邂逅
文字数 6,387文字
みのりは放心状態で帰り道を歩いていた。
朝、真帆とこの道を歩いているときは、まさかこのような展開が待っているなんて、思ってもみなかったのに。
──あれから、みのりに事実が突きつけられるまでにそう時間はかからなかった。
ホームルームを終えて、真帆と翼と三人で教室を出たとき、すれ違った女子たちの会話を聞いてしまったからだ。
「ねえ、聞いた? 翔太とD組の伊藤ほのか、春休みから付き合い始めたんだって。翔太がめっちゃ押しまくったらしいよ。二年からクラス離れて残念そうだった」
「えー、マジでー! でもお似合いだよねー、美男美女で」
私にも誰か告白してくれないかな、と笑いながら、彼女らは遠ざかっていく。
当然ながら、真帆と翼の耳にも入ったのだろう。
その場に突っ立ったまま凍りついているみのりに、気遣うような視線が投げかけられた。
何か、何か言わなければ。でも、何を?
みのりは、まとめていた髪を乱暴にほどくと、いつもの地味なおさげに結び直した。
真帆が息を飲む。
「ちょっと、みのり……」
「いいの」
ふたりに笑いかけたつもりだったが、本当に笑えていただろうか。
「おい、大丈夫か?」
普段あまり感情を見せようとしない翼も、心配そうにこちらを見ている。
「真帆、翼くん、大丈夫だよ。別に、付き合いたいとかそんなんじゃなかったし。そもそも私じゃ無理だって!」
明るく言ったつもりが、悲痛な叫びになってしまった。
ふたりの心配は十分伝わったが、これ以上彼らといるとひどい失態を犯してしまいそうな気がする。
ありがとう、先帰る、またメッセージするね、と言って、みのりはそそくさと学校をあとにした。
今日がお昼まででよかった。もう一秒もここにいたくない。
──あんな似合いもしない髪型にして、浮かれちゃって。
自分がひどくみじめだった。
付き合いたいとかそんなんじゃないと言いながら、翔太が彼女と一緒にいるのを見て、動揺が止まらなかった。
あんな可愛い女子にかなうわけがないのに、馬鹿みたい。
明日からどんな顔して学校に行けばいいんだろう……
大きい交差点に差し掛かり、ふと違和感を覚えて足を止めたみのりは、目を疑った。
ここは、みのりが毎日の登下校に使っている道だ。
高架下にショッピングモール、飲食店などが並んでいて、道路を挟んだ向かい側に大きい公園があり、人々の憩いの場になっている。
みのりもこの
今は、昼の十二時半。
みのりのような学校帰りの学生や、昼休みらしいサラリーマンやOL、公園でくつろぐ親子連れ……
一瞬前まで思い思いの時間を過ごしていたと思われる彼らは、まるで動画を一時停止したように、少しも動かない。
人だけではなく、道路を走る自動車も止まったままだ。
さっきまで少し強めに吹いていた風は、ぴたりと止んでいた。
周囲をぐるっと見回してみた。
腕を振ってみる。
この静止した空間の中で、なぜかみのりだけが自分の意思で動くことができている。
どういうこと? こんなのまるで──時間が止まったみたい。
恐怖感に駆られたみのりは、自分の身体を抱きしめて震えた。
突然、視界の端を黒いものがかすめ、みのりは後ずさる。
目の前に現れたのは、一匹の黒猫だった。
エメラルド色の大きな瞳に、漆黒の毛並み。
しなやかな身体、すらりと伸びた脚──
とても美しい猫だったが、今その美しさに感嘆する余裕はとてもなかった。
猫はみのりをじっと見つめると、二本の脚で直立し、若い男の声でこう言った。
「やれやれ、探したぜ。おまえが早川みのりだな」
猫がしゃべった。しかも立ってる。
そう理解するまでに少し時間がかかった。
ありえないことが立て続けに起きている。
私、失恋のショックが大きいあまりにおかしくなっちゃったのかな? それとも夢?
