第1話  リボーンノイド・マリエ  ‐皇暦(すめらこよみ)‐

文字数 10,617文字

 
 紫陽花の季節が終わり本来なら夜空に花の咲く季節の到来となるところだが、今年は独ソ関係緊迫に付き両国で行われる川開きの大花火が取り止めとなった。
 故に私は隅田川に上がる筈だった花火の音を胸中に響かせながら、帝都と呼ばれるここに今こうして居ることの幸せを噛みしめている。
 お庭で線香花火を楽しまれている旦那様を始め宗伯爵家(そうはくしゃくけ)の皆様も、凡そは私と同じ心中でいらっしゃる筈。
 今後太平洋戦争が不可避であっても、今だけはささやかながらご家族で線香花火を楽しめる幸せを。
 そして私には失った筈の妻がすぐ傍に居る幸せを。
 花火の後旦那様を始め皆様でお召し上がりになられるお夜食の支度を、今私とマリエの二人きりでお屋敷の食堂でしているのだ。
 黒いメイド服を身に纏い眼前で甲斐甲斐しく働く妻のマリエは、どう見ても二十代前半の娘にしか見えない。
 この時代の言い方に倣えばうら若き乙女とでも言ったところか。
 そんなうら若き乙女のマリエが実は168歳の老婆だと言ったところで、この時代を生きる人達は悪い冗談だと笑い飛ばすだろう。
 尤も九十五歳で一旦死んだ彼女を老婆とは言えないかも知れない。
 しかし死んだ筈の彼女が何故今も生きているのか、そのことを説明すればそれこそこの時代の人達は理解不能に陥ってしまうだろう。
 それに『人』ではない彼女のことは尚更説明に窮す。
 そう彼女は、マリエは、人工生命体のリボーンノイドなのだ。
 厳密には死後冷凍保存した身体を解凍し脳を量子コンピューターに置き換えることによって転生した彼女は、168年間の記憶を持つ不老不死の『人型ロボット』と言うことになる。
 昭和十五年の今を生きる人達にそのことを真摯に述べたところで、頭がおかしいと思われるだけで得心する人は一人も居ないだろう。
 下手をすると特高警察や憲兵に通報されるかも知れない。
 勿論マリエや私が2120年の未来から来たことは、宗伯爵家の皆様を始め周辺には一切洩らしていない。
 私がマリエと結婚したが故に2120年の日本を追われ日本政府のエージェントとしてこの時代に差遣されて来たこと、それにも益してマリエの『人』としての過去が宗伯爵の一粒種である正恵お嬢様だったことなど、口が裂けても言えるものではない。
 今お庭で線香花火を楽しむ僅か八歳のお嬢様が転生後にマリエとなり、未来からここにやって来たなどとはとても・・・・・。

 二十二世紀初頭リボーンノイド法の成立と共に人はそれ迄どうしても越えられなかった寿命200歳の壁を、脳を量子コンピューターに置き換えることによって遂に打ち破った。
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 あの時代医療技術の進歩により人は100歳を超えても20代の肉体を保つことが出来るようになってはいたが、脳の寿命とされる200歳を越えると急逝を余儀なくされた。
 ならば脳の中身を量子コンピューターに移し変えれば、と、そうした発想を基にリボーンノイドは生まれた。
 200年以上も生きてきた自身の記憶や思考形態をそのままに20代の肉体で生き続けられると言う、人類究極の欲望である不老不死をリボーンノイドへの転生で遂に叶えたのである。
 無論2120年を生きていた私もリボーンノイドに転生可能だ。
 しかし32才の若造に過ぎない私は未だ生身の肉体のまま。
 何故ならドクターリボーンノイド法に依って予測された脳の寿命の一年前以降でないと、転生手術の認可が下りないからである。
 少子高齢が先鋭化していたあの時代、政府はせめて寿命までは人を人として生かしておきたかったのだろう。
 しかし幾ら人を人として生かしておきたいと言え、人とリボーンノイドの婚姻を禁止する法制度には矛盾を感じずにはいられない。 
 少子高齢化対策の一環として人同士の婚姻を促進し出産を促すよう制定された法制度なのだそうだが、そもそも死後転生するリボーンノイドの存在自体が少子高齢化対策の一環の筈。
 それなのに人とリボーンノイドの婚姻を禁止するのは酷い矛盾だ。
