第九話
文字数 4,444文字
二度目のロケは、海から昇る朝日をバックに撮影するため、早朝からスタートした。
「本番いきまーす!」
「一発撮りになるので、よろしくお願いします」
日の出の瞬間から撮りはじめるため、NGになったら今日はもう取り直しがきかない場面らしい。
水平線から顔をのぞかせた太陽の強い光が、視界すべての色彩を刻一刻と変えていく。神秘的な光景に、由莉は目を奪われた。
「すごいパワーだと思わない? 少し出ただけで、こんなに熱くて眩しい」
砂浜に立ったショーンが太陽に向かって大きく手を広げる。楽しげな表情で、ヒロインやその友人らを相手に陽気なアメリカ人を演じている。
今のカットは、祭りの山車 が壊れたのを海辺の小屋で徹夜で修理して、みんなで表に出て来た場面だ。
「なんか特別な力もらえそう」
ヒロインがショーンと並び、同じように手を広げると友人らも続いて一列になって朝日を浴びる。
「おーい、差し入れが届いたぞ」
奏演じるヒロインの兄が登場し、大きなヤカンと重箱らしき風呂敷包みを持ち上げて見せる。
「さっさと食べて仮眠しないとな」
それからピクニックのようにレジャーシートを敷いて食事しながら会話するシーンとなり、ヒロインの決意表明でカットがかかって終了した。
「由莉さん、どうだった?」
ショーンが駆け寄って来るのを、由莉は笑顔で迎えた。カオルが言っていた通りに、その姿は大型犬が走り寄って来るようで、なんとなく気持ちが和む。
「良かったよ」
由莉の一言で、彼は嬉しそうな顔になった。
「だんだんうまくなってるよね」
「そうかな」
「セリフもちゃんと出てるし、キャラになりきってるの、さすがだと思う」
ショーンは既にスタジオ撮影を無事に済ませていて、このロケで出演分の撮影はすべて終了となる。
意外にも彼の演技は下手ではなく、NGも少なかった。何より、素の自分とはまったく違う性格のキャラクターを演じているのに、違和感がほとんどない。
「由莉もなかなか言うね」
二人の後ろから、奏が声をかけてきた。
「やだ、恥ずかしいから聞こえないふりしててよ」
顔を赤らめた由莉に、奏が微笑む。
「奥さんには、そんなやさしい顔するんですね」
からかうような声とともに若い女優が現れた。沢彩音だ。
「どういう意味だよ、こら」
「奏さんのダメ出しが怖いって、みんな言ってますよ?」
笑い合う二人を、由莉は微笑みを浮かべながらも冷静に観察する。
以前より打ち解けて見えるのは、撮影が長くなって親しみが増しただけだろうか。心がざわざわと波立ちはじめている。
「奥さん若いですよね。それ、すっぴんですか?」
唐突に彩音が言い出した。
「残念ながら、すっぴんで人前に出られるほど若くないです」
わざと冗談めかして返すと、彩音の目が一瞬いじわるそうに光った気がした。
「えー、メイクしてるように見えない! お肌きれいですね!」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいです」
にこやかに答えた由莉の肩を、ショーンがつついた。
「由莉さん、陽が高くなる前に取材用の写真撮らないと」
「あ、そうだったね」
慌てて愛用のデジタルカメラを取り出す。
「砂浜より、あそこの防波堤の上がいいな」
「でも、逆光にならない?」
「アングル工夫すれば大丈夫だと思うけど」
彩音が不思議そうにショーンを見た。
「なんで奥さんとは普通にしゃべれるの?」
自分が質問されたとわかって、ショーンは戸惑ったような顔を彩音に向けた。
「小さい頃から知ってるから……」
つぶやくような声だが、ちゃんと答えている。
たったそれだけの言葉でも、由莉にはショーンがどれほど頑張って発したか、痛いほどよくわかった。そして、その頑張りが彩音に向いていることを、なぜか嫌だと強く思った。
「それなら私にも親近感ないですか? 若い頃の奥さんに似てるでしょ?」
彩音はそう言ってショーンに近寄ろうとしたが、奏に止められた。
「ショーンはお触り禁止」
「何それー」
不服そうに口をとがらせた彩音を、奏がたしなめる。
