そういえば同じ(かま)の飯を食ったとか言ってたけど・・・」

「まあそれはちょっと言い過ぎかもしれんがな・・・。つまり彼女は自分の店をやるのと同時に、行き場のなくなったオカマを支援する活動をおこなっているのさ。このすぐ近くに寮がある。しばらくそこに住まわしてやったり、あるいはバーで雇ったりして、自立できるように支援してやるのさ。なかなか奇特(きとく)な人だよ」

「でも君はオカマじゃないんだろう?」

「まあな。でも十六のときに、車で福井からこっちにやって来て、カネが尽きて困ってしまったことがあった。もちろん両親に頼めばいくらでも出してくれたんだけど、その頃はちょうど反抗期でね。彼らにものを頼むのが(しゃく)でならなかったんだ。そんなときに路上で()えていた俺を助けてくれたのが・・・」

「トシトシだった」

「そう。彼女は俺を寮に(かくま)ってくれて、飯を食わせてくれた。その後二週間ほどバーで働かせてもらい――そのときに例の音頭を覚えたんだ――稼いだ金を使ってガソリンを買った。彼女はそういうところは厳しいんだ。金が欲しかったらちゃんと働けってね。まあそんな風にして、俺は無事福井に帰り着いた。反抗期ではあったものの、結局当時はほかに帰る場所もなかったからな。両親にこっぴどく叱られたが、まあおかげで俺は少し大人になった。それがそのときの経験だ。その後東京に来るたびに彼女の店に顔を出すようになった。まあそんな感じだ」

「君はなかなかワイルドな人生を送っているんだな」

「どうもありがとう。素晴らしい褒め言葉だ」


 彼はその後近くにあるという例の寮に僕を連れていってくれた。比較的新しい、三階建の、小奇麗なクリーム色の建物だった。僕は空いている部屋の一つでシャワーを浴びさせてもらった。石鹸を使って身体を洗うと、なんだか生まれ変わったような気分になった。でももちろんそれは気のせいだ。僕は生まれ変わってなんかいないし、世界ももとのままだ。ただ少なくとも二日酔いは多少ましになったみたいだったが。

 僕はTと一緒に外に出て、彼の車が停めてあったコインパーキングへと行った。彼が家まで送ってくれる、ということだった。土曜日の午前中の街は、なんだかひっそりとして見えた。もちろん道を歩く人の姿は散見されたのだが、昨日バーで見たオカマたちに比べれば、否応(いやおう)なく存在感が希薄であるように感じられた。でもそれも無理もないか、と僕は思う。彼らは生きるという行為に()えていたからだ。

 帰りの車中僕らはほとんど話をしなかった。ただ彼がかける古い音楽に耳を傾け、それが終わるとエンジンの音にひたすら耳を澄ましていた。途中ふと、彼はあのトシトシの長い話を知っているのだろうか、と思った。おそらく長い付き合いだから、ある程度のところまでは知っているに違いない。でもなんとなく、僕が昨夜聞いたほどは詳しく細部を知らないのではないだろうか、という気がした。だからあの話については、こちらからは一切持ち出すことはしなかった。彼の方も特に(たず)ねなかったし、おそらくそれでよかったのだと思う。というのも昨日例のトヨタクラウンの中で交わされた会話は、ちょっと特別なものだったからだ。安易に他人にしゃべったりするような内容ではない。

 景色はビルに埋められた都会から、徐々に住宅街へと変わり、やがていくつかの橋を通って、今度は別の中規模の街へと変わった。いずれにせよ何の面白みもない光景だった。僕はふと十八歳まで住んでいた東北の街の光景を思い出したが、どうもそこもまったく面白くなかったような気がした。だとすると、我々の人生とは一体何なんだろう? 単につまらない場所から別のつまらない場所へ移動し続けるだけのことではないのか?

 もっともそんな考えも、やがて意識の(もや)の奥へと消えていった。僕はどうやら眠り込んだらしく、彼に起こされて目を開けると、もう自宅アパートの前だった。僕は礼を言い、車を降りた。彼は窓越しにこちらに手を上げ、どこかへと去っていった。僕は部屋に入り、ベッドに横になった。まだ正午前だったが、疲れが波のように押し寄せてきて、あっという間に深い眠りに落ちていた。起きたときは真夜中で、ちょうど日付が変わる時間帯だった。「私は本当に孤独なのよ・・・」というトシトシの言葉が、なぜか不意に(よみがえ)ってきた。




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