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文字数 4,643文字
自宅から登校してきた央霞は、まったくいつもどおりに見えた。
あれから菊池とも会っていないとのことだったので、みずきはひとまずほっとした。
放課後、生徒会室に現れた央霞は、最初に目が合った千姫に笑いかけた。
「やあ、遠梅野。頑張ってるか?」
「………」
しかし、千姫はすぐに央霞から目をそらし、居心地悪そうに身体を揺すりながら作業にもどった。
どうも彼女は、友人である茉莉花とちがい、央霞に対してあまり好印象を抱いていないらしい。
人の好みはそれぞれだから、仕方のないことだとは思うが、みずきにしてみれば、なんで央霞ちゃんのよさがわからないの? などと思ったりもする。
央霞は気にしたようすもなく、隣にいる茉莉花に話しかけた。
「大紬は、倉仁江とおなじクラスだったな」
みずきは、囓っていたポッキーを噴きそうになった。
「休んでいると聞いたが、今日も来ていないのか?」
「はいー。風邪で寝込んでるって話ですー」
雰囲気を暗くすまいとしているのか、軽いノリで茉莉花は答える。
「ちょ、ちょっと! 央霞ちゃん!」
みずきは央霞の袖をひっぱった。
周りでは他の生徒会メンバーが作業をしているので、小声で会話する必要がある。
「なんで、あの娘のことなんか」
「敵の動向を気にしたらまずいのか?」
「そうじゃないけど……」
みずきは口ごもった。
央霞がカリンを気に懸けること自体が嫌なのだとは、さすがに言えない。
央霞に撃退されて以来、カリンは学校に現れていない。いっそこのままいなくなってくれればいいと思うが、そうもいくまい。
「実はな……」
悶々とするみずきに央霞が告げた内容は、とんでもないものだった。
「なんですって!?」
「馬鹿、声が大きい」
思わず声をあげてしまい、手で口をふさがれる。やだ、大きい。男の人みたい。
「ご、ごめん……でも、あのおん――倉仁江さんが、央霞ちゃんのうちで暮らしてたなんて言うから……」
幸い向こうはまだ、央霞と陽平が姉弟だとは知らないようだが、もし気づかれたらと思うとゾッとする。
陽平が人質に取られれば央霞も手が出せなくなるし、もっと酷いことだって起こり得たかもしれない。
なにより、央霞のテリトリーに敵が入り込んでいたという事実そのものに、激しく胸の内を焼かれるような不快感を覚えた。
「彼女の行き先に心当たりは?」
「ないな。陽平が言うには、高飛車コウモリ女とマザーロシア? みたいな大女の二人組に連れていかれたそうだ」
「なあにそれ……でも、まずいわね」
十中八九、そのふたりはタイカから新たにやって来た奈落人 である。
しかも行方がわからないとなると、こちらはいつ来るかもわからない襲撃に怯え続けなければならない。
「アイツ ひとりならな」
ぼそっと呟かれたひと言を、みずきは聞き逃さなかった。
「どゆこと?」
声を尖らせ、央霞のネクタイをつかんで引き寄せる。
このあいだから気になっていたが、アイツ だなんて、ずいぶん親しげに呼ぶではないか。
「カリンなら、まず私に勝負を挑む。あの約束があるからな」
「信用してるのね」
言いながら、みずきは嫉妬の炎が再燃するのを自覚した。
「なんで、いつもいつも央霞ちゃんは……」
子供じみていると思し、心配すべきはそこではないこともわかっている。
それでも気持ちが抑えられない。
小さくて、みっともなくて、こんなんじゃきっと嫌われる。そうしたら、央霞はカリンのところへいってしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌だから――だから、こうしてグチグチと繰り返すのだ。
「みずき」
央霞が、真剣な声音で名前を呼んだ。
「そんな顔をするな」
「………」
無理に口をつぐめば、苦しい心情が顔に出る。みずきは、黙り込むことしかできずにうつむく。
女性としては大きな手が、ふれるかふれないかという距離で髪を撫でた。
「すまん。不安にさせたな」
「ううん、わたしこそごめん。……イヤだよね、こんな娘」
みずきは目許をぬぐう。
「馬鹿だな。お前は昔からそうだろ?」
「……うん」
大丈夫。央霞は変わっていない。昔とおなじように、みずきのことを見てくれている。
誰よりも強く、誰よりも優しい。
そんな彼女が、守ってくれている。