 その上計画を超える人口増加を抑制する為、リボーンノイドは転生時に出産出来ないように施術されると言う矛盾迄存在する。
 思えばあの時代は他にも科学の進歩が齎した様々な矛盾があった。
 たとえば政府に依って至極優遇されていた医師が、自らは全く医療行為をしないと言う矛盾。
 殆どの医療行為をドクター・リボーンノイドが代行するからだ。
 私もあの時代医師であったが医療行為を行った記憶は無い。
 何の為に医師免許を取得したのか、全く自嘲を禁じ得ない。
 思い起こせばあのときの私には、人の命を救おうなどと言う崇高な志は微塵も無かったように思う。
 何より父が遺した高野総合病院が有ったが故に、病院長に成る為医師免許が必要だったのだ。
 益してや誤診はおろか病で人が死に到ることは無くなり、医療過誤からも解き放たれたあの時代の医師と言う職業である。
 私の医師としての志が陳腐であったことも当然の帰結と言えよう。
 そうした状況から医師免許を取得すれば、総ての医師は直後にドクター・リボーンノイドと契約をする慣例になっていた。
 無論政府が免許を発行した以上、医師自身も医療行為は出来る。
 しかし幾ら優秀な人間でも人が行う医療には誤りが付き纏う。
 畢竟医師になれば誰もがドクター・リボーンノイドと契約する。
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 そしてまたその契約内容にも大きな矛盾が存在していた。
 あの時代医師とドクター・リボーンノイドとの契約は、事業主が従業員と交す雇用契約ではなかった。
 その契約に最も類似する契約内容は、ゲノム編集器材や保育器と言った医療器具のリース契約内容だった。
 つまり彼等を法的には医療器具として扱っていたのだ。
 人工とは言え元は人である生命体であるにも拘らずである。
 医師法上それ等個々の医療行為の一切は免許を持つ人である医師の監督指示の下、彼等がそれを代行したと言うことになる。
 形式だけでも人である医師に責任を負わせたかった政府の意図が透けて見える、何とも歪な法制度である。
 私に到っては生前父であった元病院長のドクター・リボーンノイドと契約を結んでいたのだから、それ以上の矛盾があろうか。
 死後も父と一緒に居られるのは幸せだったが、見た目が私より若い父に『父さん』と呼ぶのはどうもしっくりとこない。
 また成り立てのドクター・リボーンノイドは、経験のあるドクター・リボーンノイドの下でインターンに就くことになっていた。
 無論ベテランのドクター・リボーンノイドである元父にも見習いインターンがやって来た。
 それがマリエだ。
 そして私は彼女に惹かれ、恋に落ち、頑なに彼女との愛を貫いたが故に罪に問われた。
 結果私は日韓歴史問題修正の為のエージェントとして、危険を伴うタイムトラベルを余儀なくされる破目に陥った。
 それこそがリボーンノイドを愛し、そしてそのことを隠そうとした私に科された罪の代償なのだ。

 2114年9月共産党一党支配を益々先鋭化させる中国が、追加関税を始めとした経済制裁を日韓両国加盟の経済連合に科した。
 その結果それ迄国交を断絶していた両国は其々が国家の存亡を懸け、致し方なくではあるが手を組むことになった。
 それ等の重要な任務を負った私は日本政府のエージェントとして、2120年の未来から今の昭和十五年の東京に転送されたのだ。
 と、言えば聴こえは良いが日韓国交正常化のトラブルの基となる史実を消去すべく、汚れ仕事を請け負ったと言うのが実際の処か。
 そんな或る日私は日本政府から使用するなと釘を刺されていた、徳恵奥様仕様の遺伝子治療薬を正恵お嬢様に投与してしまった。
 お嬢様をお救いしたい一心からしてしまったことではあったが、私は歴史改変の罪に問われることになった。
 挙句日本政府からタイムトラベルパスポートチップを取り上げられる破目に陥るが、何とし
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たことかその後暫くして韓国政府がそれを新たに発行してくれた上で、マリエとの婚姻迄認めてくれた。
