3.義手と鬼

エピソード文字数 11,333文字

 やけに激しい雨が窓硝子を叩く。彦久保は悪い予感が過ぎり寝付けない。屋敷を見回ることにする。妻の部屋の前を通りかかると中から箪笥(たんす)を開けては閉める、キーバタンキーバタンという音が聞こえた。
「どうかしたのか?」
 妻の返事がない。嫌な動悸を飲み込み、扉を開けた。
 知らない若い女がいた。洋服箪笥を開けて中身を弄っている。女は妻の服を身に付けていた。猫のように瞳孔が細く、頭には一本の角が生えている。女は彦久保の姿を認めると、裂けんばかりに口の端を吊り上げて笑った。この世のものではない美しさだった。
「鬼っ……」
 彦久保は後退ろうとしてある疑問が沸き上がった。
 妻は……? 妻は今どこに……。
 ゆうらりと立ち上がった鬼女の服にはべっとりと血がこびりついている。鬼女は彦久保の頬に愛おしげに手を添えた。
「あなた、美味しそうねぇ……?」



 魔法道具店を訪れた老人は彦久保柊星(ひこくぼしゅうせい)と名乗った。中学生くらいに見える少女を連れている。
彦久保は淀んだ目で「……義手を作っていただけるか」と店主に切り出した。
「何で?」
 と、いつも通りに店主が彦久保に訊き返す。彦久保の上着の左肘から下がぺしゃんと潰れていた。
「不老の魔法使い。あんたには見れば分かるだろうが、私が腕を喪ったのは事故などではない。……おい、青年」
 彦久保に青年、と呼び止められた森野イツキは「はい?」と最中(もなか)を頬張っていた手を止めた。イツキは魔法道具店に出入りしている高校三年生の青年だ。
 イツキの隣には少女が足をぶらぶらさせて座っている。柔らかい最中の皮を突っついたり、中の餡子を舐めてみたり、彦久保の話が終わるのを大人しく待っている。ようにイツキには見えているが……。
その少女を一瞥して彦久保が続ける。
「その女は私の妻と左腕を食った鬼だ。気を抜いて食われても知らんぞ」
 イツキがぎょっと慄くと、少女が、いや鬼女がククク……と笑った。
 瞳がキュッと細まり黒い角が一本生える。周囲に蒼い鬼火が揺らめく。紅く染まる唇。魅惑的に舌なめずりをする。背格好は変わらないはずなのに先程、女子中学生を装っていたあどけなさは微塵もない。
「ああ酷い。柊星、(わし)には織夢姫冴(おりむきさ)という名があるというに」
 鬼女、姫冴が彦久保の名前を親しげに呼び嘆く。いつの間に移動したのか姫冴は彦久保の右腕に自分の腕を絡めていた。
「……あーそうゆうことね。分かった。作ってやってもいいよ、義手」
 店主が面倒そうに仕事を引き受ける。
 帰り際に彦久保がメモ書きを伏せていった。「私の連絡先と今回支払える額を書きしたためておく」ということらしい。
 高齢にしてはしっかりとした足取りで歩く彦久保の後ろを、姫冴がひたひたと笑いながら憑いていく。何も知らない人々からは気難しそうな老人と無邪気な孫に見えるのだろう。



 二人が店を出た後、イツキが店主に尋ねた。
「何で今回の依頼は普通に受けたんスか?」
「んー、説明がさあ……」
「面倒くさいんスね」
 店主の後を続けて言ったイツキは呆れ顔をする。いつものことだ。
 イツキが店主から訊き出したことをまとめると。
 彦久保柊星の左腕は三十年以上前に鬼である織夢姫冴に食われている。稀にその傷口から鬼の力が感染ってしまうことがある。そうなってしまえば普通の義手では合わない。どんなに調節して高性能の義手でも一日とせず壊れてしまうはずだ。彦久保はその状態で片腕のままこれまで生きてきたのだろう。
 イツキは鬼の姿を思い出して身震いをしそうになった。もう少しで食われていたかもしれない。
 なにより恐ろしいと感じたのは声だった。鈴の鳴るような子供の声かと思えば、老婆のように嗄れている。それはそのまま鬼という存在の掴みどころのなさを表しているようだった。正体の分からないものほど怖いものはない、の法則だ。
「さっきの鬼……は彦久保のじいさんに憑りついてんのかな?」
「だろうな。……というか、何でイツキは毎日のようにここに通ってんの?」
「あ、言い忘れてた。俺、大学に合格しました、法学部。すぐそこの大学なんでいつでもここに来れます」
「来なくていいし」
 あっさりイツキを突き放した店主は彦久保が置いて行ったメモ書きに目を落とす。暫く眺めて顔を上げると、今度はイツキに目を留めた。
「いや、イツキ。お前ちょっと使えるかもしんない」
 珍しく笑みを浮かべた店主の顔には、面倒事を全部イツキに押し付けてやれと書かれていた。気がした。



