短編・冬 とある青年、風邪をひく
文字数 2,937文字
「んん"っ」
喉に何か引っかかったような感触を覚え、右手で喉を触る。味噌汁を作っていた由羅さんが、振り返って訊いてくる。
「どうかした?」
「いや…」
何だろう…。
気にはなるが、大した事ではないだろう。
「何でもないです。…あ、俺卵焼き作ります」
「ん。お願い」
俺は掛けてあったエプロンを手に取り、手早くそれを身に着けた。
「…ケホッ」
種や肥料の入った段ボールを持ち上げ、車から降ろしていく。
「…これで最後…と。これ、この後どうします?」
身体を起こし、店長のおじさんに訊く。
「ああ、それなぁ。種は棚に足りない分だけ補充して、肥料は取り敢えずバックに入れといてくれ」
バック…。…ああ、バックヤードか。
「分かりました」
俺は降ろし終わった段ボールをカッターで開け、中から種の袋を束で取り出す。
「…っケッホ、ケッホケホッ!」
袖の甲で口元を隠し、咳き込む。
「なんだセル、風邪か」
おじさんに『いえ、大丈夫です』と、答えようとして、また咳き込む。
「………」
…不味い。今日は仕事を始めてから、ずっとこの調子だった。
喉の違和感も、今は痛みに変わり始めている。
…これは本当に、風邪を引いたかもしれない。
「ケホッ…」
………。
俺はなるべく早く仕事を終わらせようと誓い、種を店内へと運んだ。
「ケホッ、ケッホケホッ…」
…午後四時過ぎ。
体調が芳しくない俺を見て、花屋のおじさんは俺を早めに帰らせてくれた。
今日は由羅さんが遅くなる日なので、薬局に寄り、適当に必要そうな物を買って帰る。
スポーツドリンク、風邪薬、携帯栄養食…
「…ケッホケホッ」
…。
取り敢えず、早く帰ろう。
家に帰るなり、手を洗い、グラスに水を注いで薬を飲む。
「う、苦…」
これがいいと店員に言われ買って来たが、思ったよりも苦かった。追加でもう一杯水を飲み、着替えてベッドに入る。
「…っ、ケッホケホケホッ」
…あ、しまった…。マスク忘れた…。
寝返りを打ち、ふと目に入った時計を見ると、時刻は午後五時を回っていた。
…さっさと寝て治そう。
俺は顔の半分まで布団を引き上げ、目を強く瞑った。
「…くん、…ルくん…」
「セルくんっ!」
「……」
目を開けると、心配そうな顔をした由羅さんが、俺を覗き込んでいた。
…。
「っ! 今、何時…」
枕元の時計を見る。時計は、八時半を過ぎていた。
「すみませ…ケホ、俺…ケホケホッ…」
「あああ…ごめんね。あ、お水いる?」
頷くと、由羅さんがぱたぱたとキッチンへ走っていく。
俺はゆっくりと起き上がり、枕元の時計に手を伸ばす。
「冷たっ」
時計は思った以上に冷たく感じられ、一瞬手が怯んだが、もう一度、今度はしっかりと掴んで引き寄せる。
「…ケホッ」
口元を袖で抑えながら、改めて、手元の時計の針が指す時刻を見る。
…午後八時半…か。
うちではいつも夕食は、午後七時に食べる。遅くとも七時半には食べ始める。
「…寝過ぎた…」
…由羅さんが心配する訳だ。
そう言えば、由羅さん、ご飯食べたのかな…。
ぼーっと待っていると、キッチンへ行っていた由羅さんが、グラスと、他にも色々と持って、部屋に入ってくる。
「遅くなってごめんね、セルくん。…はい、お水」
「あ、ありがとうございます…」
俺がグラスを受け取り水を飲んでいる間、由羅さんはテキパキと、何やら用意している。
「…あ、そう言えばセルくん、薬は飲んだのよね?」
「はい…」
なんで由羅さんが知ってるんだ…?と思ったが、そう言えば薬の箱は、テーブルの上に置きっぱなしだった。
由羅さんが体温計を手に取りながら、俺に訊いてくる。
「セルくん、熱は測った? 一応、体温計持ってきたんだけど…」
「熱…」
そう言えば、測ってなかった。何度くらいだろう。
…あ、時計がいつもより冷たく感じたって事は…。
「…測ってはないですけど…ケホッ…多分、少しはあるかと…」
「そんな感じする?」
「これがいつもより冷たかったので…」
俺は手元に置いたままだった時計を見せる。
「そっか…。…じゃあ、はい」
由羅さんに体温計を差し出される。俺はサイドテーブルにグラスを置いて、それを受け取り、ボタンを押して脇に挟んだ。
「スポーツドリンクと薬、ここに置いとくね」
由羅さんがベッド脇のサイドテーブルに、ペットボトルと薬の箱を置きながら言う。
「あ、はい」
…それから暫くじっと待つと、小さな電子音が聞こえてくる。
「ケホッ…」
