第2話 ミノムシ

文字数 3,003文字

 目の前に垂れ下がっているミノムシを、払い落とそうとして、やめた。
 払い落とそうとしてやめて、そのままじっとソレを見つめていると、なにやら口に入れてみたくなった。

 ほんとに放り入れそうな気がしてきたので、ミノムシから視線を外した。

 雑木林の中の一本、その木の根本に身を潜めて半日が経つ。
 空はまだ明るさを残しているが、ここには、男のところまでは届かない。
 半日前の時点で涼しかった、ここは。
 そこから半日過ぎると、土の上には寒さが這い出していた、ここでは。

 寒さと空腹が、男の心と体を苛む。
 再び、ミノムシを見つめた。
「なんで、生きているんだろう」
 ミノムシに向かって、そう呟いた。

 死ぬつもりでここにきた。
 半日前、男は友人を、ナイフで斬った。
 ナイフは男のすぐ近くの地面に置いてある。血がついている。

 きっと、死んでしまったに違いない。

 今頃、警察が男を探し回っているに違いない。

 だから男も、死のう、と思った。
 ナイフで手首を斬れば死ねるだろう。
 杉林に逃げるなら、ロープを持ってくるのだった。
 首をつって、汚物と体液を垂れ流す汚れた姿をさらすことで、友人に対する贖罪にすればよかっ……。

 ナイフの刃には血がついている。このナイフでは、自分を殺すことはできないかもしれない。

 ぶるっ、と体が震えた、寒い。
 ここで眠ってしまえば、翌朝には凍死しているのではないだろうか。
 そうだ、きっと、凍死しているに違いない。
 男は、目を瞑った。すぐに眠りに落ちたようだった。

「とうがらし!」
 その声で目が覚めた。それは男の寝言だったのだが。

 目を開けたが、そこは暗闇。むしろ、夢の中の方が明るかった。
「生きているのか」
 男は、そう口に出してみる、その声は聞こえた。
 やはり生きているのだろう。
 暗闇こそ現実、闇こそ生きている証。
 
 キョロキョロと周りを見回す。闇に目が慣れると、木や草の影が闇の中で浮かび上がってくる。
 存在が、混沌から浮き上がってくる。
 
「ミノムシ」
 自分が何かを探していた、ミノムシを探していたことに、気がついた。

 かの清少納言に言わせると、ミノムシは「鬼の捨て子」なのだそうだ。
 さらには、「父よ父よとはかなげに鳴く、いみじうあわれなり」と、ミノムシが「鳴く」とも書いている。

 ミノムシが、「私」の目の前に出てきたことは、なにか意味があるのではないか。
 やはり、木にぶらさがれ、という寓意だろうか。

 傍らで虫が鳴き始めた。この季節、鳴き声を数えることができるほど、少なく、一つ一つがか細い。

 死ぬべきだ、死んでしかるべきだろう、
 ――わたしなんぞは。

 草葉の陰で鳴いている、虫ほどの存在意義もありはしない。
 比較するのもおこがましい。
 存在の優劣など存在しない、存在の「存在」においては。
 ――劣っているのは、わたしだけだ。
「だけ」ではなかろうが。「劣」は人にしかないだろう。

 おもむろに近くの葉っぱを口に入れた。
 苦さで顔をしかめる。

 およそ、ロクな人生ではなかった。
 大学を中退し、就職しても長くは続かず。
 好きあった女性はいたが、覚悟が決まらず。
 その女性は、他の男と結婚してしまった。

 そんな時。
 友人に「一緒に漫画を書こう」と誘われた。

 友人とは小中高と同じ学校だった。
 中学のときから、「私」はノートに漫画を描き始める。
 誰にも内緒にしていたのだが、たまたま、その漫画を友人に見られてしまう。
「面白いよ、これ」
 彼は初めての読者だった。