「遊んでる場合じゃないだろ。ショーンは次のシーン出番ないからいいけど、俺らは休憩中に衣装を着替えなきゃなんないし、もう行かないと」
「じゃあ奏さん、一緒に行こ!」
彩音は奏の腕にからみつくように手をまわして歩き出す。奏はさすがにすぐ振り払ったが、近い距離のまま歩いていく。
何のつもりか、彩音はちらっと由莉をふり返って舌を出して笑った。
「全然似てないよ」
防波堤に向かいながら、ショーンは沈んだ声で言った。
「由莉さんは由莉さん。代わりなんて誰もいないのに」
「……何か見た?」
由莉は思わず尋ねてしまった。
「うん」
何を見たか、ショーンは言いたくないらしい。
「そっか。ごめんね」
「なんで由莉さんが謝るの?」
怒ったように言うと、ショーンは防波堤の階段を海側に下りて行く。釣り人のためでもあるのか、下にも手すりのついた通路があった。由莉も後に続いて階段を下りた。
漁船らしき影がいくつか遠くにあるだけで、防波堤にさえぎられて陸の方はまったく見えない。海と昇りつつある太陽と、二人しかいない空間だった。
「ショーンはきれいだから、汚いもの見せたり聞かせたりしたくないの」
由莉が追いつくと、ショーンは振り向いた。
「俺、もう子供じゃないよ?」
朝日を浴びたショーンの姿は美しく、神々しささえ感じられる。オリーブ色の目が真っ直ぐに由莉を見つめていた。
「知ってて黙ってるのは、あの人と別れたくないから?」
「そうよ」
由莉はカメラをかまえてショーンに向けた。
「私は俳優の高宮奏 に抱かれたいだけの女とは違う」
連写モードにして撮影ボタンを押す。
「高宮奏 の、ただ一人の妻なの」
何枚撮ってもショーンは微動だにしなかった。海からの風に長めの前髪を揺らされ、その隙間から悲しそうな目で由莉を見つめている。
「仕事して、ショーン」
「由莉」
小さなモニター画面の中で、ショーンが両手を伸ばして来る。
避けなければと頭では思うのに、体が動かなかった。ショーンが長い腕に自分を包んで閉じこめていくのを、スローモーションのようにゆっくりに感じた。
「諦 めなきゃと思ってたのに」
由莉の頭の上から泣きそうな声が聞こえる。
「こんなんじゃ無理だよ」
ショーンは細かく震えていた。由莉を抱きしめる腕の力はそう強くなく、遠慮がちでぎこちない。振り払われるのを恐れる小さい子のようで、由莉は切なくなった。
ショーンは親に捨てられた子供だった。父親は仕事で日本に住んでいたアメリカ人、母親はフランス人と日本人のハーフで、二人は同棲していたが結婚せずにショーンをもうけた。ほどなく父親は帰国し、母親も別の男と海外へ行ったきり戻らなかった。
戸籍すらいい加減だったのを、日本人として「西園寺 緒温 」と名づけたのは母方の祖父である。引き取って男手一つで育てていたが、ショーンが七歳の時に他界した。
その後、容姿に目をつけた親戚に都会に連れ出され、子役として芸能界で稼ぐことを求められた。学校もろくに行かされず、将来の投資として語学ばかり勉強させられていた。
その生い立ちを打ち明けられた時、由莉はショーンを抱きしめて泣いた。
当時の彼は幼いながらに、そんな親戚でも引き取ってもらった恩に報いようと一生懸命だった。人見知りが激しいくせにと思うと可哀想で、せめて仕事の場だけでも、この子を守ってあげたいと思った。
この子は親に抱きしめられた記憶はあるのだろうか……かつて感じた思いがこみ上げ、由莉は大きな背中にそっと手を伸ばし、やさしく撫でた。
「俺が幸せに出来たらいいのに」
「……ありがとう、気遣ってくれて」
立場上、そんな言い方しか出来ない。由莉はズキズキする胸の痛みに耐えながら、彼から手を離した。
「由莉さんの中から、あの人が出ていけばいいのに」
振り絞 るようにそう言うと、ショーンは由莉の顔を両手ではさんで唇を寄せて来た。とっさに顔を背けて避けようとしたが、力が強くて逃れられない。
ぎゅっと目をつぶった由莉の口に、柔らかい唇がぶつかるように押しつけられ、歯が当たった。
「痛っ」
声をあげると、ショーンは慌てて離れた。