自分にできることがあるとすれば、それは彼女を信じることだけだ。
「さっきから、なにこそこそしてるんですかー?」
逢い引きの現場を発見した小学生のように、茉莉花がニヤニヤ笑っていた。
「べ、べつになにもしてないわよ」
「なにもしてないとは聞き捨てなりませんね。我々が一生懸命働いているというのに」
副会長の蓮宝寺が、険しい視線を投げてよこした。
堅物の彼は、部外者である央霞が生徒会室に出入りするのを快く思っていない。
「ごめんなさい。こっちはだいたい終わってるから、残ってる分をまわしてちょうだい」
央霞のことや、異世界絡みのあれこれで大変なのに、学校行事の準備も進めなければならない。
生徒会長のつらいところであった。
「なんか、みずき先輩ヘンだったねー」
自販機で購入した紙パックの牛乳を飲みながら、茉莉花は言った。
生徒会での仕事が一段落し、千姫と茉莉花は食堂に立ち寄っていた。
他の役員たちはもうすこし残って打ち合わせなどするそうだが、正式メンバーではないふたりは、これで帰宅しても構わない。
「ねね。あのふたり、やっぱ付き合ってんのかなー?」
茉莉花が、身を乗り出し気味にして訊いてくる。
あのふたりとは、もちろんみずきと央霞のことだ。
「……知らない」
千姫は顔をぷいっと背け、オレンジジュースを口に含んだ。
正直、考えたくもない話題だったが、興が乗ったのか、茉莉花は構わず話し続ける。
「ちょっとは考えてよー。なんかさー、落ち込んでるみずき先輩を、央霞先輩が慰めてるっぽかったよねー。で、その雰囲気がさー、なんかこう……エロっちいっていうのかなー。ふたりにしかわかんない距離感で通じ合ってる、みたいな? あー、あたしもあんなふうに、央霞先輩に慰めてもらいたい!」
空気を読むのが得意で、どこにでもするっと入っていける茉莉花だが、千姫に対しては遠慮がいらないと思っているのか、ときどきこういう無神経な振る舞いをするのが鼻につく。
千姫が我慢していることとか、どうせムダだと思っているからなにも言わないだけなのだとか、たぶん、わかっていないのだろう。
あんたはミーハー的に桜ヶ丘先輩のことが好きみたいだけど、わたしは大嫌い。
白峰先輩とベタベタしてるところが嫌だし、あの人の前でだけ、みずき先輩がふつうの女の子みたいになるのも見たくない。
毎日毎日、通い妻みたく生徒会室にやってきては、まるで見せつけるようにいちゃいちゃして……。
なんなの? そんなに自分は特別だってアピールしたいの? 世界はふたりだけのものだとでも思っているの?
わたしごときが、白峰先輩と仲良くなろうだなんておこがましいけど、せめて心穏やかに眺めさせてくれたっていいじゃない――
ただでさえフラストレーションが高まっているところに、茉莉花のおしゃべりは正直キツイ。
だが、千姫にできることと言えば、せいぜい空になった紙パックをぶつけるくらいだ。
それでも茉莉花はしゃべり続けるし、結局なにも変わらない。
千姫の口から、長い長いため息が漏れ出そうになったとき――
肩の上に、死人のように白い手が乗せられた。
「匂いますわ、匂いますわ♪」
ぬっと顔を突き出したのは、見覚えのない外国人女性だった。
マンガかコントでしか見たことがないような金髪縦ロールが、色素が薄いせいなのか、うっすらと光を透かして輝いている。
異様なほど白い肌も相まって、一見とても美しいが、口許に浮かんだ邪悪な笑みが、すべてを台無しにしていた。
「千姫、知り合い?」
茉莉花の問いに、千姫はぶんぶんと首を横に振る。
「わたくしは、アルメリア・デ・ヘルメリア」
「あるめるでりへる……なに?」
「あなた、ぷんぷん匂いますわよ。恨みつらみ、妬みそねみ……渦巻くドス黒い感情の匂いが。わたくし、大好物ですの」
紅いくちびるから、ヘビが這い出るように長い舌がのび、千姫の頬をちろりと舐めた。
知らない相手からの突然の行為に怖気が走り、千姫は固まってしまう。
「ちょ、ちょっと! 千姫からはなれなさいよ!」
はじめはのんきそうに見ていた茉莉花も、さすがにこれは異常だと悟ったようだ。鞄から取り出したノートを丸めて棒状にし、大声で女を威嚇する。
「威勢のいいこと」
そう言って嗤う女の手には、どこから取り出したのか、ひと張りの弓が握られていた。
その形状は、翼を広げたコウモリのように禍々しい。
「この弓から放たれる矢には、様々な効果がありまして……例えば――」