 何故なら私が遺伝子治療薬を投与したせいで精神疾患の基となる劣性遺伝子が排除され、自殺する筈であった正恵お嬢様が後に韓国籍に直りノーベル医学賞を受賞なさったからである。
 ノーベル賞が韓国政府を揺り動かす原動力となったのだ。
 朝鮮最後の皇女であり宗伯爵家に嫁いだ徳恵奥様の一粒種である正恵お嬢様は、日本の華族と朝鮮王族の血を受け継ぐ高貴なお方だ。
 ところがその高貴な正恵お嬢様が22世紀の未来に於いてリボーンノイドに転生し、私の妻になるなどと誰が想像し得よう。
 私にしてもマリエがタイムトラベルをしてここに来ていなければ、彼女が正恵お嬢様だったことなど知り得なかったろう。
 否、今ここに居るマリエは人ではない。
 と、すると、マリエが正恵お嬢様だったと言う言い様はおかしい。
 或いは正恵お嬢様の記憶を受け継いだ、と、でも言うべきか。
 そうしてあれやこれやを考えて私の思考回路は混線寸前に陥る。
 そのせいなのか或いはそうではなく実際にそうなのが釈然としないまま、気が付いたときには私の周辺から一切の音が消えていた。
 直後マリエが時空に裂け目を入れたに違いない、と、思い至る。
 何故ならマリエが時空に裂け目を入れ私達がその中に入り込む瞬間、音と言う音の一切が周辺から消えてしまうからだ。
 リボーンノイドの彼女には、超人には聴き取れない超音波を発して時空に裂け目を創り出す能力が備わっている。
 マリエは超音波の強弱や発するタイミング或いは方向などと言った、ありとあらゆる事象を計算し時空に裂け目を創り出す。
 しかしそれは私に取って至福の瞬間であることも度々あった。
 何故ならマリエはタイムトラベルの時以外にも、時空に裂け目を入れることがあるからだ。
 それを私は『二人だけの時間』と呼んでいた。
 もしその時が来ればその間主家の皆様には、私とマリエが自然に立ち振舞っている様子を6D映像で見て戴くことになる。 
 呼ばれたら返事をしたりして、或る程度主家の皆様方との遣り取りを私達に代わって6D映像がしてくれるのだ。
 マリエが2120年から持ち込んだ6D立体スクリーン投影機が、内蔵されたAIの指示に従い実際とは違うその時々の我々の映像を、
自動的に主家の皆様方に見せてくれる仕組みだ。
 またこちらからもどう言う状況になっているかを確認する為、主家の皆様の様子を映像で見させて貰うことになる。
 尤も様子を窺うだけなのでこちらの映像の皆様は受け答えをしない単純なものだが、それでも6D立体映像でそれを見られるのだ。
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 そんな風に『二人だけの時間』のアリバイは完璧である。
 今日は特別な任務が課せられてはいない筈だ。
 と、なると、我知らず頬が緩んで来る私であった。
 マリエもまた何時のあの悪戯っ子のような笑みを浮かべているものと思って視線を彼女の方に向けてみたが、唇を噛み締めた彼女は顎を横に振って小さく、「違う」、と、呟いたその直後であった。
 彼女迄あと一歩と言うところで、私と彼女の直ぐ傍に突然軍服を着た将校らしき男が三人現れた。
 一人が一人に背後から拳銃を突き付け、もう一人がその少し後ろでその様子を静観している。
 しかもその三人が身に纏っている軍服は私の知っている二十二世紀の自衛官のものではなく、この時代の陸軍将校のものであった。
 恐らく時空の裂け目から飛び出て来たのだろう。
 しかしこの時代の軍人がタイムトラベルをすることなどない筈。
 そうして何故この時代の陸軍将校がタイムトラベルをしているのか理解出来ずに居る私を尻目に、マリエが強い口調で拳銃を突き付けられている男に向かって言い放った。
「お越しになられるのなら予め伝えて戴かないと困ります。
 突然いらしても何も準備は出来ておりませんことよ」
 マリエの言葉を聴き拳銃を突き付けていた方の男が眉根を寄せて警戒を露にするのとは対照的に、拳銃を付きつけられている方の男は頭を掻きながら苦笑混じりに応じた。
「いやぁ申し訳ない。しかしご覧の通りの緊急事態でね。
 先ずはナーブコントローラーを使って、私の突き付けられている拳銃の引銃を引けなくしてくれませんか」
