犠牲フライと昼間っからビール

文字数 2,042文字

「僕の気持ちが分かるわけないでしょ」
 受け持ちの患児に言われた。健康に生きてんじゃん、と続いた。
 そう言われると返す言葉がない。こどもは正直で、時に残酷で、だからこそ愛おしい。

 夜勤明け、といっても、あの頃は残業ばかりで帰りは昼近かった。蝉の声が耳鳴りのように響き、睡眠不足の眼には、痛くて泣きたくなるような眩しすぎる夏の日差し。
 仕事を始めて二度目の夏のことだった。重症患児ばかりの三次救急病院。過酷な勤務と、幼い命が報われない理不尽さに、同期が、ひとり、またひとり、と減り始めていた時期。

 どうせ帰っても昼間は眠れない。あてもなく街をふらついていると、見知った顔に出会った。
 学生時代に何度もふたりで出掛けたことがある。付き合っていたような、いないような、好きなのに距離を縮められなくて中途半端なまま、そのままなんとなく消滅してしまった彼。

 お互い驚きを隠さずに、眼が泳ぐ。こんな疲れた顔で、しかもほぼすっぴんで会いたくなかったな、と思う。なんとなく会話し、なんとなく歩き出す。
「どこかで涼もうか」
 河川敷を歩いて、草野球の少年に目をとめ彼は立ち止まる。

 ああ、野球 、好きだったよね。
 一緒に河原でこんなふうに、よく草野球を眺めたのを思い出す。マウンドの意味も分からない私に呆れながら、丁寧にルールを教えてくれたのは彼だった。遠い昔のように感じるのは、濃すぎる日々を過ごしているせいだろうか。

 河原のベンチに並んで座り、最近 仕事が辛いんだよね、そんな話をしていた。
 今日言われた言葉。同期が辞めていくこと。生への報われない願い。思いがつらつら口から漏れ出る。今は親しくない、でもよく知っている、そんな距離だからこそ話せたのかもしれない。
 彼が「暑いから飲み物でも買ってくる」と席を立つ。

 私は、バッターの少年がセカンドゴロを打ってゲッツーとなり、項垂れた様子でベンチに戻るのを、ぼんやりと眺めていた。
 うまくいかない時ってあるんだよ、少年。なんてひとりごちる。それだけなのに涙がでそうだった。何してんだろ、私。

 彼が息を切らして戻ってくる。
「どっちが勝ってる?」
「変わらないよ」
「そう。はい、飲み物」
 差し出されたのは缶ビールだった。
「まだ昼だよ」
「いいじゃん。夜も昼もいつ飲んだって法律には触れないよ」
 彼はプシュっとプルタブを開ける。
「私、缶のまま飲むの好きじゃないんだよね」
「いちいちうるさいなあ、その真面目ちゃん いい加減脱ぎ捨てなよ。コップはなし。はい乾杯」
「あ、乾杯」
 グラスと違ってコツっと素っ気ない音しかしないのも好きじゃない。彼はとなりで気にせず喉を鳴らして缶を傾ける。慌てて私も口を付けた。
「うめーー」
「うん、うまいね」
 真面目なわけじゃない。缶の味がするようで苦手なだけ。でも言わない。ネガティブ発言をしたら今はどんなことでも泣きそうだから。
 彼はすぐに飲み干し、次のビールを開けている。私はひと口ずつ、ゆっくり飲んだ。
 うん、缶で飲むのはやっぱり苦手だけど、青空の下で飲むビールがこんなに美味しいなんて。

 ふたり黙って野球を眺める。野球を観るために来たような顔をして。川風が、何度も前髪を揺らし、滲みそうになる涙を乾かしていった。
 スリーアウトを繰り返し、攻めと守りが入れ替わる。点が入らないまま、淡々と試合は続いていく。
 さっきゲッツーだった少年が、何度も素振りをしながらバッターボックスに入った。初球を打ち、ライト方向の外野へと飛んでいく。青空に、ゆっくりと放物線を描いたボールが、外野手のグローブに入った瞬間、三塁にいた少年がホームへと走る。
 セーフ。九回裏、同点。
 一気に湧き上がる歓声。

 ヒットでもホームランでなくても点は入るんだよね。自分が犠牲になっても。ぶつけられた言葉は痛いけど、本音をぶつけることができる君にも点は入っていると思う。
 そんなことを言われた。

 夜勤明けくらい昼間っからビールでも飲んでさ、ふらついてないでちゃんと寝ろよ、と。

 打った少年はアウトでベンチへ戻ったけれど、誇らしげな顔をして、みんなに迎えられていた。ゲッツーとフライ。一塁を踏んでいないけれど少年は点を入れたんだなあ。とぼんやりした頭で考えていた。

 あれきり彼とは会っていない。
 寝不足と酔った頭で、通りすがりの人だったような、それとも夢だったのか、と思うこともある。
 患児と心を通わせ、私にも点が積み重なっているのだと実感するのも、もう少し後になってからだった。
 そして気づく。
 あの日の彼は、私の吐露する言葉をぶつけられる側で、それをただ受け入れて、そして考えてくれたのだと。そのとき私は彼に点を入れたくなった。

 今年も夏が来て、蝉の声と日差しがセットの日はビールが飲みたくなる。もう夜勤はしていないけれど。昼間のビールを勧めた彼のせいだ。
 初めて昼間っからビールを飲んだあの夏に想いを馳せながら、小さな一点を積み重ねる日々と青空に、今年も乾杯をしよう。

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