うん、きっとそうだ。みのりは強引にそう解釈した。
「これは夢だ。まさか、猫がしゃべるわけない」
「おいおい、見なかったことにすんなよ。おまえに用があってきたんだ。この気配からして、エリザベートは間違ってなかった──やはり存在したんだな」
「……」
頭が痛くなってきた。
時間が止まった(?)上に、しゃべる黒猫が、何だかとても上から目線で、わけのわからないことを言っている。
エリザベートって誰? そういえばさっき自分の名前を呼ばれた。
「
「え……エーテルハートって何?」
みのりが率直に疑問を口にすると、黒猫はため息をついた。
「マジかよ……本当に自覚なしか。早々にぶんどって帰ろうと思ってたんだが。それなら……」
数秒考え込んだ黒猫は、やがて「いいこと思いついた」とでも言いたげに、ニヤリと微笑んだ。
「まぁ、今はいいや。オレはロダン。
「魔法使い──」
「またな、みのり」
ロダンと名乗った黒猫は、姿を消した。まるで空間に溶けるように。
と同時に、少しずつ街の
さっきまで動きを止めていた人々は、まるで何事もなかったかのように談笑したり、どこかに向かったりしていた。
路上の自動車も再び走り始める。
強めの風が、また吹いていた。
──しゃべる黒猫。魔法使い。エーテルハート。
──何それ?
しばらく茫然とその場に突っ立っていたみのりは、たった今起こった出来事を思い返す。
まず時間が止まって、自分以外の人は動けなくなった。
そして現れたのがしゃべる黒猫、ロダン。
彼が消えたとたん人々が動き出したことから、おそらく彼が魔法で、故意に時間を止めていたとしか考えられない。
とてもにわかには信じがたい話だが。
彼は、「エーテルハートをよこせ」とみのりに言った。
だがそのようなものは持ち合わせていないし、そもそもエーテルハートが何なのかも、みのりにはさっぱりわからない。
ふと、祖父の言葉が脳裏をよぎる。あの丘には魔法がかけられていると。
みのりがその言葉を信じていたのは、昔の話だ。
高校生になった今、魔法なんておとぎ話の中だけに存在するものだと思っていたのだが……
魔法を使ったとでもいわないと説明のつかないような数々のありえない現象を、みのりは確かに見てしまった。
──おじいちゃん、魔法って、本当にあるの?
身体中が
今起きた出来事は置いておいて、とにかく帰って休みたい。
そう思ったみのりは、帰路を急いだ。
しかし、ありえない現象は、まだ終わらなかった……
* * *
自宅にたどり着くまでずいぶん長くかかった気がした。
さっきのような謎の現象はまだ起こっていない。今のところは。
──先ほど起こった事実を何度
しゃべる猫のインパクトにかき消されて、失恋したことはもはやどうでもよくなりつつあった。
猫が名乗った名は、ロダン。
「またな、みのり」
なぜかロダンはみのりの名前まで知っていた。
そして、再会を思わせるような一言。
彼はまたみのりに、会いに来るのだろうか?
