第1話

文字数 1,996文字

 揺れる松明の灯りが冷たい石畳に影を落とす。煉瓦造りの宮殿の玉座でドラキュラ公ヴラド・ツェペシュは熟思する。窓から差す蒼い月光が、深い緑色の怜悧な瞳を照らす。
 明日、オスマントルコより使者が謁見に来る。上納金の交渉が目的だ。年を重ねるごと要求額は肥大し、ワラキアだけでなくバルカン半島の小国は苦しんでいた。それがトルコ軍の侵略を防ぐ唯一の手立てだった。それも、スルタンの心変わりひとつで反故になる。
 大金の支払いで国力は落ち、国内の貴族達の反発も生む。ヴラドは唇を噛んだ。一陣の風が吹き、松明の火が消えた。ヴラドの姿は闇に溶けてゆく。

 翌朝、青く晴れ渡る空は一際高く見えた。じりじり照りつける太陽が大地を焦がした。初夏の蒸し暑い風が宮殿内を吹き過ぎてゆく。列柱の続く回廊をトルコの使者が謁見の間へ向かっていた。
「ワラキアのヴラドか」
 豊かな髭を蓄えた男、ハムザ・パシャは肥えた腹を揺らし、大股で歩く。その態度には不遜な気持ちが如実に表れていた。

「串刺し公と呼ばれております。狡猾で、恐ろしい男です」
 背中の曲がった小柄なギリシア人通訳者トマ・カタウォリスは、早歩きでついて行く。その目は加齢のせいか白く濁っていた。
「フン、たかが小国の君主だ、何を恐れる」
 ハムザ・パシャはトルコの地方太守だが、ワラキアをはじめバルカンの小国は属国と見下していた。

 謁見の間。2人の使者は擦り切れた赤色の絨毯の中央に立ち、ヴラドに頭を垂れた。赤蝋で封印された文書を恭しく差し出す。文官がそれを取り上げ、ヴラドに手渡す。ヴラドは無言で文書に目を通す。
ハムザ・パシャは濃い口髭の下で唇を歪ませて笑い、蔑むような眼差しをヴラドに向ける。

「金貨1万ドゥカート、さらに少年500人をイスタンブールへ送ること」
 ヴラドはその文面を表情ひとつ変えることなく、感情の無い声で読み上げる。側に控える文官は恐怖に身を震わせる。昨年は金貨3000ドゥカートだった。3倍以上の値上げに加え、少年を差し出せとは。イェニチェリとして十字軍との戦の先陣に配して盾にするか、見目良いものは後宮へ入れるのだ。

 ヴラドは音も無く立ち上がった。肩にかかる赤いビロードのマントが石畳を滑る。
「今後、ワラキアは上納金は払わぬ」
 ヴラドの言葉は予想だにせぬものだった。ハムザ・パシャは怒りに目を見開いた。後ろに控えるトマ・カタウォリスは恐怖に怯えている。
「聡明なる君主の判断とは思えませんな」
 ハムザ・パシャは嘲るような口調で大仰な身振りをする。明らかにヴラドを愚弄していた。
「我がオスマン・トルコに宣戦布告をするというのですかな」
 強大な軍事力を誇るオスマン帝国に逆らうものなどいない、ハムザ・パシャは得意げだった。
「俺はこの国と、この国の民を守る。ただそれだけだ」
 ヴラドの抑揚の無い声、しかしその声には断固たる決意があった。
「お前は何も守れない、今にスルタンがお前の国を攻め滅ぼすぞ」
ハムザ・パシャはヴラドを指さし、黄色い歯を剥いて笑う。ヴラドは醜いものを見るように目を細めた。

「お前のその帽子、王の前で取らぬのか」
 ヴラドは問う。ハムザ・パシャは哄笑する。
「ターバンは人前だろうと取る風習はない」
「自国の風習を押しつけるとは随分傲慢だな。貴国は侵略地の文化に対して寛大だと聞くが、それは偽りのようだ」
 ヴラドは首を傾げる。
「蛮族の文化に合わせる必要がどこにある」
「そうか、ではその風習を永劫に守り続けるが良い」
 ヴラドが右腕を上げた。玉座脇のカーテンに潜む兵士達が2人の使者を囲んだ。トマ・カタウォリスは甲高い悲鳴を上げる。
「俺はスルタンの使者だぞ」
 ハムザ・パシャは額から脂汗を流し、声を震わせる。護衛の兵士は宮殿の外だ。よもや反乱に遭うとは予想だにしていなかった。
「お前の国の文化に俺なりの敬意を表してやる」

「使者を殺すことが何を意味するのか分かっているのか?」
 ハムザ・パシャは絶叫した。数人の兵士に取り押さえられ、ターバンの上から釘が打ち込まれた。頭蓋が砕かれる恐ろしい音が響く。5本打たれたところでハムザ・パシャは白目を剥き、静かになった。白いターバンは血に染まり、頭にずしりと重くのしかかっていた。

「お前は自分の命すら守れない」
 ヴラドは踵を返し、玉座で頬杖をつきながら右手を真横に払った。兵達はもう動かない肉塊と化したハムザ・パシャと、足をじたばたさせて泣き叫ぶトマ・カタウォリスを謁見の間から引きずり出した。数時間後、ブカレストの城壁の外にハムザ・パシャ、トマ・カタウォリスとその護衛のトルコ兵20名の串刺し死体が並んだ。

 宮殿の屋上からワラキア平野を臨む。民がつましく暮らす街、その向こうには緑豊かな農地、そして美しい森が広がる。黄昏がヴラドの頬を赤く染めていく。豊かな黒髪を乾いた風が吹き抜けた。その風は微かな血の匂いがした。
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