「で、この状況を俺に説明してほしいんスけど! 何なんスか、この絶対に楽しめなさそーなメンバー!」
 携帯の向こうの店主にイツキが不満をぶつける。「ははは、まあ頑張れ。これまでのお助け料チャラにしてやるからさ」とテキトーに返して通話をぶち切られた。
「どうしたの、イツキ。儂らと行くのが嫌というんじゃなかろう?」
 ククッと笑った口から鋭い牙を覗かせる。織夢姫冴がイツキの肩に手を置き、慌ててイツキが「い、いや……」と首を横に振った。
 『遊園地』の文字が可愛らしくレタリングされたアーケードを(くぐ)ったところに集合しているメンバーを改めて見回す。
 胃が痛そうにげんなりしているイツキに、険しい表情をぴたりと貼り付けた彦久保老人、ニタニタと笑って成り行きを楽しんでいる鬼女の姫冴。それに加え、
「あの、何で私ここに呼ばれたんですか?」
 不安げにイツキの袖を引いたのはバスケ部の後輩だったホノカだ。ホノカは数か月前にイツキに告白したが、イツキは特にホノカが好きでもなかったのでこっぴどく振ったのだ。
 そのくせに今回、店主の指示で遊園地に来ている。何させたいんだ、あの人⁉
 こうなっては仕方ないのでイツキが先導して遊園地を見て回る。
「えっと、どれに乗る?」
 と話を振っても、彦久保は無言というか無反応。ホノカは遠慮がちに目を伏せてどうしたらいいのか分からない様子。姫冴は皆が困っている顔を楽しんでいる。女子中学生の姿でコトンと可愛らしく首を傾げるのだから手に負えない。
 無難なものをイツキが選んでいくつかアトラクションを回ったが、全く盛り上がらない。そのうち十一時を過ぎ、混み合う前に席を確保しようとレストランの窓際に四人で陣取ことになった。
「じゃあ俺、飲み物買ってくるんで」
 逃げるようにその場を離れるイツキ。その隙に、と姫冴がずいっとホノカに顔を寄せた。獲物を見つけたように目を輝かせている。
「ねえ、あなた。イツキを慕っているのかしら?」
「えっ、あ、どうして……」
「儂に分からぬわけがなかろう。ああしかし、イツキはあなたに僅かも気がないのねぇ」
 図星をつかれてホノカはぐっと俯く。イツキが三年で部活を引退してからずっと話をしていない。今日、こんな形ではあるがイツキと遊園地に来ていることに始めのうちは胸が高鳴った。でも結局、イツキの立ち振る舞いからホノカの想いに応えてくれることなど有り得ないと再確認してしまった。
「儂があなたのその報われない想いを食ってやろう。一人の男に恋い焦がれて泣くことなどもうないように」
 えっと顔を上げたホノカの手を取りそっと撫でる。ホノカはふっと何もかもがどうでもよくなり、全身の力が抜けていった。
 姫冴は尖った爪の先でホノカの首筋を撫で、手を掛けようとして、
「何やってんスか!?」
 戻ってきたイツキが姫冴の腕をぐいっと押し退けた。
「何考えてんスかっ、ホノカをどうするつもりだったんだ!?」
 姫冴を怒鳴りつけんばかりのイツキの剣幕に「あら残念」と姫冴は肩を竦めてみせた。
 イツキはその場で店主に電話を掛ける。
「……ああ、分かった。じゃあホノカは帰らせていいってことで」
 電話を切ると、「えっと、何があったのかよく分からないんですけど……」と困惑するホノカに言いつけて強制的に帰らせた。
 彦久保が「鬼、食うなら私にしろ」とたしなめると、姫冴は機嫌を損ねたようにふんと鼻を鳴らした。
 イツキは今更かもしれないが、姫冴に悟られぬ程度に警戒度を高めた。
 はあぁ、多分人生で一番楽しくない遊園地なんだけど、とイツキは心の中でぼやいた。