「ごめん!」
ショーンは顔をゆがめて唇を噛んだ。
「大丈夫だから、噛んじゃ駄目」
由莉はショーンの唇に指で触れ、噛むのをやめさせた。
「傷がつく」
ショーンの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「泣くのも駄目。目が腫れちゃう」
「だって……キスもまともに出来ない」
涙は止まりそうになかった。長いまつ毛もすっかり濡れている。
「由莉を独り占めしたくせに、平気で裏切るなんて許せない。だけど、あの人は大人で何でも出来て、俺なんかじゃ全然敵わない。絶対、俺の方が由莉のこと好きなのに……離れてたって何年経ったって、こんなに由莉だけが好きなのに!」
由莉の中で、何かが大きく弾け飛んだ。
「ねえ」
ショーンの顔に両手を伸ばして見上げる。
「少し屈んで」
オリーブ色の瞳が涙で潤み、朝日を反射して美しい輝きを放っていた。
おずおずと身を屈めたショーンの頬に軽く手をあて、由莉はゆっくりと目を閉じ、やさしく唇をかさねた。
触れ合うだけの短いキス。
少し離れてからまぶたを開けて見たショーンの顔は、ほんのり薔薇色に染まり、熱に浮かされたような、夢見るような表情を浮かべていた。由莉はもう一度、彼の背中に手を伸ばしてささやく。
「私を抱きしめて」
胸にこみ上げる愛しさをこめて名を呼ぶ。
「ショーン」
頬を押しつけた胸部に薄くまとった筋肉を感じ、本当にもう大人の男なのだと思い知らされる。
さっきよりずっと強い力で抱きしめられ、骨がきしむようで呼吸も少し苦しかったが、それ以上に甘美な想いが由莉の身の内を満たして行くのを感じた。乾いた心がみるみるうちに潤っていくようだ。
「ショーン」
自分の口から出た声の甘さにすら酔ってしまいそうだ。
「由莉」
ショーンの顔が間近に迫る。今度はゆっくり慎重にかさねられた唇から熱い吐息がもれ、由莉は舌をからめて深いキスを教えた。
これは不貞行為だと、頭ではわかってはいたが、止めることが出来なかった。不思議なほど夫に対しての罪悪感はない。むしろ、罪悪感ならショーンの方に抱いていた。
上質で真っ白な布に、消えないシミをつけてしまったような、取り返しのつかない罪の意識。
「汚してごめんね」
長いキスの後で、由莉は小さな小さな声でつぶやいた。ショーンには聞こえなかったかもしれない。
「本番いきまーす!」
「一発撮りになるので、よろしくお願いします」
日の出の瞬間から撮りはじめるため、NGになったら今日はもう取り直しがきかない場面らしい。
水平線から顔をのぞかせた太陽の強い光が、視界すべての色彩を刻一刻と変えていく。神秘的な光景に、由莉は目を奪われた。
「すごいパワーだと思わない? 少し出ただけで、こんなに熱くて眩しい」
砂浜に立ったショーンが太陽に向かって大きく手を広げる。楽しげな表情で、ヒロインやその友人らを相手に陽気なアメリカ人を演じている。
今のカットは、祭りの
「なんか特別な力もらえそう」
ヒロインがショーンと並び、同じように手を広げると友人らも続いて一列になって朝日を浴びる。
「おーい、差し入れが届いたぞ」
奏演じるヒロインの兄が登場し、大きなヤカンと重箱らしき風呂敷包みを持ち上げて見せる。
「さっさと食べて仮眠しないとな」
それからピクニックのようにレジャーシートを敷いて食事しながら会話するシーンとなり、ヒロインの決意表明でカットがかかって終了した。
「由莉さん、どうだった?」
ショーンが駆け寄って来るのを、由莉は笑顔で迎えた。カオルが言っていた通りに、その姿は大型犬が走り寄って来るようで、なんとなく気持ちが和む。
「良かったよ」
由莉の一言で、彼は嬉しそうな顔になった。
「だんだんうまくなってるよね」
「そうかな」
「セリフもちゃんと出てるし、キャラになりきってるの、さすがだと思う」
ショーンは既にスタジオ撮影を無事に済ませていて、このロケで出演分の撮影はすべて終了となる。
意外にも彼の演技は下手ではなく、NGも少なかった。何より、素の自分とはまったく違う性格のキャラクターを演じているのに、違和感がほとんどない。