「……何もなかった。何も起こらなかった。うん、さっきのは忘れよう!」
みのりは無理やり元気よくつぶやくと、ようやく玄関のドアを開けた。
「おかえり、みのり。ごはんできてるわよ」
家に入ると、ちょうど廊下に母がいた。確かに、キッチンの方からいい匂いが漂ってくる。
「ただいま、お母さ──」
返事をしようとしたみのりは、母の足元に何かがいることに気づき、そのまま立ちすくんだ。
「もうロダンったら、お昼の支度で忙しいんだから、あんまりつきまとわないでちょうだい」
苦笑いをする母に、甘えるようにすり寄っている黒猫がいる。
黒猫は……ロダンは、固まっているみのりを見て、母に見せていた愛らしい表情から一転、先ほどのような不敵な笑みを浮かべた。
よく見ると、先ほどはつけていなかった
「お、お母さ……そっ、その猫」
黒猫を指差して口をパクパクさせるみのりに、母は呆れたように言った。
「何びっくりしてるのよ。まさかロダンを忘れたわけじゃないでしょうね。みのり、あなたが猫飼いたいって言ったんでしょ? とにかく、早く入りなさい」
「どういうこと⁉ そんなの知らないよ。お母さんどうしちゃったの⁉」
「騒がしいな、何かあったのか」
気がつくと、兄が怪訝そうに後ろに立っていた。昼食を食べに大学から戻ってきたらしい。
「お兄ちゃん」
兄に助けを求めようとしたみのりを遮ろうとしてか、帰ってくるのを待っていたとでも言いたげに、ロダンは兄に向かってニャーンと可愛く鳴いてみせた。
さっきの若い男の声とは全く違う、猫の鳴き声だ!
「ロダン、残念だけど昼飯食いに帰ってきただけなんだよ。またあとで遊ぼうな」
兄も、全くロダンを不審がる様子はない。
ニコニコしながら頭をなでているし、ロダンも本物の猫よろしくゴロゴロ喉を鳴らしている……
みのりはだんだん顔から血の気が引いていくのを感じた。
「お兄ちゃん、みのりが変なのよ。病院に連れて行ったほうがいいかしら? ……熱はないみたいね」
そういえば朝もなんだか様子がおかしかった、などといいながらみのりの額に手を当てる母。
みのりはふと思い当たった。
──まさか、これもロダンの魔法なの?
またな、ってそういうことだったの?
でも、何のために?
* * *
「どういうことか、説明して」
午後十時、みのりの部屋。
カーペットの上でくつろぐ黒猫……もといロダンに、みのりはしかめっ面で言った。
あれから夜七時過ぎには父が帰ってきたが、父もロダンに対する反応は全く同じ。
どういうわけか両親も兄もロダンが昔から早川家にいるものと認識しており、むしろみのりの方を不審がる始末である。
混乱するばかりのみのりに、ロダンは言った。
「多勢に無勢じゃどうしようもねーだろ。ここはそういうことにしとけ。あとで説明してやるから」
驚いたことに、誰一人ロダンの言葉を理解する様子がない。
両親にも、兄にも、普通の猫の鳴き声にしか聞こえないようだ。
確かにこうしていても埒があかないので、みのりも渋々ながら話を合わせることにした。
かくして……みのりにとっては不本意極まりないが、ロダンは早川家の飼い猫として生活することになったのである。
「説明か。何からすりゃいいのかねえ」
ロダンは小さくあくびをすると、みのりに向き直った。
そのぶっきらぼうな口ぶりは、徹底的に可愛い猫を演じていた先ほどとは大違いだ。
これが本当の猫かぶりか……と一瞬みのりは思ったが、それは口には出さなかった。
「まず、あなたは何者なの。何で私の名前を知ってるの? 魔法使いってほんとなの? どうして──」
「やれやれ、質問が多いな」
「当たり前じゃない。何から何までわからないんだから」
「オレはロダン・クラウス・ベルシュタイン」
ロダンは改めて名乗った。
まるでファンタジー漫画の登場人物のような長いフルネームだ。頭を抱えるみのり。
「やっぱり猫がしゃべるなんてありえない……」
「この世界の動物と同じにされちゃ困るな。オレは
「ケット・シー……って何?」
「オレのいた世界の種族のひとつだよ。オレたちはおまえら人間の言葉もわかるし、二本の足で歩ける。魔法だって使える。高等な知能を持った種族なんだ」