 謂わば命の遣り取りをしている緊迫した状況の筈なのに、マリエと拳銃を突き付けられている方の男はまるで緊張感が無い。
 私などは硬直する身体をどうすことも出来ないと言うのに、だ。
 マリエは溜息を吐き出した後、メイド服の右ポケットから婦人用の懐中時計を取り出した。
 蓋を開けて指で何回か操作した後、拳銃を突き付けられている方の男に向かって淡々とした声音で告げた。
「終わりましたよエージェント花田。
 ところで後ろにいらっしゃる方々は?」
 マリエの言葉を聴いた花田は顔に笑みを浮かべると、大きくひとつ、ふーっ、と、息を吐き出してからマリエに応じた。
「いやぁ、助かった。恩に着るよ。
 紹介するのが後先になってしまったが、一番後ろに立っておられるのが昭和二十年八月六日の広島から御連れした、第二総軍教育参
謀の雲峴宮李公鍝(うんけんきゅうりこうぐう)殿下。
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 そして私の後ろで拳銃を突き付けておられる方が、雲峴宮殿下の御附武官でいらっしゃる吉成弘中佐だ。
 お二人共原爆投下の一時間前に御連れしたんだが、時間がなくて上手く説明が出来なかったんだ。
 それでお救いするつもりがこんな醜態を晒す破目に」
 この事態に苦笑交じりで平然としていられる花田と言う男もそうだが、マリエもどうかしている。
 一体マリエはこの花田と言う男を見知っているのか、或いはこの男も2120年代の未来から来たリボーンノイドなのか・・・・・。
 私がそうしたことをマリエに問うよりも早く、花田に拳銃を突き付けていた方の男が声を上げた。
「ふたりして敵性語を使いおって、小賢しい。
 貴様等やはり敵方の間諜だな。女共々始末してくれる」
 女共々と言う言葉を聴きそれは私も含まれるのか、と、動揺を禁じ得ず硬直する私に反して、花田は平然と答える。
「もう大丈夫ですので、どうぞ引銃を引いてみて下さい」
 花田の言葉を聴いて吉成中佐は眉根を寄せて即応した。
「貴様ぁふざけおって、連合軍の犬めが。これは天誅だと思え!」
 そう言うや否や顔を何度も歪め、「何だ、どうした。どうして引銃が引けない」、と、呻きながら銃口を上に向けたり下に向けたりしていた吉成中佐は、やがて諦めたように肩を落としふーっ、と、荒い息を吐き出した直後花田を睨めつけながら声を上げた。
「貴様、何をした。私に何をしたんだ!」
 花田が吉成中佐に応じようとした刹那であった。
 今迄静観していた雲峴宮殿下が一歩前へと出られ、吉成中佐の右肩を掴んで自分の方に引き寄せた。
「吉成それは彼等の持っている装置の影響に依るものだ。
 銃を仕舞え。どうやら彼等は本当に未来から来たらしい」
 そう告げた殿下は花田を正面に見据えた。
「花田さんと仰いましたか。
 貴方はご自身を参謀本部の大佐と仰るが、その参謀飾緒は良く出来ていても本物とは少し違います。
 それから貴方の先程の言葉は神経操作装置と言う意味でしょう。
 お陰で吉成は本当に引銃が引けなくなった。
 どう考えてもそんな装置はこの時代に存在しない。
 それにそこで花火をしておられるのは宗伯爵と翁主様でしょう。
 以前婚礼の式典のときにお会いしたから覚えています。
 しかし先程から皆さんまったくこちらを気にするご様子がない。
 間違いなくこれは・・・・・」
 そう言って庭に降り立った殿下は、自らの手を旦那様の6D映像の手に重ねようとして何度
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か空を切らせた。
「やはりな・・・・・実に良く出来ている。
 あなた方が敵の間諜だとしても、こんな風に立体的に映像を創り出す技術迄は持ち得ないでしょう」
 殿下の言葉を聴いて花田は頬を緩めた。
「さすがは俊才として名高い雲峴宮殿下。
 総て仰る通りでして、感服致しました」
 花田の世辞に殿下は苦笑しながらも決して相好は崩さない。
「しかし仮に未来から来たとして、貴方は何故わたくしが大韓帝國復辟を企図し第二総軍への配属を希望したことを知っていたのか?