脇から抜いて、デジタル表示の数字を見る。
「………」
「セルくん?」
体温計の表示とにらめっこしていると、由羅さんに覗き込まれて見られてしまう。
「あ…」
「…熱、やっぱりあるね…」
体温計の数字は、37.8だった。
「はあ…」
俺は布団に潜ったままため息をつく。
薬は飲んだ筈なのに、体温は上がっていた。
「薬…効かなかったのか…」
呟いて、空気が喉を通ったからか、ケッホケホケホ…と、咳き込む。
「寒…」
ゾクゾク…と、背中に悪寒が走る。
…この感じだと、もう少し熱が上がるかもしれない。
「はあ…」
俺はもう一度ため息をつき、寝返りを打って、目を瞑った。
それから俺は、二日寝込んだ。次の日は熱も前日より高くなり、喉の痛みも初日よりきつくなった。咳き込む回数も増え、殆ど一日中、ぐったりしていた。
その次の日は、熱は大分下がったものの、咳が少し残っていた。水を飲むのも辛かった前日に比べれば、それでも大分マシだった。
そして今日。
「ん…」
起きて一番に、喉の調子を確かめる。唾を飲んで、痛みが無い事を確認する。
「治った…か?」
熱は昨日の段階でほとんど無かったが、一応測ってみる。
「…うん」
36.6。平熱だ。問題無い。
俺はベッドから起き出して、着替えてリビングに入る。
ふらつきも無いし、…うん。
「治った…な」
朝食の用意をしていた由羅さんが俺に気付き、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「おはようセルくん。風邪、どう? 喉痛くない?」
「おはようございます。喉も痛くないし、咳も熱も無いです。…心配掛けて、…すみません」
「ううん。セルくんの風邪が治って、ほんと良かった」
由羅さんは力が抜けた様な、ほっとした笑顔で言う。
「…本当に、心配掛けてすみません。…あ、何か手伝う事ありますか?」
俺がそう言って訊くと、
「病み上がりなんだから、ちゃんと座ってて。治って直ぐに動いて、ぶり返したりしたら、大変でしょう?」
と、苦笑され、叱られてしまった。
俺は大人しく椅子に座り、心なしか嬉しそうに朝食の用意をする由羅さんを見て、なるべく風邪を引かないで済む様、もっと気を付けようと、心に誓ったのだった。
− 終わり−
喉に何か引っかかったような感触を覚え、右手で喉を触る。味噌汁を作っていた由羅さんが、振り返って訊いてくる。
「どうかした?」
「いや…」
何だろう…。
気にはなるが、大した事ではないだろう。
「何でもないです。…あ、俺卵焼き作ります」
「ん。お願い」
俺は掛けてあったエプロンを手に取り、手早くそれを身に着けた。
「…ケホッ」
種や肥料の入った段ボールを持ち上げ、車から降ろしていく。
「…これで最後…と。これ、この後どうします?」
身体を起こし、店長のおじさんに訊く。
「ああ、それなぁ。種は棚に足りない分だけ補充して、肥料は取り敢えずバックに入れといてくれ」
バック…。…ああ、バックヤードか。
「分かりました」
俺は降ろし終わった段ボールをカッターで開け、中から種の袋を束で取り出す。
「…っケッホ、ケッホケホッ!」
袖の甲で口元を隠し、咳き込む。
「なんだセル、風邪か」
おじさんに『いえ、大丈夫です』と、答えようとして、また咳き込む。
「………」
…不味い。今日は仕事を始めてから、ずっとこの調子だった。
喉の違和感も、今は痛みに変わり始めている。
…これは本当に、風邪を引いたかもしれない。
「ケホッ…」
………。
俺はなるべく早く仕事を終わらせようと誓い、種を店内へと運んだ。
「ケホッ、ケッホケホッ…」
…午後四時過ぎ。
体調が芳しくない俺を見て、花屋のおじさんは俺を早めに帰らせてくれた。
今日は由羅さんが遅くなる日なので、薬局に寄り、適当に必要そうな物を買って帰る。
スポーツドリンク、風邪薬、携帯栄養食…
「…ケッホケホッ」
…。
取り敢えず、早く帰ろう。
家に帰るなり、手を洗い、グラスに水を注いで薬を飲む。
「う、苦…」
これがいいと店員に言われ買って来たが、思ったよりも苦かった。追加でもう一杯水を飲み、着替えてベッドに入る。
「…っ、ケッホケホケホッ」
…あ、しまった…。マスク忘れた…。
寝返りを打ち、ふと目に入った時計を見ると、時刻は午後五時を回っていた。
…さっさと寝て治そう。
俺は顔の半分まで布団を引き上げ、目を強く瞑った。
「…くん、…ルくん…」
「セルくんっ!」
「……」