 妻が生きていた頃に戻れたら、そしてその時に永遠に留まっていられたらどんなに良いだろう。だが、時間は止まってはくれない。
 妻の葬式が済んだ後、広くなった屋敷の居間に彦久保はただ座っていた。美しい鬼女が背後からするりと腕を回してきた。
「ねえ柊星。儂を見てくれぬのか」
 彦久保に媚びるように、服従させるように甘く囁く。自分は妻や左腕と共に、より多くのものを喪ったと気付いた。
 この女に決して気を許すものか。昏い憎悪を滾らせ、姫冴の腕に右手の爪を食い込ませた。



 約四十年前――。
「文恵! 早く儂に今日のお話を聞かせておくれ」
 無邪気に腕を絡ませてくる美しい若い女、織夢姫冴。文恵はこの不思議な少女を妹のように思っていた。文恵は、はいはいと笑って今日の出来事を話し出した。
 お見合いがあった。両親から彦久保家の長男、柊星という名の若者を紹介された。いとこのお姉さんが恋愛結婚をして、それへの憧れがあったものだから乗り気がしなかった。
 お見合いの席で両親同士がにこやかに話す中、柊星はずっと押し黙っていて、文恵は気難しそうな人だと感じた。「後は若い二人で」という決まり文句と共に両親が退場した後、柊星はお茶を啜ってから「……お恥ずかしいです」とぼそりと言った。
 彦久保の御両親がしきりに文恵を褒めていた間ずっと気恥ずかしかったのだなと悟った。見かけによらず可愛らしい人、と思わず笑ってしまって、はたと年上の男の人に可愛らしいなんてと自分が恥ずかしくなった。けれど胸が熱く居心地が良かった。

 鼻の先にてんとう虫でも止まっているようにじぃと姫冴は聞き入っていた。
「……文恵はその男に恋をしたの?」
「それは、その、どうかしら……」と口ごもらせても頬にかあぁと熱が集まった。
 姫冴は文恵を美しい瞳で少し寂しそうに見上げた。



 お化け屋敷に本物の鬼が来ていいの? という疑問をぐるぐる抱えながら、イツキは暗い通路を進む。
 前を歩く彦久保老人と鬼女の姫冴はすました顔のまま両脇から飛び出してくる作り物のお化けをスルーしていく。
「うお! びびったぁー……」とリアクションするのはイツキだけ。
 と、そこで彦久保がぴたりと立ち止まった。何となくイツキも足を止める。姫冴は気付かず一人歩いている。井戸の縁に姫冴が腰掛けた。
 異変が起こったのはその時だった。
「……ガアアアァッ―!!」
姫冴が獣のような悲鳴を上げた。天ぷらの衣のような白いふわふわしたものが全身に絡みついている。女子中学生を装っていた姿が変貌していく。瞳が猫のように細くなり、黒い禍々しい角が一本生える。
 天ぷらの衣がシューシューと音を立てて姫冴の体を溶かしていく。それを振り払おうと髪を振り乱すが、体を溶かす速度は増していく。
「な、何が起こって……」
 イツキが後退ると、背後から、
「手っ取り早く言やぁ、鬼退治だな」
 いつもと同じくけだるげに店主が言った。
「えっ何でここに!?」
 店主はそれには答えず「おい! 彦久保のじいさん!」と声を張った。
「……これではもたん」
 溶けていく姫冴から視線を外さず、彦久保が一層顔をしかめる。店主が焦りの窺える舌打ちを一つした。
「おい、イツキ! 鬼に食われたくなかったら下がってろ!」
「え、ちょっ状況説明っ……!」
 イツキの前に身を乗り出した店主が御札のような紙を取り出し、呪文を唱えると、天ぷらの衣が店主の手のひらから次々と溢れ出した。が、
「ギャアアアッ!! ガアアァッ!!」
 体の半分以上をドロドロに溶かしながらも姫冴はぐあっと顔を上げた。突き刺すような二つの目。蒼い鬼火が揺らぐ。
「……食って、食ってやるッ! 儂がみんなみんな食らってやるぞッ……!」
 パッと飛び上がった姫冴が向かう先は、
「イツキッ! 避けろ!」
 無理だろ! と声に出す間もなく、姫冴が襲い掛かってくる。
 その時。
 イツキと姫冴の間に彦久保が立ち塞がった。姫冴が彦久保の肩に食らいつく。
 イツキ達四人を残して無人になったお化け屋敷内にぐじゃっ! と骨の砕ける音が響いた。