 本土決戦の際にわたくしが朝鮮に渡海する作戦は秘中の秘だ」
 殿下の問い掛けが花田の緩んだ頬を引き締め直させた。
「人工知能と言うものがそのことを解析したのです。
 つまり優秀な機械の脳が教えてくれたのです。
 無論人工知能はその他にも色々なことを教えてくれます。
 今後175年間で日韓関係にどんな凶事が惹起するのかもです。
 どうぞこれよりその人工知能の映し出す映像をご覧下さい」
 そう告げた直後マリエに視線を移した花田がひとつ肯いた。
 それを見て取ったマリエが再びメイド服の右ポケットから婦人用の懐中時計を取り出して、その蓋を開けて指で操作すると忽ち眼前に6D映像が立ち上がった。
 太平洋戦争終結後朝鮮戦争が勃発し朝鮮半島が南北に分断された事や、戦後74年目に起こる徴用工問題に端を発する日本政府の輸出規制、或いは韓国政府のWTO訴訟や軍事協定の破棄等々。
 遂には戦後143年目に日韓の国交が断絶される迄の両国の有り様が、順を追って審らかにされた。
 そうして最後に原子爆弾投下時の広島市内の様子も・・・・・。
 正に阿鼻叫喚の地獄絵図であり、到底原子爆弾投下の史実を知らない者には受け入れられるものではない。
 内臓が腹部からはみ出るのを手で元に戻そうとしたのか、それ等臓物を抱きながら壁に凭れ掛かって死んでいる者。
 或いは焼け爛れて顔の剥げ落ちた子供。
 モンペを穿いている為辛うじて女の子だと分かる。
 そんな被爆者達の地獄が次々と映し出された。
 それ等人工知能の創り出す6D映像には容赦など一切無かった。

 やがて殿下は低く呻くように言葉を紡いだ。
「花田さん、貴方は私に新型爆弾に依る被爆を避け、時間旅行をして太平洋戦争終結後の京城に行けと言われましたね。
 そして日本本土より李王世子垠殿下並びに芳子妃殿下を招聘し、新国王としてご即位戴きそ
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の上で大韓帝國を復辟して欲しい、と。
 初代大統領となる予定の李承晩を従わせるよう助力するので、新国号を『大韓民国』と定めわたくしが初代大統領の職に就け、とも。
 わたくしが初代大統領に就き金日成を退ければ朝鮮を南北分断の脅威から救えるし、また反日教育も是正出来る。
 今から175年後の韓国に取ってそれが最良の選択であり、私に取ってもそれこそが天に与えられた使命である、と。
 しかし花田さん。確かにそうとも言えますが、わたくしは李氏朝鮮の王族である前に、帝國陸軍第二総軍教育参謀なのであります。
 従って先ずは新型爆弾投下以前に立ち戻り、本情報を総軍司令部に伝えねばなりません。
 総軍の部下や広島市内に住まう無辜の民を置き去りにし、自分だけがおめおめと生き残る訳にはいかない。
 私には広島に居る人達を守らねばならない義務がある。
 何より広島市民の中には朝鮮人も数多いるのです。
 今のわたくしは朝鮮王族でもあり日本公族の軍人でもある。
 謂わば朝鮮人でもあり日本人でもあるのです。
 そのことと同じく人の命には朝鮮人も日本人もない。
 何としても私は部下と広島市民を、昭和二十年8月6日未明迄に被爆地から脱出させてみせる。
 それこそが天が私に与えたもうた使命と心得るからです」
 花田に対し決然と言い切った殿下は挙手の敬礼を尽くした直後、腰の軍刀を抜いて花田の首の付け根に翳した。
「その腕時計を渡して貰おう。
 それが時間旅行の操作装置になっているのでしょう?」
 拳銃ならナーブコントローラーで引銃を引けなくされるが、軍刀であれば全体重を刃に預けて花田の首に喰い込ませることも可能だ。
 瞬時にそのことを計算して立ち廻り尚且つ腕時計を転送装置だと見抜いた殿下は、恐ろしく頭が切れると言わざるを得ない。
「殿下本当にお宜しいのですか? 
