文字数 3,133文字

 意識を取り戻したとき、わたしの目の前は真っ暗だった。おかしいな。確かに目を開けているはずなんだけど……目の前はおろか、自分の手さえも見えないくらいに真っ暗の中にいた。視界が不十分の中、次は足元から背中にまで這うようにやってきた寒気がわたしをぞわりとさせた。まるで生き物のようにぬめりとした寒気は、わたしから体温を確実に奪い、足元をがくがくと震わせた。

 このままじゃ危ない。

 わたしの中のもう一人のわたしがそう言っているような気がした。一歩先すらも見えないなか、わたしは意を決して右足を出した。じゃりという音が聞こえ、足場がちゃんとあることがわかった。続いて左足を出すと同じくじゃりという音が聞こえた。ちょっとだけ安心したわたしは、手を伸ばしながらゆっくりと歩き始めた。この先に何があるのかわからない不安と、自分の姿が確認できない不安を抱えながら、一歩また一歩と歩き始めた。

 どのくらい歩いたのかもわからないまま、わたしはただひたすらに一歩ずつ歩いていた。さっきまで纏わりついていた冷気も慣れたのか、それともどこかに行ってしまったのかはわからないけど左程気にならなくなっていた。
 まだまだ真っ暗な道を少しずつ進んでいると、目の前が急に明るくなりわたしは慌てて両手で目元を覆った。指の間から様子を伺うと、青白い炎のようなものが風もないのに揺らめいていた。少し怪しいと思いながらも、やっと自分の手や足、体も見えることが確認できて、わたしの気持ちは落ち着きを取り戻していた。それにしても……この道はどこへと続いているんだろう。まだ先の見えない道にちょっとだけうんざりしながら、わたしはいつものペースで歩き始めた。
 ようやくいつものペースを取り戻した状態に慣れたころ、どこからか川の流れるような音が聞こえた。さらさらとして穏やかそうなその音を聞いたわたしは、訳も分からず小さく跳んで、音の聞こえる方へと小走りで向かった。ようやく変わった景色が見れるという思いがあったのかもしれない。わたしはわくわくしながら音のする場所と辿り着くと、そこには小さな船着き場があった。川の流れにちゃぷちゃぷと音を立てながら揺れる紐で繋がれた小舟の傍には、なんとも眠たそうな男性が腕組みをしながら座っていた。魔法使いがよく被っていそうなとんがった帽子とローブのようなものは、さっきまでいたあの暗闇の空間と同じ色をしていて、それとは対照的な白い肌に薄い線を引いたかのような細い目。声をかけていいものか悩んでいると、その男性はわたしに気が付き「あっ」と声を漏らした。
「君、ここらじゃ見かけないけど、どうかしたの?」
 わたしの胸がどきんと跳ね、顔を真っ赤にしながら慌てふためていると男性は薄く笑い「驚かせてごめん」と言い、一呼吸置いてから改めてわたしに何でここにいるかを尋ねてきた。わたしは、ティミルと名乗ってからここでとある試練を受けなくてはいけないということを伝えると、その男性は低くくぐもった声で唸り始めた。
「そういった話、聞いていないな。そういうことがあれば、ぼくの耳に入るんだけど……何か特別なことでもあるのかな……ごめんね。ぼくから聞いておいて何の力にもなれなくて」
 男性はわたしに何度もぺこぺこと頭を下げて謝った。いや、あなたが悪いんじゃないから……そんなに謝らないで。そう言っても中々頭を上げようとしない男性に困っていると、川面からちゃぷんという音が聞こえてわたしと男性は川面へと視線を移す。
「何か騒がしいと思ったら……あなたは誰?」
 首から上を川面から出している……あれは、女性かしら。銀色の髪に透明度の高い水のような肌に潤んだ瞳は、まるで吸い込まれてしまいそうな魅力があった。わたしがその女性にうっとりとしていると、男性は嬉しそうに両手を広げながらその女性に挨拶をした。
「やぁ、レーテーじゃないか。こんなところで会うなんて」
「……そんなことはどうでもいいわ。それより、無関係の人間がいるようだけど……?」
 氷のような一言にひるむことなく、男性はレーテーと呼ばれた女性に経緯を説明した。するとレーテーも同じくしばらく考え込んで出た答えは男性と同じでわからないとのことだった。
「けど、ここに来たということは間違いではないということね。だったら、行ってみたら?」
「そうだね。ここで話をしていても進まないし、よかったら運んであげるよ」
 運ぶ? 行ってみる? 一体どこへと聞くと、二人は顔を見合わせにやりと笑いながらこう答えた。
「ハデス様が治める国、冥界へ」