目を開けると、心配そうな顔をした由羅さんが、俺を覗き込んでいた。
…。
「っ! 今、何時…」
枕元の時計を見る。時計は、八時半を過ぎていた。
「すみませ…ケホ、俺…ケホケホッ…」
「あああ…ごめんね。あ、お水いる?」
頷くと、由羅さんがぱたぱたとキッチンへ走っていく。
俺はゆっくりと起き上がり、枕元の時計に手を伸ばす。
「冷たっ」
時計は思った以上に冷たく感じられ、一瞬手が怯んだが、もう一度、今度はしっかりと掴んで引き寄せる。
「…ケホッ」
口元を袖で抑えながら、改めて、手元の時計の針が指す時刻を見る。
…午後八時半…か。
うちではいつも夕食は、午後七時に食べる。遅くとも七時半には食べ始める。
「…寝過ぎた…」
…由羅さんが心配する訳だ。
そう言えば、由羅さん、ご飯食べたのかな…。
ぼーっと待っていると、キッチンへ行っていた由羅さんが、グラスと、他にも色々と持って、部屋に入ってくる。
「遅くなってごめんね、セルくん。…はい、お水」
「あ、ありがとうございます…」
俺がグラスを受け取り水を飲んでいる間、由羅さんはテキパキと、何やら用意している。
「…あ、そう言えばセルくん、薬は飲んだのよね?」
「はい…」
なんで由羅さんが知ってるんだ…?と思ったが、そう言えば薬の箱は、テーブルの上に置きっぱなしだった。
由羅さんが体温計を手に取りながら、俺に訊いてくる。
「セルくん、熱は測った? 一応、体温計持ってきたんだけど…」
「熱…」
そう言えば、測ってなかった。何度くらいだろう。
…あ、時計がいつもより冷たく感じたって事は…。
「…測ってはないですけど…ケホッ…多分、少しはあるかと…」
「そんな感じする?」
「これがいつもより冷たかったので…」
俺は手元に置いたままだった時計を見せる。
「そっか…。…じゃあ、はい」
由羅さんに体温計を差し出される。俺はサイドテーブルにグラスを置いて、それを受け取り、ボタンを押して脇に挟んだ。
「スポーツドリンクと薬、ここに置いとくね」
由羅さんがベッド脇のサイドテーブルに、ペットボトルと薬の箱を置きながら言う。
「あ、はい」
…それから暫くじっと待つと、小さな電子音が聞こえてくる。
「ケホッ…」
脇から抜いて、デジタル表示の数字を見る。
「………」
「セルくん?」
体温計の表示とにらめっこしていると、由羅さんに覗き込まれて見られてしまう。
「あ…」
「…熱、やっぱりあるね…」
体温計の数字は、37.8だった。
「はあ…」
俺は布団に潜ったままため息をつく。
薬は飲んだ筈なのに、体温は上がっていた。
「薬…効かなかったのか…」
呟いて、空気が喉を通ったからか、ケッホケホケホ…と、咳き込む。
「寒…」
ゾクゾク…と、背中に悪寒が走る。
…この感じだと、もう少し熱が上がるかもしれない。
「はあ…」
俺はもう一度ため息をつき、寝返りを打って、目を瞑った。
それから俺は、二日寝込んだ。次の日は熱も前日より高くなり、喉の痛みも初日よりきつくなった。咳き込む回数も増え、殆ど一日中、ぐったりしていた。
その次の日は、熱は大分下がったものの、咳が少し残っていた。水を飲むのも辛かった前日に比べれば、それでも大分マシだった。
そして今日。
「ん…」
起きて一番に、喉の調子を確かめる。唾を飲んで、痛みが無い事を確認する。
「治った…か?」
熱は昨日の段階でほとんど無かったが、一応測ってみる。
「…うん」
36.6。平熱だ。問題無い。
俺はベッドから起き出して、着替えてリビングに入る。
ふらつきも無いし、…うん。
「治った…な」
朝食の用意をしていた由羅さんが俺に気付き、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「おはようセルくん。風邪、どう? 喉痛くない?」
「おはようございます。喉も痛くないし、咳も熱も無いです。…心配掛けて、…すみません」
「ううん。セルくんの風邪が治って、ほんと良かった」
由羅さんは力が抜けた様な、ほっとした笑顔で言う。
「…本当に、心配掛けてすみません。…あ、何か手伝う事ありますか?」
俺がそう言って訊くと、
「病み上がりなんだから、ちゃんと座ってて。治って直ぐに動いて、ぶり返したりしたら、大変でしょう?」
と、苦笑され、叱られてしまった。
俺は大人しく椅子に座り、心なしか嬉しそうに朝食の用意をする由羅さんを見て、なるべく風邪を引かないで済む様、もっと気を付けようと、心に誓ったのだった。
− 終わり−