「由莉もなかなか言うね」
二人の後ろから、奏が声をかけてきた。
「やだ、恥ずかしいから聞こえないふりしててよ」
顔を赤らめた由莉に、奏が微笑む。
「奥さんには、そんなやさしい顔するんですね」
からかうような声とともに若い女優が現れた。沢彩音だ。
「どういう意味だよ、こら」
「奏さんのダメ出しが怖いって、みんな言ってますよ?」
笑い合う二人を、由莉は微笑みを浮かべながらも冷静に観察する。
以前より打ち解けて見えるのは、撮影が長くなって親しみが増しただけだろうか。心がざわざわと波立ちはじめている。
「奥さん若いですよね。それ、すっぴんですか?」
唐突に彩音が言い出した。
「残念ながら、すっぴんで人前に出られるほど若くないです」
わざと冗談めかして返すと、彩音の目が一瞬いじわるそうに光った気がした。
「えー、メイクしてるように見えない! お肌きれいですね!」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいです」
にこやかに答えた由莉の肩を、ショーンがつついた。
「由莉さん、陽が高くなる前に取材用の写真撮らないと」
「あ、そうだったね」
慌てて愛用のデジタルカメラを取り出す。
「砂浜より、あそこの防波堤の上がいいな」
「でも、逆光にならない?」
「アングル工夫すれば大丈夫だと思うけど」
彩音が不思議そうにショーンを見た。
「なんで奥さんとは普通にしゃべれるの?」
自分が質問されたとわかって、ショーンは戸惑ったような顔を彩音に向けた。
「小さい頃から知ってるから……」
つぶやくような声だが、ちゃんと答えている。
たったそれだけの言葉でも、由莉にはショーンがどれほど頑張って発したか、痛いほどよくわかった。そして、その頑張りが彩音に向いていることを、なぜか嫌だと強く思った。
「それなら私にも親近感ないですか? 若い頃の奥さんに似てるでしょ?」
彩音はそう言ってショーンに近寄ろうとしたが、奏に止められた。
「ショーンはお触り禁止」
「何それー」
不服そうに口をとがらせた彩音を、奏がたしなめる。
「遊んでる場合じゃないだろ。ショーンは次のシーン出番ないからいいけど、俺らは休憩中に衣装を着替えなきゃなんないし、もう行かないと」
「じゃあ奏さん、一緒に行こ!」
彩音は奏の腕にからみつくように手をまわして歩き出す。奏はさすがにすぐ振り払ったが、近い距離のまま歩いていく。
何のつもりか、彩音はちらっと由莉をふり返って舌を出して笑った。
「全然似てないよ」
防波堤に向かいながら、ショーンは沈んだ声で言った。
「由莉さんは由莉さん。代わりなんて誰もいないのに」
「……何か見た?」
由莉は思わず尋ねてしまった。
「うん」
何を見たか、ショーンは言いたくないらしい。
「そっか。ごめんね」
「なんで由莉さんが謝るの?」
怒ったように言うと、ショーンは防波堤の階段を海側に下りて行く。釣り人のためでもあるのか、下にも手すりのついた通路があった。由莉も後に続いて階段を下りた。
漁船らしき影がいくつか遠くにあるだけで、防波堤にさえぎられて陸の方はまったく見えない。海と昇りつつある太陽と、二人しかいない空間だった。
「ショーンはきれいだから、汚いもの見せたり聞かせたりしたくないの」
由莉が追いつくと、ショーンは振り向いた。
「俺、もう子供じゃないよ?」
朝日を浴びたショーンの姿は美しく、神々しささえ感じられる。オリーブ色の目が真っ直ぐに由莉を見つめていた。
「知ってて黙ってるのは、あの人と別れたくないから?」
「そうよ」
由莉はカメラをかまえてショーンに向けた。
「私は俳優の
連写モードにして撮影ボタンを押す。
「
何枚撮ってもショーンは微動だにしなかった。海からの風に長めの前髪を揺らされ、その隙間から悲しそうな目で由莉を見つめている。
「仕事して、ショーン」
「由莉」
小さなモニター画面の中で、ショーンが両手を伸ばして来る。
避けなければと頭では思うのに、体が動かなかった。ショーンが長い腕に自分を包んで閉じこめていくのを、スローモーションのようにゆっくりに感じた。