 文恵は髪を結わえてもらいながら、興味津々に化粧道具を覘く姫冴に言った。
「ねえ姫冴。どうして白無垢の衣装では頭に白い布を当てるか知ってる?」
「知らぬ。どうして?」
「女の人はね、怒ると鬼になってしまうという言い伝えがあるの。だからこれは角隠しなのよ。卑しい鬼女になりませんようにってね」
 姫冴の目にさあぁと翳りが差した。
「どうしたの、姫冴……」
 文恵が言い終えないうちに姫冴は立ち上がり、くるりと後ろを向いた。珍しく硬い声音。
「もう文恵には会わぬ。嫌気が差した」
「まあそんな……。どうして……?」
「あんな辛気臭そうな男の元に嫁ぐことがあるか。儂と話す時が一番楽しいと言うたのに。おまけに今日は鬼が卑しいなどと言う……。そんな文恵は嫌いよ……」
 赤ん坊がぐずり泣くのに似ていた。文恵はそっと後ろから姫冴の肩を抱いた。
「……ねえ、嘘ではないのよ。本当に姫冴と話をするのは一番楽しいの。私が嫁いだ後だってあなたはずっと私の大切な友人よ」
「嫌よ、嫁がないで。ずっと儂と一緒に居れば良い……」
 嫌気が差したと言ったのは強がりで、一緒にいてほしいが本音だ。文恵は嫌々と首を振る姫冴の美しい黒髪を宥めるようにそっと梳いてやった。
 花嫁衣装の文恵よりも、何も着飾らない姫冴の方が何倍も美しいと知ったけれど、憎らしい気は一切起こらなかった。
 日差しが温かくなり始めた春の挙式はつつがなく執り行われた。



 姫冴が彦久保に覆い被さるようにして二人共が倒れた。その一瞬を狙って、店主が姫冴の首に細い針を刺した。ガクリと姫冴が力を抜き、動かなくなる。
 まさか、と顔色を変えたイツキに、
「一時的に意識を奪っただけだっての」
 と店主は言いながら肩から胸にかけて血を流す彦久保に近付いた。
「こりゃ鬼退治失敗だなあ」
「……全くだ」
 店主が苦しそうに息を吐く彦久保の手当てを始めたので、イツキも慌てて上着を脱ぎ彦久保の肩に当てる。
「これ使って! てか、救急車は!?」
「いや、だいぶ鬼の力が感染してる。病院に行ったって治せねぇよ」
「じゃあ、どうするんスか!?」
 彦久保の傷口に薬らしき液体を塗ってから、至って冷静に指示を出す。
「よし、イツキは彦久保のじいさんをかつげ。俺は鬼を連れて行く」
「ど、どこに?」
「……あー。まずホノカに電話しろ」
 何で、どうしてと重ねるイツキに、いいからさっさとしろと電話を掛けさせる。
「で、ホノカに何て言えばいい……って!?」
 次の瞬間にはボァとした青い光が四人の体を伝って包み込んだ。



 歓喜に瞳を潤ませ姫冴は息をついた。
「やっと、やっと見つけたぞ、文恵……」
 立派な屋敷の窓から文恵の姿を見つけ、駆け寄る。
 文恵は口元に手を当ててクスクスと笑っていた。……隣には仏頂面の彦久保が紅茶を啜っている。仲睦まじい若夫婦そのものだ。
 ひゅうっと冷たい風が吹き込んだような気がした。
 文恵、文恵……。そんなに楽しそうにその男と話すのか。あなたはもう儂のことを忘れたか。それとももう儂は要らぬか。卑しい鬼は要らぬのか……。
 悲しみと憎悪と嫉妬と寂しさに荒れ狂う胸元をぎゅっと掴んで、姫冴は屋敷に背を向けた。