 ご自身のお命が懸かっているのですよ」
 花田の言葉を聴いても殿下は首を横に振るだけだった。
「花田さん、さぁその腕時計を」
 そう言って花田から腕時計を受け取り取り扱い方法をお聴きになる殿下に、花田は諭す声音で押し被せた。
「現在は昭和十五年です。
 元の時代に戻るなら昭和二十年八月六日以前でないとなりません。
「それからもし今文字盤横の釦を押して元の時代に戻れば、それ以降は幾らその腕時計を操作しても他の時代に行けなくなります。
 何故なら私が共に居なければ、その腕時計だけでは時空の裂け目を創れないからです。
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 釦を押した際に身体を密着させていないと、私は殿下と共に時間旅行が出来ませんが」
 花田の言葉を聴きながら雲峴宮殿下は軍刀を持ったまま後退った。
 そうして花田から距離を置いた雲峴宮殿下は、軍刀を持ったままの手で器用に腕時計の蓋を開けた。
 転送先の日時を設定したのであろう雲峴宮殿下は、やがて眦を決して低く言い放った。
「分かっています。が、折角の気持ちを無駄にしてすまない」
 そうとだけ言い残し吉成中佐を従えて雲峴宮殿下は忽然と消えた。

 やがて大きくひとつ息を吐き出した花田が低い声音で告げた。
「ご協力に感謝する。エージェントマリエ、エージェント高野賢一。
 これで雲峴宮殿下は無事2120年の未来に転送された」
 苦笑とも自嘲とも取れるシニカルな笑みを湛えながら放たれた花田の言葉は、到底私に理解出来るものではなかった。
「え、雲峴宮殿下殿下は昭和一九四十五年の広島に行った筈?」
 私の投げ掛けた疑問に花田は何度も首を横に振った。
「実はあの腕時計型タイムナビゲーターは出発した時点以降に日時を設定すると、転送スイッチを押した者は最初に出発した時点に転送されるようになっているんです。
 2120年の日韓両政府は殿下をリボーンノイドに転生させた後、核廃絶推進特使或いは日韓友好特使として活躍して貰う予定らしい。
 いやぁ、しかし、それにしても手間取った。
 元来殿下は本土決戦の際に第二総軍の一部を連れて朝鮮に渡海し、朝鮮軍や関東軍と共にソ連軍を満州國の向こう側に押し戻した後に、
日本の軍部を後ろ盾に大韓帝國を復辟しようとされていた。
 そんな殿下なら私の提案にあっさり乗ってくれると思ったのだが、あそこ迄抵抗されるとはね。
 お陰で殿下を騙すようなことになってしまった。
 あの場で端から広島市民を救うことは許されていないと伝えれば、一体どうなっていたことやら」
 花田の言葉に私はつい声を荒げた。
「そんな、何故、何故なんです?
 殿下は原爆から広島を救う為に自らの命をもお賭けになった!」
 私がそう言い終えるや否や花田は強く押し被せて来た。
「分かっていますよ! 
 私だって原爆から広島を救いたかった。
 どれ程の人が広島で犠牲になったか私だって知ってる。
 それに日本人ばかりでなく朝鮮人も大勢居たんですから。
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 しかし広島を救おうとすれば時空の軸が大きくずれて、地球が消滅してしまうかもしれないんです。
 それに地球が消滅することを防げたとしても、結果広島以外の他の何処かに原爆が投下されることになる。
 それが国連認定人工知能の出した答えなんです」
 花田の無慈悲な言葉に私は縋る声音で言葉を紡いだ。
「それでも、それでも殿下は、タイムナビゲーターを1945年のの原爆投下以前にセットした筈」
 そう言って花田は尚も追い縋る私の手を振り解いた。
「私は殿下に現在が昭和十五年だとは申し上げたが、1945年だとは言っていない。
 そこのからくりは後でエージェントマリエから訊いて下さい」
 そうとだけ言い残し花田は忽然と元の時代に消えて行った。
 
 その場に立ち尽くす私にマリエが苦笑混じりの言葉を寄越した。
「日本に絡め取られた朝鮮王族の殿下が皇暦(すめらこよみ)に謀られ、その上で命を救われるなんて何だか皮肉な話よね」
 私はその言葉の意味が理解出来ず唯々首を傾げるしかなかった。
 やがてマリエはこちらに歩み寄り私に身体を預けた。
 彼女は抱き留める私の首にゆっくりと手を廻して来た。
「恐らく殿下はエージェント花田から受け取ったタイムナビゲーターが、今の年号になっていると思った筈。
 たとえばそこから逆算して原爆投下の一週間前に戻るとしたら、メモリを五年後の七月末日に直す筈でしょう。
 そうするとそれは何年の七月末日かしら?」
 私の眼を見詰めながら当たり前のことを訊いて来るマリエに、私は不服を隠さずに強い声音で吐き捨てるように応じた。
「それくらいは知ってる。終戦と同じ年の1945年だろう」
 嘆息を吐き顎を横に振ったマリエは諭す声音で私の耳元で告げた。
「それは西暦でしょ。
 この時代の、しかも軍人の殿下が西暦で年号を読むとお思い?」
 マリエの問い掛けが私にはたと気付かせた。
「そうかそれで君はさっき皇暦と言ったのか。
 つまり昭和二十年は・・・・・」
 その後に続く「皇紀2605年か」、と、言おうとした私の言葉は、合わせたマリエの柔らかい唇に次々と吸い込まれていった。 
 彼女の頬が濡れていたせいだろう、心なしかしょっぱい味がした。 
                  

               - 了 -
        - 10 -

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