第3話 川の流れ

文字数 703文字

「ひろくんがねぇ、ここんとこ」
 作業用のジャンパーを羽織りながら食卓を見ると、すみれがおでこを指さしている。
「お怪我しちゃったんだよ」
「あらそう」コーヒーカップを両手で持ち、両肘をテーブルについた早紀の、興味のなさそうな声がする。

「でねぇ」
「ほらよそ見しない。話はいいから早く食べちゃいなさい」
 突き放すような声に驚いたように動きを止めたすみれは、まつげを伏せて不器用な手つきでフォークを操りウィンナーを刺した。

 俯き加減に何気なさを装うその横顔は、天真爛漫(てんしんらんまん)であるはずの子供のものとは思えないほどに影を含んでいた。
 子供の話は聞いてやれ。喉元まで出かかった言葉を、鳴海は飲み込んだ。

 妻の早紀がときおり見せる素っ気ない態度は、いつの頃からだったのだろう。
 食卓からは皿とフォークがふれあう音だけがした。

 東京の大学に通っている頃に2人は出会い、やがて結婚した。その後、なかなか子宝に恵まれなかった。同棲を始めた頃から計算すると10年近く子供が出来なかったことになる。

 だからといって、不妊治療を勧めたことはない。それどころか検査さえしなかった。それでいいのだと、鳴海は考えていたから。



 川の流れのように、何ものにも逆らわない生き方をすべきだと思ったから。だからこれも、ふたりの運命なのだと受け止めていた。妻がどう考えていたかは別として。

 妻の両親はしかたがなかったが、自分の両親には、子の催促は固く口止めした。それはもちろん、妻のプレッシャーになるからだ。
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