 わたしは訳も分からず男性とレーテーが進めるまま舟に乗り、川の向こう岸に行くことにした。ぎいぎいと規則的に木で出来た竿のようなものを器用に使い少しずつ陸から離れていく。川の半分くらいまで差し掛かったとき、男性は「あぁ、ごめん。名乗っていなかったね」と突然思い出したかのように自己紹介を始めた。
「ぼくはカロン。渡し守をしているよ。って、見ればわかるか。あははは」
 カロンにハデス……どこかで聞いたことのあるような……。わたしはどこかで読んだ本の記憶をまさぐっていると、突如ぴかんとしたものが表れて納得した喜びと恐怖が同時に襲ってきた。
「そんなに怯えなくて大丈夫だよ。ちゃんと話をすればわかってくれるいい人だから」
 そんな眩しい笑顔で言われても、わたしはそのハデスという人物がどういう人なのかもわからないのに……わたしが頬を膨らませていると、カロンは簡単にハデスについて教えてくれた。
「ハデス様はこの冥界の国を治めている王様なんだ。ちょっと前に大きな戦争があってね。それに勝利して報酬として今ここにある冥界を獲得したんだ。それ以降はハデス様が死者の魂を選定しているってこと。ざっくりだけどこんな感じかな。顔はちょっと怖いかもしれないけど、話すととっても面白い人だから、安心して」
 ……そうだった。わたしがどこかで読んだ本にも確かそんなようなことが書いてあった気がする。なんとなくハデスがどんな人なのかはわかったけど……そんな人に試練っていったって……ただでさえ冥界という圧が強すぎる言葉だけで、わたしの体はさっきよりもぶるぶる震えているんだもん。
「……やっぱり怖いかい」
 カロンが優しい口調でわたしに尋ねてきた。わたしは素直に首を縦に動かすと、カロンは舟を漕ぐの一旦止めて、ローブの内側から何かを取り出しわたしのポケットの中にねじこんだ。
「今、君のポケットの中にいざというときに役立つ物を入れたよ。だけど、これは本当に困ったとき以外に取り出しちゃだめだよ。それから、この冥界にあるものは決して食べちゃだめだよ。特にこの先の森にいる女性は甘い果実があるけどと言ってくるけど、決して受け取ってはいけないよ。二度と地上に出ることができなくなるからね」
 さっきまで笑っていたカロンは真剣な表情でわたしの顔を覗き込むように言うと、勇気づけるかのようにわたしの手をぎゅっと握った。カロンの優しさがぬくもりとなってわたしに伝わってきた。わたしもカロンの手を握り返しこくんと頷くとカロンは柔らかく微笑むと、木の竿を握り直し舟を漕ぎだした。だけど、その速度は驚くほどゆっくりでまるでわたしの気持ちを汲み取ったのかのようだった。川の真ん中辺りに差し掛かったとき、川からいくつもの半透明の手がわたしを引きずり込もうとして空をまさぐっていた。カロンはそれは触れなければ大丈夫と言い、表情を崩さずゆっくりと舟を漕いでいく。カロンの親切心に甘えながら、わたしは舟にいる間に自分の気持ちの始めた。この舟を降りたときには、もううじうじ言っていないよう、しっかりと……ね。
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