ロダンは淡々と述べたが、みのりにはあまりにも非現実的すぎて、当然ながらすんなりと頭に入ってはこなかった。
「信じられない」
これがみのりの率直な感想である。
猫がしゃべるだけでもおかしいのに、その上魔法使いだなんて。
しかし、ロダンは確かに昼間、時間を止めたり、みのりの前で姿を消してみせた。
それに、両親と兄のあの反応。
三人とも、昔からロダンがこの家にいると思い込んでいるようだ。
しかも、ロダンを飼いたいと言い出したのはみのりだということになっているらしい。
「そう言うだろうと思ったよ。まぁ、おまえがオレの言うことを信じようと信じなかろうと、どうでもいい。……で」
不意にロダンの両の瞳が黄金色に輝き出す。
みのりは不穏な空気を感じて身体を震わせた。
「昼間も言った通りだ。オレはエーテルハートを探している。そのためにここに来たんだ」
「だから、そのエーテルハートって何なのよ。私は持ってないってば」
「オレも直接見たことはないから知らないが、手に入れた者の願いを叶えてくれる宝石らしい。それがあれば、オレはもっと強い魔法使いになれるはずなんだ。本当に心当たりがないのか? 確かにおまえから強い気配を感じるってのに……」
ロダンの声には、明らかに苛立ちの色が見えた。
どうやら彼が強い野心を持ってここにやってきたらしいということはわかったが、気配がするなどといわれても、みのりにとってはそんなこと知ったこっちゃない。
わからないものは、わからないのだから。
しばしみのりとロダンはにらみ合いを続けたが、こうしていても仕方がないと思ったのだろう。
先に引いたのはロダンの方だった。
「……まぁいい。おまえの周辺にエーテルハートがあるのは間違いないはずだから、見つけ次第回収させてもらうぜ。そのために、おまえの家族の記憶を書き換えたんだからな。オレがこの家で動きやすいように」
「ちょ、そんな勝手な……」
これからどうしたらいいんだろう。
みのりは泣き出したい気分だった……
* * *
夜も更けた。
時計の針は午前二時を指している。
ようやく眠りについたみのりを横目に、ロダンは今日一日を振り返っていた。
ここは、魔法の存在しない世界。エーテルハートの手がかりを求めて、たどり着いた世界だ。
暖かく緑豊かなこの国──ニッポンは、寒くて暗いロダンの故郷とは何から何まで違いすぎていて、慣れるまでに少し時間がかかりそうだ。
この家の飼い猫になりすますことは、至極容易だった。
捨てられていた黒猫を拾ってきたみのりが、「どうしても飼いたい」とねだった。
ロダンと名付けられた黒猫は、その後早川家の飼い猫となった……
そんな記憶をみのりの両親、兄に植え付けたのだ。
狙い通り、彼らはロダンを家族の一員として迎え入れ、ずっと前から一緒にいるものと信じ切っている様子だ。
ただひとつ、わからないことがある。
ロダンは当初、みのり自身の記憶も書き換えるつもりだった。
エーテルハートを手に入れるにあたって、みのり自身にも自分を飼い猫だと思い込ませる方が、ずっと楽だからだ。
しかし、なぜかみのりにだけは魔法がかからなかった。
ごく普通の、平凡な、どこにでもいそうな少女だというのに……
だが、それらはロダンにとっては大した問題ではない。
「オレはエーテルハートさえ手に入れば、それでいいんだ」
ロダンの言葉に呼応するかのように、眠っているみのりの身体が薄ぼんやりした光に包まれていった。
今まで感じたこともないような、強いエネルギーが伝わってくる。
はやる気持ちを抑えながら呪文を唱えてみるが、気配を感じるだけで何の手応えもない。
「少し時間がかかるかも」というエリザベートの言葉を思い出して、ロダンは舌打ちした。
──どうせ、いずれわかることだ。
もっと強い力を手にして、誰もが認める最強の魔法使いになる。
長年の悲願がもうすぐ叶おうとしている……
ロダンの瞳が、暗闇の中で一瞬、黄金に光った。
「待ってろよ、エーテルハート。すぐに手に入れてみせる」
こうして、みのりとロダンの奇妙な共同生活が始まろうとしていた。