女の左手が閃き、腰の矢筒から一本、赤く塗られた矢を引き抜いた。
「赤は暴走。頭の中にある、いろんなタガを外してくれますの」
女は矢をつがえ、千姫の眉間の辺りに狙いを定めた。
「や……やめ……」
殺される。
そう思ったが、足はすくんでしまっているし、舌も喉の奥に引っ込んで、助けを呼ぶこともできない。
「やめろォ!」
茉莉花がテーブルを乗り越え、女にとびかかった。
だが、それよりも速く、女は身体の向きを変え、茉莉花に向けて矢を放った。
「いやああああ!」
その絶叫が自分の口から発せられていることに、最初、千姫は気づかなかった。
仰向けにのけぞった茉莉花がテーブルから転げ落ちてゆくさまを、スロー映像を眺めるようにはっきりと知覚する。
硬直が解けた千姫は、茉莉花に駆け寄ろうとした。だが、女に足を払われ、ぶざまに転倒してしまう。
「死んではいませんわ。言いましたでしょう? 赤い矢は頭のタガを外すって」
「マリ……マリぃ……」
なおも這いずる千姫の背中に、女は片足を乗せて押さえつけた。
「ほらほら、ちょっとは落ち着いて、耳を澄ましてごらんなさいな。聞こえませんこと?」
そう言えば、さっきから外が騒がしい。
よくよく聞いてみると、悲鳴とも怒号ともつかぬ声が飛びかっている。それに、千姫たちの周りにいるはずの人間が、誰ひとり助けに動こうとしないのも変だ。
「この学校に入ってからここに来るまで、目についた人間を赤の矢で手当たり次第に射抜いてみましたの。この世界の方たちは、誰も彼も、相当に鬱憤を溜め込んでいるようですわね。心の底に押し込めていた欲望を解放して、それはそれは愉しそうなお顔になりましてよ」
意味がわからない。
この女、いったいなにを言っているのだ?
ただひとつ、はっきりしているのは、とてつもなく異常で、危険な事態が起こっているということだけ。
千姫は懸命にもがいた。逃げなければ。こんな狂った場所から、一刻もはやく。
女の爪先が、千姫の背中から外れる。
やった――そう思ったのも束の間、足がもつれて前のめりに転がる。
一瞬、垣間見えた女の顔は、そんな千姫のようすを面白がっているかのように歪んでいた。
「さあ、お次はあなた」
女が、流れるような動作で矢をつがえた。
あれから菊池とも会っていないとのことだったので、みずきはひとまずほっとした。
放課後、生徒会室に現れた央霞は、最初に目が合った千姫に笑いかけた。
「やあ、遠梅野。頑張ってるか?」
「………」
しかし、千姫はすぐに央霞から目をそらし、居心地悪そうに身体を揺すりながら作業にもどった。
どうも彼女は、友人である茉莉花とちがい、央霞に対してあまり好印象を抱いていないらしい。
人の好みはそれぞれだから、仕方のないことだとは思うが、みずきにしてみれば、なんで央霞ちゃんのよさがわからないの? などと思ったりもする。
央霞は気にしたようすもなく、隣にいる茉莉花に話しかけた。
「大紬は、倉仁江とおなじクラスだったな」
みずきは、囓っていたポッキーを噴きそうになった。
「休んでいると聞いたが、今日も来ていないのか?」
「はいー。風邪で寝込んでるって話ですー」
雰囲気を暗くすまいとしているのか、軽いノリで茉莉花は答える。
「ちょ、ちょっと! 央霞ちゃん!」
みずきは央霞の袖をひっぱった。
周りでは他の生徒会メンバーが作業をしているので、小声で会話する必要がある。
「なんで、あの娘のことなんか」
「敵の動向を気にしたらまずいのか?」
「そうじゃないけど……」
みずきは口ごもった。
央霞がカリンを気に懸けること自体が嫌なのだとは、さすがに言えない。
央霞に撃退されて以来、カリンは学校に現れていない。いっそこのままいなくなってくれればいいと思うが、そうもいくまい。
「実はな……」
悶々とするみずきに央霞が告げた内容は、とんでもないものだった。
「なんですって!?」
「馬鹿、声が大きい」
思わず声をあげてしまい、手で口をふさがれる。やだ、大きい。男の人みたい。
「ご、ごめん……でも、あのおん――倉仁江さんが、央霞ちゃんのうちで暮らしてたなんて言うから……」
幸い向こうはまだ、央霞と陽平が姉弟だとは知らないようだが、もし気づかれたらと思うとゾッとする。
陽平が人質に取られれば央霞も手が出せなくなるし、もっと酷いことだって起こり得たかもしれない。
なにより、央霞のテリトリーに敵が入り込んでいたという事実そのものに、激しく胸の内を焼かれるような不快感を覚えた。