 イツキが包み込んできた光の眩しさに覆っていた手を退けると、そこは遊園地のお化け屋敷の中ではなくなっていた。すぐ側に店主と彦久保と姫冴がいる。
 ここどこ、という疑問を解消するべく辺りを見回すと、驚いた顔のホノカが立っていた。
「せ、先輩⁉ どこから湧いてきたんですか!?」
 湧いてきたって……ゴキブリみたいに言うなよ、と突っ込もうとして景色が女子の一人部屋のように変わっているのに気が付いた。というか、女子の一人部屋だった。
「どういうことなんスか?」
 イツキがジトっと責めるように訊くと、店主は面倒そうに髪をかき上げた。
「さっきホノカに電話したろ。そん時にホノカのいる座標に現在地を繋げたんだよ」
 店主は腰に下げている時計か方位磁針か判別のつかない物を指差している。それも魔法道具の一種なのだろう。瞬間移動みたいなもんかな、とイツキは取り敢えず納得した。
「あ、あのっ! おじいさん、血っ、血がっ……」
 ホノカが彦久保の傷を指差してパニックになりかける。
「……もう傷はほとんど塞がっておる」
 彦久保が渋く答え、ホノカを宥める。店主は気絶したままの姫冴をちらっと見やってから彦久保に向き直った。
「なあ、じいさん。鬼退治は失敗したがあんたには選択肢が三つある。
 一つ目、このまま鬼を封印する。この場合、鬼を封印したものはじいさんの手元で管理してもらう。それなりにリスクはある。
 二つ目、うちで一旦鬼を引き取って人間界以外の地に拘束する。かなり危険度の高い人食い鬼だから場所は限られるだろうな。
 三つ目、鬼が襲う対象をじいさん一人に固定化する。これが多分、一番あんたの負担が大きい。ある程度鬼の力を弱体化して鬼があんた以外の人間を食えないようにする。ぶっちゃけそうやって固定化すれば、じいさんが死んだらあの鬼も死ぬ。だから鬼はあんたを殺せない」
 彦久保は無言でカーペットに横たわる姫冴を見つめていたが、やがて苦々しく言った。
「……三つ目を選択しよう。頼めるかね?」
 店主はひょいと肩を竦めて肯定すると何やら作業を始めた。
 覗き込むイツキを店主が邪魔そうにしっしっと手で払うので、イツキとホノカは部屋の隅に追いやられる。
 というか、ここホノカの部屋だよな、今更だけど。
 神妙な顔で隣に正座する後輩の顔を見て、イツキは溜息をついた。



 文恵とはもう数年、会っていなかった。
 田んぼを突っ切る形で伸びた道路。姫冴は電柱に凭れ掛かり所在無さげに足をぶらぶらとさせていた。
「姫冴……。姫冴なの!?」
 商店街の方から通り掛かったのは文恵だった。買い物籠を下げ、すっかり若奥さんの容貌になっている。
 感極まったように文恵ば覗き込んでくるが、姫冴はするりと目を逸らす。
「今までどうしていたの?」
 心配そうに質問を重ねる文恵。
 ねえ、姫冴。今夜うちに来ない? 柊星さんのご友人を呼んで小さなお食事会をするの。あ、姫冴は人が大勢いるのは苦手よね……。それならこれから一緒に帰りましょう? お食事会が始まるまでお話ししたいの。
 文恵の言葉が耳元を素通りして気付くと文恵に手を引かれ、彦久保家の屋敷に向かっていた。
 文恵が食事の支度をする傍ら、会わなかった数年の時間を埋めるようにお喋りをした。文恵は姫冴の姿が変わりないことを不思議がったが、それ以上に再会を喜んだ。
 彦久保家の食事会が終わる頃には降り始めた雨が激しくなっていた。
「今日は私の部屋にこっそりお泊りすればいいわ。ね、きっとそれがいいわよ」
 文恵に押し切られる形で姫冴は頷いた。
 それが過ちだった。