「俺の書いた話で、漫画を描いてくれ」
 喫茶店に呼び出された「わたし」に向かって、友人はそう言った。 
 よく「私」なんぞを誘ってくれた。
 友人が、学生時代に書いた小説がある雑誌の新人賞に輝いた。
 ただ、友人もそこで伸び悩む。
 なかなか良いものが書けない。
 有り体にいえば、お金につながる話が書けなかった。

 友人は、「漫画なら」と考える。
 友人が原作を書き、それを「私」が漫画に描く。
「俺たちならできる、おまえの絵は、どこか人を惹き付ける」
 真っ直ぐな眼差しに、肉体までもがあつくなった。

 「私」だって「漫画で」とは当然思っていた。
 応募した、描いては描いては、応募した。
 友人が新人賞なら、男など佳作にすら選ばれないのだが。

 そんな二人が組んだからといって、すぐさま良い漫画ができるものでもない。

 煮詰まる。
 読んで描いて。
 煮詰まる。

 そして「わたし」は、友人にナイフの刃を向けたのだった。

「わたし」の中にある友人に対する、引け目、劣等感が、その行動を呼び起こした。
 
 そして、逃げた。

 愚かな人間といって、それ以外に言葉がない。
 自分の愚かさが、可笑しくさえあった。

 こんな「わたし」にチャンスをくれた恩人をナイフで斬りつけるような穀潰(ごくつぶ)しは、この先生きていたって仕様がない。
 そうやって、またぞろ人を傷つけるのオチちなのだ。
 
 友人だって、わたしのことなど諦めてくれたほうが、彼のためになるのだから……。

 にしても、この腹の減りようといったら。
 朝飯は食ったが、それ以降なにも食べていない。 
 
 空腹で、世界が揺れて見える。闇が震える。
 地動説より天動説だ、回ってるのは世界のほうで、男ではない……。
 
 これから死のうという人間が、腹が減っただのなんだの、そんなことを、考える必要はない。

 しかし、飢えるというのは、これほどのしんどさか。
 一日食わぬだけで、ほとんど運動もしないのに、これほど飢餓感に襲われるとは。
 この辛さは、まさしく「襲われる」と言って決して言い過ぎではなく……。

 次に死ぬときは、何か旨いものでも食ってから死ぬとしよう……。

 夢を見たようだ。

 家の中で、周りには知り合いがいる、一緒に話をしている、さらに、部屋の隅で女性と抱き合ったりして。
 裸になっていたが、傍らにあったコートを羽織った、誰かに呼ばれて、歩いていく、そこに……。

 こんなコート、持ってないけどな。

「まったく、なにやってたんだよ、こんなとこで」
 生きていることを確認する。
 ふぅ、と息を吐き出す、怒り、呆れ、ほっとして、笑った。

 友だちが、パートナーが、木の根本で眠っていた、枯れ葉や枯れ枝にくるまれ、顔だけ出して。
「ミノムシかよ」

 ある場面のキャラクターの表情で言い争いになった。泣くか怒るか。
 作画担当の振り回したトーンナイフがお腹に当たり、シャツが破れて少し血が出た。
 そのままナイフを持って作業場を飛び出していった。

 すぐに追いかける気にもならず。放っておいたが、ナイフを持って出ていったのが心配だった。
 誰かを傷つけたしないかと。
 
 まさか自分の首を切ったりは、しなかろうが。

 次の日になっても戻ってこない。相方を探しに、外へ出た。

 まだ朝の6時だぞ。

 それはすぐに見つかった。相方の、自転車が。

 枯れ葉の下に見えるトーンナイフを拾い上げた。
 無意識にお腹を触っていた、絆創膏を確認するように。

「おい、起きろ、朝だぞ」
「ん、ああ、おはよう」
 それにしても、腹が、
「へ、へ、へっぎしん!」
 揺り起こした男の手が、ミノムシの唾液にまみれた。

 ミノムシは鳴かない。くしゃみをするだけ。
 
 民俗学によると、秋田の「ナマハゲ」に見られるように、ミノは来臨する神人が着ける約束になっているという。
 このミノムシが、神の使いであることを、祈ろう。
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