「彼女の行き先に心当たりは?」
「ないな。陽平が言うには、高飛車コウモリ女とマザーロシア? みたいな大女の二人組に連れていかれたそうだ」
「なあにそれ……でも、まずいわね」
十中八九、そのふたりはタイカから新たにやって来た
しかも行方がわからないとなると、こちらはいつ来るかもわからない襲撃に怯え続けなければならない。
「
ぼそっと呟かれたひと言を、みずきは聞き逃さなかった。
「どゆこと?」
声を尖らせ、央霞のネクタイをつかんで引き寄せる。
このあいだから気になっていたが、
「カリンなら、まず私に勝負を挑む。あの約束があるからな」
「信用してるのね」
言いながら、みずきは嫉妬の炎が再燃するのを自覚した。
「なんで、いつもいつも央霞ちゃんは……」
子供じみていると思し、心配すべきはそこではないこともわかっている。
それでも気持ちが抑えられない。
小さくて、みっともなくて、こんなんじゃきっと嫌われる。そうしたら、央霞はカリンのところへいってしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌だから――だから、こうしてグチグチと繰り返すのだ。
「みずき」
央霞が、真剣な声音で名前を呼んだ。
「そんな顔をするな」
「………」
無理に口をつぐめば、苦しい心情が顔に出る。みずきは、黙り込むことしかできずにうつむく。
女性としては大きな手が、ふれるかふれないかという距離で髪を撫でた。
「すまん。不安にさせたな」
「ううん、わたしこそごめん。……イヤだよね、こんな娘」
みずきは目許をぬぐう。
「馬鹿だな。お前は昔からそうだろ?」
「……うん」
大丈夫。央霞は変わっていない。昔とおなじように、みずきのことを見てくれている。
誰よりも強く、誰よりも優しい。
そんな彼女が、守ってくれている。
自分にできることがあるとすれば、それは彼女を信じることだけだ。
「さっきから、なにこそこそしてるんですかー?」
逢い引きの現場を発見した小学生のように、茉莉花がニヤニヤ笑っていた。
「べ、べつになにもしてないわよ」
「なにもしてないとは聞き捨てなりませんね。我々が一生懸命働いているというのに」
副会長の蓮宝寺が、険しい視線を投げてよこした。
堅物の彼は、部外者である央霞が生徒会室に出入りするのを快く思っていない。
「ごめんなさい。こっちはだいたい終わってるから、残ってる分をまわしてちょうだい」
央霞のことや、異世界絡みのあれこれで大変なのに、学校行事の準備も進めなければならない。
生徒会長のつらいところであった。
「なんか、みずき先輩ヘンだったねー」
自販機で購入した紙パックの牛乳を飲みながら、茉莉花は言った。
生徒会での仕事が一段落し、千姫と茉莉花は食堂に立ち寄っていた。
他の役員たちはもうすこし残って打ち合わせなどするそうだが、正式メンバーではないふたりは、これで帰宅しても構わない。
「ねね。あのふたり、やっぱ付き合ってんのかなー?」
茉莉花が、身を乗り出し気味にして訊いてくる。
あのふたりとは、もちろんみずきと央霞のことだ。
「……知らない」
千姫は顔をぷいっと背け、オレンジジュースを口に含んだ。
正直、考えたくもない話題だったが、興が乗ったのか、茉莉花は構わず話し続ける。
「ちょっとは考えてよー。なんかさー、落ち込んでるみずき先輩を、央霞先輩が慰めてるっぽかったよねー。で、その雰囲気がさー、なんかこう……エロっちいっていうのかなー。ふたりにしかわかんない距離感で通じ合ってる、みたいな? あー、あたしもあんなふうに、央霞先輩に慰めてもらいたい!」
空気を読むのが得意で、どこにでもするっと入っていける茉莉花だが、千姫に対しては遠慮がいらないと思っているのか、ときどきこういう無神経な振る舞いをするのが鼻につく。
千姫が我慢していることとか、どうせムダだと思っているからなにも言わないだけなのだとか、たぶん、わかっていないのだろう。
あんたはミーハー的に桜ヶ丘先輩のことが好きみたいだけど、わたしは大嫌い。
白峰先輩とベタベタしてるところが嫌だし、あの人の前でだけ、みずき先輩がふつうの女の子みたいになるのも見たくない。
毎日毎日、通い妻みたく生徒会室にやってきては、まるで見せつけるようにいちゃいちゃして……。
なんなの? そんなに自分は特別だってアピールしたいの? 世界はふたりだけのものだとでも思っているの?