 窓の向きなのか何なのか朝日が差し込むことなく薄暗い魔法道具店、店内。イツキが入店するのと入れ違いに、根っこを足のように変形させた肉食植物が頭の三つある犬と散歩に出掛けた。
 店主がメモ書きを片手で弄んでいた。興味本位でぱっとイツキがそれを取り上げる。
『織夢姫冴を殺していただきたい。依頼料は二十万が上限。連絡先……』
 彦久保が最初に魔法道具店を訪れた時に置いて行ったメモだとイツキは気付く。
「結局、あのじいさんの依頼は義手を作ってくれ、じゃなく鬼を殺してくれだったんスね。じゃあ、あんたも最初からそのつもりで俺を一緒に行かせたんだ」
「まあ、否定しねえよ」
「始めっからあのお化け屋敷に仕掛けをしてたんでしょ。……何でホノカまで呼んだんスか?」
「何で、が多いなあ、イツキは。何となくだよ」
 店主をちょっと睨んでイツキはそれ以上の問い掛けを諦めた。店主は悪びれる気配もなくキュッキュッとボルトを回している。
「……誰も幸せにならないんだよなぁ……結局……」
「は? 何言ってんの。その年で幸せがどうとか言ってんじゃねえよ」
 イツキは「ぐっ」と呻いて持ち堪える。
「お、俺、法学部だし。幸せになるにはどういう法律が必要かとかそういうことを考えたいんスよ! 悪いか! ……というか、全然関係ないんスけど『不老の魔法使い』って何スか? あんたは彦久保のじいさんよりずっと年上なんスよね?」
「……うるせえよ」
 店主が目に見えて不機嫌になった。続いて少し気まずくなったのか、あからさまに話題を逸らす。
「あー。幸せかどうかつったらあの二人、彦久保のじいさんと鬼はそうなんじゃねえの? 
……互いがこの世で最も憎んでいる相手はお互いで、この世で最も愛している相手は互いだ。互いのためだけに心を砕く。
 誰も割り込めないどころか干渉もできない。大袈裟に言えばどこまでも完結した関係、だからな」
 イツキは理由もなくゾッと鳥肌が立つのを感じた。その様子に、店主が意地悪く身を乗り出す。
「イツキ今お前、そんなの普通じゃないー、おかしいーって言おうと思っただろ?」
 この人ほんと性格悪いな、と呆れながら少し考えてみる。
「……いや、そうは思わないかも。てか多分、人間の常識や価値観に当てはめちゃダメなんじゃないんスか?」
 何だ残念、とでも言いたげに店主はフンと鼻を鳴らした。
 ……ほんと勝手だな、この人。
 完璧な人間関係というのは有り得ない、とイツキは思っている。時にすれ違ったり喧嘩したり、喧嘩にすらならなかったり、相手はそれほど自分を大切には思ってないことに気付いたり、親友だと思える相手が鬱陶しくなったり、片思いをしたり。それがきっと当たり前のことなんだ。
 一切の綻びがない完結した関係。それ自体はとても歪んでいる。
 イツキは先程から店主がせっせと調節し始めたものに目をやった。ぱっと見には本物かと見間違うリアルな肘から下の左腕の義手が、魔法書やらで散らかる机の上に載っていた。



 妻と左腕が鬼に食われてから数か月が経った。織夢姫冴と名乗る鬼女は屋敷に住み付き、いやむしろ彦久保に憑りつき、馴れ馴れしく彦久保の名を呼ぶ。まるで妹のように馴れ馴れしく、ニヤニヤ笑い纏わりつくのだ。
 だが今朝から姿が見当たらない。この屋敷は一人ではあまりに広すぎる。
 妻の部屋に立ち入ると、姫冴が妻のベッドで寝ていた。あどけなくも美しい少女の寝顔。
 生まれたのは殺意。
 以前は護身用の小刀を妻に持たせていた。箪笥の二段目に入っているそれを、物音を立てぬよう注意を払って引き抜く。殺せるか殺せないかなど考えなかった。ただ憎悪に駆られていた。
 そして。
「……文恵っ……」
 姫冴の漏らした微かな呟き。文恵、妻の名だ。瞼は閉じているので寝言だろう。迷子の子供が母親を探すように白く細い指が動く。
 彦久保は小刀を持つ右腕を振り下ろそうとして、――出来なかった。
 地元の歌なの、と妻が照れながら歌ってくれた手遊び歌。姫冴は時折、彦久保の後を憑いて回るのに飽きると、聞き覚えのあるその歌を小さく口ずさんだ。
 妻を食った憎い憎い鬼女。そのふとした仕草に愛しい妻の面影を見てしまう。姫冴に感じるのは嫌悪、懐かしさ、憎しみ、愛おしさ、その全て。