「
由莉の頭の上から泣きそうな声が聞こえる。
「こんなんじゃ無理だよ」
ショーンは細かく震えていた。由莉を抱きしめる腕の力はそう強くなく、遠慮がちでぎこちない。振り払われるのを恐れる小さい子のようで、由莉は切なくなった。
ショーンは親に捨てられた子供だった。父親は仕事で日本に住んでいたアメリカ人、母親はフランス人と日本人のハーフで、二人は同棲していたが結婚せずにショーンをもうけた。ほどなく父親は帰国し、母親も別の男と海外へ行ったきり戻らなかった。
戸籍すらいい加減だったのを、日本人として「
その後、容姿に目をつけた親戚に都会に連れ出され、子役として芸能界で稼ぐことを求められた。学校もろくに行かされず、将来の投資として語学ばかり勉強させられていた。
その生い立ちを打ち明けられた時、由莉はショーンを抱きしめて泣いた。
当時の彼は幼いながらに、そんな親戚でも引き取ってもらった恩に報いようと一生懸命だった。人見知りが激しいくせにと思うと可哀想で、せめて仕事の場だけでも、この子を守ってあげたいと思った。
この子は親に抱きしめられた記憶はあるのだろうか……かつて感じた思いがこみ上げ、由莉は大きな背中にそっと手を伸ばし、やさしく撫でた。
「俺が幸せに出来たらいいのに」
「……ありがとう、気遣ってくれて」
立場上、そんな言い方しか出来ない。由莉はズキズキする胸の痛みに耐えながら、彼から手を離した。
「由莉さんの中から、あの人が出ていけばいいのに」
振り
ぎゅっと目をつぶった由莉の口に、柔らかい唇がぶつかるように押しつけられ、歯が当たった。
「痛っ」
声をあげると、ショーンは慌てて離れた。
「ごめん!」
ショーンは顔をゆがめて唇を噛んだ。
「大丈夫だから、噛んじゃ駄目」
由莉はショーンの唇に指で触れ、噛むのをやめさせた。
「傷がつく」
ショーンの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「泣くのも駄目。目が腫れちゃう」
「だって……キスもまともに出来ない」
涙は止まりそうになかった。長いまつ毛もすっかり濡れている。
「由莉を独り占めしたくせに、平気で裏切るなんて許せない。だけど、あの人は大人で何でも出来て、俺なんかじゃ全然敵わない。絶対、俺の方が由莉のこと好きなのに……離れてたって何年経ったって、こんなに由莉だけが好きなのに!」
由莉の中で、何かが大きく弾け飛んだ。
「ねえ」
ショーンの顔に両手を伸ばして見上げる。
「少し屈んで」
オリーブ色の瞳が涙で潤み、朝日を反射して美しい輝きを放っていた。
おずおずと身を屈めたショーンの頬に軽く手をあて、由莉はゆっくりと目を閉じ、やさしく唇をかさねた。
触れ合うだけの短いキス。
少し離れてからまぶたを開けて見たショーンの顔は、ほんのり薔薇色に染まり、熱に浮かされたような、夢見るような表情を浮かべていた。由莉はもう一度、彼の背中に手を伸ばしてささやく。
「私を抱きしめて」
胸にこみ上げる愛しさをこめて名を呼ぶ。
「ショーン」
頬を押しつけた胸部に薄くまとった筋肉を感じ、本当にもう大人の男なのだと思い知らされる。
さっきよりずっと強い力で抱きしめられ、骨がきしむようで呼吸も少し苦しかったが、それ以上に甘美な想いが由莉の身の内を満たして行くのを感じた。乾いた心がみるみるうちに潤っていくようだ。
「ショーン」
自分の口から出た声の甘さにすら酔ってしまいそうだ。
「由莉」
ショーンの顔が間近に迫る。今度はゆっくり慎重にかさねられた唇から熱い吐息がもれ、由莉は舌をからめて深いキスを教えた。
これは不貞行為だと、頭ではわかってはいたが、止めることが出来なかった。不思議なほど夫に対しての罪悪感はない。むしろ、罪悪感ならショーンの方に抱いていた。
上質で真っ白な布に、消えないシミをつけてしまったような、取り返しのつかない罪の意識。
「汚してごめんね」
長いキスの後で、由莉は小さな小さな声でつぶやいた。ショーンには聞こえなかったかもしれない。