じゅうに

文字数 2,250文字

 チャイムが鳴ると、準備室から白衣の鬼頭先生が目を細めながら登場した。しかし、まだ全員が揃っておらず続々と理科室に入ってきているところだった。先生は教科書を置いて、教室の奥を見つめたまま立ち尽くしている。2分程経った後、不機嫌そうな様子でボソッと一言放った。
「号令」
「起立、礼、着席!」
 この先生の授業の時だけ、善行の声は少し張りつめているのが分かる。
「おまえらチャイムが鳴る前にこの教室にいないんだ?」
 緩んだ紐が直線になるように、教室の空気が一瞬で張りつめた。つい数十分前の美術の時間から急に180度変わったため、クラスのみんなは困惑していた。
「前の時間が何だったのかは知らないが、時間はしっかりと守れ」
 善行だけが「はい」と返事をした。
「分かったのは委員長だけか!」
 教室中の緊張感が一気に増した。これが傍観者効果というやつなのだろう。誰かが返事をするだろうとみんなが思っている。一拍置いて生気のない返事をバラバラとし始めた。しかし先生の怒りが収まることはない。
「なんだその返事は。他の先生は甘いかもしれないけどなあ、俺は許さんぞ。時間を守れない奴はどこへ行っても通用しないからな」
 息を荒げながら激昂している。先生はもう完全にモードに入ってしまっている。そこで、1人の生徒が声を上げた。
「先生」
 香澄だ。生徒全員が下を向いている中、果敢にも立ち向かい始めた。思いもよらぬ一言に、先生を含めたクラス全員の視線は1人の少女に集まった。
「先生、前の授業が美術だったんですよー。移動教室が続くので早めに移動したかったんですけど、少し授業が長引いてしまって」
 少し申し訳なさそうに話し始めたが、その表情を途端に笑顔に切り替えて続けた。
「次回以降はクラス全体で気を付けますから、今回は許していただけないでしょうか」
 香澄の必殺技である上目遣いが、鬼頭先生の感情を一撃で鎮めた。
「そうか、分かった。次は気をつけるんだぞ」
 先生は落ち着きを取り戻し、教科書をパラパラと開き始めた。隆志がニヤリと周りを目配せをして、香澄と目が合うと親指を立てた。それに気付いた香澄は、したり顔でほんの少しだけ眉を上げ、椅子に座った。そして何事もなかったように授業が始まった。
 こういうとき、香澄は本当に頼りになる。先程までの嫌悪感が一気に解けていた。ご機嫌取りを必ずしもマイナスであるとは限らないと思えてきた。同じ人でも、場面によって好きになったり嫌いになったりする自分の幼さには悲しくなってくるが、きっとこういうところでクラス中の支持を得ているのだろう。
 10分くらいした頃、先生が実験の準備をし始めている。質量保存の法則を証明するための実験だ。グループで手分けをして、塩酸や炭酸水素ナトリウムを調達している。この実験は、2つの物質を混ぜて異なる物質ができても、密閉された容器の中では質量は変わらないというものである。中で何が起こっても重さは変わらない。私はなんとなくこの法則と、今置かれている状況を当てはめて考えてみた。このゲームでは、クラスの人同士で化学反応が起きた結果、毎週1人ずついなくなってしまう。悲しいことに、このゲームが続く限りクラス内の質量は保存されることは無いのだ。いつになったらこのゲームが終わりを告げるのかを考えながら、瓶の中の炭酸水素ナトリウムを眺めていた。
 実験が早めに終わり、チャイムの少し前に教室を出た。
 
「実験、楽しかったね」
 藍美が嬉しそうにこちらを見ている。
「うん、みんなで力を合わせてやるのが良いよね。そんなに仲良くない人と仲良くなれるチャンスだし」
 私たちが話していると、善行が前のめりで話に入ってきた。
「ホント、化学っておもしろいよね。」
 私たちが感じる実験のおもしろさとは異なるおもしろさを唱える感じが伝わってきた。私たちが会話を止めて善行を見ると、そのまま続けた。
「よく考えるんだけどさ、人間の身体って7割くらい水分でできているんだよね。」
「へえー。そんなにあるんだ。なんかそんなにあるような感じがしないけど」
 藍美は自分の身体を見渡して言った。
「こうしてみんなと楽しく話しているのも、水のおかげだね」
 やや飛躍したような気もしたが、私も会話に加わった。
「水の原子記号が・・・」
 善行が続けようとしたときに、藍美が「エイチツーオー!」と叫んだ。
「そうそう、そのHが水素でOが酸素。水素原子が2つに酸素原子が1つくっついたやつね」
「私たちの身体は、水素の恩恵を受けているんだぁ」
 善行の説明に対して藍美が答えた。私も負けじと「あと酸素もね」と呟いてみた。
「そうだね。僕たちが息を吸っているときの酸素はOが2つで酸素『分子』なんだ。水も酸素も複数の原子が協力して1つの物質を作っている。僕たちが実験で同じグループの人たちと協力するのと同じく、原子も協力し合っているんだよね」
 私が最初に言っていた『グループの人と仲良くなる』話にしっかりと繋げた善行に感心してしまった。
「私たちも見習って、協力しないとねー」
 藍美の言うことは最もだが、誰かに投票しなくてはいけないという現状にもどかしさを感じた。私たちが今置かれているのは、奇麗ごとでは済まされない蹴落とし合いであるからだ。
 そんな次の体育に備え更衣室へと向かった。一体誰がこの移動が過酷な時間割にしたのだろう。先生にも出席番号みたいなものがあれば、次の金曜日に投票するのにと思う今日この頃だ。
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