 それから、妻と過ごしたよりもずっと長い時を鬼女と連れ添ってきた。三十年以上もの月日が流れた今に、あの日姫冴を殺さなくて良かったのだと思う。それなりの手順を踏まなくては鬼を殺すことは不可能だと今では理解しているが。
 鬼を、姫冴を殺してしまえばこの復讐が終わる。妻を喪った痛みを過去のものにしてしまうことが恐ろしい。
 魔法道具店に立ち寄って代金を支払うと、ついでにとばかりに店主が放って寄こした左腕の義手。それを付けてみると、まるで以前からその腕がおのれのものであったようにしっくりきた。 まだ動かすとぎこちなく力加減が難しいがそのうちに慣れるだろう、と店主が言っていた。義手など作ってしまえば今回魔法道具店から請求され支払った額を優に超える、と想像できる。
 彦久保はふっと口の端に穏やかな笑みを浮かべて、屋敷へ帰る道をゆっくりと歩き出した。



 鬼の力を弱体化されていて体が怠い。姫冴は屋敷のリビングテーブルに腕を投げ出し突っ伏していた。角や鬼火を隠し外を出歩く体力もなく、彦久保の帰りを一人待たなくてはならない。
 思い出すのは文恵を殺したあの夜。
 文恵との楽しいお喋りの合間、ふと考えたのだ。
 明日の朝になればもう儂はここを出ていかねばならぬ。文恵との楽しい時間は終わって離れ離れになってしまう。
 ああ嫌だ。嫌だ……。
……そうだ。……食って、食ってしまおう……。文恵を儂の中に閉じ込めて、どこにも行けぬようにしてしまえば良い。そうしたら、ずっとずっと文恵と一緒にいられる……。
「ねえ、姫冴」
 そう優しく文恵が笑い掛けてきた時、姫冴は躊躇わず文恵の喉元に牙を突き立てた。そのまま少し力を込めただけで首の骨が折れた。ベッドに倒れた文恵の顔には困惑、驚愕、怯え……。
文恵が助けを求めてか伸ばした手がさらりと一束、姫冴の美しい黒髪を梳いた。
 そして、それでお終いだった。文恵はぴくりとも動かなくなってしまった。姫冴は文恵を食った。寂しいが増していっただけだった。鬼の本能のまま彦久保を襲いながら、心は置いてきぼりだった。

 ギィとリビングの戸が開き、彦久保が入ってきた。姫冴はいつの間にかうたた寝をしていたらしい。彦久保との間に基本挨拶はない。無論ただいまもお帰りもない。
 彦久保柊星が憎かった。姫冴から文恵を奪った男。苦しめてやろうと思った。この屋敷に居付き大切なものを壊してやろうと思っていた。
 共に暮らすうち彦久保は無口な男だが、時折発する言葉に文恵の気配を帯びていることを悟った。心の底から文恵を愛しているのだ。文恵が彦久保に嫁ぐことを選んだ理由を段々と知っていく。
 文恵を喪ってもなお想い続ける彦久保にいつしか魅せられていた。恋でもなく愛でもない、ひっそりと熱い感情。けれど、憎い。狂おしいほどに憎い。
 姫冴は彦久保の左腕に気付いた。よくできた義手だと分かる。
 彦久保はテーブルから体を起こした姫冴の肩に手を置いた。彦久保から触れてきたのはおそらく初めてのことだった。
「……お前が私を看取ってくれるのだろうね、姫冴」
 ほんの一言に、姫冴は全身が焼き焦がれる思いがした。
 鬼が襲う対象を強制的に固定化する呪いが姫冴に埋め込まれたことにはとっくに勘付いていた。それは一見、彦久保が姫冴の行動を制限し支配している。
 しかし、逆なのだ。その呪いがある限り彦久保の人生の全てを姫冴の手の内に縛り付けることが出来る。それが残り十数年であったとしても。
 その思いをひた隠し、姫冴は見下すように妖艶に冷笑してみせた。
「儂を殺そうとしたくせに?」
 微塵も動揺を見せることなく、彦久保は言葉を返す。
「お前は私の妻と腕を食ったろう」
 交わした会話はそれだけ。
 朝の光が屋敷の庭の水仙を照らした。純白の花弁にはしみ一つなかった。

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