わたしごときが、白峰先輩と仲良くなろうだなんておこがましいけど、せめて心穏やかに眺めさせてくれたっていいじゃない――
ただでさえフラストレーションが高まっているところに、茉莉花のおしゃべりは正直キツイ。
だが、千姫にできることと言えば、せいぜい空になった紙パックをぶつけるくらいだ。
それでも茉莉花はしゃべり続けるし、結局なにも変わらない。
千姫の口から、長い長いため息が漏れ出そうになったとき――
肩の上に、死人のように白い手が乗せられた。
「匂いますわ、匂いますわ♪」
ぬっと顔を突き出したのは、見覚えのない外国人女性だった。
マンガかコントでしか見たことがないような金髪縦ロールが、色素が薄いせいなのか、うっすらと光を透かして輝いている。
異様なほど白い肌も相まって、一見とても美しいが、口許に浮かんだ邪悪な笑みが、すべてを台無しにしていた。
「千姫、知り合い?」
茉莉花の問いに、千姫はぶんぶんと首を横に振る。
「わたくしは、アルメリア・デ・ヘルメリア」
「あるめるでりへる……なに?」
「あなた、ぷんぷん匂いますわよ。恨みつらみ、妬みそねみ……渦巻くドス黒い感情の匂いが。わたくし、大好物ですの」
紅いくちびるから、ヘビが這い出るように長い舌がのび、千姫の頬をちろりと舐めた。
知らない相手からの突然の行為に怖気が走り、千姫は固まってしまう。
「ちょ、ちょっと! 千姫からはなれなさいよ!」
はじめはのんきそうに見ていた茉莉花も、さすがにこれは異常だと悟ったようだ。鞄から取り出したノートを丸めて棒状にし、大声で女を威嚇する。
「威勢のいいこと」
そう言って嗤う女の手には、どこから取り出したのか、ひと張りの弓が握られていた。
その形状は、翼を広げたコウモリのように禍々しい。
「この弓から放たれる矢には、様々な効果がありまして……例えば――」
女の左手が閃き、腰の矢筒から一本、赤く塗られた矢を引き抜いた。
「赤は暴走。頭の中にある、いろんなタガを外してくれますの」
女は矢をつがえ、千姫の眉間の辺りに狙いを定めた。
「や……やめ……」
殺される。
そう思ったが、足はすくんでしまっているし、舌も喉の奥に引っ込んで、助けを呼ぶこともできない。
「やめろォ!」
茉莉花がテーブルを乗り越え、女にとびかかった。
だが、それよりも速く、女は身体の向きを変え、茉莉花に向けて矢を放った。
「いやああああ!」
その絶叫が自分の口から発せられていることに、最初、千姫は気づかなかった。
仰向けにのけぞった茉莉花がテーブルから転げ落ちてゆくさまを、スロー映像を眺めるようにはっきりと知覚する。
硬直が解けた千姫は、茉莉花に駆け寄ろうとした。だが、女に足を払われ、ぶざまに転倒してしまう。
「死んではいませんわ。言いましたでしょう? 赤い矢は頭のタガを外すって」
「マリ……マリぃ……」
なおも這いずる千姫の背中に、女は片足を乗せて押さえつけた。
「ほらほら、ちょっとは落ち着いて、耳を澄ましてごらんなさいな。聞こえませんこと?」
そう言えば、さっきから外が騒がしい。
よくよく聞いてみると、悲鳴とも怒号ともつかぬ声が飛びかっている。それに、千姫たちの周りにいるはずの人間が、誰ひとり助けに動こうとしないのも変だ。
「この学校に入ってからここに来るまで、目についた人間を赤の矢で手当たり次第に射抜いてみましたの。この世界の方たちは、誰も彼も、相当に鬱憤を溜め込んでいるようですわね。心の底に押し込めていた欲望を解放して、それはそれは愉しそうなお顔になりましてよ」
意味がわからない。
この女、いったいなにを言っているのだ?
ただひとつ、はっきりしているのは、とてつもなく異常で、危険な事態が起こっているということだけ。
千姫は懸命にもがいた。逃げなければ。こんな狂った場所から、一刻もはやく。
女の爪先が、千姫の背中から外れる。
やった――そう思ったのも束の間、足がもつれて前のめりに転がる。
一瞬、垣間見えた女の顔は、そんな千姫のようすを面白がっているかのように歪んでいた。
「さあ、お次はあなた」
女が、流れるような動作で矢をつがえた。