第20話 霊安室

文字数 871文字

「ふらつきますか? 霊安室は地下ですからゆっくり行きましょう」二の腕に手を添えて看護師が足元を指した。

 エレベーターに乗り込んだ看護師が、ぽつりと口を開いた。
「本来、霊安室を利用できる時間というのは思いのほか短いのです」
「そうなんですか」驚いて看護師を見た。

「ええ、この病院だと3時間ぐらいです。でも、奥様が治療中でご主人の体調も良くないので、明朝までこちらで」
「それはすみません」そっと頭を下げた。
「いえ、いいんですよ。余計なことを口にしました」

 地下に到着した専用エレベーターが開き、看護師が右手で(うなが)した。仄暗(ほのぐ)い廊下を進むと遺体安置所の矢印があった。辺りには線香の香りがかすかに漂っている。

「こちらです」
 指し示されたドアのひとつを鳴海は見つめた。この中にすみれは眠っているのだ。誰の温もりも腕枕もなく、ひとりぼっちで。



 勇気を振り絞って開けると、思ったより狭い部屋だった。小さな祭壇があった。出口はもう病院の裏口にしか残されていない場所に、すみれは横たわっていた。その空間には動くものなどなにも存在していなかった。笑っていたのは今朝のことなのに。

 すみれにも、ちょっとした反抗や我が儘が出ることがあった。親でもない子でもない、その関係が憎かった。自分とは一切関係ないその存在が悔しかった。

 無表情のままその頬を親指と人差し指で掴んで横に引っ張った。すみれの目が驚きで見開かれ、頬が伸び口が歪み、やがて泣き出した。

 うるさいよ。冷たく言い放ち頬を軽く叩いた。
 さらに泣いた。うるさいんだよ。手の甲側で再び頬を叩いた。訳が分からず泣くすみれ。お前は俺の子供じゃないんだ! 大声で怒鳴りたい衝動に駆られた。

「黙れ! あっちに行け!」
「いやだぁ」
 泣きながらそばを離れないすみれは、あのとき3歳になっていた。この家族は世界にひとつだけだったのに、時として自分はそれをないがしろにした。
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